華水の月

68.キスで塞ぐ愛してる

 すっかり陽も暮れた空。セピア色が少しずつ紺色に呑まれていく。窓の外には、もうすぐ訪れるであろう夜を予感させながらも、僅かながらの光が二人を包み、暗がりの中でも、穏やかな美緒の寝顔が見える。
 えみが帰ってから、三十分が経とうとしていた。頼りになる美緒の親友の存在に少しばかりの安心を感じながら、薫は美緒の寝顔をじっと見つめていた。長い髪が、白いシーツの上を緩やかに流れている。柔らかいそれを少しばかり指で掬い上げ感触を確かめていたが、美緒は一向に目を覚ます気配がない。それほどまでに、精神的に疲れていたのかもしれない。
 ピンと張った糸が切れる瞬間は、とてつもなく呆気ないものだ。離れまいと必死に繋ぎ止めていても、一度切れてしまえばもう、再び繋ぐことなど困難なほどに遠く離れてしまうだろう。求める力が強ければ強いほど、それが切れる時の反動は恐ろしく凶悪とも言える。それでも、今でもこうして離れ切れずにいる二人の関係に、薫はまだ糸が完全に切れた訳ではないと確信していた。元より、美緒を手放す気など毛頭ない。
 考えているのは、今現在だけじゃないのだ。美緒と自分の関係には、一生の姿を思い浮かべている。永遠に一緒にいよう。そう思えたのは、美緒がはじめてだった。
 今回のことを、ちっぽけな問題だとは言わない。美緒は大きく傷つき、そして薫自身も傷ついていた。美緒にとっては、耐え難いくらい重い問題で、別れまで意識させてしまった。けれどこれから先、一生彼女と連れ添っていくには、これだけではない沢山の問題と遭遇していくことになるだろう。だからこそ、一つの試練として、薫は捉えていた。二人で乗り越えていくべき試練に、自分達は試されているのだと。美緒にも、そう考え直して欲しいのだと、願いながら。

 布団の中から、美緒の左手をそっと握って引き、布団の上へと乗せた。見慣れた、白くて小さな華奢な手。彼女の左の薬指を、そっと親指の腹で撫でながら、薫は小さく呟いた。
「七号。……いや、六号かな」
 細くスラリとした長く美しい指。骨っぽさを感じさせない柔らかな女性らしい線は、重なっている薫の指とは随分と違っていた。
 いつか、この指に自分が贈った指輪をはめると決めている。婚約指輪なら、純粋に普通のダイヤモンドがいいだろうが、美緒に贈るものは、ピンクダイヤモンドだと決めていた。そう、彼女に贈ったネックレスと同じ石を。そして、自分の胸にも光るものと同じ石を。
 まだ美緒には伝えたことはないが、薫にとってピンクダイヤモンドという石には大きな意味があった。普通のダイヤモンドよりも、深い想いを込めた薄紅の石。かつての恋人に、ダイヤモンドという石自体贈ったことはない。その理由を知っているのは、麻里一人だけだ。勘の鋭い彼女は、薫の秘めた思惑に気付いていた。
 よく文句を言われていたな、と、過去を振り返り苦笑いを零す。ダイヤが欲しいと強請られても、いつもやんわりとはぐらかして麻里を拗ねさせていたものだ。それなのに、ネックレスとは言え、簡単に美緒にダイヤという石を選んだ自分に、薫は少し驚きさえしていた。ルビーでもサファイアでもこの世にはいくらでも石の数はあるのに、美緒を愛してからというもの、ダイヤモンド以外考えも及ばなかったのだ。それくらい自然と、美緒という女を選んでいたということだろう。運命だと言ってもいい。自分も同じ石を身につけるなど、昔の自分が知れば、きっと呆れているに違いない。
 穏やかに眠る彼女の目元に、そっとキスをする。薄いまぶたからは、美緒の温もりが直に伝わってきた。温かい、それだけで彼女がちゃんと生きているのだと実感した途端、何故か酷く安心を覚えて、良かったと胸を撫で下ろした。何日ぶりだろう、こうしてしっかりと触れ合うことができたのは。
