華水の月

71.赦された罰

「……ごめんなさい」
 ただそれしか言えなくて。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 恐怖のあまり綾乃は足を震わせ崩れ落ち、地面に手をつきながら、謝罪の言葉を口にした。何度も何度も、ただそれだけを繰り返していた。目の前が朦朧とし、真っ白になっていく。それほどまでの動揺と薫への畏怖の念に震えていた。暴言を吐かれたわけでもなく、暴力を振るわれたわけでもないのに、ただそこに立っている櫻井薫という圧倒的な威圧感に身が竦むのだ。
 時に、絶大なる尊敬と親愛の気持ちは、身を食らいつくすほどの呪縛へと変わる。
「ごめんなさい……」
 許されるなら、何度だって繰り返すつもりだった。
 すると薫は綾乃の前に片膝をつき、そんな彼女の肩に手を乗せた。
「何に謝るんだ」
 その声が柔らかで穏やかだからこそ、許されているのか責められているのか分からず試されている気分になる。綾乃は思考を巡らせて、薫の納得する答えを必死に探した。
「勝手に先生の写真を使って……ごめんなさい」
「そんなことはどうでもいい」
「えっ……」
 顔を上げると、少し困ったような薫の瞳が綾乃を見つめていた。
「謝るべき相手は、俺じゃないだろ」
 柔らかい声色は、責められているからではないと知る。さっきまでの薫とは別人か? むしろ本来の薫に戻ってくれた気がして、痺れるほどだった緊張感はゆるりとほどけ、綾乃は泣きたくなるほどの安心を覚えた。
 自分の非を認めた人間に対し、薫は驚くほど優しかった。諭すような声色に、綾乃は根本的なものを間違えていたと気付かされる。責められていたのは、薫の写真を勝手に使ったことに対してだと、綾乃は思っていた。自分を薫の立場に置き換えれば、誰もがそう思うはずだ。知らないところで自分の写真を盗撮され、ばら撒かれ、利用されたとして、怒らない人間がいるはずがない。
 けれど、薫が綾乃を責めているのは、そんな浅はかな理由ではなかった。
「俺の写真をどう使おうと、そんなことをわざわざ咎めはしない。俺だけが傷ついたり被害に合うことなら見過ごすことだってできるよ。でも君は、誰かを傷つけたくて、その一心でこんなことをした。違うか」
「それは……」
「ただ真中を傷つけたかった。どういう手段であれ、真中が傷つけばいいと思ったんじゃないのか」
 本心を見透かされ、綾乃は悔しくて唇を噛み締める。またも、美緒への嫉妬が膨れ上がるかのようだった。薫の言っていることは正しい。でも、薫に庇われる美緒に嫉妬してしまうのだ。綾乃に見向きもしなかった泉に愛され、薫にも特別扱いされる美緒なんて、大嫌いだ。
 ――嫌い?
