華水の月

7.デリシャス

 ただいま? と苦笑いしながら言った泉から目を背け、美緒はすぐさま背を向けリビングへと戻ろうとした。
 冗談ではない。
 彼と最悪な再会を交わしてから、まだ数時間しか経っていないというのに、どんな顔をして会えと言うのか。怒り自体は、もうだいぶ収まってはいるが、戸惑いは変わらずだった。
「あー! 美緒、ちょっと待って」
 彼女の後を追いかけるように、玄関でバタバタと靴を脱ぐ音が聞こえる。美緒はあえて、それを無視し、自分の持ってきたカバンや制服の上着などを持って、帰る支度を始めた。薫がいるのならともかく、泉と二人きりなど、耐えられそうもない。支度を終え、リビングを出ようとすると、泉が入ってくるのとほぼ同時だった。
「帰るの?! ちょっと待ってよー。俺だって今来たばっかりじゃん?」
「あなたが来たから帰るんです」
「そんなに俺のこと嫌い?」
「……わかりません。でも、さっきまでは嫌いでした」
 正直に答える美緒に、泉がうな垂れる。さっきのことを後悔しているのだろう。ハァ……と溜息をつき、額に手を当てる。
 そんな泉の様子に、昼間感じた彼のイメージとは違う気がして、美緒は、マジマジと彼を見つめていた。
「本当にごめん。ごめんなさい。許して下さい」
 深々と、頭を下げ、潔いほどのハッキリとした声で、美緒に向かって謝った。
 美緒はそんな突然の彼の行動に驚きを隠せず、どう答えていいのかわからない。あまりにも豹変した泉の姿に、これが本当にあの時の彼だろうかと、疑いさえした。だが、薫の泉を語る時の雰囲気からすると、これが本来の彼の姿なのだろうか。
「泣くほど酷いこと言って……本当に悪いと思ってる。反省もしてる。だから、ごめんなさい」
 頭を下げたままの、泉の肩にそっと手を置いた。
 許すことは、とても簡単だった。今こうして、美緒の前で謝る泉の姿を信じよう。そう思うと、嫌いだと思っていた感情が、溶けていくのがわかる。彼の本来の性格の良さを、美緒の肌が直接感じていたようにも思えた。
 困ったように少し微笑んで、美緒は、泉に語りかけた。
「もう、怒ってないです。頭上げてください」
「本当に、ごめん」
「いいんです。私も、言い過ぎましたから」
「許してくれる?」
「はい。嫌いだなんて言って、私もごめんなさい」
 肩を撫でる美緒の手の向こうで、頭を下げたままの泉がニヤリと微笑んだ。勢いよく頭を上げたかと思うと、肩に触れていないもう一方の美緒の腕を掴んで、引き寄せた。警戒していなかった分、素直に腕の中に収まる体。
 美緒は、アッと息をつく間もなく、泉に抱き締められていた。
「ああー良かったー。マジで悩んでたからさあ、美緒が許してくれなかったらどうしようかと思った」
「ちょ、ちょっと、離して」
「やだね。せっかくの仲直りの抱擁なのに」
「さっきまでのしおらしさはどこに行ったんですか?!」
「まあ、そんなことはどうでもいいじゃん。これからも仲良くしような。美緒」
 モゴモゴと腕の中で動く美緒をよそに、泉は彼女の頬に派手に音を立ててキスをした。
 ――前言撤回。
 やっぱり、嫌いだ。


 トントン、とリズムよく包丁がまな板を叩く音が鳴り響く。
 本来なら、切ることだけに集中できるはずなのだが、生憎今のこの状況は、美緒の気を散らせるのに充分すぎるほどだった。
 顔を上げれば頬杖をついて美緒を見る泉の視線。薫の家がカウンターキッチンだということを、本当に呪いたくなった。
「なあ、美緒。それって二人分?」
「そうですけど……」
「三人分の間違いじゃねーの? なあなあ」
「二人分です」
「じゃあ、三人分作ってよ。俺、腹減った」
 だからどうした、と言いたくなるのをグッと堪えた。泉のことを疎ましく思っているわけではないが、歓迎できるわけでもない。
「ずっといるつもりですか?」
「あたりまえじゃーん。美緒のゴハンが食べられるなら、二時間でも三時間でも待つよ」
「大体、どうしてここに……」
「ああー。この間さ、合鍵返せって薫に言われたのに返すの忘れてたから。まあ、返す気あんまりないけどね」
