華水の月

74.あの頃に戻りたい

 紫の空は、二人を優しく見守りながら、微かな光で二人の足元を助けていた。
 えみと美緒は、二人並んで下校を共にしていた。これから、えみが美緒を連れてどこかに行くらしい。えみに連れまわされるのはいつものことだ。美緒もそれが嫌いではない。
 歩きながらふと制服の腰付近に手をやると、カサリとした感触が布越しに指を掠めた。
 ポケットに入れた、綾乃からの水色の手紙。
 あの日の恐怖を覆す後悔と優しさの詰まった手紙に指先で触れ、美緒は心が休まるのを感じていた。
 もう、終わった――。
 極端に安堵するのは、美緒にとって綾乃の存在がいかに重く苦痛を与えていたのかを物語っている。重荷に感じまいと気張っていても、無意識でも精神的に追い詰められていたことには変わりないのだ。
 いつか――いつか美緒の気持ちが綾乃に届くようにと願っていた。けれどそれは、所詮ただの理想と自己満足に過ぎないという現実をも感じ取っていた。薫の言葉がなければ、綾乃は今でもずっと美緒と心を通わせることはなかったかもしれない。
 自分は非力だ。美緒は改めて、それを思い知る。
 だけれど、薫を動かすことができるのは、ただ一人。美緒だけだということを、謙虚な彼女は気付いていなかった。


「あー。私にも早く格好いい彼氏できないかなあ」
 隣を歩くえみが空に両手を広げながら、独り言のように呟いた。
「どうしたの? 急に」
 クスクスと美緒が笑う。えみは不服そうに溜め息をつくと、下ろした手で頭を掻いた。
「私も全身全霊で愛されたいの。心ごと全部抱きしめられたいの!」
「……なに? それ」
「別にー。ただ、愛されてるっていいな、って思ってさあ」
 誰のことを言っているのだろう。
 美緒がそう思った瞬間、えみがチラリと目を向けた。何故かその視線に居心地の悪さを感じ、美緒は顔をふいっと正面へと戻した。
 一拍置いて、えみの声が追いかけてくる。
「たとえば、櫻井の彼女とか」
 その声が、いつもより少しばかり低く聞こえたのは、気のせいだろうか。
 紫の空は、さっきよりもいっそう深さを増していた。けれど、暗闇に慣れていく眼は、濃い藍になっていく景色とは裏腹に、えみの表情をはっきりと映し出してしまう。今にも美緒の心を見透かしてきそうなえみの視線をハッキリと伝えてくる。
 少しの間、えみは沈黙を置いたが、ハッと小さく息をつくと、吹っ切ったように話を続けた。
「美緒が留学してる時にさあ、櫻井が休職していなくなったことがあるって、前にも話したでしょ?」
「え……あ、うん。確か皆の前で突然告白したんだっけ」
 突然何を言い出すのかと思い、答えに詰まった。
「あの時のこと、美緒に詳しく話したことってなかったけど、実はあの時の櫻井って、私の心の中で深く残ってんだよね」
「深くって?」
「好きなものを好きってはっきり言える強さとか、大事なものを見失わない強さも、思わず恋しちゃいそうなくらい、衝撃だった」
 えみがニヤリと笑った。美緒は複雑だった。
 その時の薫の行動は、全校生徒の前で為されたということもあり、学園では知らない者はいないが、逆を言えば、その場にいなかった美緒だけが詳しいことを知らないということでもある。
 以前、美緒を追いかけるためだけに、薫は全てを捨てたのだ。その時の薫の姿が、今でも忘れられないのだと、えみは言った。
「できれば私も、誰かにとってそういう存在になりたいって、そう思った」
「そういう、存在?」
「あの時ね、櫻井は彼女のことをこう言ったんだよ」
 柔らかな風が吹き、美緒とえみの髪を掻き乱す。
 風の音に言葉を攫われないように、美緒は髪を耳にかきあげ、えみの言葉を追いかけた。