 いや、嫌いだと思わなければ、心が壊れてしまいそうだった。
「……美緒を傷つけたかったとか、そんな理由なんてどうでもよかった。ただ、先生のことを美緒が少しでも嫌いになればいいって……そう、思ったから」
 最愛の彼女という存在がいながら、あたかも別の女にも靡いているかのように見える写真を見たら、美緒だってきっと薫を軽蔑するか、嫌悪を抱くに違いないという、そんな浅はかな知恵が綾乃の脳裏を過ぎったのだ。好き嫌い以前の問題、薫を見る美緒の目が変わることだけを願った。
「嫌いになればいい、か。真中が俺を嫌いになることに、何の意味がある」
「……先生には分かりません。そうせずにいられなかった私の気持ちなんて。どうしようもない。どうしようもないから、何かにぶつからずにはいられなかった。美緒を傷つけずにはいられなかった。私には、それができる相手が美緒しかいなかった。先生にはそんな気持ち、分かるわけない……!」
「美緒、しか?」
 肩までの綾乃の髪が、自嘲的な笑みを浮かべながら俯くことでサラリと揺れた。
「……結局のところ、自分が誰に対して強くいられるのかを、私は知っていたんです。美緒は誰の言葉をも、優しく受け止めてしまう。だから、美緒なら何かが大丈夫なのだと、自分で高を括ったんです。何が大丈夫なのかも分からないのに、大丈夫だと自分に何度も言い聞かせて、傷つけてしまう気持ちを抑えることができなかった。そんな弱い気持ち、先生には分かるわけないです」
 結局は、美緒に対して自分が強いのではなく、美緒自身が強い人間だったから受け止められていたのだと気付かされるのに、そう時間はかからなかった。
 そんなことを自ら吐露しつつ、嫌悪する。だけれど、そんな綾乃の醜い気持ちは、愛する人のたった一言で打ち砕かれた。
「人を傷つけずにはいられない、か」
 薫が綾乃の頭にポンと手を乗せる。その後紡がれる声は優しかった。
「なあ、樹多村。誰にだって弱い部分はあるよ。先生は、それが必ずしも悪いことであるとか、恥ずかしいことであるとは思わない。弱さは、時に人を傷つけてしまうだろう。でも、自分が弱いと自覚できるのは、己を過信していない証拠だと思う。最悪なのは、己自身の欠点に気付かず見過ごしてしまうことだよ。弱いことを悪いことだと決め付けて、誰かの些細な気持ちをも感じようとしなくなることだ。だけど君は、ちゃんとそれを分かっているだろう? 分かっているから、弱い気持ちや葛藤を何故抑えられないのかと自問自答する。――それから真中も、きっと君のことを分かっているんじゃないかな」
「美緒、も?」
「大丈夫だと、君が真中に対して感じたのは、自分に足りない何かを彼女の中に見たからだ。欠けている何かを持っている人間に対して、人は途方もなく羨望したり、嫉妬したりするものだからね。君は自分ではどうしようもないから、真中を傷つけてしまうと言ったけど、でも本当は、そんなことをする自分を一番、君は傷つけてたんじゃないか?」
 その温かな手の感触に、綾乃の瞳が条件反射のように涙で滲んだ。
『そんなことをする自分を一番傷つけてた』
 美緒だけではなく、綾乃のこともちゃんと見つめてくれている言葉。加害者であるはずの綾乃のことさえも、薫は理解してくれていた。
「後悔も何も感じない人間が、そんな顔をしたりしないよ」
 薫は綾乃を優しく見つめていた。
「誰かを傷つけて、でもその度に一番傷ついていたのは、君だったんだろう」
 優しく撫でる手の感触と、その声色に、綾乃は自分が敵意を向けられているわけではないと分かった。むしろ、薫は綾乃の全てを許し、諭している。綾乃が何を思い、何に悔い、そしてどんな答えを探しているのかが、薫には分かっていた。
 ずっと悔いていても悔い改めることのできなかった自分の葛藤。ずっとずっと、美緒ばかりを責めて、妬んで、傷つけて、何かに気持ちをぶつけなければ、このドロドロとしたどうしようもない鉛のような感情を浄化できなかった。そうやって美緒を見つめれば見つめるほど、何かが自分の中で歪み、苦しくなっていくのを綾乃はいつも感じていた。美緒に優しくされればされるほど、綾乃は憎しみに縛られていった。
