華水の月

66.校医の理性

 遠慮がちにされたノックの音に、薫はゆっくりと顔を上げた。
 目の前には、穏やかに眠っている美緒がいる。白いシーツを被った胸はゆっくりと上下して、落ち着きを取り戻していた。
 ――良かった。胸の内で呟き、ホッと胸を撫で下ろすと、自然と薫の手が美緒へと伸びる。彼女の前髪を優しく指先で払って、そこへゆっくりと口付けると、物音を立てないようにパイプ椅子から腰を上げた。
 仕切りであるカーテンを潜り抜け、ノックのされたドアへと歩いていく。ゆっくりと扉を開けると、そこには待ち構えていた人物が立っていて、薫は快く歓迎した。
「はい、これ美緒の鞄と着替え」
「どうも、ご苦労さん」
 白衣の腕の上で、ドシリと鈍い音がした。両手に抱えていた美緒の荷物を薫へと手渡したのは、美緒の親友の藤井えみだった。体育の授業が終わってすぐに一度美緒の様子を見に来たえみに、薫は放課後になったら美緒の荷物を届けて欲しいと頼んでいたのだ。えみもこれから帰るつもりなのだろう。制服に身を包み、美緒とは別の自分の鞄を手に抱えている。リボンを締めているはずの胸元は、気を抜いている証拠だろうか、緩く解かれていた。
「先生、美緒の様子は?」
 えみがチラリと薫の肩越しに保健室の奥を見やった。
「まだ寝てるよ。あんまり大きい声で喋るな。真中が起きる」
「失礼な。私はいつでもおしとやかだっつーの」
 しーっと唇の前に指を立てて諌めると、えみは不服そうに口を尖らせる。いつものやり取りにフッと息が抜けた。二人は揃って小さく笑いながら、保健室の奥へと足を運んだ。薫は、美緒の鞄だけを保健室の奥に位置する来客用のソファの上に置くと、着替えを持って美緒が寝ているベッド際のカーテンを開け、入っていった。追うようにえみも付いて来る。ひっそりとしている保健室には、美緒しか患者はいないということを、えみも気付いた。
「顔色、だいぶ良くなったね」
 灰色のようにくすんでいた顔色は、真珠色のような白さを取り戻しており、いつもの美緒らしいその姿に、えみは安堵する。
「ああ。さっきまで相当無理してたんだろうな。気を失ってから、まだ一度も目を覚ましてないんだ」
「ずっと?」
「心配しなくても大丈夫だよ。顔色は随分良くなってるし、そのうち目を覚ますから」
 心配そうに薫を見上げるえみの頭に、ポンと手を乗せた。その僅かな手の重みに安堵したのか、えみは目を閉じ小さく溜息を吐いて、穏やかに眠る美緒の顔を見つめていた。その眼差しは、本気で親友のことを思う、優しい少女だった。
「帰りは、俺が真中の家まで送り届けるから」
「うん。一人で帰すのはちょっと不安だったから、そうしてもらえると助かる。無理してまた倒れられでもしたら、私たぶん泣いちゃうよ」
「おまえは彼氏かよ」
 えみの、過保護とも思える発言に、薫が苦笑いを零した。
 美緒は何でも一人で我慢する癖があり、それが一層守ってやりたくなる衝動を起こさせるからか、美緒の周りにいる人間は過保護になるものが多い。本人が大丈夫だと強がるせいで、何も手を差し伸べてやれないというのが実情だが、健気な姿が逆に儚く見せるのか、自然と気にかけてしまうのだ。
 えみは、穏やかな美緒の表情を見て幾分か落ち着くと、隣に立っている薫をチラリと見上げた。光の加減で、メガネのレンズがキラリと光る。黙っていると、けして気軽に話しかけられない雰囲気のその氷の美貌に、えみはゴクリと唾を飲み込んだ。ん? と薫が表情を和らげて見せると、えみはずっと何かを聞きたかったのだろう、真剣な眼差しを薫に向けてきた。