 料理を始めた美緒に、さっきからとめどなく話し掛ける泉の声。
 昼間の彼はどこへ行ったのか。緊張感のまるでない、飄々とした雰囲気だ。美緒を怖がらせた泉は、そこにはもういなかった。本来の、人懐こさ、明るさが美緒の泉に対するイメージを、変えていく。嫌いなのに、嫌いになれない。そういう憎めない雰囲気は、彼の最大の武器とも思えた。
「制服でキッチンっていうのも、女子高生の奥さんもらったみたいでいい感じだけどさあ、やっぱり裸にエプロンだよな」
「はあ?」
「美緒、裸エプロンやってよ。ヤベッ、想像したらドキドキしてきた」
「……やりません」
「えー。可愛いって、絶対。やれる内にやっとけよ。しわくちゃのババァになったら誰も見てくれないんだぞ」
「そういう問題じゃないでしょ!」
「うわっ! 包丁向けんなよ」
 楽しそうに美緒に話し掛ける泉とは裏腹に、美緒はどうしても素直になれず怒ってしまう。彼を嫌いだとは、もう思わない。時折、言動や行動がイラッとさせることはあっても、彼の笑顔がそれをすぐに癒していた。きっと、本来の泉を、美緒は好きなんだと思う。
 でも、それを素直に受け入れられないのは、
「なんだよ。薫の前ではやってるくせに」
 こういう一言を、ポンと言うからだ。
「やってません!」
「風呂場でエッチする奴がそんなこと言っても信頼性に欠けるね」
「あ、あれは……してないもん」
 真っ赤になって俯く美緒。
 そんな彼女を見てニヤリと笑った泉は、更に美緒を追い詰める。
「あー、もしかして、挿れる寸前で俺が来ちゃったとか?」
「なっ……何言ってるんですか」
「そっかあ。まだ気持ちよくされてる途中だったんだな。ごめんな。まだ最後までやれてなかったんだ。そうかそうか」
 一人納得するその姿は、とてもわざとらしく、美緒はまた憤慨する。
 全く、この男はどうしようもない。美緒が怒ることをわかっていて、あえて楽しんでいるのだ。こういうところは、少なくとも、薫に似ていた。
 ただ、いつまでたっても、こういう時の対処法を見つけられない美緒は感情を露にしてしまうのだ。そういう仕草が、男心をくすぐるとも知らないで。
「私をからかって、そんなに楽しいですか?」
「まあ、楽しいかと聞かれたら楽しいよ。だって俺Sだし。美緒はMっぽいよね。あ、ちなみに薫もSだと思うんだよね。ソフトにSっぽい」
「……あなたという人が、私には理解できません」
「ねえ、その『あなた』っていうのやめにしない? なんだかくすぐったい」
「くすぐったい?」
「だって、新婚さんみたいじゃん。あなた、なんて言われたらさあ」
 泉独特の感覚に、美緒が苦い顔をする。なぜ、アナタという言葉から、新婚を連想するのか。全くもって、彼の頭の中は皆無だ。
「だったら、あなたも美緒って呼び捨てにするのやめて下さい」
「なんで? 妹なんだから、当然じゃん」
「妹?」
「薫の彼女ってことは、即ち俺の妹だろ? まあ、実際は姉の立場になるんだろうけど、妹でいいや。それに、美緒は美緒なんだから、それ以外の呼び方なんてないよ」
 まるで、美緒の言うことの方が間違っているかのような物言いに、自分の言っていることに自信がなくなってくる。薫もそうだが、泉もそうとう口が立つようだ。美緒は、言い返す気も失せて、止まっていたままの自分の手に意識を戻した。
「あ、俺のことは泉でいいから。間違っても先生なんて呼ぶなよな。薫と紛らわしくなるし」
「紛らわしくなるほど、一緒にいないと思うんですけど……」
「あと、その敬語も禁止。いけないことしてる気分になるから」
「意味わかんない」
「泉って、呼び捨てでもいいけど……そうだなあ。泉ちゃん? いや、美緒にちゃん付けで呼ばれるのはなんかムカツクな。……泉サマ? ……薫に怒られそうだし? ……お兄ちゃん、あ、これいいかも」
「泉くんでいいよ」
「おい、俺が今気持ち良く考えてるのに、勝手に決めんなよ」
 勝手に自分の好き勝手考えている泉を、冷ややかな美緒の声が制した。それが気に入らないのか、泉が拗ねたような表情になる。
