華水の月

69.ゲームマスター

「あ、薫。お疲れ」
 背後からかけられた声に、薫はゆっくりと振り向いた。遠くから、泉が手を振って駆け寄ってくる。どうやら、薫が校舎から出てくるのを待っていたようだった。
「何やってんの、おまえ」
 陽はとうに落ち、ひっそりと脇に立つ街灯が足元に長い影を作る。車へと向かって淡々と歩くと、泉も同じ歩調でついてきた。
「一緒にご飯食おうかなーと思って迎えに来た」
 もうそんな時間か、と腕時計をチラリと見ると、既に夜の七時をだいぶ過ぎていた。
「歩きで来たのか?」
「うん。バイクで来たら、一緒に帰れないだろ」
「つーか、あのバイクは俺のなんだけど?」
 ジロリと睨みをきかせると、まあまあと泉が薫を嗜める。
「毎日毎日よくも飽きないもんだな」
 咥えたタバコに火を付けると、泉も欲しいとせがんできた。1本渡し、火をつけてやる。苦笑しながら、薫は車にキーを差した。ガチャリと開いた瞬間、泉も助手席の扉を開けた。
「だって一人で飯なんてつまんないじゃん? 薫と一緒に食う方が美味いんだもん」
「とかなんとか言って、ただ単に飯代浮かしたいだけだったりして」
 なんだかんだで、泉は甘え上手だと薫は思う。許した懐にスルリと入ってくる感覚は、空気のように自然で、猫のような軽やかさも伴っている。その気はなくとも甘やかしてしまうのだから、それは泉の持つ天性の才能とも言える。
「まあまあ。そう嫌がるなって。可愛い弟との夕食も、楽しいよ? 毎日俺の顔見られて安心だろ?」
「まあ、退屈はしないけどね」
「それは楽しいとイコールです」
「いや、それはどうかと……」
「はい、そこ深く考えなーい」
 泉の言い草に、薫がクスリと笑った。運転席と助手席に腰を下ろした二人は、とりあえず座ったまま一息ついた。吸い終わった煙草を灰皿に押し付けると、泉が手に持っていた缶コーヒーを薫に手渡した。それを開け、薫はゴクリと一口含んだ。生温い。元は温かいはずの缶コーヒーが、人肌ほどの温かさだ。どれだけの時間、泉は薫を待っていたのだろう。
「三十分?」
「ああ、まあそれくらい」
 そんな会話でも、意味が通じる当たり、二人はやはり互いを知り尽くした仲なのだ。言葉にしなくとも、表情で言いたいことが読める。
「携帯鳴らせば良かったのに」
「仕事だったら、邪魔しちゃ悪いなと思ってさ」
「健気だな」
「兄思いって、言ってくれない?」
「恋する女の子みたいで気色悪いんだけど」
「ずっと前から大好きです! 薫先生」
 泉が明るく言ってのけると、薫が途端に顔を歪めあからさまに嫌そうな表情を見せた。
「うわ、気色わるっ」
「冗談だよ。……ていうか、兄ちゃんなんだからさあ、もう少し言い方考えようよ。これでも少しは傷つくんだけど?」
「兄貴だから容赦ないんだよ。あほだな、おまえ」
「はいはい、あほですよ」
 ヤレヤレと泉が肩を竦め、それを薫が柔らかい微笑で返す。
 泉が薫を誤解して衝突した件があってからも、薫と泉は毎日のように顔を合わせ、夕食を共にしていた。薫の仕事が終わる頃を見計らって、泉が薫を迎えに行き、一緒に車に乗り合わせる。もしくは、泉の指定した場所へと薫が迎えに行くこともあった。美緒と薫が付き合うようになる前からの習慣のようなものだ。昔は、薫の忙しさや泉の都合もあって、せいぜい週に数回くらいだったが、最近はほとんど毎日を共にしている。一度深まってしまった溝を埋めるかの如く、互いを大事にしようとしていた。元より、仲の良い兄弟だ。いや、単なる兄弟という枠を容易く超えている。一時の誤解はあれども、それが誤解だと分かれば、信用や愛情を取り戻すのは簡単だった。
「それにしても、今日はいつもより遅かったじゃん。家で待ってようかとも思ったけど、迎えに来た時に限ってこれだもんな。間が悪いったらないな、俺」
「悪いな。待たせて」
「別にいいけど、こんな時間まで仕事してたの?」
 燻らせた二本目のタバコの煙が、ゆらゆらと昇っていくのを見つめながら、薫は憂いを帯びた大人びた瞳を思い出していた。
「いや、一度美緒を家まで送り届けてたんだ。それで遅くなった」
 最後まで、美緒は薫を受け入れる言葉を口にはしなかった。
「美緒を?」
 車の中でも一言も喋らず、けれど泣くこともせず。必死で自分の気持ちを押し殺していたのかもしれない。その片鱗を覗かせれば、薫に感情を見透かされて流されてしまうことを恐れていたのかもしれない。いっそ委ねてくれたら楽なのに、どんな時でも自分の意思を見失わない毅然とした美緒の姿勢は、どこか孤独で、気高ささえ称えていた。
「授業中に倒れたから、それで」
「た、倒れたって、大丈夫なのかよ?!」
 身を乗り出して大声をあげた泉を、困ったように笑いながら薫が押し戻す。全く、感情的なやつだと思いながら、そんな弟が可愛らしくもあった。
「大丈夫だよ。おまえのミルフィーユが効いたからか、ちゃんと学校にも来るようになったしね」
「そ、そっか……」
「体育の授業で無理したんだ。それで倒れちゃったんだよ」
「大丈夫なのか?」
「しばらく安静にしてたら良くなったから大丈夫」
「よかった……。ったく、あのバカ」
 俯き、ハァと溜息を零す泉。どれだけ美緒を大事に思っているかが、その溜息から伝わってきた。
 あれから、泉はずっと美緒と薫の仲を心配していた。一度は美緒を薫から奪おうとも思っていたようだが、薫の本心を知ってから、そんな素振りは微塵も見せなかった。心から、彼らが再び分かちあえることを願っている。それは、大事な絆を泉自身が壊してしまったかもしれないという罪悪感も含まれているだろう。けれど、純粋に美緒と薫を愛しているからこそだった。
 二人の笑顔が再び戻りますように。
 二人が幸せでありますように。
 自分のことよりも二人のことだけを必死に願う、そんな弟の姿を、薫は愛おしく見つめていた。薫の信用を取り戻そうと、健気にも毎日薫の様子を見にくる、そんなところも愛おしい。憎めない可愛い弟だ。全く。

