華水の月

63.氷の瞳

 朝一の保健室はやけにひっそりとしていた。人がいないせいか、心なしか空気もひんやりとしている。開け放たれた窓からは風の音もなく、この部屋の主の座る椅子が時折ギィ……と軋む以外、無音とも言えた。ある意味、その冷静とも言える穏やかさは、彼そのもののようだ。
 氷のように冷静な瞳は、目の前にかざされたものの真実を見逃すまいと、真剣に見つめていた。
 握り締められたせいで皺のよってしまった、一枚の写真。その中には、自分と過去の恋人の重なり合う姿が映し出されている。これをどんな気持ちで、彼女は受け止めたのだろう。考えるだけで、胸はひどく締め付けられる。
 静止してしまった現実は、ある意味どんな言葉よりも説得力があるだろう。どう受け止めるかは、受け取った者次第だが、美緒にしてみればそれは、薫の裏切り以外他ない。薫は、写真を撮ったであろう第三者の存在に、怒りにも似た嫌悪感を抱いた。
 薫の手に握られているのは、先日泉の手から渡された写真だった。それを見つめながら、頬杖をつき眉間に皺を寄せる。多少の画像の粗さからして、普通のカメラで撮影されたものではない。あんな一瞬のシーンをカメラで収めることができるほど、用意周到に薫を見張っているものがいたとしたら、とっくの昔に気付いているはずだ。人の視線ほど、鬱陶しいものはない。そういう点では、薫はカンが優れていると言えた。
「携帯、か」
 ポツリと呟いた言葉は、信憑性を帯びる。
 これはきっと、携帯で撮影されメモリーカードに保存したものを、写真として現像したものだ。二人の関係に決定的なメスを入れた元凶。誰かがこの写真を美緒に送りつけ、彼女の心を傷つけたのだ。
 その真意は定かではないが、おそらく美緒と薫の距離が近づくことを頑なに嫌がる人間。美緒の一挙一動を把握できる人間。それほど彼女に近い人間の仕業だ。そしてきっと、女――。
 そうであると確信した瞬間、あの日の記憶を頭の中で遡った。そこで浮かび上がる、一人の少女。美緒に対する態度や、優れた直感、鋭い洞察力、そして何より薫に対する激しいまでの恋情がそれを決定付ける。
 あの日、少女は麻里と薫が二人でいることを知っているのだ。疑いたくなくとも、それが少女ではないと決定付けるものが何もなくて、薫は深い溜息を零した。
 手に持っていた写真を、水色の封筒に入れる。美緒に最後に会った日、二人の関係が断ち切られた玄関の靴箱の前で、美緒の足元に落ちていた封筒だ。おそらく、この写真が入っていたのではないかと薫は踏んでいた。

