華水の月

73.例えば隣に君がいて

 自分の名前の入った靴箱のロッカー。
 銀色に鈍く光る表面を指で触れると、ヒヤリとした感触が伝わって、何故か思わず手を引っ込めたくなった。
 夕暮れの迫る校舎というものは、どうしてこんなにも寂しげなのだろう。酷く静かな空気でさえ、焦燥感を募らせる。
 足元から長く伸びる自分の影を見つめながら、美緒は数日前のことを思い出していた。


『ウソツキ!!』
 そう言って薫の頬を叩いた手のひらが、今でも酷く痛みを訴えている。
 あの日――。
 あの日、美緒はここで薫の言葉を拒絶し、そして自分の心をも殻に閉じ込めてしまった。何もかもを受け入れられず、自分の気持ちを守ることに精一杯で、愛する人の悲しげな眼差しを労わってやることができなかった。あの時に少しでも今の冷静さがあったなら、薫との関係は変わっていただろうか。
 人は、所詮自分が一番大事なものだ。どれだけ体裁を取り繕おうと、愛する人が一番などという睦言を囁こうと、肝心なところでボロが出る。美緒も例外ではなく、極限まで追い詰められてしまったあの瞬間、薫の気持ちを一番に考えることができなかった。切なく揺れる些細な表情の歪みでさえ、美緒の心に何一つ訴えかけなかった。
 仕方が無かったのだ。何もかもを割り切って冷静でいられるほど、美緒は歳を重ねてもいないし、恋愛経験値が富んでいるわけでもない。出来る限り冷静でいようと努力だってしてきたが、それがもう限界だと分かったのだ。
 そう言い訳をしている自分に反吐が出るけれど、きっとこうなることは避けられなかっただろう。未だに薫を百パーセント信じきれない自分がいることも確かで、麻里との関係を暴くことが怖くてたまらないのも確かだ。怖いということは、まだ心の奥底で、疑う気持ちが残っているからに違いない。
 でも、薫は違った。今一番傷ついているのは、美緒でもなく、泉でもなく、薫なのではないかと、冷静になった思考で考えることができる。最愛の恋人と、最愛の弟に、何も信じてもらえなかった薫は、その柔らかく優しい心をどれだけ切りつけられたことだろう。支えだと信じて疑わなかったものが、一瞬にして崩れ去った瞬間、薫は何を見たのだろう。
 それでも薫は、今にも震えそうな腕で美緒を抱きしめた。自分なら平気だ、と微笑んで見せ、美緒に安心をくれたのだ。冷静さや強さなど既に失われていようと、薫の本質は変わらない。
 人を愛する、ということはこういうことなのかもしれない、と美緒は思った。だとしたら、自分はまだまだ子供なのだと、そう思い知らされるほかなかった。


 えみと玄関で待ち合わせるという約束をしてから、美緒はずっとこうして靴箱の前で立ち竦んでいた。放課の時間はとっくに超えている。生徒のほとんどはもう既に校舎を後にしているだろう。
 えみが来る気配はまるでない。最近、えみはふと姿を消すことが多い。少し経って戻ってきたえみは、必ずと言っていいほど美緒の瞳を探ってくるような眼差しを向けた。自分の知らないところでえみが何をしているのかを知りえなくても、漠然と自分が無関係ではないことは察している。
 元々人を待つということにさほどつらさを感じない美緒は、最初こそいつまでも待てる気がしていたのだが、やはりあの日のことを思い出すと、この場所にいるのがつらくないという嘘は吐けなかった。
 美緒の靴箱から左斜め上に『樹多村綾乃』の文字を見つけると、無意識に美緒の胸がチクリと痛んだ。数々の暴言や悪態、そんな綾乃に傷つけられたことばかりが、つらかったわけではない。自分という存在が、綾乃を歪めている、そんなことにも美緒はいつも心を痛めていた。
 泉に特別扱いされ、秘密とは言え薫という恋人もいた。綾乃のことを思えば、そんな自分の境遇が恵まれていることは一目瞭然で、罪悪感に思わないことはない。それでも、何かと天秤にかけられないほど、美緒にとって二人は大切な人だ。だから、どうしても守らなければと、頑張りすぎていたのかもしれない。
 頑張りすぎて、綾乃を余計に苦しめ、二人をも失ってしまったのかもしれない――。
 なんだか、自分自身が嫌になりそうで、美緒は額に手をあて、口元に薄い笑みを浮かべた。指の隙間から見える、自分の長い影。オレンジの世界の中で長く伸びるそれは、少しばかり現実離れしていて、美緒はただじっとそれだけを見つめていた。
 