「今日さ」
 しんと静まり返った空間に響く声は、泉にはやけに憂いて聞こえた気がしたが、それに反した柔らかな表情に戸惑った。
「ん?」
 薫が、缶コーヒーを持ったまま俯き、小さく微笑む。何か良いことがあったのかと、泉はその続きを待った。
「美緒に、全部話そうって思ってたんだ」
「え……?」
 けれど、薫の言葉は泉の予想を飛び超える。
「おまえが誤解してたことの全ての真実を美緒にも伝えようって思った。でも、聞くことが怖いんだって、伝えることができなかった」
「怖い……? 怖いってどういう意味?」
「俺を信じることができなかった自分が、そしておまえを傷つけた自分が許せないって、言ってたよ。そんなこと気にしなくていいのに、あの子は人より優しい分、そんな自分を許せないのかもしれない」
「そんな……」
「誰をも許せるほど柔軟なのに、己に対しては厳しすぎるんだよ。責任感なんて、おまえなんかじゃ比べ物にならないくらい強いしな」
 小さく微笑んでみせる薫と同じようには、泉は笑えなかった。
「もっと早くに美緒の気持ちに気付いてやれてたら、……そしたら、こんなにまで追い詰めることもなかったかもしれないけどな」
 泉が、俯いて目を閉じた。自分の告白が、美緒を苦しめているのだろうか。ふと泉の脳裏にそんなことが過ぎった。薫の胸に素直に飛び込めないのは、自分という存在があるからではないか、と。
 薫の気持ちを受け止めるということは、美緒を好きだと言って求めた泉の気持ちを傷つけることになる。ずっと美緒を守ってくれた泉の気持ちを蹴って、薫を選ぶということだ。既に傷つけていると感じている彼女が、それ以上泉を傷つける選択をするとは思えなかった。
 当の本人は、薫と美緒が再び幸せになることに関して全く異論はない。むしろ、そうなって欲しいと願っている。けれど、優しい美緒は、自分よりも泉の気持ちばかりを察して動けなくなってしまっているのかもしれない。そんな風に美緒は考えているんじゃないかと、泉はそう思った。
「おまえのせいじゃない」
 沈み込みそうだった意識に、柔らかい薫の声が差し込んだ。
「大丈夫だよ。どれだけ時間をかけても、美緒にはちゃんと伝えようって、そう決めてるから」
「薫……」
「だから、おまえが思い悩むことはない」
 誰よりも泉を理解している薫の言葉は、泉の気持ちを安らかにした。泉の不安をも拾って、全てを見通して考えてくれていた。一番傷つけてしまったのは、最愛の兄なのに。それでも薫は、泉を大事に思ってくれていた。泉が後悔したりしないように、罪悪感を抱いたりしないように、今までと変わらず最愛の兄で居てくれた。それが、嬉しかった。
「……でも」
 けれど、泉がホッとしたのも束の間、薫が少し俯き憂いげな表情を見せた。
「でも、たとえ伝えることができたとしても、もしかしたらもう駄目かもな……」
「ダメって……」
 ドクドクと血が逆流し始める。何を意図してダメと言うのかを探ろうとすると、薫は射るような厳しい目で泉を見据えた。
「まあ、これで俺が振られでもしたら、一生おまえのこと許さないけどな」
「えっ……」
「もう、弟だなんて思わないから。それは覚悟しとけよ」
 心臓にナイフが突き刺さったかのような衝撃――。
 薫の言葉に、途端泉が不安になる。薫に見捨てられたら、どうなってしまうだろう。きっと、正気で生きてなど居られない。それくらい、泉にとって薫は絶対な人だ。薫のいない人生など、考えられない。思えば、今までの人生、全て薫が共にあったのだ。
「……うん」
 でも、見捨てられても仕方が無い。一番大事な薫から、一番大事な人を奪ってしまったのだから。二十年以上積み上げてきた兄弟の絆をも、あっさりと崩れさせる。それくらい、薫にとっての美緒は大事な人で、泉にとっても大事な人だ。
 泉が押し黙って暗い表情を見せる。目頭が熱くなって、思わず拳を目元にあてようかと思った。すると薫は、ニヤリと笑って泉の頭を小突いた。