「それにしてもさ、美緒が倒れてから先生が駆けつけるまですごく早かったよね。グラウンドの向こうに居たと思ってたから、櫻井が来た時にすごく吃驚したんだよ。どうしてあんなにすぐに駆けつけられたの?」
「真中の様子が変わったのに気付いてたからね。顔色を窺うのは、さすがにあの距離じゃ無理だったけど、なんとなくいつもと感じが違うように見えたんだ。それで、様子を見にすぐ近くまで駆け寄ってたんだよ」
「美緒の様子って……」
「真中の顔を見ていれば、普通か普通じゃないのかくらいは遠目でもすぐに分かる。本当は倒れる前に助けてやりたかったんだけど、少しだけ間に合わなかったな。真中に悪いことをした」
 本当なら、グラウンドの真ん中に飛び込んででも美緒を支えたかったが、さすがにそれは不可能だった。他の生徒達の手前、むやみやたらに美緒だけを気にかけたりはできない。美緒の立場が悪くならないように、美緒以外の人間がいる場所では公平に扱うよう気を遣っている。だけど、そんな二人の距離がもどかしい。
 美緒の体に優しく布団をかけ直しながら、薫は悪かったと謝罪の気持ちを口にした。
「そんなの、櫻井が謝ることじゃないよ。私なんて、何も気付かなかったんだから。隣にずっと居たのに、大丈夫? って何度も聞いたのに、全然気付かなかったんだもん」
 スカートの端を握り締め、唇をギュッと噛み締めるえみからは、美緒に対する後悔が溢れていた。その気持ちをむやみに慰めたところで、えみは何も満足はしないだろう。薫はただ、小さく返事をするに留めた。
「そうか」
 隣にいたえみにも分からなかったことが、遠目でさえ薫には分かっていたという事実。えみは、それが名医と呼ばれる人間の目だから分かることなのだと納得しようとしているのだろうが、それよりももっと深いところにある根本的な意味を知らないからこそ、腑に落ちていない様子なのは当然だった。
「ていうか、先生が美緒を連れて行った後、大変だったんだよー」
「大変って何が?」
「女子はキャーキャー言うし。男子は呆気に取られて黙り込んじゃうし」
「なんだそれ」
 唐突に話題を切り替え、表情や身振り手振りでどんな様子だったのかを表現するえみに、薫はクスと笑いを零す。なんだ、と問いかけながらも、えみが何を言いたいのかはよく伝わった。えみは元々動きが派手だが、それが良くも悪くも、彼女の元気の良さと明るさを象徴している。
「女子は、美緒を羨ましがってキャーキャー言ってたわけ。だって、超格好良かったじゃん? サッと抱き上げて連れ去って行くだなんて、女にとっちゃ憧れだよ。それが櫻井とあっちゃ尚更だよね。……癪だけど」
「癪だけど、が余計だろ」
 語尾に必ずからかうような言葉を残すのは、薫に構って欲しいというえみの甘えなのかもしれない。
「でね、男子は男子で、実は自分が美緒を連れて行きたかったって奴ばっかりだったみたい。結局櫻井が美緒を連れていったことで、行動の遅さを女子に咎められる始末だし。口でこそ言わないけど、櫻井がいなかったらって思ってるやつらばっかりだよ。まあ、こういう時だけスケベ心表す奴なんか、私にしてみたら願い下げだけどさ」
「こういう時だけって?」
 薫が眉を少しだけ上げて問いかけると、えみは『ああ』と何度も頷いた。同じクラスメートだからこそ知り得る美緒の普段の様子に、薫があからさまに興味を示した瞬間だった。
 えみがずいと身を乗り出し、やけに嬉しそうにニヤリと微笑む。