 その時のことだ。
 美緒の影よりもずっと長い影が、足元で重なった。無音であった世界に、一瞬にして現実味が増した。
 反射的に美緒が振り返ろうとする。だがそれより早く、大きな影は美緒を背後から覆いつくした。
「美緒」
 背後からギュッと抱きしめられ、耳元で囁かれる甘く低い声。
 もう聞き間違うこともできないくらい美緒にとってその声は特別すぎて、鼓膜に響いた瞬間、反射的に涙が溢れそうになった。
 ふわりと香る、保健室の匂い。だけれどそれを追いかけるように、美緒のよく知る彼の優しい匂いが鼻を掠めた。
「またそうやって一人で声も出さずに泣いてるのか」
 苦笑混じりの声が、美緒の閉じた心を暴く。美緒はただ俯いて、胸の前で交差された薫の腕に、そっと指で触れた。
「いつから、そんな泣き方をするようになった? それとも、俺が今までずっと気付かなかっただけで、おまえを知らない間に追い詰めてたのかな……」
 そんなことはない。先生のせいじゃない。泣いてなんていないから、心配しないで。
 そう言いたくても簡単に言葉には出来ない。
 薫の前での美緒は、いつも冷静な感覚を奪われてしまう。何を言えば薫を喜ばせることができるのか、何を言えば傷つけずに済むのか、それらを上手く考えられなくなる。感情が思考を追い越して、世界が全て彼だけになる。
 今この瞬間もそうだった。
 泉の前なら無理矢理作ることのできた強がりの言葉も嘘の笑顔も、薫の前では全く通用しない。
 薫は、美緒の返事を待つより、さらにギュッと強く抱きしめた。美緒の首筋に埋まる薫の頬。しなるほどに抱きしめる腕の力強さに、美緒はただただ、涙をこらえるのに必死だった。
「美緒」
 何度も名を呼ぶのは反則だと、美緒は思う。
 息をすれば泣き声をもらしてしまいそうで、息を我慢すれば薫の存在をより強く感じてしまう。
 結局、抗う術などない。どれだけ逃げようと、薫から逃れることなんてできない。もう、とっくの昔に、美緒の心は全て薫に囚われていたのだから。
「もう、泣かないで」
 漏れる吐息に気持ちごと攫われる。
「泣いてる顔も怒ってる顔も好きだけど、おまえの笑顔が一番愛おしいって、そう思う」
 愛おしさは、時に心を破壊する。世界が、愛する人全てになる。
「いつだって、俺の前では笑っていて欲しかった。俺がおまえを笑顔にしてやりたかった。おまえの、全てになりたかった。……大人げないって笑ってもいいよ。おまえのことを好きになってから、大人の恋愛がどんなものかも忘れてしまうくらい、それが通用しないくらい、美緒の前での俺は、ただの櫻井薫だった。子供じみた嫉妬もした。冷静さを欠くことなんて、おまえと一緒にいると当たり前になった。格好悪いって、自分で思ったりもした。……でも、こんなにも誰かを愛したいと思ったのは、初めてだったんだ」
 ――愛したい。その台詞に美緒は息が詰まる。
 ゆっくりと腕をほどき、薫は美緒を正面から抱きしめた。長い髪に指を絡め、腰を抱く。美緒の体のラインなど、薫はとうの昔に体で覚えてしまっていた。抱き方も、キスの仕方も、そのタイミングも、全ては美緒のためにだけあるように。
「……ごめんな」
 掠れた語尾は、美緒の心を酷く締め付けた。
 何を? と問うように見上げ目にした薫の表情は、見てしまったことを後悔するほど切なかった。
「泣かせてばかりでごめんな。そんな風に何もかもを自分の中に押し込めて泣かせてしまうほど、追い詰めてごめん。おまえの苦しみを、俺が全て背負うことができたならって、そう思うのに、上手くいかない。もっと大人になればいいのか、それとももっと素直に生きたらいいのか、何が最善なのかさえ分からない」
 まるで自分を責めるような声に、思わず美緒は小さく首を振っていた。目頭が熱くなる。薫は、美緒の後頭部にトンと手を当て、胸の中に顔を埋めさせた。
「それでも、おまえが少しでもたくさん自然に笑えるように、ちゃんと守るから。今までもこれからも、その想いだけは変わらないことを忘れないで居て欲しい。たとえ、もう隣にいることはなくなっても、言葉を交わせなくなることがあったとしても、俺はおまえだけをずっと見守ってるよ。ずっとずっと、変わらず……」
 両頬を大きな手で包まれ、美緒は顔を上げた。コツン、と額同士がぶつかり、形の良い薄い唇が綴る。
「愛してる――」
 と。
 何故、今それを言うのだろう。
 お互いに愛し愛されたいと想い囁かれていた『愛してる』という響きとは、大きく違う。言葉は永遠を誓うのに、何故か指の間からするりと消えてしまいそうな儚さが溢れていた。
 もう、直接薫から『愛してる』という言葉を囁かれることはないのかもしれない、と予感した。
 
