華水の月

65.翳る月、忍ぶ恋人の影

『綺麗だね。そのネックレス』
『うん』
『そんなに大事そうに身につけて。大事な人からのプレゼント?』
『秘密。……でも、私の宝物なの』
『珍しい石だよね。ピンク色にも見えるし、時々紫っぽくも見える。なんていう石なの?』
『ピンクダイヤモンドだって言ってた』
『ダイヤモンド? へえ、そうなんだ』
 いつかのこと。美緒の首筋に光る薄紅色に心奪われ、つい問うた時。
 彼女は、大事そうに指先でその石に触れ、目を閉じた。伏せた瞳の隙間から愛おしむように石を見つめ、口元を緩ませた。その姿はまるで、月が翳るような神秘的な艶やかさと静けさを宿していた。
 薄紅色のダイヤモンドを見るのが初めてだったえみは、美緒のその美しい表情を忘れることができなかった。
 それは強烈に、薄紅の影に潜む男性の残像を、えみの心に焼き付けていた。


「何やってんだ、おまえ。授業は?」
「それはこっちの台詞。櫻井こそ、こんなとこで何見学してんのよ」
「校医を呼び捨てすんな、って何回言ったら分かるのかな? おまえは」
 軽く息を切らしながら自分の元へ駆けて来た生徒に、薫は苦笑しながらその額を指で突いた。紅潮した頬には鮮やかに血が巡り、彼女の表情を一瞬にして和らげる。
 美緒の親友の藤井えみ。明るく天真爛漫で人一倍お節介焼きで。でも、とても可愛らしい。薫にとってみれば、美緒と関わる前から仲の良い生徒の一人だ。
「まあ、俺は、目の保養にでもと思って可愛い女の子を見学中」
 遠くを見やりながら口角を上げてみせる薫を、えみの不審な目が見上げる。
「とうとう変態にまで落ちたか、櫻井」
 ハッ、と笑った。呆れというよりは、薫との会話を楽しんでいると言った感じだ。
「あれ、知らなかった? ノーマルな男なんて面白くもないだろ」
「そんな簡単に認めないでよ。なんか拍子抜けするじゃん」
「他人の思惑通りに動くのは嫌いなんだよ」
 気の抜けた息を吐く薫は、余裕綽々だった。
「自分は手のひらで転がしてるのに? 本当、食えない男だなあ」
「お褒めに預かり光栄です」
 腕組みをして壁を背にもたれかかる隣に、同じようにえみが立つ。視線の向こうでは、生徒達が整然と並んで準備体操をしていた。その時、生徒の中にいた一人の少女が二人の方を見た。
 ――樹多村綾乃。
 いかにも二人を怪しむような目でじっと見据えてくるその瞳には、戸惑いと微かな嫉妬心が窺える。薫とえみは、そんな綾乃の視線を感じながらも、淡々と会話を続けた。
「目の保養になってるのは、先生の方じゃなくて、向こうなんじゃない?」
 えみが、綾乃を指して顎でしゃくる。薫は、小さな苦笑いを返すだけだ。
「まあ、女の子の視線は嫌なもんじゃない」
「相手によりけりでしょ」
「見られてる内が花ってね」
「あの子の場合、見られすぎて花も枯れそう」
「厳しいご意見だな。私情も込められてる気がするのは俺の気のせい?」
 えみと薫の視線が絡む。楽しげな薫とは違い、えみの目は真剣そのものだった。
「いや、大正解だよ。だって私嫌いだもん。綾乃のこと」
「へえ」
 視線を外し再び生徒の中へと紛れ込んでいった綾乃の背を見つめながら、えみが皮肉を込めて言う。綾乃の過激なまでの薫への恋心をえみは知っているだけに、薫への同情の気持ちが込められているのだろう。
 隣の校医は、えみの言葉を聞いても表情を変えることはない。同情されるような隙を見せないところが、また薫らしくもあった。
「珍しいよね。先生がこんなところに顔出すなんてさ。本当は何が目的なの?」
「別に。ただ、可愛い生徒達が元気にやってるかなあって心配になってきただけだよ」
「ふーん。先生ってそんなに生徒思いだっけ?」
「失礼だな。これでも、生徒のことをしっかり考えてる校医だけど?」
「そんだけ軽く見えるくせに、やることはちゃんとやってるっつーのが癪に触るよね」
「おまえは、俺が不真面目なほうがいいのか?」
「そういうわけじゃないけど、完璧だから弄りたくなんのよ。どこかでボロ出さないかなあって」
「出したらどうすんの?」
「弱み握って、先生を自分のいいように動かしてみたい」
 薫は一拍置くと、やけにのんびりとえみに問いかけた。
「へえ。じゃあ、振り回してみる?」