「美緒って普段から男を寄せ付けない雰囲気があるんだよね。すごく優しくて可愛いんだけど、どこか一線引いてるっていうか、絶対男に媚びない潔さがあるの。だから、美緒に気のある男どもが寄ってきても、美緒はそれをただの好意としてしか受け取らないし、友達以上には絶対発展しない。ある意味そういうクールさが、男たちが美緒に必要以上に近づけない要素なんじゃないかな。笑顔を振りまいても、それは女として変に男を魅了するような嫌なものじゃなくて、本当に優しくていい子な証拠なんだよね」
「へえ」
「今まで見てきた中で、美緒の心に踏みこめた男は、香月と泉先生だけかなって思う」
 えみがチラリと薫を見た。特定の名が挙げられたことで、薫が何らかの変化を見せるか窺っていたのだ。薫の中の美緒の立場を、その瞳から窺おうとしていた。
「俺の弟の名前が挙がるだなんて、光栄なことだな」
 だけれど、サラリと笑顔で受け流す薫に、えみは小さく溜め息をつく。やっぱりこの校医の心は簡単に乱せないか、という諦めの溜め息だった。薫の優しげな目元が、少しも動揺していない。
 だが、薫のその笑顔が、自分の彼女が他の男に見せる態度を知ったことへの安堵の笑みであることを、えみは気付かない。
「そんなこんなで、男子は不満丸出しだったわけ。触るなって、櫻井に言われちゃったら、さすがに触れないしね」
 言いたいことを言い終えると、えみは満足そうに口元を緩めた。その反面、薫は真面目な顔をし、中指で少しだけメガネを押し上げた。レンズがキラリと光り、引き付けられるようにえみの視線はそちらへ流れる。
「そんなことで不満に思われる筋合いは、ないんだけどね」
 薫がこの話題に対し返答を続けたことで、えみの目は丸く見開かれた。
「本当に助けたいという気があるのなら、黙って真中を抱き上げて運べば済んだことだろう。俺がおいしい場面を横取りしたみたいに思ってるか知らないけど、やたらと大人数で取り囲むだけ取り囲んで、ああだこうだと口だけ動かして、真中を見せ物にしていたのは奴らの方だ。本当に心配しているのなら、倒れたままの真中を放ってなんていられないはずだよ。その証拠に、彼女に群がった後、誰も彼女を抱き起こそうともせず、誰が運ぶかとせめぎあっていただろう。俺が近くにいることを知っているはずなのに、呼ぶことさえしなかった。下心、と言ってしまえばそれが一番妥当なのかもしれないけどね」
「確かに。あの時私、男子達に美緒の傍から押しのけられたんだよね。皆でコソコソ話してたから、誰が何て言ってたかはわからなかったけど」
 薫の言うとおり、薫が駆けつけるまでの間、生徒達が美緒を助けようとするまでには無駄な時間の空白があった。もしもえみが押しのけられていなければ、えみはすぐにでも美緒を抱き起こしていたか、彼女の意識を確かめるなりしていただろう。そしてきっと大声で薫を呼んでいる。心配で泣き出していたかもしれない。
 だが美緒を取り囲んでいた生徒達は、薫の言うとおり、美緒を興味本位の目で見ていたということが否めない。今にジャンケンでもし始めそうだったのだ。
「遠慮と牽制だな。所詮、誰かを助けようとする気持ちよりも、自分の欲が勝ってる証拠だよ。真中が無事であるかどうかを心配なんてしてない。自分の欲が満たされなかったことに、不服ばかり。人間なんてそんなもんだ、咄嗟に本性が出る。心配そうな顔だけしたって人は救えないんだよ。そういう人間が、病人に触る資格はないね」
 レンズ越しの真剣な瞳は、さもあっさりとえみを納得させてしまった。
「だから、触るなって、言ったの?」
 薫は大きく頷いた。
「真中のことを思えば、あのままになんてしておけないだろう。ヒーロー気分に浸りたいのなら、どこか他所でやればいい。興味本位で、倒れた人間を触るなんてのは以ての外だし、そうなれば俺がさっさと運んでしまった方がマシだ。どちらにしろ、俺が看ることには変わりはないしね。校医としては、賢明な判断だよ」