 久々に会った美緒は、少し憔悴した表情をして、大人びた目をしていた。まともに薫の目を見られないその様子に、彼女の戸惑いを見抜いた。それでも無意識に薫を見つけては、曖昧に揺れている瞳に、未だ薫への想いが深いことを知る。今まで彼女がどれだけの不安を抱えていたのだろうかと思うと、薫は切なさで胸が痛くなるのを感じていた。
 今、全てを知った上で新たに感じる美緒への愛おしさ。
 君に、我慢をさせたかったわけじゃない。君を、苦しめたかったわけじゃない。
 ただ、幸せにしたかった。君に、笑っていて欲しかった。
 そんな一言さえ伝えられなかった。それだけが、今の薫に後悔として残っていた。
「一緒に、泣いてやりたかっただけなのにな」
 自然と言葉として漏れる、薫の本音。美緒がどれだけ弱くたって構わない。どれだけ心が醜くても構わない。でも、それを隠して生きるのではなく、全て曝け出して欲しいと薫は思う。どんなマイナスな感情さえ、一緒に感じたいと思う。つらいことも、一緒に泣くことができたらどれだけ幸せだろう。幸福に笑うだけが人生じゃない。つらいことも、悲しいことも、時にはあるだろう。そんな一時さえ、薫は美緒と分かち合いたいのだ。そうでなくては、一生一緒にいることなんて、出来はしないのだから。
 えみが保健室を去っていく時、小さなジュエリーポーチを手渡された。『美緒の宝物だよ』えみは、そう言った。その中には、薫が贈ったピンクダイヤのネックレスが入っている。体育の時は外してそのポーチにしまっており、そして今日もずっと美緒がそのネックレスをしていたことを、えみが教えてくれた。
 肌身離さず付けてくれているのは、まだ想われている証拠だろうか。そうであって欲しい。
 まるで小さな宝物でも大事に隠しているようなそのポーチを開け、中からネックレスを取り出す。指先に触れる金属の冷たさがヒヤリとした。プラチナのチェーンの先にある、ピンクダイヤのペンダントトップが、暗闇の中でまるで泣くようにキラリと光った。
 美緒の首元に手をやり、ゆっくりとネックレスを付ける。すると、薫の手の甲が美緒の首筋に触れた途端、美緒の体がビクリと震え、そしてゆっくりと目を開けた――。

「……せ、んせい?」
 目覚めたばかりの視界では、まともに薫の姿を見つけられはしないだろう。けれど、自分のそばにある特別な人の雰囲気に、美緒はすぐさま気付いてしまった。ふわりと肌の上を走る空気の温かさと匂いに、感情が体を追い越して求め始める。そして、次第に暗闇に目が慣れると、愛おしいその人を見つけてしまった。
 ――途端、泣いてしまうのかと、思った。
「逃げないで」
 溢れそうになる涙とともに、恐怖心が沸きあがり、美緒はすぐさまベッドから降りようと体を起こした。だがその瞬間、薫が美緒を抱きすくめた。後頭部を引き寄せ、胸の中へと美緒を閉じ込める。
「離して……っ!」
「ダメだ。離さない」
 その声は、身を切るほどに切なかった。
「やだっ……先生」
「一人になんて絶対にしない。……美緒、お願いだから逃げないで」
 一人にしない。
 そう言った薫の言葉が美緒を引き止める。ずっと一人ぼっちで傷だらけだった美緒の心を、薫の腕が引きとめた瞬間だった。
「もう会えないだなんて、俺がそんなことを簡単に受け入れるなんて思ったのか」
「……先生」
「おまえと離れることを、俺が選べるなんて思ったのか。バカにするな。簡単におまえを手離せるくらいなら、最初から愛したりなんかしない」
 薫は、美緒が逃げられないように、ありったけの力で抱き締めていた。美緒が、薫の腕へと手を乗せ、軽く爪を立てる。小さく身を震わせ、必死で泣くのを我慢していた。