 離れていく。
 離れていく、離れていく――。

 優しい笑顔は、初めて薫を見た瞬間覚えた憧れを思い起こさせ、美緒と薫の距離を遠ざけていくようだった。
 思わず、美緒の手が縋るように薫の白衣を掴む。引き止めたいのか、何を伝えたいのかさえ分からないのに、美緒は確実に薫から離れてしまうことに恐れを感じていた。自ら離れるのではない。離れられていく、置いていかれるというこの感覚が、とてつもなく孤独を感じさせたのだ。
 本当の孤独とは何たるかを、今身をもって知った。
 『おまえは、俺と一緒にいることが苦しいか?』
 以前、そう美緒に問うた答えを、薫なりに出したのだろう。それは逃げでも何でもなく、美緒を一番に考えて出した答えだ。何も選べない、何も答えられない美緒の弱さを、薫はちゃんと分かっている。
 それを察したと同時に、今自分は薫に試されているのかもしれないと、そう感じた。
「大丈夫」
 細められた優しい瞳が美緒を包みこみ、額にそっとキスを落とす。美緒の全てを掻き乱すようなキスをくれることはなく、ただ優しく美緒の気持ちに触れるような口づけだった。
「もう、そんな顔をしなくてもいい。おまえが笑っていられるように、ちゃんと見守ってるから」
 頬をスルリと撫で、薫は体を離した。離れゆく体温が恋しい。遠くなる二人の距離が恨めしい。
 離れたくない。離れたくない――。
 だけれど、溢れる涙で言葉が出てこない。
「俺がそばにいてそんなつらそうな顔をするなら、遠くから見守ってるよ。もう、俺の前で無理に笑わなくてもいい。だから、泣くな、美緒」
 膝に両手を付き、美緒の視線まで屈みこむ。そして、いつもの悪戯っぽい笑顔を見せた。美緒にだけ見せる、ポーカーフェイスじゃない意地悪な笑顔。
 ああ、愛している――。
 心こそ互いに呼応するのに、言葉と体が離れていこうと意地悪をする。
「ほら、せっかくの美少女が、そんな泣き顔見せてたら台無しだ」
 美緒の髪を、薫の大きな手がクシャクシャと弄った。薫のクセだ。愛おしくてたまらない、薫の仕草だ。
 何度も何度も美緒の髪を弄んでは、優しい笑顔を向けてくれた。網膜に焼きつくほどの、美しい笑顔を。
「泣き顔も可愛いけど、……すごく好きなんだけど、おまえが泣くと、俺はどうしてもそばに駆けつけたくなって、触れたくなって、抱き締めたくなる。傍にいることがおまえにとってつらいと分かっていても、自制が効かなくなるんだ。今のおまえに俺がしてやれることが、これだけしかないってことが許せなくなる。まだ、おまえに触れずにいるのは、正直つらいというか、無理かもしれないけどね」
 苦笑とも言える、悲しそうな表情で、薫はそう言った。
「サヨナラは絶対に言わない。簡単におまえを忘れて自由にしてやれるほど、俺は優しくないから――。本当は手放したくないよ。でも、美緒の笑顔が一番好きだと思う自分の気持ちに嘘は吐きたくない。俺のせいでおまえを壊してしまいたくはないから」
 別れるだなんて、言っていない。美緒の前から居なくなるとも、言っていない。
 むしろ、変わらず愛してくれると薫は言っているのに、これがもう二人で言葉を交わす最後の瞬間な気がしてならない。
 美緒が引き止めれば、薫はずっと傍にいてくれるだろう。でも何も言わなければ、美緒のことを想い、薫は美緒と距離を置く。それは、身体的な別れをも意味した。
 それがどれだけ恐ろしいことなのかを知り、美緒の心は震え上がった。これまで自分が強がって決め込んだ別れというものとは、全く重みが違うことを知った。
「あ。お迎えがきたみたいだな」
 薫が廊下の向こうに人影を見つけて、美緒の肩をポンと押した。そこには、親友のえみが小走りに駆けてくる姿が見えた。
「美緒」
 低い美声にふと呼ばれて、視線が閉じ込められる。薫は寂しげに微笑んで見せると、美緒の髪をスルリと撫で、ただ一言美緒へと告げた。
「――――――」
 その言葉を聞いた瞬間、目元に溢れるだけだった涙がつーと頬に痕を残した。そしてもう、その涙に薫の指が触れないというただそれだけの事実が、美緒の心を激しくかき乱した。
 最後の薫の言葉は、あまりにも甘く残酷で、美緒を溢れんばかりの愛で閉じ込めてしまう。
 薫は何事もなかったかのように、白衣のポケットに手を突っ込み、振り返りざま『じゃあ』とサラリとした笑顔を見せて、美緒から離れ歩みだした。

