華水の月

72.この恋は実らない

 この恋は実らない――。

 そんなことは百も承知で愛した。
 最初から、愛し愛されることなど望んではいなかった。
 ただ、実らない恋でも、君に恋をして幸せだったことには変わりは無い。
 それだけは、本当だったんだ。

 フローリングに直接座りこんで、背をソファの側面に預ける。閉ざされたカーテンには、外界の明るさが朧に浮かび上がっていた。夕暮れまでには、まだ時間があるらしい。
 薄暗い部屋の中で、泉は携帯を右手に握り締め、液晶画面をずっと睨み付けていた。
 『美緒』――ただそれだけの名前。世の中に、その名はいくらでも溢れているだろう。けれど泉にとって美緒という名は、この世にもう一人しかいない人だ。たとえ同名の人間が現れても、それを受け入れられないくらいに。
 ホテルで美緒を抱き締めて眠った日から、泉は一度も美緒と会っていなかった。最初の頃こそ、電話も何度かかけてはみたが繋がらず、それ以来こちらからかけてはいない。メールは、ハルカに頼み込んで美緒に会いに行ってもらったあの日きりだ。
 避けられているから、こちらも同じ態度に出てやろうなどという、そんな白状な思いはけして持ち合わせてはいない。むしろ、美緒を思えばこそ、安易に近づけないのだ。美緒のつらそうな表情を見て黙っていられるほど、泉は理性的ではなかった。感情的で、だからこそ、溢れる想いのまま美緒を抱き締めてしまうだろう。好きという感情だけに再び縛られてしまうかもしれない。そういう泉の態度が、美緒の目にはどういう風に映るのか、それが分からない。
 自ら離れていくことを選ぶくらいなのだから、きっと泉の存在は美緒の枷にしかならないだろう。無邪気に甘えてくれたあの頃とは、もう事情が違うのだ。
 毎日会っている薫は、徐々に明るさを取り戻しているものの、それが逆に無理をしているように感じられて、心苦しかった。美緒が泉からも離れてしまったように、薫からも離れてしまった今、感じる胸の痛みは似たものがあるだろう。本来、その痛みは薫が背負うべきものではなかったはずだ。誰かが薫を疑いさえしなければ、こんな日は来なかったのだから。
 ――そう。泉さえ薫を見失わなければ、こんな日は訪れなかったのだから。