「俺はおまえを絶対に離したりしない。お願いだから逃げないで。……俺の前から、居なくなったりしないで」
 腕に伝わる美緒の震えが、彼女の不安や恐れとなって薫にも伝わっていく。美緒は、薫の言葉が怖いのだ。薫のことが大好きだからこそ、裏切られるのが怖くて恐怖心を抱いた。それは少しずつ少しずつ美緒の心を蝕み、あの写真が決定的な引き金になった。今、初めて直に伝わろうとしている美緒の想い。ずっとずっと、美緒は一人でこうして怯えて、耐えてきたのだ。
「全部、話すから。おまえがずっと不安に思ってきたこと、聞きたくて仕方なかったこと、全部包み隠さず話すよ。だから、聞いてくれないか」
 美緒が、縋りつくように薫の胸に顔を埋める。その髪を優しく撫でながら、まるで子供に言い聞かせるような静かな声で、薫は呟いた。けれど美緒は、額を擦りつけてグッと拳を握ると、胸の中で小さく首を振った。
「聞きたくない」
「どうして?」
「……怖いの」
 真実を知るのが怖い。逃げてしまったからこそ、その真実は次第に負の性質を帯び、破裂しそうなほど膨らんでしまった。
 どうしよう。もしも、その恐怖が美緒を覆い尽くしてしまったら。その時はもう、二度と立ち直れなくなるような気がする。もう二度と誰も愛せなくなる。ささやかな愛情さえ、全てを疑いの目で見るようになってしまうだろう。美緒は、これ以上何かを知るのが怖かった。
「何が、怖い?」
 恐怖は、抱いている本人にしか分からない。それでも薫は美緒の抱いている恐怖に触れようと寄り添ってきた。
「大丈夫だよ。大丈夫だから。聞いて欲しいんだ」
「怖い……っ。怖いの……!」
 美緒は、何度も首を振り続けた。優しい薫の手が美緒の背を何度撫でても、どれだけ抱きしめられても、その恐怖が美緒を縛りつけて離さない。
「もしも私の恐れてたことが本当だったらと思うと怖いの。見てきたもの全てに裏切られてきたの。何度も何度も……。これ以上言葉で裏切られるのはイヤ。先生から聞かされるのが怖いよ……」
「大丈夫だ。俺は、おまえを裏切ったり」
「でも!」
 裏切ったりしない、そう言おうとした薫の息を拾うように、美緒が声を重ねる。
「でも本当に怖いのは……本当に怖いのは、私が先生を裏切ってたかもしれないってことです」
「え……?」
 まるで叫ぶように言い放った美緒の言葉に、薫は耳を澄ませた。ハァ、と美緒が大きく息をする。そして、薫の白衣をギュッと握り締めた。
「何一つ……信じられなかった。見るもの全てに追いやられて、いつの間にか先生を見失ってた。先生に何も聞けなくて、自分を見せることが怖くて、愛されているのかさえわからなくなりました。本当は、そんな自分が一番嫌いだったの。……先生のことが好きなのに、好きな人のこと信じてあげられなかった。そんな自分が、私は許せません。……許せないんです」
 美緒はもう、薫が間違いを犯していないかもしれないということに、気付いていた。臆病過ぎて見失ってしまったけれど、薫を今まで見てきたからこそ、冷静になり薫の立場になれば、簡単に答えは出てしまった。そう理解すればするほど、次第に自分を追い込んでいったのだ。
 薫を信じられなかった自分。弱さに負けて、薫という人を見失ってしまった自分。そんな自分が、許せなかった。
「そのせいで私は、先生だけじゃなく、泉くんまでも傷つけました。泉くんはいつだって先生のそばで笑っていたのに、その笑顔を私は奪ってしまいました……。先生のことが大好きな泉くんが私は大好きだったのに、私が先生を信じられなくなったから、泉くんも苦しめて……。私が居なければ良かったんです。自分の弱さが、先生も泉くんも傷つけたの。そんな自分が、許せません」