「バーカ。嘘だよ。おまえみたいなバカ弟、俺が見離したら誰がそばに居てくれるって言うんだよ。俺がおまえを見捨てたりするわけないだろ?」
「なっ……」
「あ、もしかしておまえ今泣きそうになっただろ」
 思わず零れそうになった涙を拳で拭う泉の頭を、薫がケラケラと笑いながらクシャクシャと弄った。からかわれたことに気付いて、泉が顔を真っ赤にした。弄られる手を払いのける。そして、身を乗り出して薫に食ってかかった。
「悪い冗談やめろよな! ほ、本気にしただろ?!」
「バーカバーカ。騙されて泣いてやんの」
「なっ……。俺、今本気で美緒に土下座しに行こうか考えたんだぞ!」
「安い土下座だなあ。男ならもう少し躊躇えよ」
「薫のことが大事だからだろ?! 失うくらいなら、美緒に土下座くらい……」
「なんだよ。そんなに俺のことが好きなのか」
 ニヤニヤと笑う薫が憎らしくて、泉の感情は収まらない。からかわれるのには慣れているが、未だに翻弄されてばかりだ。だから、ついつい思ってもいないことを口にしてしまう。
「うっわ、ムカツク! 大体、いつもいつも人をからかって楽しみやがって性格悪いったらないよな! 薫みたいな兄貴なんか、こっちから願い下げだっつーの」
 すると、薫はフーンと鼻で笑って、泉を冷静に見つめた。
 途端、ギクリと竦む泉の心臓。背筋に氷を滑らせたかのように、ヒヤリとする。こういう場合は、さっさと本心を言って謝ってしまった方が良いのだ。過去の経験からして、ここで意地を張ると、後々余計にからかわれるオチが待っている。
「嘘っ! ウソウソ! 薫が兄貴で本当によかったなあ。幸せ者だな、俺」
「わざとらしい……」
「これ、嬉し泣きだから。薫と一緒にいられて嬉しすぎ」
 笑いながら、それでも不覚に零れてしまった涙を拭う泉を、薫は微笑みながら見つめていた。
 薫にとって泉は、弟という枠を超えて、息子だと言ってもいいくらいの深い愛情を覚える存在だ。共に人生を生きてきた、自分の半身。薫の愛情を一心に受けて育った泉は、薫にとって生きた証でもある。そんな泉が、こんなにも優しい人間である事が、薫にとって誇りでもあった。
「まだ、ハッキリとは分からないけど、いずれおまえに伝えたいことがあるんだ」
 薫が、微笑みながらも真剣に泉にそう話すと、泉はピタリと静止して、薫の言葉を受け止めた。
「何? 伝えたいことって」
「もう少ししたら言うよ。おまえにしか言えないこと」
「俺にしか?」
「ああ。俺にとっておまえは、かけがえのない大事な人だからな」
「なっ……。そういうこと急に言うのやめない?」
 面と向かって大事な人と言われ、泉は恥ずかしさに俯いた。いつも泉をからかって遊んでいるくせに、薫は急にそういうことを真顔で言うことがあるのだ。美緒も言っていたが、こういう言葉は、言われてみた本人しかわからない恥ずかしさがある。だが、薫にしてみれば、こうして恥ずかしがる相手を見るのが愉快という、計算の内なのかもしれない。結局は、彼の手のひらで転がされているということだ。泉も、美緒も。
「恥ずかしがるなよ、気色悪い」
 ニヤニヤしながら、薫が横目で泉を見る。薫の言葉に乗せられてポンポンと表情を変える泉の姿は愉快そのものだ。
「恥ずかしがるようなことを真顔で言っといてそれはないだろ? 大体気色悪いって、本当に大事だと思ってるのか謎だっての」
「大事なのも本当だよ。でも気色悪いのも本当なんだから仕方ないじゃん?」
「きっつ……。サラッと毒吐きすぎだから、薫は」
「おまえも、もうちょっと俺の言葉をスルーできる能力を養ったほうがいいんじゃない?」
「それは無理です。ええ。一生」
 どうせ、薫のいない人生なんて、ありえないのだから。いくらでも振り回せばいいさ。それで、薫が笑っていられるのなら。
 泉は半ば諦めの境地で薫の存在を受け入れた。
 