 これは、挑発なのか。それとも――。
「……遠慮しとくわ。あとが怖い。願望だけに留めておきます」
「賢明な判断だな」
 本気で嫌がるえみの表情は滑稽だった。
「まあ、今回は真中の様子を見に来た、っていうのが正解だけどね」
 眼鏡を外しながら、薫が横目でえみを見下ろした。口元に浮かぶ優しい微笑。相変わらずその姿は美しい。
「やっぱ美緒が気になったのか。そうじゃないかなあって思ったから、来たんだけどね」
「とりあえず、大体のことは分かったかな」
「大体のこと?」
「真中の様子についてね」
 美緒と綾乃の関係がどんなものなのかを、この目で確かめることができた。大勢が集まる場を見にきたのは、それが目的でもあったのだ。
 だが薫は、それに関しては深く話さず、上手くはぐらかした。
「そんなことより、病み上がりで持久走なんて自虐的にもほどがあると思うんだけど。親友なら見学させるなりなんなりしろよ」
「だって美緒が後で一人で走るのが嫌だって言い張るんだもん。あの可愛い顔でお願いされたら、女の私でもくじけるの!」
「くじけんなよ。情けないなあ」
「どうせ情けないですよ……。ああ見えて美緒って、結構頑固っていうか、一度自分で決めたことは意地でも曲げない強情なところがあるんだよね」
「ふーん……」
 薫はいかにも興味なさげな返事をしたが、えみの台詞に思い当たる節は沢山あった。美緒がもっと流されてしまう女ならば、苦労もなかったのだろうかと内心思う。だが、そんなことは愚問だと、ふと溜め息を零した。
「でもやっぱり先生でも心配になるんだね」
「保健室の利用率の高い真中が一週間も休んでるとなると、さすがの校医も気になるだろ。元々あの子は体が弱いから余計だな」
「でも最近の美緒、保健室に全然行かなくなったじゃん。いつもなら無理してでも登校して、つらい時だけ保健室って頑張ってたのに」
「そうなんだよなあ。つまんないよな。せっかくの美少女に会える機会だってのに」
「何それ。じゃあ、もしそれが私だったら別ってこと?」
「いや、藤井も楽しいよ。でもおまえの場合は保健室なんて無用の元気さじゃないか。それに、やっぱり目の保養になるとしたら……」
「美緒って? 顔で選ぶなんて、櫻井最低」
 ケラケラと笑うえみに釣られて、薫も微笑を零す。
「男は正直だから。可愛い女の子には弱いんだよ」
 唇に人差し指を当てるその仕草の、あまりの妖艶さ。
 フランクではあるものの、外見はクールでストイックな雰囲気が強いからこそ、時折漏れるように見える内面から漂う色気は、ある意味殺人的だ。穢れを知らない白衣に身を包めば、それは尚更のこと。本当に男なのだろうか、と誰もが疑わずにいられないほどのその色気に、えみも知らず視線を釘付けにされている。元々薫に対してのえみの好感は恋愛ではないのだが、美緒が薫に恋をしてしまう理由も、分かってしまうというものだった。
「先生ってさ、そうやってフェロモン振り撒くのどうにかしたほうがいいと思うよ」
「ん?」
「その色気。あてられそうっていうか、ある意味女の子にとっちゃいい迷惑だよ」
「そう?」
「叶わない恋に胸焦がすほど、つらいものってないじゃん」
「それって、俺に対する賞賛ととってもいいのかな」
「出た。自意識過剰発言。……って、櫻井の場合は強ち間違ってないけどね。この学園で、どれだけ櫻井に胸を焦がしてる子がいるやらって感じ」
「へえ。じゃあ、おまえも例外じゃないってこと?」
「いや、私は完全に目の保養にさせてもらってる。美形を拝めて今日も幸せ、みたいな。いつもありがとう、先生」
「どういたしまして」
 直球なえみの台詞に、二人は声を立てて笑った。
 こういうスパッとしたえみの潔さには、薫も好感を持っている。だが、やはりえみは年相応の女子高生だな、と薫は心中感じていた。
「でも、おまえの言ってることは、ちょっと違うと思うけどな」
「違うって、何が?」
 首を傾げて見上げるえみの視線に、薫も柔らかく視線を落とした。その少女らしい表情に、美緒の面影を重ね合わせて。
「女の子は、恋をすればするほど綺麗になる。叶う叶わないじゃなくて、恋を重ねれば重ねるほど、熟していくもんなんだよ。そして、本気で愛する人に愛されたとき、その花を咲かせるんだから」