 そんな彼を無視して、冷蔵庫の方へと振り返った。中から、肉を取り出す。美緒と薫の二人分にしては、少々多いように感じたが、泉を加えるとなると全然足りない。男二人もいれば、さすがによく食べるだろう。どうすれば良いか、思い悩んでしまった。
 その時、ふと違和感を感じる。
 結局、泉が食卓に加わることをあっさりと受け入れていた。そんな自分の気持ちが少し悔しくて、美緒は溜息をついた。
「一つ聞いてもいい?」
「何? 何でも聞いていいよ」
「いつから、私が彼女だって気付いてたの?」
「なんだ、エッチのテクでも聞くのかと思った」
「マジメに答えて!」
 わざとらしく残念がる泉を、美緒の真剣な声が嗜める。それがどうも楽しいらしく、泉は笑顔を絶やさなかった。
「いつって……まあ、美緒が英語ペラペラだったところくらいからかなあ」
「それがきっかけ?」
「おまえも、下手な英語喋ってりゃ、俺にばれなかったものを」
「でも、なんでそれが気になったの?」
「最初は、帰国子女か、もしくは海外在住経験があるのかと思ったんだよ。それで、聞いたらイギリスに留学してたって言うし?」
「あ……」
「薫も一ヶ月ほど美緒のところに行ってただろ? それでかな」
「でも、それだけじゃ……」
「まあ、それはきっかけに過ぎないけどね。決定的だったのは、美緒の名前を知った時かな」
 やっぱり覚えていたんだ、と美緒が心の中で呟く。カンの良さは、兄に勝るとも劣らない。本当は、とても頭の良い人なのかもしれない。
 けれど、泉の持つ雰囲気、言動が、それを素直に認めさせなかった。
「バカなのかと思ってた……」
「誰が?」
「泉くんが」
「はあ?!」
「ごめん」
 えへへ、と弱々しく笑った。美緒の様子に、泉はその言葉がよほど意外だったらしく、反発する。
「おまえなあ……俺って実はすごく賢いよ?」
「そうなの?」
「そうだよ。薫にだって劣らないくらい、昔から賢い賢いって言われたきたんだから」
「ふーん……」
「なんだよ、その顔は。信じてないのか? 言わせてもらうけど、俺が医者になろうと思えば、余裕でなれるよ。でも、医学は俺の性に合わないからならなかっただけ」
「そういう意味のバカとは違うんだけどなあ……」
 美緒が言いたいのは、学力とか、知識とか、そういうことではない。だが、それが泉には伝わっていないようだ。だから、バカだと思ってしまうのだと、そう思うと、なんだか可笑しくなって、クスクスと笑いが零れた。
「お、初めて笑った」
「え?」
「俺の前では泣くか怒るかしかしてなかったじゃん? 正直、いつになったら笑ってくれるのか待ってたんだ」
「……ふーん」
 的確な返事が見つからない。こんな風に面と向かって言われては、恥ずかしくなってしまうだけだ。
「笑うと一層可愛いじゃん?」
「可愛くなんか……」
「処女臭いのは変わらないけどさ」
「なっ……! バカなことばっかり言わないで」
「ごめんごめん。そうだよな。美緒は薫に食われてるもんな」
 だから、そういう意味ではないのだ。だが、そう言い返せば、また墓穴を掘ってしまうような気がして、言うのをやめた。
 全く調子が狂ってしまう。薫に狂わされているのとはまた違った雰囲気。薫との雰囲気が愛しさに包まれているのだとしたら、泉といる空間は、ただ単純に楽しいと言えるかもしれない。
「あ。もしかしてゴハンできた?」
「え……うん、まあ」
「すっげー美味そうじゃん! やるじゃんか、美緒。見かけ倒しじゃないんだな」
「失礼よ」
「ごめんごめん。でも、本当マジ美味そう」
 カウンターに並べていく料理を目にして、泉の目が輝く。本当に楽しみに待っていたんだと分かる目の輝きに、美緒の頬が緩んだ。こんな風に、自分の行為を素直に喜んでもらえるということが、すごく嬉しいんだということを、心で感じずにはいられなかった。
 時計を見やると六時過ぎ。そろそろ、薫も帰ってくるだろう。
「俺さ、実は昔、料理人になろうかと思ったこともあるんだよね」