 優しい兄――。
 貴方が笑っていられるのなら、僕はいくらでも貴方のために身を投じよう。貴方が全てをかけて守ってきてくれた分、これからは僕が貴方を守ってあげよう。そしてそれは、愛するあの人へも同じ気持ちを抱いている。
『もしかしたらもう駄目かもな……』
 そう言った薫の言葉が、冗談ではなく本気を帯びていることに、泉は不安を拭いきれずにいた。薫が美緒との本当の別れを予感していることに、気付いてしまった。
 一瞬垣間見た、薫の脆さ。誰が何を仕掛けたって、ビクともしないぐらい薫の美緒への愛情は強く深く貫かれているというのに、ふと感じたその脆さの理由を、泉は分からないでいた。『自信』とは違う、それよりももっと深い意味を持つ『信じる』という信念を泉に対しても美緒に対しても抱いている薫の、『脆さ』の正体が分からない。
 薫の隣に座りながら、泉は黙って美緒への思いを募らせていた。彼女が自分を責めていると知った今。背を押せるのは、自分しかいないだろう。彼女を愛しているからこそ、泉はこれからも美緒の背を押してあげられる存在でいたいのだと、強く思う。
 そして。
 彼らの幸せが再び戻った時、その時は、彼らのために身を引こう。遠くから見守っていよう。もう、二度と二人とは――。
 そう、心の中で静かに誓っていた。