 美緒が、薫に出会って美しくなったように。女には、神秘的な魅力があるように薫は思う。男の愛情は、もはやその美しさを助長するスパイスのようなものだろう。愛すれば愛するほど美しく咲く花に、魅了され、虜になる。そして、愛する人から離れることができなくなる。
 男は、女という生き物に敵わないようにできているのだと。
「だから、恋愛に無駄はない」
「……ムカツクんですけど」
 薫の言葉に、えみは途端に嫌そうな顔をした。
 その表情があまりに滑稽で、薫は声を立てて笑った。
「ムカツクって何が?」
「櫻井が言うと、本当にそうなんだなあって思うから腹立つんだよね」
「でもそれは、自分か、もしくは自分の近くの誰かがそうであるのを目の当たりにしてる証拠なんじゃない?」
「……そうかもね」
 その時、二人して見つめていたのは遠くにいる美緒の姿だった。
 以前に比べたら、比較しようがないくらい美しくなった美緒。浮かべる微笑の優しさや、上品な仕草、美しい後姿。どれをとっても、美緒は女として綺麗になった。
 えみは、そんな美緒を瞳に焼きつけながら、溜息をついた。
「美緒ってさ、綺麗になったって思わない?」
「ああ。学園一の美少女と言って、異を唱えるやつはいないだろうな」
「先生から見ても、やっぱりそう思うんだ?」
「まあね」
「いい恋して、綺麗になって。でも時々すごく寂しげでさあ。親友なのに、何も分かってあげられないのって、なんか寂しいよね」
「ん?」
「何もしてあげられないんだもん。いくら綺麗になったって、何も分かってあげられないなら意味ないじゃん」
 薫は、そんなえみを黙って見下ろしていた。
 刹那に美緒を見る彼女の瞳から、何かを探ろうとしていた。
「おまえってさ、絶対的に真中の味方なわけ?」
「は? 何言ってんの? そんなの当たり前じゃん。親友なんだから」
「ふーん。そう」
 美緒と違って、少々行動が派手なところはあるが、えみの美緒を思う気持ちは本物だ。彼女の目が嘘を吐いていない。美緒から恋愛のことを直接聞いてはいなさそうだが、勘の良いえみだ。その想い人が薫であることくらい、容易に想像がついているのかもしれない。
 だから、授業を抜け出てここへ来たのか。薫は、えみの目を真剣に見つめながら、深く考えていた。
「共犯にするにはちょっと頼りないけど、まあ賭けてみるのも悪くないか」
 企むように、薫がニヤリと笑って、えみの頭の上にポンと手を乗せた。
 なるべくなら、この恋に他人を巻き込みたくはないが、薫の中でずっと燻っているあることを解消するには、えみの存在が不可欠だ。
「は? 共犯って、何のこと?」
「別に。おまえはおまえの思うまま、親友の恋を応援してやればいい」
「ちょっ……。そんなこと櫻井には言われたくないんですけど。大体、先生がそんなんだから美緒が……」
「ん? 俺が何だって?」
「べ、別に! 何でもない!」
 思わず口が滑りそうになったのか、えみが咄嗟に口を噤んだ。
 そんなことなどお見通しの薫にとってみれば、えみの一挙一動が愉快そのものだ。親友のために一生懸命な、そんな少女を可愛らしく思う。
「まあ、時が来れば、全部分かるよ」
「はあ? 意味わかんないんですけど」
「案外、答えはおまえのすぐ近くにあるってこと」
「……意味不明」
「大丈夫だ。俺は、絶対に不幸にはしない」
「誰のこと言ってんの?」
「そんなことより、真中に放課後保健室に来るように言っといてくれない? この間回収した調査票に不備があったからって」
「え? ああ、担任が言ってたあれか。わかった」
「ほら、もうすぐ持久走始まるんじゃない? 俺に見惚れるのもわかるけど、さっさと戻らなきゃな」
「なっ! 誰が櫻井になんか見惚れるって?!」
 顔を真っ赤にして、えみが憤慨する。そんなえみを、薫はハイハイと軽く返事をしながら、もうすぐ持久走が始まるという理由で、再びグラウンドへと送り出した。納得がいかないとでも言うように、時折首を傾げながらグラウンドに戻ってくるえみを、体育教師が軽く叱りながら迎え入れていた。
 その瞬間、いつからこっちを見ていたのだろうか。美緒の視線と、薫の視線がぶつかった。
 だが、それはすぐさまもつれると、ほどけるように離れていった。