「あっ……」
 初めて口から出た声は言葉にならず、薫を引き止めることもできなかった。
 数十メートル離れたところで、えみと薫が何やら言葉を交わしている。えみが真剣な顔をして、薫の言葉に頷いている。何か伝えなければいけないことがあったのかもしれない。いつもの、容易く言葉を交わす雰囲気とは、少し違っているように美緒には映った。
 薫が少し肩を竦め大きな息でも吐いたように見える。えみにしか見えない薫の表情を受けて、えみが笑った。薫は、えみの肩に手を乗せると、ひらひらと手を振りながら影の中へと消えていった。

「ごめん。お待たせ」
 息を切らしながらかけつけたえみは、薫の後姿から目を離せずにいた美緒の様子を窺っていた。
 瞬間、パチンと思考回路を切られたかのように、美緒がえみに振り向き作り笑いをする。さっきまで涙で濡れていた目元は、呆然としていた間に乾いていた。
「じゃあ、帰ろうか。美緒」
「……うん」
 えみと薫が何と言葉を交わしていたのか、美緒は気になっていた。
「ねえ、えみ」
「ん? 何?」
「ううん。何でもない」
 だけれど、美緒と薫が一緒にいたことに何も興味を示さなかったえみの手前、自らが進んでえみに問うのは筋が違うような気がして、美緒は口を噤んだ。
 えみには、二人の関係について何も言っていないのだ。それなのに、彼女たちのことだけに首を突っ込むのは、おかしい。
 無理やり冷静を保ち、美緒は靴箱に手をかけた。キィと小さな音を立て扉が開くと、オレンジの夕日が暗闇を染め上げる。すると、陽に導かれるように、ハラリと何かが舞い落ち、美緒の心臓が凍った。
「あ、美緒。ラブレターじゃない? これ」
 立ち竦む美緒の足元に落ちた封筒を、えみが拾い上げる。美緒は、ただそれを凝視するしかできなかった。えみが手にしていたのは、紛れもなく数日前に見た封筒と同じ。そう、水色の封筒だった。
 何故、これが――。
「どうしたの? 美緒。ほら、落ちたよこれ」
「あ……うん」
「ねえ、中見てみなよ」
 えみに無理やり手渡される。受け取った指先は、小刻みに震えていた。
 あの時の恐怖心が、どうしても美緒の心の中を駆け巡るのだ。それ以上見ていられなくて、美緒はただギュッと眼を閉じるしかできなかった。
 すると、隣で美緒の怯える様子を窺っていたえみが、手紙をサッと奪い、そしてボソッと口にした。
「ねえ、美緒。これ……綾乃からの手紙みたい」
「えっ……」
 思わず目を開ける。えみは、封筒の後ろに『樹多村綾乃』と書かれているのを美緒に見せた。
 あの時のような誰とも知らない手紙ではなく、ちゃんと名前が記されている。しかも、あの時と同じ封筒を使っているということに、美緒は瞬時に何かを悟った。綾乃が伝えたかったことがそこに書かれている。そんな気がした。
「開けてみなよ。私は後ろ向いてるからさ」
「うん」
 えみに促され、美緒はゆっくりと封筒を開き、手紙をとり出した。
 真っ白な一枚の便箋には、短い文章で、美緒への謝罪の言葉が書き綴られていた。