「失礼します」
 コンコンと、扉が鳴った。
 朝の八時半を回った頃、保健室で一人白衣を纏い身支度をしている最中、美緒の担任の男教師が薫の元へと訪れた。四十を過ぎるかという年齢の、落ち着いた風貌の中年教師だ。薫とは一回り以上歳が離れているが、誰とでも気さくに話せるフランクさと知性を感じさせる落ち着いた薫の雰囲気は、そんな目上の人間とも対等に話せる威厳がある。薫の頼みごとにわざわざその男教師が出向いたということが、何よりの証拠だった。
「おはようございます、櫻井先生」
「あ、おはようございます」
「真中美緒、今日登校してきましたよ」
「そうですか」
「櫻井先生が気にしてらっしゃったので、ご報告まで」
「ありがとうございます」
 心の中では美緒の名が出た瞬間ドキリとしたが、顔には一切そのような雰囲気を出さない。中指でメガネを少しばかり押し上げ、柔らかな笑みを零した。中年教師も、つられるように微笑んでいる。
 美緒の欠席が三日目を過ぎてから、薫は美緒の担任に直接連絡を寄越していた。登校してきた際には、すぐに連絡を下さいと。
 一度、担任の代わりに美緒の自宅まで訪れたが、彼女に会うことは叶わなかった。
「この間は、私の代わりに届け物をして下さって、どうもありがとうございました」
「いいえ。近くに用事がありましたから、構いませんよ」
「そういや、その時に真中とは話せなかったんですか?」
「ええ。ちょうど部屋で休んでいたみたいで。起こしては可哀想かと思って、届け物をしただけです」
「じゃあ、今日は何の用が……」
「ああ。これですよ」
 不思議そうな視線を向ける担任教師に、薫は机の上に置いておいた一枚の書類を手にとって見せた。それは、十日ほど前に全生徒に配布し調査した健康診断シートのようなものだ。過去の既往歴など、個人的な内容が記入され、全生徒分が薫の元へと提出されていた。
「真中の書類にちょっと不備があったんです。あの子は体が弱いこともありますから、直接本人に聞いてみたいこともありまして」
「ああ、それでですか」
 担任教師が、大きく頷いた。
 個人的な内容なら、直接本人を呼び出しても不思議はない。ましてや、担任教師にとっても美緒は健康上気にかかっていた生徒だけあって、妙に信憑性があった。
「じゃあ、私が後で櫻井先生のところへ来るように、真中に伝えておきましょうか」
「いえいえ。そこまで面倒をおかけするのは悪いですから」
「気にしないで下さい。これくらいのこと」
「ここまで来ていただいただけでもありがたいことです。先生もお忙しいのに、いつもすみません」
 薫は担任教師に向かって小さく一礼した。
 その、謙虚さ。目上には目上に対する礼儀を忘れない薫のそういった一面に、担任教師も深い満足を得る。
 教師である彼よりも、校医である薫の方が、この学園の中で優位な立場であることは暗黙の了解だ。元々、腕がたつと有名な名医である上、ブランド嗜好の強い理事長が是が非でも手放そうとしない優秀で眉目秀麗な医師。学園内における同じ職員とはいえ、様々な面において薫が優遇されていることは否めない。他の教職員も、それを充分に承知している。
 だが薫は、そういった自分の立場をけして得意にしたことはなかった。医師であるということを、鼻にかける雰囲気すら見せないのだ。薫が誰からも一目置かれる理由は、フランクさだけではない、そういった冷静で且つ礼節をわきまえている、ある意味したたかな面があるからかもしれない。
「私の方からも、また後で真中のところへ行ってみます」
「はい。よろしくお願いします」
「わざわざご足労ありがとうございました」
 軽く会釈をし、ニッコリと微笑むと、担任教師は快くその場を後にした。
 再びシンと静まり返った空気の中で、薫は手に持っていた書類を無表情な顔つきで盗み見る。それは、美緒とは全く関係のない生徒のものだった。最初から、美緒の書類に不備があったなどという事実は、ありはしない。
 遠慮はしたが、担任はきっとそれとなく美緒に薫が気にかけていたことを伝えるだろう。第三者、ましてや担任から伝えられることに、美緒が自ら逃げ出すような身勝手な人間でないことなど、薫が一番知っている。
 だから、利用した。本人に『利用された』と意識させない自然な謙虚さは、薫の頭が相手よりも切れる証拠だ。
「一週間ぶり、か。泉のミルフィーユが、少しは効いたかな」
 脳裏に美緒の姿を思い浮かべて、途端痛みを覚える胸に苦笑する。
 今日中に、美緒に会えることは、ある意味確実になった。