 美緒と表示された携帯画面をじっと見つめて、泉は小さく深呼吸をした。
 声が聞きたい。ただそれだけだった。
 声が聞きたくて、笑顔が見たくて、触れたくて、抱き締めたくて。
 単純に、そして本能的に誰かを求めたことなど、これまで生きてきた中で一度も経験したことはない。その単純さこそ、身を食らいつくすほど凶暴に燃え上がる炎だということを知らなくて、自制が効かないままに彼女へと堕ちてしまった。
 何を話そうかなんて気持ちの整理は出来ていなかった。薫と別れてしまったことを問うべきか、何も知らないフリをして明るく接した方がいいのかさえ、わからない。美緒の声を聞けば、それは自然と導き出されるだろう。
 通話ボタンを押し、携帯を耳にそっと当てる。プルルルというコールが繰り返し七回響いた後、それは途切れた。
『……もしもし』
 受け入れるのを躊躇うかのような臆病な声に、一瞬身が竦む。美緒の声だった。
「もしもし。……美緒か」
 無理矢理平静を装って静かに語りかけると、美緒はうんと返事をした。それだけで、ざわついていた心は少し落ち付きを取り戻した。
「元気にしてる?」
『泉くんは?』
 質問を質問で返すのは、答えを見つけられない証拠。美緒はいつもそう。誤魔化そうとしたって、泉にはすぐにバレると言うのに。
「俺はいつも通りだよ。心配すんな」
『うん』
「おまえも、少しは元気そうで良かった」
 気付かないフリをするのも優しさの内。元気どころか、今まで接してきた彼女の中で、一番弱々しく感じられたくらいだ。
 いつからこんなにも、互いの胸の内を読めてしまうほど、近づいてしまったのだろう。
『電話』
 美緒がポツリと言った。
「ん?」
『電話……何度もかけてくれてたのに、ずっと出られなくてごめんね』
「そんなこと……」
『メールするだけでやっとだったの、て言ったら、怒る?』
 声は少し遠慮気味で、泉の様子を窺っているのが伝わってきた。
「怒らないよ。そのくらいのこと、気にしたりしない」
 フッと途切れた間に、美緒が安心したことを悟った。
『……あのね。ミルフィーユ、すごく美味しかったよ』
「ん……」
『ありがとう、泉くん』
「ううん。……そっか、美味かったか。ミルフィーユ」
『うん。でもやっぱり五個は多いよ。私、そんなに食べられない』
 電話越しからクスクスと聞こえた小さな笑い声に、一瞬時が戻ったかのように感じた。二人向かい合って、目の前に広げたケーキを楽しみながら、ずっと笑いあっていたあの頃へと。
 だがそれは錯覚だった。はあ、と溜め息交じりの声が聞こえて、突如不安に煽られた。
『なんだか……なんだかやっぱり、泉くんの声聞いちゃうと、私……ダメだなあ』
「ダメって、何が?」
『泉くん優しすぎるから。私が何考えてるのかとか、何を思ってるのかとか、泉くんの前だと、それが全部あふれ出てきちゃって、自分じゃどうしようもない。見せたくないのに、隠そうとしても無駄。それが悪いことだとは思わないよ。だって、泉くんの前での私は一番私らしかったもん。でも……』
「でも?」
『決心が揺らぐんだよ……。甘えん坊の私が飛び出しちゃうの。甘ったれで、ワガママで、泣き虫で。それが分かってたから……』
 だから、離れたのに――。
 そう言いたかったのだろうが、それ以上は言葉にならず、美緒は黙り込んでしまった。語尾は震えていて、彼女が必死で我慢していた何かをこじあけてしまったことに気付いてしまった。
 携帯を握った手のひらに汗が滲む。今こうして電話越しに繋がっているだけなのに、心はすぐ傍にあるようで、だがけして届かないほど遠くにあるようにさえ思えた。
 いつだって見守る月が、けして消えることはないのに、手が届くことはないのと同じように。
「……ごめんな」
 泉は目を閉じて、ただそう呟いた。
 もしも薫と美緒が離れてしまったことが運命だとしても、それを救うことが出来る術がどこかにあったとしたならば、それは自分の存在以外他無い。ならば最初から、自分の存在などなければ良かった。今までも、そしてこれからも。
 そうすれば、彼らを惑わすことはなかったのだから。
 何故自らの気持ちを、美緒に打ち明けてしまったのだろう。そうして変わってしまう色褪せた未来など、最初から望んでなどいなかったのに。
 悔やんでも悔やみきれない。
「ごめんな。……ごめん、美緒」
 ただ、ごめんとしか言えなかった。
『どうして、謝るの?』
 その理由を、口にすることはできなくて、泉はグッと言葉を飲み込んだ。
『ねえ泉くん。私大丈夫だよ。今よりもっと強くなるから。一人でも、大丈夫だから――だから謝らないで。泉くんは何も悪くない。悪くないんだよ……』
 言わせたかったのはそんな台詞じゃないのに。
 伝えたかったのは、そんな謝罪の言葉じゃなかった。
 いつものように美緒の背を押したくて、薫とちゃんと向き合って欲しくて、ただそれだけを伝えたかったのに、美緒の寂しげな声を聞いていると、何故か心根が折れてしまった。それまで美緒の逃げ場だった自分という場所を、泉自身が美緒から取り上げてしまったのだと、そう思ってしまった。
 ただでさえ傷付いて、逃げ場も何もない彼女の心を暴いてまで、何故無理矢理背を押したりできるだろう。
 この時の泉にはまだ、そうするだけの強さはなかったのだ。傷つけあってでも掴まえていなくてはいけない大事なものを、貪欲に求めることができなかった。結局は、つらそうな美緒を見て、自分の心が傷ついてしまうことを恐れていたのかもしれない。美緒と同じように、まだ逃げていたのかもしれない。このときは、まだ――。
『私、ちゃんと笑えてるよ。だから泉くんも、笑って』
 ――ウソツキ。
 本当は、今にも泣いてしまいそうだということくらい、ずっと一緒にいた泉ならすぐに分かる。
 どこまで追い詰められても、けして他人を思いやる気持ちを失わない美緒の優しさと、傷ついて堕ちていくだけではなく自らを奮い立たせて一人で立っていようとする美緒の芯の強さに、泉は尚も思い知らされる。