「なるほどねえ。ま、あの後、男子たちも女子に文句言われてたみたいでたぶん反省もしてるだろうし、美緒が帰ってこなくて、すぐに助けてやらなかったことを本当に悪いって思ってるだろうから、そう怒らないでやってよ」
「怒ってなんかいないよ。ただ、責められる筋合いはないと、言いたいだけ。でも、触るなっていうのは、ちょっと言いすぎだったかな」
 大人げなかっただろうかと、苦い後悔が薫の胸を過ぎる。でも、恋人ならば、それで当然なのかもしれない。いつも冷静すぎると感じている自分の胸の内に、自制の利かない感情があるということを知ったことが、薫は少し嬉しかった。
 ふっと解けるように微笑んだ薫の表情は、えみの心をも和らげていた。
「いいじゃん。なんだか私もスッキリしたしさ。……でもやっぱ、美緒が羨ましかったな。先生に抱きかかえられていく美緒は、なんだかすごく羨ましかった」
「そうか?」
 えみが大きく頷く。キラキラとした瞳は、憧れと期待が滲み出ていた。
「それに、普段先生ってこんな話あんまりしてくれないからさ、ちょっとだけ嬉しかったりもする」
「まあ、おまえだから喋ったっていうのは、大きいけどな」
 どのみち、えみに踏み込む気でいた薫だからこそ、これだけ内心を打ち明けたというのは大きい。秘密主義であり、生徒を公平に扱う薫は、他の生徒にならまずこんな私情の含んだ話はしないだろう。校医としての理性と、一人の男である薫としての本能を上手くちらつかせながら、微かに美緒が特別だと匂わせるのは、えみの心の内を確かめるための計算でもあった。ここで、醜い嫉妬心を微かにでも露にしたら、踏み込む価値はないのだ。
「じゃあさ、私が倒れても、先生が運んでくれる?」
「大丈夫。おまえは倒れたりしないよ。そういう台詞は、病弱という言葉が似合う女の子になってから言え」
「ひっどーい! これでもねえ、一年に一回くらいは風邪引くんだよ?!」
 声を荒げてみたものの、薫は無表情なまま何の反応も示さない。
「何よ。何か喋ってよ」
「年に一回。……へえ。年に一回なんだ」
「何よ。何か文句ある?!」
「別に?」
 わざとえみの言葉を拾い上げ、クククッと笑いをかみ殺す薫の袖を、えみが掴んで振り回す。感情が昂ぶって、美緒との違いについて上手くはぐらかされたことなど、気付いていはいない。
 薫は、えみとの会話を一旦切ると、美緒の方へと振り向いた。美緒は、二人の会話になど全く気付く様子もなく、すやすやと穏やかに眠ったままだ。
「さて、と」
 えみに渡され持っていた着替えを一旦ベッドの上に置き、眠っている美緒の布団を薫がそっと捲る。上下ジャージ姿のまま眠っていた美緒の胸元のジッパーを下げていく薫の綺麗な指を、えみがじっと見つめていた。
 最初、薫が何をしようとしているのか分からなかったのだろう。だが、美緒が眠っているのをいいことに、随分と大胆に服を脱がせていく薫の行動に、ついにえみが慌てて声をあげた。
「ちょ、ちょちょ、ちょっと!」
「……何?」
 えみが薫の腕をガシッと掴み、吃驚した面持ちで薫を横目で睨んだ。
 だが、薫は至って平然とえみを見るだけで、動きを止める気配が全く無い。
「いくら医者だからって、勝手に女の子の服脱がせたらダメでしょ」
「このまま帰らせるわけにもいかないだろ。泥だらけだし、制服に着替えさせるだけだよ」
「そんなこと言って美緒の裸見るつもり?!」
「誰も下着まで脱がせるわけじゃないだろう」
 何が悪いんだ、と悪びれた風を少しも見せない薫に、えみの焦りは募る。
「下着でも見ちゃダメなの!」
「いいんだよ。俺の場合は」