 でもそれは、綾乃が自分自身を傷つけて深くなった心の傷に、美緒が優しく触れてきたからだ。どうしようもない綾乃の心の傷を、美緒には気付かれていることが分かっていたからだ。その優しさを受け入れられたらどんなにか楽だったか分かっているのに、それに耐えることができなくて反発ばかりしていた。
 ――そんな愚かな自分。
 いっそ罵られた方が楽なのに……。罵られれば、自分のやってきた残酷な美緒への仕打ちさえ、自分の中だけでも正当化できるのに、そんな自分への甘ささえ、薫は許してはくれなかった。
 思えば、美緒も同じだった。そんな優しさを綾乃は今まで、どれだけ蔑ろにしただろう。
「……違います」
「違う?」
 違う――思わず口から出た言葉に、綾乃は心の奥底に眠らせていた本心を知った。後悔することと分かっていたから眼を背けてきた、罪深さ。でもやっと、綾乃はその守ってばかりだった柔らかい部分に自ら爪を立てた。
「私は傷つけるばっかりで、美緒のことなんて全然考えてなくて……」
 酷い言葉を投げかけた時の美緒の寂しそうな表情が過ぎる度、胸は酷く痛み、一瞬の満足と引き換えにとてつもない罪悪感に囚われていた。
「最低です。自分が傷ついてるだなんて、そんなこと言えるわけない。言っちゃだめなくらい、私は美緒に酷いことばっかりしてきました……。美緒がつらそうな顔するのが満足で、でも泣かずに笑ってくれるのに苛立って、どうしようもない気持ちを美緒ばかりにぶつけたんです。酷い言葉で罵って、殴ったことさえあった。傷ついてるのに、もっと傷つけばいいって、そんなことばっかり……」
 薫の言う通り、謝るべきなのは美緒に対してだ。
 ずっとずっと悔いてきた。けれど、悔いた気持ちを彼女に素直に伝えられず、いつも傷つけてきた。最低だ。そんなことを好きな人に告白し、醜い部分を曝け出している自分に、綾乃はもう何もかもが終わりだと、感じずにはいられなかった。
「真中は……。真中はそんな君を一度でも責めたことはあったか」
「え……」
 薫の言葉に、綾乃は心の底に沈む何かを掬い上げられたような感覚にとらわれる。
「何度傷つけられても、真中は君から逃げなかった。違うか?」
「それは……」
 思い起こせば、美緒は一度たりとも、綾乃の言うことに対し逆上することも、声を荒げることもなかった。意思をはっきりと主張したのは、泉を罵倒したあの時だけだ。美緒はいつだって、感情のままに生きる綾乃とは違い、自分の信念に素直に生きていた。
「なあ、樹多村。君はもっと、自分を許せる人間にならなきゃいけない。真中が君に対してそうであったように」
「許す……?」
「許すということは、甘えることじゃない。全てを真正面から受け入れるということだよ。いいところも悪いところも全て受け入れられる自分になることだ。今の君は、自分を許せずに逃げてばかりいる。自分のダメなところから逃げて、自分を苦しめてる。違うかな」
 『許す』という言葉の意味を、綾乃は今初めて知ったような気がした。そして、美緒の姿を改めて自分の脳裏に思い浮かべた。綾乃の言葉を、美緒はいつだって全て受け止め、理解しようと優しかった。
 綾乃がした仕打ちを皆に言いふらせば、綾乃一人を締め出すことなど美緒には容易いことだったはずなのに、一切他人に愚痴を漏らすことはなかった。優しくて可愛くて美しくて、そんな風に恵まれた美緒だから、綾乃のことなど何でも受け流せる、相手にされていないのだと勝手に思い込んでいたけれど、そうじゃない。
 美緒はいつだって、綾乃の全てを許していたのだ。綾乃よりも、綾乃のことを分かっていたのかもしれない。
「なあ、樹多村。人は愚かだから、そばにあるささやかな優しさに気付かなくなる。求めるばかりで、自分が普段どれだけの優しさに包まれているか、その感覚に麻痺してしまう。でもな、優しさに当たり前なんてない。無償なんてない。自分が気付くことができなければ、いずれ失ってしまうだろう。そんなささやかな優しさに気付くことが出来た時、人は本当の幸せを見つけられるんじゃないかなって、先生は思うな」