「美緒……」
「だからもう、先生には会えないんです。先生のそばにいる資格は、私にはないんです。もう誰も傷つけたくない。……ごめんなさい。ごめんなさい、先生」
 薫の胸に縋りついて、美緒は小さな泣き声をあげた。誰が何と言おうと、美緒の気持ちは頑なに閉ざされていた。優しい彼女だからこそ、自分に課す責任は重く、簡単に自分を許すことができない。意志の強さも、責任感の強さも、年相応のそれよりも随分と秀でている。それが美緒の良いところだと分かっていても、今回ばかりは二人の枷にしかならない。二人を結び付けまいとする要素にしか、ならないのだ――。

「本当にバカだな、おまえは……」
 髪に口付け、薫は深い溜息を零す。
「疑ったって、構わないよ。誰にでもある感情だ。おまえだけが間違いを犯すわけじゃないだろう」
 一度の過ちでこんなにも自分を責めなければいけないほど、人間なんていう生き物は完全じゃない。むしろ、不完全で曖昧だからこそ、その過ちを自分の強さに変えていけるものだ。
「泉のことなら大丈夫だ。あいつのことは、俺が一番分かってる。おまえに傷つけられただなんて思っちゃいない。居なければ良かっただなんて、そんなこと言うな」
「でも……っ」
「たとえ愚かでも、弱くても、おまえはおまえじゃないか。そんな美緒だから、俺は好きになったんだ。信じられなかったくらいで嫌いになったりしない。おまえじゃなきゃ、こんなに愛したりしない。おまえを選んだりしなかった。その気持ちさえも、おまえは否定するのか」
 生徒である美緒を、ただの愛や恋という覚悟で好きになったりはしない。自分の置かれている立場くらい十分に理解しているつもりだ。生徒と関係を持つことがどれくらいのリスクを負うのかなど、美緒と出会った瞬間から痛いほど思い知らされてきたし、美緒に責任を感じさせないために何気ない風を無理矢理装ってもきた。秘めた恋愛をすることが、平気などではなかった。それでも、手離したくないものがそこに確かにあったのだ。
 一生を、君に捧げると決めた。そうでなければ、どうしてこんなにも君を愛せたりしただろう。
「おまえにだけは、否定されたくない。これまでの二人も、これからの二人もだ」
 切なさに胸が苦しくて、互いに離れまいと抱きしめ合う。
 こんなに愛してるのに――。
 それでも、何かが噛みあわなくて、二人の気持ちが結びつかない。結びつきたいのに、届かない。互いを捜し求めてるのに、上手く繋がらない。
 愛してるのに――。愛してるからこそ、苦しくてたまらなくて。もどかしかった。
「おまえだけが俺の全てなんだ。これまでも、これからも、それだけは絶対に変わらないのに、それでもおまえは俺から離れようとするのか」
「せ、んせい……っ」
「おまえが、真実を聞きたくないというのなら、無理には言わないよ。おまえが自分を許せないという気持ちも、分かってる。おまえを傷つけたいわけじゃないんだ。泣かせたいわけでも、苦しめたいわけでもない。でも、俺の気持ちも聞いて欲しい」
 真実を知ることで、美緒が自分を追い込んでしまうというのなら、あえて言わないでおこう。誰が許しても、美緒は自分を責め続けるだろう。それを、助長したくはなかった。
 でも、薫が想う美緒への気持ちだけは、きちんと彼女に伝えておきたかった。どう受け止めても、伝わらなくてもいい。ただ、狂ってしまった歯車を少しでも止めることができるのなら。美緒の中に、少しでも自分を求めてくれる強さがあるのなら。薫は、最後の望みをかけて、美緒へ伝えようと思った。
「おまえの苦しみを、一緒に感じてやれなくて、ごめんな」