「え? 英語教師じゃなくて?」
「まさか。英語教師なんか、今でもなる気ないよ。ただの暇つぶしで教育実習も来てるだけだし」
「そう……なんだ」
「それにさ、俺が教師なんかで納まる柄だと思うか?」
「思わないかも……」
 泉のこの言葉には、妙に納得させられてしまった。
 彼が、マジメな教師? そう考えると、違和感しかなかったのだ。
「でもある時、包丁で思いっきり指切ってさあ。それから料理なんか絶対しねーって思ったね」
「じゃあ、料理下手くそなんだね」
「は?! ち、ちげーよ。本当はできるけど、やらないだけだっつーの」
「あ、そう」
「……冷たい。冷たすぎるよ、美緒。そんなんじゃいつか薫が逃げるぞ」
 泉がハァ……と溜息を付くのと同時に、玄関のチャイムが鳴った。
 途端、踊る胸。
 美緒はすぐさまエプロンを外して、小走りに玄関へと向かった。表情からは、喜びが滲み出ていた。


「所詮、俺との会話よりも、薫のご帰宅ですか」
 フーン、とつまらなそうな顔をして、泉はカウンターに並べてあった料理たちをテーブルに運んだ。
 その時ふとあることに気付き、想像以上の落胆に胸が痛んだ。
「なんだよ、結局二人分しか作ってないんじゃん」
 大皿料理以外は、二人分ずつ用意された品々。和食を中心に色とりどりに作られた料理たち。そのどれもが、食欲をそそらずにはいられないほど、美味しそうなのに、二人分かと思うと、拗ねた気持ちになった。
 元々、自分の分が用意されるはずがないとはわかっていた。
 けれど、いざ目の前にそれを見せつけられると、理由もわからず、苛立った。美緒に見放された、そんな気がしたのかもしれない。
 少しの間の後、玄関から話し声が消えた。廊下を歩く足音に、二人が戻ってきたことを悟る。
「うわ、美味そうじゃん。これ全部美緒が作ったのか?」
 泉の背後から聞こえてきた薫の声。てっきり、後から付いてきた美緒に話しかけているのかと思ったが、どうも様子がおかしくて振り返ると、そこには薫一人しかいなかった。
「あれ? 美緒は?」
「帰ったけど?」
「帰った?」
「ああ。なんか急用があるとかで、急いで帰ったよ。料理が出来てるって教えてくれたから、どうせだったら本人を直接褒めてやりたかったんだけど」
 薫は荷物を手近なところに置き、ダイニングテーブルに座った。立ったままの泉に視線を向け、不思議そうな表情を浮かべる。
「おい、座らないのか?」
「え……だって、これってさあ」
「美緒が、おまえの分も作ったから、二人で食べて欲しいって言ってたぞ」
「美緒が……?」
「ああ。良かったな。夕飯にありつけて」
 急用があったなんて、絶対に嘘だ。美緒は最初から、薫と二人の夕食を楽しむために、用意していたのに。材料も食器も全部二人分。泉が来る前から用意されていたはずだった。
 泉には何も言わず、薫にも本当のことを告げずに帰ってしまった美緒。泉のために、さりげない優しさを残していった美緒。そんな美緒の心を思うと、なんだか胸が苦しくなった。
「おい、用意したから、早く食べよう」
「え? ……あ、ああ」
 ニコニコと、とても嬉しそうに料理に手をつける薫を見ていると、なんだか申し訳ない気持ちになった。少なからず、美緒と薫の二人の時間を奪ってしまったことを、後悔した。
 けれど薫は、そんな泉の様子に気付いていても、何もそれを口にはしなかった。
「美緒の料理、初めて食べたけど、すごく料理上手いな、あいつ」
「え? 初めてなのか? ……美緒の料理」
「ああ。元々、あいつは普段ここに来ないからな」
「……ふーん」
「どうした? 食が進まないのか?」
「いや……こんな手料理、食べるのすっごい久しぶりでさ。あんまり美味しすぎるから……なんかちょっと……」
「そっか」
 それ以上は何も聞かず、優しく微笑む薫の表情を受けて、泉も微笑んだ。
 初めて食べた美緒の料理は、すごく美味しいのに、とっても切ない味がした……。

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