 薫の言葉に気付かされ、綾乃は額に手を当て、歯を食いしばった。そうでもしなければ、薫の言葉と美緒の優しさに凍っていた心を解かされて、涙が溢れ出そうだった。
 愚かだ。だけれど、そんな愚かさを受け入れられた時、初めて心の蟠りは解かされていくのかもしれない。
「……美緒は、私に優しかったんです」
 ポツリと綾乃が呟くと、薫はうん、と小さく頷いた。
「真中が君に優しかったのは、偽善でもなんでもない。君にそうするだけの価値があったからだよ。君にそれを知って欲しかったんだ、きっと」
「私の、価値?」
「ああ。君は自分が思うよりもずっと、人間らしくて魅力的だと、先生は思うよ」
 認められて初めて気付く自分の価値は、思ったよりも尊く泣けてきた。
「……櫻井、先生」
「ん?」
 名を呼ぶと、返ってくる柔らかい声。
 今までの綾乃は、どうしてと、自分の恵まれない境遇に嫉妬するばかりだったけれど、こんな自分だから愛されるわけがないのだと、今になって自分自身を見つめ返すことができた。そんな風に自分を見つめ返すことが、自分を許す第一歩なのだと、目の前の彼に教えてもらったから、だから告げなければいけないと、綾乃は思った。
「私、本当に嫌な子で、ダメな子で、そんな自分が大嫌いです。だからきっとみんなも、同じようにしか思わないって、そう思うの」
「残念。先生は樹多村のこと、嫌いだなんて思ったことは一度もないよ」
 そうやって、また優しい言葉をかけてくれる。どうしてこの人は、こんなにも簡単に全てを包み許してくれるのだろう。好きすぎて苦しくなる。
「でもね先生。私は私が嫌いだけど、そんな私がこんなこと言っちゃいけないって思うけど、私……先生のことが大好きです」
 言葉とともに、頬が綻んで、涙が頬を伝う。瞳に薫の優しい表情が映る。綾乃は笑っていた。今まで、薫のことを思って心から一度も笑ったことなどないのに、今の彼女は、何のしがらみもなく、ただ好きだという気持ちだけに、正直に生きていた。
「ずっとずっと、先生のことだけが、大好きでした」
 告げたって、叶わないことなんて百も承知だ。薫も、そんな綾乃の気持ちをちゃんと分かっていた。ただ髪を撫でて、優しい表情で彼女の言葉を受け止めている、そんな薫の存在が、綾乃にとってはこの上なく優しかった。
 本当は困っているのに、好きでもない女からの告白など迷惑なはずなのに、綾乃の言葉を、その気持ちの重みをちゃんと受け止めてくれる薫に、やはりこの人を好きになったことは間違いではないと、心底気付かされる。
「でもね、先生。今までの私は、先生のことが好きなのに、全然幸せじゃなかったんです。自分が嫌いで嫌いで、どうして先生は私を愛してくれないのって心の中で叫ぶばっかりで、いつも苦しかった。そんな自分を好きになってくれる人なんているわけないって、わからなかった……」
 美緒を妬むばかりで、己を省みなかった自分。何故、彼女の優しさが自分を包んでいたからこそ、こんなにも憧れたのかということに気付かなかったのだろう。憎悪と羨望は紙一重だ。でも、己をちゃんと見つめていれば、決して憎悪を抱くことなどなかっただろう。
 綾乃はやっと、美緒を真正面から素直に受け入れられそうな気がしていた。
「それでもやっぱり、先生が大好きでした。……今でも、大好きです」
 涙を拭うこともせずに、美しい微笑を浮かべる綾乃は、今まで見たどんな時よりも可愛らしかった。自分に正直に、愛する気持ちを教えてくれる生徒を、薫は愛おしく思えた。それは、美緒に対する狂おしいほどの愛情とは程遠いけれど、それでもやっぱり、自分に向けられる好意に、素直に嬉しく思う。
「ありがとう」
 ただ一言それだけを返し、涙に濡れる綾乃の目元を親指で拭う。綾乃は少し恥ずかしげにはにかんで、はい、と小さく返事をした。
 二人の関係がどうにもならないことなど、綾乃には分かっている。それでも、薫が綾乃の気持ちを受け止めてくれたことが、嬉しかった。