 久々の登校ということもあり、クラスメートたちは美緒の登校に皆喜んでいた。さすがに一週間もの欠席となると、皆が不思議に感じるのは仕方ない。次々と投げかけられてくる心配した問いに、美緒はどれも全部大丈夫だと答えた。
 条件反射のように『大丈夫』と言う言葉。いつの間にか美緒は、『大丈夫』という言葉の意味を見失いそうになるほど、慣れてしまっていた。
「あんまり無理しないでよ?」
「大丈夫」
「また大丈夫って言った。美緒の大丈夫は嘘くさいからなあ」
 美緒の真意を簡単に見透かしている親友が、大きく溜息をついた。
 えみから見た美緒はやはりまだ顔色が優れていなかった。今日もまだ休んでいた方が良かったのではないか? そう取れるほど、美緒の様子は憔悴しきっていた。これでは心配するなと言う方が無理な話。なんだかんだで、午前を無事に終えることが出来たが、明日もまた学校に出てこられるのか不安だ。
「午後の体育、やっぱり休んでた方がいいって」
「大丈夫だってば」
「その大丈夫が大丈夫じゃないの! ったく、私が美緒の彼氏なら、絶対に無理矢理にでも帰らせるのに」
 彼氏、とえみが口にした瞬間、美緒の顔色が変わった。
 確かに薫でもえみと同じことを言うだろう。
『あまり無理はするなって、言ってるだろう?』
 困った顔でそう言いながら髪を撫でる、そんな薫の優しい眼差しを美緒は思い出していた。今の彼も、同じように言ってくれるだろうか。問いはしても、答えはでない。美緒は慌てて嘘の笑顔を作った。
「だって、後で一人で持久走なんて嫌なんだもん。どうせなら、皆と一緒がいいの」
 今日の体育の授業は、持久走のタイムを計る予定だ。欠席者は、後日一人で計らなければいけないことになる。美緒が言ったその言い訳は、ある意味的を射ていた。
「まあ、美緒がそういうのもわかるけどさあ」
「えみだって、一人で走らされるのなんて嫌でしょ?」
「まあ、ね」
「それに、今日はもう熱もないから大丈夫だよ。心配しないで?」
「うーん……」
 えみが、腕を組んで唸る。美緒は両手を顔の前で重ね合わせて、少し首を傾げ、『ね?』とえみに懇願した。その仕草や表情があまりに可愛くて、結局えみは了解の溜息を零した。
 ――可愛すぎる。
「くっそお……。なんで私男じゃないんだろ」
「え?」
「今すごく自分が女なこと後悔した!」
「ど、どうして?」
 意味不明の言葉を口走るえみに、美緒が不思議そうな表情をする。
 もしもえみが男なら、確実に美緒を恋人にしている。美緒が薫に恋をしてることにさえ、多少妬けるのだ。両思いならまだしも、片思いをしているだろう美緒のことを考えると、えみは既に恋人がいる薫のことが少し恨めしくなる。
 そんなことを思いながら、半ば諦めの境地で、えみは美緒の肩にポンと手を乗せた。
「分かった。その代わり、私もなるべく一緒に走るから、無理はしないでよね?」
「うん、わかってる」
「やっぱ私、美緒には甘いなあ……」
「いつもありがと。えみ」
「どういたしまして」
 半ば諦めの表情のえみを、美緒はごめんね、と呟きながら見つめていた。
 まるで姉妹のような関係だと、いつも思う。世話焼きな姉に、少し頼りないけど優しい妹。反対の性格だからこそ、二人は通じるものがあるのかもしれない。
「真中」
 二人でクスクスと笑い合ったのと同時に、彼女たちの背後から中年男性の声がかけられた。美緒のクラスの担任だ。教科書を小脇に抱え、その視線は美緒だけに真っ直ぐと向けられていた。
「なんですか」
「放課後、保健室に行くように」
「えっ?」
「櫻井先生が君のことを心配しておられたから。後で櫻井先生ご本人が来られるかもしれないが、一応伝えておこうと思ってな」
「あ、あの」
「随分と気にかけておられたんだぞ。真中だから心配はいらないが、くれぐれも失礼のないようにしなさい」
 櫻井先生という名が出た瞬間、美緒の表情は困惑し、えみの表情は明るくなった。
 用だけを淡々と告げた担任は、本当に何気なく伝えただけらしく、美緒の了承を得る前に彼女たちの前を去っていった。
「そういや櫻井、美緒のことすっごく心配してたんだよ。私にも様子聞きに来たもん。良かったね、気にかけてもらえて」
 たとえ薫に本命の恋人が居たとしても、美緒に関心を持ってもらえることは、えみにとっては嬉しいことだ。美緒にしたって、恋する相手に気にかけてもらえて嬉しくないわけがない。俯き、唇に手を当てる美緒の様子を、えみが覗きこんだ。
「早く元気な顔見せてあげなよ。櫻井も安心するよ。……美緒?」
「行かなきゃ、ダメかな」
「何言ってんのよ。今担任も言ってたじゃない」
「そうだよね」
 大きな瞳に、えみの顔が揺れるように映っている。
 美緒はえみの手をそっと握り締め、不安に顔を歪めていた。
「……でも、どうしよう」
「どうしようって、何が?」
「どんな顔して私……。どうしよう……」
 喜ぶどころか、会いたくないとも取れる声。トン、と肩に寄せられる美緒の額。えみに体を預ける美緒は、少し震えていた。
 その時初めて、薫へ寄せる美緒の想いが、単純な恋心ではないことを、えみは知った。

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