『美緒へ
 今まで、美緒にたくさん酷いことをしてきたこと、心から謝ります。ごめんなさい。
 ごめんなんて、そんな安い言葉で許してもらえるだなんて思ってないけど、でも私にはその言葉しか言えないから……。
 美緒は私の憧れなんだ。少しでも、美緒に近づきたかった。嫌いなんじゃなくて、ただ羨ましかった。
 今なら、あの教育実習生が美緒に優しくする理由もわかる。ううん、本当は最初から分かってた。美緒があいつを大事にしてるから、美緒が大事にされるんだって。
 櫻井先生に叱られるまでは、分からないフリしてて、何でも悪いことは美緒のせいにして、嫉妬するばっかりだった。そうすることでしか、自分を守ることができませんでした。
 ごめんね。ごめんね、美緒。いっぱい酷いことして、ごめんね。
 まだ面と向かってはごめんねって言えないけど、いつかちゃんと言えるようになるから。
 美緒が私に優しくしてくれたように、優しくできる人間になりたい。
 樹多村綾乃』

「櫻井、先生に……?」
 綾乃の手紙を読み上げて、まず最初に目に付いたのは、『櫻井先生に叱られるまでは』という綾乃の言葉だった。許す許さない以前に、彼の名だけを目で追っていた。
 そして、先ほどの薫の言葉を思い出すのだ。
『おまえが笑っていられるように、ちゃんと見守ってるから』
 何も知らないと思っていたのに――。
 こみあげる熱い感情に、美緒は思わず口に手を当てた。それでも、漏れる嗚咽。涙で霞む視界。
「……っ」
 守られていた。愛されていた。いつでも美緒の見えないところで。
 美緒が何も言葉として薫に伝えなくとも、美緒の作った笑顔や不安そうな声だけで、薫は美緒を守ろうと必死に足掻いていた。
 一人だけが傷ついているのだと、勝手に思いこんでいた。
 愛する人が傷ついていて、自分が傷つかないわけが、あるはずないのに――。

「ちょっと! 綾乃のやつまたなにか美緒にしたんじゃないでしょうね」
 美緒の小さな嗚咽に気付くと、えみはすぐさま声を荒げ手紙を奪った。
 取りかえそうとするが、それは無駄な抵抗だった。えみは綾乃の手紙を読み上げると、大きな溜め息をついた。
「改心させるなんてさすが」
「さすがって……何が?」
 誰のことを指して『さすが』というのか。美緒は不思議に思ったが、えみにさらりとかわされてしまった。
「んー、別に。それより美緒、なんであんたがそんな顔してんのよ」
 つらそうにも悲しそうにも見える美緒の頭を、心配そうにえみが撫でる。美緒はなんでもないと首を振ったが、その態度が逆にえみを違う方向に納得させてしまった。
「もしかして今になって綾乃への憎しみが沸いてきたとか?! ……うん、仕方ないよね。あんた今までよく我慢してきたもん。私ならとっくの昔にブチ切れてるもんね」
「え、ちが……あのね」
「こうなったら、今からでも仕返しする? 大丈夫よ。美緒にはこのえみ様が付いてんだから。ボコボコにやり返してやるから、任せときなさい」
「ち、違うってば、えみ!」
 顎に手をあて、楽しそうに考え事にふけるえみを、美緒が嗜めた。えみは美緒の慌てた様子を一瞥すると、ふっと余裕のある笑みを浮かべ、そして美緒の手を優しく握った。
「嘘よ。わかってるから、ちゃんと」
 そんなえみの姿を、足元から夕陽が染め上げる。
 えみの穏やかな表情は、美緒の全てを知っているようで、美緒の心はまた解かれていった。
 無理やり凍らせていた氷の心が、何かに触れて溢れ出す。えみに真実を告げる時がすぐそこまで近づいていることを、美緒は決断しなくとも予感していた。


 何度も何度も、薫が最後に残した言葉が美緒の中で呼応する。
 幾度も幾度も、薫の声が美緒を捕まえに来る。
 薫の言葉は、どれだけ甘い愛の言葉よりもずっと、美緒の心に傷跡を残した。

『なあ、美緒。例えば隣に君がいて、手を繋いで同じ空を見上げるだけでも、俺は幸せだったよ。それすらまともにしてやれない恋人で――ごめんな』

 失いかけて気付く、幸せの価値。
 ささやかな幸せを大事にできる人を、それを誰よりも知っている人を、こんなにも追い詰めてしまった。
 誰よりも悔いて自分を責めているのは、薫なのだと知ってしまった。

 私は、なんて酷く辛い思いを、彼に抱かせてしまったのだろう――。

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