「先生、これ……」
 気持ちが少し落ち着くと、綾乃は立ち上がり、手に持っていた水色の封筒を薫へと差し出した。自らの失態を認め、それを正直に受け止めるなど、数十分前までの綾乃だったら考えもしない行動だった。
「お返しします。私が持っているものは、これだけですから……」
「いいのか?」
「はい」
 薫は、水色の封筒を受け取ると、その代わりに綾乃のメモリーカードを手渡した。手のひらに乗る、小さな黒いチップ。綾乃は少し困惑した表情で、薫を見上げた。
「問題の写真は、悪いけど削除させてもらった」
「……そうですよね」
 当然のことだ。問題の元凶をそのままにしておくほど薫が生易しいとはさすがに思えない。先ほどの冷酷さを垣間見たなら、尚更だ。だけれど、綾乃には腑に落ちないことがもう一つだけあった。
「でも先生。どうして、メモリーカードだけで、私が持ってる写真はとらなかったんですか?」
「さあ、どうしてだろうな。君の中に後悔が見えたから、かな」
 誤魔化しながらも穏やかに笑う、そんな笑顔に綾乃はふと気付く。メモリーカードだけ奪ったところで、写真自体が綾乃の手元にあれば、その後どんなことにも使えることは分かっていたはずなのに、それに手を出さなかった薫。それは、薫が抜かるんだのではなく、綾乃を許すための何かを、彼女に残したのではないかと。
「私が同じ写真を持っていたことも、最初から分かっていたんでしょう?」
「いや、単なるカンだよ。外れていても落胆しないくらいの、曖昧な直感だ」
「見抜くなんてさすがですね、先生。……私は先生ほど頭良くないし、駆け引きもへたくそだから、悪いことは上手にできないみたいです」
「それは、違うよ。樹多村」
 何を意図して違うというのか。優しい眼差しに綾乃は何故か心の中を見透かされてるような気分になった。
「俺と君は校医と生徒という立場上の関わりでしかないけど、君と一緒にいる時間、君がどういう人で、何を考えていて、何を見ているのかを、少しは理解できるくらいには君を見てきたつもりだ。時々保健室に遊びにきては楽しそうに話をしてくれる君も、校舎で遠くから見かけた君も、泣きそうな目で真中を見ていた君も、先生はそのたびに君の一つ一つをちゃんと見てきた。些細な言葉や表情も、君が自分で思っているよりもずっと知ってる」
 綾乃を一人の人間としてちゃんと見てくれている、そんな薫の一言に、思わずまた涙が出そうになった。
「俺は頭が良いわけでも、人の心が読めるわけでもなんでもないよ。樹多村綾乃、という人を知っているからこそ、君ならきっとそうするんじゃないかって思ったんだ。いや、そうであればいいという俺の願望なのかもしれない。だから、君に賭けたんだよ」
 それは、薫が綾乃を許したい、と思っている証。でもやっぱり薫は頭の良い人なのだ。最初から負けると分かっている賭けなどしないのだから。
「君はきっと自分のしていることに後悔を感じられる人であると、そう思ったんだ」
 自身ありげに薫が微笑む。その瞬間、美緒の言葉が綾乃の脳裏に過ぎった。

『私は、後悔できる人だったら、責めたいとは思わないの。後悔するっていうことは、自分のしたことへの責任の重さを感じられるってことだから。樹多村さんは、傷つけた手のひらを見つめ返したことはないの?』

 ああ。今度は素直に受け止められる美緒の言葉。
 結局美緒は、薫と同じように綾乃を信じていてくれた、ということなのかもしれない。
「私に……選ばせてくれたんですか? 自分がしたことを、どうするのか」
 優しい表情が、綾乃の言葉を肯定する。
 自分のしたことを悔やみ、受け入れ、自らが前に一歩を踏み出すために、薫は綾乃に写真を残したのだ。最初冷酷に責めたのは非を認めさせる為、そしてその後見せた優しさは綾乃自身を許すためだ。何もかもを取り上げることで、綾乃を悪にしてしまいたくはなかった。事実、綾乃自身が自分の手から写真を返したことで、彼女の中の罪悪感が救われ、戸惑うばかりの心が整理された。薫は、彼女を信じ、許すきっかけを残してくれていた――。
「……優しすぎますよ、先生」