「じゃあ、行ってくるね」
「うん、私は櫻井んとこで寝てるから」
「あまり無理しないでね」
 美緒の心配そうな姿を見送って、えみは途端に溜息を零した。教室内の自分の席に座り、ハァと気を抜く。仮病というものは、こんなにも気を遣うものなのか。普段、元気いっぱいのえみにしてみれば、たったそれだけの演技でさえ、必死だった。
 美緒は、この間倒れたこともあって、体育の授業は見学すると言っていた。えみは、あまりに体調が優れないということで、授業自体を欠席し、保健室へ向かうということになっている。
 ガラン、とした教室には、女子生徒が脱ぎ散らかした制服が散乱している。皆、休憩時間内に着替えなければいけないこともあって、急いで身支度を済ませた証拠だ。携帯なども、まさか校庭には持っていけないこともあり、皆バッグの中や、机の中にしまっていた。
「あーああ……。犯罪だよなあ、これ」
 誰もいない教室内で、えみは樹多村綾乃の机に向かうと、そっと中を物色した。携帯らしきものは見当たらない。仕方なく、机の横にかけてあった鞄に目を向ける。無防備なままに開いた中身が、容易に視界に入る。
 せめてもうちょっと警戒心を持って欲しい。これじゃまるで見てくださいと言わんばかりだ。えみは、なんだか脱力してしまって肩をだらんと落とした。
 元より、この時間えみが仮病を使って体育を休んだのは、薫から頼まれたことを実行するためだった。薫や美緒がされたことを思えば、今していることが犯罪とはいえ、綾乃に文句は言えまい。綾乃がやったことを証明すれば、それは尚のことだろう。
 言い訳なんて絶対にさせるものか。言い訳というそんな卑怯な手口を使っていいほど、えみの中の綾乃は許せる存在じゃない。そう、これは報いだ。これで自分が罰を受けるというのなら、いくらでも受けて立ってやる。美緒の泣き顔を見ることに比べたら、痛くも痒くもない。
 えみは、自分のやっていることに理由を付けて、さっさと終わらせてしまおうと、息を呑んだ。
「……あった」
 綾乃の鞄の中に無造作にしまってあった、白い携帯。えみは、恐る恐るその携帯を手に取ると、すぐさま画像フォルダを開いた。目的の画像だけを探す。