 この恋は実らない――。
 だけどきっと、これから先も、君以外の人を愛せはしないだろう。
 だから、君を愛してしまってごめん――なんて、とてもじゃないけど言えなかったんだ。




 書斎にあるデスクの前に一人座って、薫は朧に形を成す炎を見つめていた。
 カチ。カチ。カチ。
 何度も繰り返し、ライターの火は灯り、そしてまた消えていく。

 デスクの中から水色の封筒を取り出し、中身の写真を二枚、目の前に翳した。一つは美緒の手に渡ったもの、そしてもう一つは綾乃から奪い返したものだ。何度見ても胸を痛くするその光景に、薫は一つ小さな溜め息を吐いた。
 そして、二枚重ねた写真の角にライターで火を点けると、近くに置いてあった灰皿の中へと、ポンと投げ置いた。ゆらゆらと昇りゆく火焔に溶けていく現実。それで全てがなかったことに出来たなら、どれだけ楽だろうと、非現実的な思考に囚われてしまうほど、自分の中にある余裕は失われているのかもしれない。
 思えば、美緒を意識し始めた頃から、とっくに余裕を余裕と感じられなくなっている。
 綾乃のことだってそうだ。もしも美緒が自分にとってこんなに大事な存在でなければ、最初から手出しなどしなかったはずの少女なのだから。まだ大人と呼べない少女が、行き過ぎた感情から多少の間違いを犯したとして、それをきつく咎めてしまうほど、薫は狭量ではない。
 だが、美緒を守るためなら、そうすることに躊躇いはなかった。綾乃を救うことで、美緒も救うことが出来るなら、そうするより他ないと。
 それは、自分自身に言い聞かせては納得する言い訳、そして理由でもある。
 でも本心では、そうして冷静に判断を下しては綾乃を言い包め、改心させることができた自分自身の冷徹さや非情さに吐き気さえした。淡々と尤もな言葉を並べ、綾乃の心を解放させられた自分は、教育者としてや、大人であるという観点からすれば、合格点をあげてもいいのではないかと思う。理性を失わず、少し離れた観点から他人の行動を見て取れる冷静さは、自分の長所の一つと言ってもいい。
 だが、美緒の恋人としては失格だ。たとえ美緒の気持ちが結果これで救われたとしても、恋人としての自分自身が納得できない。
 本当は、あんな風に救いたいのではなかった。
 美緒は自分の恋人なのだと主張して、美緒を傷つけた者へ同じだけの報復を。ただ我武者羅に、大事な美緒だけを守るために、理性も常識も体裁も何もかもを捨てることが出来たなら、と、本心ではそう望んでいたのだ。
 美緒はけして、全てを捨ててまで美緒を守ろうとする薫を、単純に受け入れたりはしないだろう。校医であるという立場や世間体、そして校医と生徒の恋が禁忌であるということを、彼女は人一倍気にしている。校医である薫が好きだから、自らをけして主張せず、この恋を必死で隠し守り通そうと頑張っているのだ。
 そんな美緒の健気な姿や、美緒が必死で守り通してきた尊いものを今まで目にしてきて、自分だけが勝手に動くことなんて、できるわけが無い。
 分かっているからいつでも冷静に判断を下し、何が最善なのかだけを見据えてきた。でも、単純に美緒を守ることさえできない、そんな行き場のない気持ちはどうしたらいいのか、分からなかった。
 こんな時、泉ならきっと、感情のままに素直に生きることができるだろう。美緒を守るためだけに、全てを投げ打つだろう。そんな風に、真っ直ぐに生きられる泉が羨ましくもあり、誇りでもあった。薫がこれまで泉のために注いできた愛情や時間は、けして無駄なものではなかったのだから。
 もしも校医として美緒に出会っていなければ、こんな苦い想いは、募らなかったかもしれない。