 やられた、と額に手をあて綾乃が苦笑する。
 彼をずっと見ていたくせに彼を何も理解していなかった自分が、情けない。
「もっと責めたって、良かったのに」
「生憎俺はフェミニストだからな。女性を傷つけるのには、慣れてないんだ」
「先生は、好きにさせるのは得意なくせに、振るのはへたくそですね」
「そうかな」
「へたくそですよ。だって、そんなことされたら余計に好きになるじゃないですか。そういうところは、ダメですね。先生」
「そっか」
 互いに顔を見合わせて、苦笑いを零すしかできない。
 今でも薫のことが好きで好きでたまらない、そんな苦しい気持ちに胸を痛くしながらも、綾乃には後悔はなかった。叶わなければ、意味がないと思っていた恋。叶う可能性を見出すまでは、告白など絶対するものかと思っていた。だけれどやっぱり、彼を好きになってよかったと、そう思う。大好きだと告げることができて、良かった。彼のような、人を心ごと包み込めるような大きな人間になりたいと思った。
 彼を愛していなければ、こんな風に成長することはなかっただろうから――。
「先生にとって一番大事なのは、やっぱり彼女ですか?」
「もちろん」
「愛していますか?」
「誰よりもね」
「彼女以外の人を愛する日は……、もう来ませんか?」
 遠い未来、愛する貴方の隣に私はいるだろうか。そんな期待に胸を膨らませてしまうのは、恋をしてしまった女なのだから仕方がない。それくらいの確認をさせてくれたって、罰は当たらない。縋りつきたいのではなく、愛した人の本当の気持ちを知りたくて、綾乃は今の気持ちを素直に薫へとぶつけた。
「一生、彼女以外の誰かを好きになることはないよ。彼女しか、愛せない」
 鮮やかなほど美しい微笑で言う残酷な台詞に、綾乃は胸の痛みを覚えた。まるで、自分が言われたかのように響いた甘美な台詞。こんなにも薫に愛されるだなんて、それはどれだけ幸せなことだろう。まだ見た事のない薫の彼女に軽く嫉妬を覚えながらも、やっぱり完敗している気がした。相手が誰であれ、どんな人であれ、今の自分には薫の隣は似合わない。
 きっぱりと言ってのけられた言葉に、綾乃は何かが吹っ切れた思いがした。
「樹多村にも、早く素敵な恋人ができること、願ってるから」
「それを先生が言っちゃダメですよ」
「そうだな。ゴメン」
「でも、先生を好きになったから、私、前よりも少しだけ綺麗になれた気がします。見た目じゃなくて、心が」
 女はいつだって、好きな人の影響を一心に受けやすい生き物だ。現金な話だが、薫の言葉がなければ、こうして美緒を見る目も変わることがなかったかもしれないと思う。薫が綾乃を許してくれたから、素直になれたのかもしれない。
 いつか、今の自分よりも成長するために、前をしっかりと向いて歩まなければいけない。今やっと、綾乃は自分自身を悔い改めることができるような気がした。目を閉じ、その一番の後悔を胸に刻む。ズキズキと痛む胸の傷。だけれど、それよりももっと傷つけた彼女のことを思い、綾乃は眼を開いた。
「今はまだ無理かもしれないですけど、いつか、ちゃんと美緒に謝ります」
 言葉だけじゃなく、心から美緒に謝りたい。
 でも今の自分はまだそれに気付いたばかりで、彼女を真っ直ぐ見られないかもしれない。今でもやっぱり、美緒に嫉妬していないと言えば嘘になる。呆れるくらい好きな薫への恋に破れた今、簡単に何もかもを受け入れられるほど、綾乃の心は広くはないのだ。
 まだ笑えない。まだ、薫への恋を完全に割り切ることはできない。だけれど、美緒が綾乃を許してくれたように、綾乃も美緒を許せるようになりたかった。
 
 一つの恋が終わる。
 花を散らせながらも、何かが輝き始めた少女を見つめ、女性の神秘的なまでの強さと美しさに薫は打ちひしがれる。
 そして尚、ただ一人の愛する人、その人のためだけを想う。
 ――これでもう、貴方が少しでも傷つくことのないように。

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