 身を離し、薫は美緒の頬を両手で包み込んだ。戸惑いがちに揺れる美緒の瞳に、涙が溢れてくる。彼女は、薫の手に自分の手を重ね、薫を見上げていた。
「もっと早くに、気付いてやりたかった。おまえが自分を責める前に、俺が救い出してやりたかった。……ごめんな、美緒」
 時間を戻せることが出来たなら――。なんて、非現実なことさえ望んでしまうほど、恋焦がれている。
「怖かっただろう。寂しかっただろう。ずっと一人で、苦しかっただろう。どれだけおまえを傷つけたんだろうな。……ごめんな。ごめんな、美緒」
 謝る薫の言葉に、美緒はただ涙を堪えている。貴方は悪くないと、その表情が語っているように思えた。
「おまえが不安に思う時も、寂しく思う時も、どんな時だって一緒にいてやりたかった。泉じゃなくて、俺がおまえを抱き締めてやりたかった。幸せも、苦しみも、全てを共に分かち合いたかった。こんなことを思ったのは、おまえが初めてなんだ。……こんなにも愛した人は、おまえしかいなかったよ」
 こんなにも執着するほど人を愛したのは、初めてだった。
「愛してるんだよ、美緒。おまえの弱いところも、ダメなところも全部愛してる。おまえの優しさに、時に嫉妬することもあったけど、それはおまえを誰にも渡したくない証拠だ。泣き顔が可愛いって思うのも、怒った顔を愛おしく思うのも、寂しそうな背を抱きしめたくなるのも、全部おまえにだけ感じる気持ちなんだよ。俺はきっと……一生、美緒しか愛せない。たとえ、いつか離れ離れになったとしても、おれは何度でも美緒を愛するだろう」
 ハラハラと、美緒の瞳に涙の花が咲き乱れる。
「どうして……?」
 どうして、だなんて今更じゃないか。そう思うも、薫に愛される理由と自信が美緒にはないということが、その一言で伝わってくる。
 美緒は戸惑いながら薫を見上げていた。薫は、今にも泣きそうな切ない顔をして、美緒の頬を引き寄せると、額と額をコツンとくっつけ、苦笑いを零した。
「一緒に、生きていきたいんだよ」
 一生を誓った。彼女に贈った薄紅の石に――。
「……一緒に?」
「おまえとは、ずっと一緒に生きていきたいと思った。幸せなことも、つらいことも、全部一緒に乗り越えていきたいって思った。俺の隣には、いつも美緒に居て欲しいんだ」
 ふと、告げた未来の約束。美緒の瞳の中に、一瞬の喜びと戸惑いが揺れた。
「でも、自分にはそんな資格は無い、とそう言いたいんだろう」
 美緒の不安など薫はお見通しだった。
「一生、一緒にいるということは、幸せなことだけじゃない。時に、苦しみや寂しさに負けてしまうこともあるだろう。互いを信じられなくなる時だってあるかもしれない。……でもな、美緒。俺は、そんな時でさえ、おまえとだから乗り越えていきたいと思う。おまえの過ちなら、一緒に背負いたいと思う。俺が迷ってしまった時は、おまえが手を引いてほしい。人は何度も間違いを犯して後悔する生き物だから、これから先誰も許してくれないことがあったとしても、俺だけはおまえを許すと約束するよ。おまえにもそうであって欲しいんだ。……だから美緒。一緒に、乗り越えてくれないか」
 愛するということは、ただ二人で幸せを追い求めることではない。互いに、全てを分かち合いながら生きていくということだ。寂しさも苦しみも、共に乗り越えていくということだ。薫は、美緒の全てを背負うと言った。その代わりに、美緒にも共に生きて欲しいと。
 そこには、どれだけの覚悟があるのだろう。どんなことがあっても手を離さない。どこにでも転がっているような陳腐な恋愛なら、こんなに強く思えはしない。薫の心からの気持ちに、美緒は涙が止まらなかった。
「今はまだ、選べないかもしれない。……でも俺は、おまえが俺を選んでくれるって信じてるから」