 リビングに泉がいることを知っていた薫は、夕刻になってきたこともあって、何か晩御飯を作ってやろうとキッチンへと向かった。少し薄暗かったので、キッチンとリビングの電気を付ける。すると、ソファに寝そべっていた泉が、薫の存在に気付き、半身を起こした。
「うわっ。びっくりしたー」
「そろそろ晩飯作ろうかと思うけど、何か食いたいもんあるか?」
 冷蔵庫の中を覗きながら、背後へと問いかけた。冷蔵室の中には、ジュースやデザート類が至るところに散乱している。冷凍室の中なんて、泉が買ってきては詰め込んだアイスクリームだらけだ。それを見ただけで、なんだか自然と頬が緩んでしまうのが分かった。
「おまえさー。甘いもん少しはセーブできないわけ? こんなにいっぱい冷蔵庫に詰め込まれたら、他のもんが入れられないんだけど」
「それが及ぼす薫の手料理への影響は?」
 泉がマジマジと真剣に薫を見据えてきた。薫は可笑しくて、ハハッと笑った。
「かなり多大だと思うけど?」
「それは困る! アイスもジュースもコンビニで買えるけど、手料理は俺にとってかなり重要っていうか、命かかってるから」
「コンビニでも弁当は買えるだろ?」
「それを薫ちゃんが言うわけ? 非情」
 しょんぼりする泉は見ていてさらに可笑しかった。泉は一人で食事をするのが嫌いだ。小さい頃から親がいない生活に慣れているせいか、唯一傍にいた薫の存在が大きくて、だからこそなおさら『一人』というものに敏感になる。
 基本的に家には誰もいないから、仕方が無ければ弁当を買ったり友達と外食したりするのだろうが、それはけして泉が望んだ食事スタイルではない。たとえ嫌いなものを作って出されても、小さい頃から馴染みの薫の手料理を食べることの方が、幸せなのだろう。
「じゃあ……とりあえず常温保存出来る物は出しとくよ」
 泉は立ち上がると、冷蔵庫を覗いていた薫の横へとやってきた。そして、手早くジュースを数本取りだし、他のものを入れられる空間を作った。
 それが案外簡単なこと過ぎて、その時ふと、以前と比べると冷蔵庫に詰め込まれていた泉の私物自体が減っているのではないか、ということに薫は気付いた。

「ちょっと落ち着いたし、コーヒーでも飲むか?」
 夕飯を終えて後片付けを済ませた後、薫は一息つこうと食器棚から自分のマグカップを取りだした。
「おまえも飲むだろう? 泉」
「うん、サンキュー」
 相変わらずソファで雑誌を読み耽っていた泉を横目に、薫は泉のマグカップも探した。
 以前、自分用にと泉が買ってきたマグカップがあるはずなのだ。温かい飲み物を淹れる時は必ずそれを使っていたし、見覚えは嫌というほどある。
 だが、いつも置いてあるその場所に、マグカップは見当たらなかった。
「あ、れ……。どこ置いたっけ」
 頭を掻きながら、記憶を巡らせる。少しばかり考えた後、答えはすぐに見つかった。
「そっか……」
 少し前、美緒からの会えないというメールが届いた日、泉が気持ちを爆発させて薫と衝突した日。確かあの時に、泉が蹴り上げたテーブルに乗せられていたそれが、派手に音を立てて割れたのだ。まるで泣くように、床にコーヒーのしみを作ったあの光景を、今でも鮮明に覚えていた。
 薫は仕方なく違うカップを手に取ってコーヒーを注ぐと、両手にそれらを持って泉の隣へと腰掛けた。
「なあ、泉」
「何?」
「おまえのマグカップ、割れてなくなっちゃったからさ、今度また新しいの買ってこようか」
 それは何気なく差し出した提案。だが、泉は少しの間考えると、
「いいよ。別になくても困らないし」
 ただ一言、そう言った。
 それだけで、泉が何を考えたのかが分からないほど、薫は鈍感ではない。
「珍しいな。普段なら、無理矢理にでも自分のものを押し付けて帰るくせに」
 横目でチラリと見やると、泉は両手で持った来客用のカップに視線を落としていた。
「お客さん用のカップなんて使うの嫌だって言ったのは、おまえじゃなかったっけ?」
 自分の居場所がないみたいで落ち着かないのだと、確かに泉はそう言った。
 泉は、困ったように小さく笑うと、曖昧な答えを返した。
「まあ、いいじゃん。その内また、気に入ったやつ見つけたら持ってくるからさ。だから当分はいい」
「その内、ね」
「うん、その内……」
 足を組んでコーヒーを口に運びながら、真っ直ぐと前を見据える。
 この時薫は、泉が何を決心しているのかに、気付いていた――。

 この恋は実らない――。
 三人の気持ちはもう、バラバラだった。

Copyright (C) 2006-2011 Sara Mizuno All rights reserved.