『メモリーカードに入ってる画像を調べてみろ。すぐ見つかるはずだ』

 薫に言われた通り、メモリーカード内に収めている画像を片っ端から探した。すると、呆気なく、目的の写真は見つかってしまった。
「……綾乃ちゃん、GoodLuck」
 ある意味、同情のような気持ちが込み上げてくる。
 いくら美緒のことが羨ましくて傷つけたかったとはいえ、さっさと削除してしまえばバレずに済んだものを……。それでも、こうして残しておいたのは、美緒への後悔が残っていたからだろうか。
 えみは、本体自体にもその写真が保存されていないのを確認して、メモリーカードを抜き取った。そして、まさかとは思ったが、一応綾乃の鞄を更に探ってみた。教科書類は、全て机の中にしまってあるからか、探るまでもなく中は丸見えだ。前ポケットを、指でヒョイと広げて見てみる。するとそこに、一枚の水色の封筒があった。
「なんだ、これ……」
 見てはいけないと思いつつも、脳内で囁く薫の声に押されるように開けてしまう。そして次の瞬間、えみの背が凍りつくのがわかった。――もう、苦笑するしかない。
「怖いよ……櫻井」
 そこには、この間薫から見せられたクシャクシャの写真と同様のものがあったのだ。

『もしかしたら、樹多村自身も、これと同様の写真を持ってるかもしれない。俺なら、あえて証拠は残したりしないけどね』

 ニヤリと笑って薫が言っていた台詞を思い出す。まさか、とは思ったが、薫の言う通り、綾乃も写真を持っていた。
 そんなものあるわけないじゃない、と反論したえみをやんわりとした笑顔で返して、薫は賭けてもいいとまで言ったのだ。『可能性の問題。いや、カンと言った方が正しいかな』と、薫は言ったけれど、可能性云々のレベルではなく、もはや確信めいている。全て薫のシナリオどおりに綾乃が動いているということに、寒気すら感じる。人の心を全て読めている薫が恐ろしくもあった。

『でもそれはいらないから。いるのは、データだけ。データの入ったメモリーカードだけ取ってきてくれ』

 本来なら、証拠と言えるものは、全て消去するに越したことはないはずなのだから、見つけた写真も処分してしまえばいいと思うのだけれど、薫には薫の思うところがあるのだろう。もしかしたら、データを抹消することが重要なことではないのかもしれない。不思議に感じつつも、えみは、メモリーカードだけをポケットに入れると、すぐさま教室を後にした。扉をパタンと閉めて、数歩行ったところで、ふと胸中を罪悪感が掠め、誰もいない教室を振り返る。

『なあ、藤井。誰の言うことに従うのが一番賢い選択だと思う? 大事なのは、何が『正義』なのかじゃない。何が『最善』なのか、だ』

 笑顔の裏に見える悪魔のような薫の恐ろしさに身が竦む。
「ええ、あなたに逆らうほうが愚かだってことくらい分かってますよ……」
 暴言や暴力ではない、眼差しや優しい一言で人の心を簡単に縛り付けてしまうような恐ろしさは、想像しただけで震え上がってしまう。
 何が、最善なのか。何をどうすれば美緒を救えるのか、未だ漠然としか物事を考えられないえみでも、これだけは分かっていた。薫の思惑に逆らうのが『最悪』で、それをしないことが『最善』であるということくらい。

『藤井はそれだけしてくれればいい。おまえがそこまで背負う必要はない。あとのことは俺に任せて、今は美緒のことだけを頼む――』
 
 冷酷さの裏にある、怖いほどの愛情と優しさ。何も間違いではないと、納得させてくれる安心感。そんな男に、共犯にされたという、優越感――。
 指を銜えて何もできずに見守ることよりも、少しでも行動を起こすことで救われる気持ちがあることを、薫は知っているのだろう。ただ大人しく待っているだけの穏やかな性格などしていない。だからえみにこんな頼み事をしたのだ。わざわざえみにそれをさせる必要性など、頭の切れる薫になら不要だったのかもしれないのに、えみが美緒を想っていることも、美緒にえみが必要なことも、全てを包み込んでいるからこそ、薫はえみに託した。こんな小さなことさえ、えみには充分な自信になる。美緒の絶対的味方であることの確信を否応なしにも得る。手のひらで転がされているのかもしれないが、使えるコマだというのなら使われてやろうじゃないか。支配者が彼なら、異論などない。
「とりあえず櫻井には逆らわないようにしようっと……」
 嬉しいような、怖いような、なんとも言えない感覚を身に纏いながら、えみは苦笑いを零す。
 そして、正面をにらみ付けて覚悟を決めると、足早に保健室へと向かった。

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