 『信じる』という言葉が、美緒にとってどれだけ重いのかなど、分かっている。それでも、信じていたかった。
「バカにするなよ。おまえがいくら逃げたって、俺がおまえを捕まえられないわけないだろ? 今まで何度追いかけたと思ってんだよ。そんな生半可な気持ちで、彼女にしたわけじゃない。逃げられないくらい、愛してやるから覚悟してろ」
「……っ」
「第一、俺を振ろうなんてのは、百年早い」
 薫は、小さく笑いながら美緒を抱き締めていたけれど、その腕は微かに震えていて、薫の心が傷ついていることを、美緒に伝えていた。何度も傷つけられてきたというのに。その心は、いくら強くとも傷だらけのはずなのに。それでも、全てを顧みず美緒を包みこむその腕に、美緒は申し分けなくてたまらなくなる。
「ごめんなさい、先生……」
「謝らなくてもいいよ」
 美緒がまだ薫の胸に素直に飛び込めないことも、薫は分かっていた。美緒の中に渦巻く後悔が、手に取るように分かったからだ。
 その時二人の脳裏に浮かんだのは、泉の姿だった。二人が愛してやまない、その愛おしい存在。どれだけ傷つけてきただろう。どれだけの優しさを、蔑ろにしただろう。彼のためには、何を選ぶのが一番の幸せなのだろう。考えても考えても、泉を愛おしく思うが故に答えは出ない。
 もしかしたら、薫と美緒はもう一生一緒にはいられないかもしれない。二人の恋は、叶うことがないかもしれない。そんな不安が、ないわけではない。それでも、一緒に生きていきたい――。
「なあ、美緒」
 泣いているかと思うほどの薫の切ない声色に、美緒が薫を見上げようと身を離した。薫の瞳は不安に濡れて揺れていた。形の良い薄い唇は、何かを言うのを躊躇った後、ゆっくりと絞り出すように言葉を綴った。
「おまえは、俺と一緒にいることが苦しいか?」
 静寂が二人を包みこんで、やけに言葉の意味を重く感じさせた。
 それを聞くことが、二人の関係をどれだけ脅かす要素になるのかくらい、薫にも分かっている。そこで美緒がYESと言えば、全ては終わるのだ。だけれど、これまで二人で積み上げてきたものを信じていればこそ、確かめられるという強さもある。
 美緒は、薫の目をじっと見つめたまま、白衣を握り締めていた。手が震えている。大きな瞳は薫の気持ちを傷つけまいという優しさと、自分の弱さとの間で必死に答えを探そうとしていて、そんな彼女の臆病さが見えた途端、薫は聞いてしまったことを後悔する。嫌な予感がした。まだ何も聞かされたわけではないのに、美緒から心ごと引き千切られてしまいそうで、怖くなった。
「――――」
 美緒が、何かを伝えようと唇を奮わせる。
 けれどその瞬間、薫が美緒の顎を引き寄せ、唇を重ねた。美緒の心の声を封じ、自分の思いをありったけ伝えるような口付けを交わした。
 言わせない――。
 その唇から拒絶の言葉を聞いてしまったら、美緒のことだけを思う薫が何を選ぶのか、そんなこと自分自身が一番よく分かっている。絶対に手離すまいと心に決めていても、それが美緒を苦しめるのなら、何が一番最善なのかを見つけようとするだろう。
「……美緒」
 呼吸の合間に名前を呼ぶのがやっとで。でも、呼ばずにはいられないほど、美緒が愛おしくて引き止めておきたかった。白衣を掴んでいた手が、ゆるゆると薫の肩へと上っていく。指先は少し躊躇った後、薫の首筋に這わせ、体温を確かめていた。
「美緒――」
 君の名前が、こんなにも心を苦しくさせるものだったなんて、今まで知らなかった。

 言えなかったのは、サヨナラか。
 それとも、愛している――だったのか。

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