 風に乗って、砂の嵐が舞い上がる。
 乾いた空気の中に、ピストルの音が鳴り響き、呼吸は一気に加速し始めた。


 グラウンドを二周した頃。それまで順調だった美緒の体調に異変が起こった。
 隣で同じペースで走っているえみは、時折美緒の様子を窺ってはいたものの、何も気付いていない。
 美緒の顔色は、紅潮するえみとは違い、青白く変わっていた。やはり、病み上がりですぐに激しい運動をしたのがまずかったのかもしれない。額には、普通の汗とは違うヒヤリとした脂汗が滲み、呼吸も激しく不規則になってきた。ハッ、ハッ、と小さい呼吸に喘ぐ。胸を抑えると、ドクドクと張り裂けそうな鼓動が響く。
 それでも、美緒は負けまいと必死で走っていた。前をゆく女生徒の白い背に引っ張られるように、自分を追いたてた。大丈夫だと自分で言った手前、諦められない。ましてや、遠くで薫が見ている中、目立つことはしたくない。
「美緒。大丈夫?」
「だ、大丈夫……」
 確かめるように、えみが美緒に声をかける。それを美緒は無理に作った微笑みで返した。
 けれど、そんな風に美緒が強がっていられるのも少しの間だけだった。極度の緊張の中、照りつける太陽に意識を奪われる。陽光が美緒の世界を真っ白に包み込むと同時に、視界が歪み、全身の力が一挙に抜けていった。
 そこからはもう、完全に記憶を失った――。

「美緒!!」
それまで隣を走っていた親友の姿が視界から消え、バタン! と音がしたと同時に、えみは叫ぶように声を上げた。
「美緒! ねえ、美緒?!」
 美緒が倒れた。
 やはり、走らせるべきではなかった。
『自虐的にもほどがある』
 薫の言葉は本当だった。美緒の『大丈夫』を真に受けた自分自身にえみは腹が立つ。後悔が胸を渦巻き、えみはすぐさま美緒のところへかけよった。それと同時に、先に女子が走るのを見学していた男子生徒が、美緒の元へと群がってきた。
「おい、大丈夫なのかよ真中」
「運ばなきゃヤバイな。おい、おまえらも手貸せよ」
 自分よりも背の高い人の群れに目の前を阻まれた。半ばえみは無理矢理美緒のそばから押しのけられ、美緒の周りを一瞬にして男子生徒が取り囲んだ。何かごちゃごちゃと話しながら、男子生徒の一人が倒れた美緒の体に手をかける。その様子を、えみはただ傍観していた。
 だが、次の瞬間、真っ白な白衣が、えみの視界を覆いつくした。
「触るな!!」
 まるで空間を割く様なシャープで厳しい声。
 その声に、一瞬にしてざわめきが収まった。風の音さえ聞こえなくなるほどに。
「櫻井……?」
 えみの前に立つ長身の美しい後姿。風に揺れるその鮮やかな白は、明らかに薫のものだ。でも、すぐさっきまでグラウンドから遠く離れた場所にいたはずだ。こんなにすぐに、駆けつけられるはずがない。
 まるで幻を見ているかのように、えみは薫の背を見ていた。だがその幻は、少し低めの美声を奏で、そして群がる人の波の中に身を投じた。
「どけ。俺が連れて行く」
 その声は、あまりにも独占的で。
 誰にも有無を言わせない迫力と、人の心を凍らせるような緊張感を伴っていた。
 それ以上薫が言葉にしなくとも、生徒達は薫の邪魔にならぬよう自ら道をあける。世界は、薫と、その視線の先に映る美緒だけになる。
 薫が、慈しむように美緒を見つめ、そしてゆっくりと抱き上げた。そうして薫が美緒を抱き去っていく姿を、綾乃を含め生徒達全員が黙って見ているしかなかった。

 ――冷静で。
 でもこれほどに情熱的で優しい背中を、えみは見たことがない。

『秘密。……でも、私の宝物なの』
 美緒の言葉が蘇る。
 もしも、誰かを本気で恋しく想う時。こんな風に自分を守る背を一度でも知ってしまったなら。
 そんな存在を独占せずにいられる術や、その存在から離れる術など、見つからないのかもしれない。
 宝物のように、誰にも見せたくないと、望んでしまうのかもしれない――。

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