「ダメだって! そういうことしていいのはね、美緒の彼氏だけなの!」
 腕を掴むだけでは薫の動きを止められないと思ったのか、えみは彼の背後に急いで回ると思いっきり羽交い絞めにした。『ダメー!』と美緒が起きない程度に怒りながら、薫を押さえつける。だが、少女の力ごときでは、薫にとっては子供を相手にしているようなものだ。小さく笑いながら、そんなえみに抵抗して見せた。
「それに! 先生の彼女さんだって、美緒にこんなことしてるって知れたら悲しく思うよ? 私だったら絶対やだもん。自分の彼氏が、いくら職業が医者だからって、寝てる女の子の服脱がせようとしてたなんて知ったら」
「……そんなもんか?」
「そんなもんなの! ……ったく」
 その説得で、薫が納得してくれたのだと思ったのだろう。えみは、とりあえず薫から腕を離すと、大きく溜息を吐いた。だが、薫は体が自由になった途端、再び美緒の体操着へと手をかけ始めた。
「じゃあ、彼女には事後報告しとくよ。勝手に着替えさせてごめんなさいってね」
「事後じゃ意味ないっつーの!」
「大丈夫だよ。少しは恥ずかしがるかもしれないけど、怒りはしないから」
「はあ? なんで恥ずかしがるのよ」
「つーか、おまえも手伝えよ。真中が起きたら意味ないだろ。早く着替えさせてやらないと」
 少し強い口調で薫に責められ、えみは渋々着替えを手伝うことになってしまった。妙な説得力に、それ以上異を唱えられなくなったのだ。薫に言い包められたことに、とても不服そうな表情を見せていた。
 結局、美緒が一度も起きることなくスムーズに着替えを終えることができた。妙に女の扱いになれている薫の手つきは、彼女の存在というものをまざまざと感じさせていて、えみはただ薫をじっと見ていた。下着姿の美緒を目の前にしているというのに、薫は優しい表情を寸ミリたりとも変えることがなかった。こういう時、多少は目を背けるか、いやらしい目で美緒を見るかが、普通の男の反応の正しいところだ。
「私なら、嫉妬で狂うなあ」
 薫の手つきを見つめながら、えみがポツリと呟く。薫の手は、壊れ物を扱うように優しく美緒を抱いていた。


「着替えくらい、私が一人でやれたのに」
 えみがぷうと頬を膨らませると、薫は深い溜め息を零して呆れた声を出した。
「ダメダメ。おまえ不器用だし。真中が起きたらそれこそ意味ないじゃん」
「あーそうですか」
 二人して、美緒の眠るベッドから離れ、カーテンの外へ出る。
 えみが不貞腐れてソファの上にドカッと身を預けた。その正面に位置するソファへと、薫も腰を下ろす。そして、長い足を組み、その上に両手を組んで乗せると、途端少しだけ厳しい表情になり、えみへと話を切り出した。
「ところで、おまえに聞きたいことがあるんだけど」
「私に聞きたいこと?」
「ああ。おまえを信用して聞く。ここ最近、真中に恨みを抱いてる者はいるか」
「え……」
 唐突な質問と、嘘を見逃すまいとえみをじっと見据える薫のシャープな視線に、えみの顔つきが険しくなる。最初、ソファに大きく身を預けていたえみだったが、真面目な薫の雰囲気に、居直った。
 何故、そのようなことを聞くのか――。暗に問うえみの心の声が薫に聞こえ、薫は白衣のポケットに手を入れると、そこから一枚の写真を取り出し、ガラスのテーブルの上へと置いた。えみによく見えるようにと、それをスッと差し出す。少しクシャクシャと皺のよった写真ではあったが、手に取らずとも、それがどのような写真であるかは、えみにも分かったようだった。
「この写真は誰かが真中に送りつけたものだ」
 えみが写真を凝視する。薫は、淡々と言葉を続けた。
「これに写っているのは、俺と結城先生だ。だが、初めに言っておく。結城先生とは、恋愛関係でもないし、そこにやましい感情は一切無い。ただの偶然だと思ってくれていい」
 えみの疑問を拾うように、薫が端的に言葉を並べていく。一度噂になったとは言え、そこには恋愛感情は一切無いと断言して言える。嘘のない薫の言葉に、えみはそれ以上その写真の内容については問わなかった。
 けれど、えみが釈然としないのは仕方が無い。何故それが、ということが分からないのだから。
「でも、どうしてこれが美緒に送られるわけ? 関係ないじゃん」
「そうだな。無関係であるからこそ、俺も誰による仕業なのかが分からない」
 そうは言ったが、薫の中では、その写真を撮った人物が誰なのかに勘付いていた。
 だが、証拠がない以上、安易にそれを口にはできない。できれば、えみの口からその名を聞きたかったのだ。
「それを真中に送ったということは、どういう形であれ、真中の心を乱したかったという理由があるからだと思う。好意を抱いている人間の仕業じゃない。彼女に対する嫉妬、もしくは憎しみ、その辺だろうな。……心当たりは、あるか」
「……ないこともないけど」
 嘘を許さない薫の眼差しに見透かされ、えみは居心地が悪そうに語尾を濁した。
 バツが悪そうなのは、気付いたものが曖昧ではなく、確信に近いからだろう。えみは、誰よりもそばで美緒と綾乃の関係を見てきただけに、薫よりもずっと二人のことを知っている。だが、安易に何かを口にしてしまえば、知っていることの全てを薫に話さなければいけなくなることを分かっているのだ。だから逃げようと視線を逸らすし、薫もえみを逃がそうとは思わない。
「でも、どうして先生がそんなこと気にすんのよ」
「俺の写真を使われていて、気にしないほうがおかしいだろ」
「そうだけど……。たかが、クラスメート同士のことなんか、ほっとけばいいじゃん」
「ふーん、送りつけたのは、クラスメートか」
 勘の良い薫の言葉に、えみが顔を顰めた。段々と、薫の予想がえみの確信へと近づいていく。
「……先生」
「なんだ?」
「どうして美緒に送りつけられた写真を先生が持ってるのかは知らないけど、そのことに詮索するってことは、美緒の気持ちを知っているからって思っていいんだよね。それから、それを送りつけた子の気持ちも」
 頭の良い少女の言葉に、薫は黙ってその言葉を受け入れると、冷静に大きく頷いた。
 えみは、このことに関して薫が関わることが、どういうことなのかをちゃんと分かっている。見て見ぬフリなどできない。それは、確実に誰かを傷つけることになるということを。
「曖昧な気持ちで首突っ込んでるなら、私は何も協力しないよ」
「分かってる」
「結果がどうであるにしろ、先生が真剣に美緒を受け止められないんだったら、私は何もしようと思わないんだからね」
「わかってるよ。俺だって、大事なものを守るために、おまえに話してるんだから」
「大事なもの?」
「ああ。俺の彼女」
 クスリと笑ってそういうと、途端えみの表情が怒りまかせに変わった。バン! とテーブルに手を着き、身を乗り出す。
「やっぱり分かってないじゃない! 結局自分の保身でしょ。彼女さんにこんな写真のことバレたくないから、だから原因突き止めたいだけじゃん。結局大事なのは彼女だけでしょ。美緒の気持ちなんて全然考えてない」
「考えてる」
「考えてない!」
「考えてるよ」
 重厚な声がえみを黙らせ、真剣な瞳が鈍い光を宿らせる。
 口元に浮かんでいた微笑が消えた。
「だって美緒が、俺の恋人なんだから」

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