「最高のプライド、だって」

 ひゅう、と風の音が、耳だけではなく心にも響いた。えみの言葉を伴って。
 皆が知っているその台詞を、美緒は全く知らなかった。
「彼女と一緒にいられることが、自分にとって最高のプライドだって、そう言ったの。……私、誰かを想ってそんなことを感じたことなんて、今まで一度だってない。好きな人のことを誇りに思えるような、そんな恋愛したことない。櫻井も、そういう恋愛ができるのはラッキーなことなんだって言ってたよ。そして、それは今でも変わらないって、この間そう言ってた」
「この間って、いつのこと?」
「美緒が倒れて保健室に運ばれた日。あの日、彼女ってどういう存在かって櫻井に聞いたんだ。まさかあの時と同じ答えが返ってくるとは思わなかったけど、それだけ揺るがない存在ってことなんだよね」
 誰かの言葉によって伝えられた方が、より苦しく心に迫るのは何故だろう。
 ただの甘い睦言ではない。愛や恋の雰囲気で流された台詞じゃない。他人の前、しかも全校生徒の前で言ってのけた台詞だ。
『薫にとって美緒は、最高のプライド』
 こんなにもダメな自分が、彼にとっての誇りであったなど、考えたこともない。守られてばかりの人間が、何故誇りなどと思えようか。自信なんてものは、とうになかった。
 だけれど。
「櫻井の彼女みたいに、誇りを持って守りたいと思える人に、私もなりたいな。守る価値のある人間に」
 えみがそう言ったから、その時の薫の気持ちが流れ込むように美緒にも伝わった。
 薫は、普段から誰にでも優しく穏やかだけれど、自分に正直に生きる人だ。信念に嘘は吐かない。誰にでも平等であろうとする人間が、誰か一人のためを思い『誇り』であるなどという台詞を嘘で吐いたりはしないだろう。
 美緒は言葉を失った。えみに、何と言葉を返していいのか、わからなかった。
 するとえみは、美緒の前に立ち、淡い光を背に受けながらこう言った。
「美緒にとっても、櫻井は最高のプライドだよね?」
 それは質問と言うよりも、確信を言葉にしているようだった。
「何言ってるの、えみ」
「あんな格好いい彼氏、そうそういないんだから。あんたが胸張らなくてどうすんのよ。彼女なら彼女らしく堂々としてなさい」
「……知ってたの?」
 いつから。
 聞くよりも先に、えみが答えた。
「櫻井から聞いた。でも知ったのは本当に最近だよ。この間、美緒が倒れちゃった時、櫻井から頼まれたの」
「な、にを……?」
「これは本当は言っちゃいけない約束なんだけど、美緒が持ってたあの写真の犯人を付き止めるために、手がかりが欲しいって」
 美緒は俯いた。
 やはり美緒の知らないところで薫が動いていたことを知り、胸が熱くなった。
「でも、私にばらした本当の理由はそれじゃない。そんなの、頭の切れる櫻井だったら既にわかってそうなことだしね。本当に頼みたかったのは、美緒。あんたのことだよ」
「私……?」
「『美緒の背負うものを、一緒に背負ってくれないか』って、頼まれたの」
「え?」
「美緒に共犯を作ってあげたかったんだよ。一緒に泣いて、一緒に笑ってくれる味方を作りたかったんだよ。私、美緒のためだったら、いつだって味方になってたよ。でも美緒は今までずっと、私にも言えないくらい、秘密の恋を守るのに必死だったんだよね。櫻井が言ってたよ。美緒はずっと一人で頑張ってたんだって。本当は恋人の自分が美緒を全部支えてあげたいけど、それは無理だから、私に美緒の支えになって欲しいってそう言ったの。美緒が一人ぼっちなのが、心配で仕方なかったんだよね、きっと」
 その時の薫の表情が、イメージだけで脳裏を過ぎった。
 人に頭を下げなければいけない場面など、あの薫なら、今までもこれから先もなかったかもしれない。
 自分の非力さを認め、年下の少女に頭を下げるということは、薫にとってはどれだけのプライドを犠牲にしているということなのだろう。
 でもえみは、美緒こそが薫のプライドなのだと言う。だから、守る価値があるのだと。胸が張り裂けそうだった。
「私ね、櫻井がそう言った時、なんだかすっごく安心したんだあ。美緒を愛してくれる人が、この人で良かったって思った。美緒のこと愛してくれてありがとうって思った。正直、二人が付き合ってるって聞かされた時は、仲間外れにされた気がしたけど、櫻井の美緒を大切に想う気持ちを知ったら、そんなことどうでもよくなったよ」
 えみを通して気付く薫の大きさに、美緒は申し訳なさと感謝の気持ちが溢れて、ただ胸が張り裂けそうだった。
 そして、目の前の親友に対して、何も言えなかった不甲斐なさと申し訳のなさを噛みしめる。
「……ごめん。言えなくて、ごめんね」
「バカ。なんで謝るの」
「えみにはずっと言いたかった。……でも言えなかったの」
「わかってるってば。美緒はただ、この恋を守りたかったんでしょ。櫻井のことを守りたかっただけなんでしょ?」
 美緒はただ頷いた。唇を噛みしめ、何度も頷いた。
 言いたくなかったわけじゃない。言えなかった。
 この恋が壊れてしまいそうで、校医と生徒という恋愛を脅かされそうで。
 俯いた視線の先、自分のつま先にポトリと涙が光って落ちた。
 溢れ出る涙を、えみの指がすくいとる。
「あんたは、櫻井のこととなると、すぐに泣くんだから」
 溜め息と共に零れる苦笑から、えみの優しさが伝わってきた。
「綾乃にどれだけ酷いことされたって、自分がどれだけつらくたって絶対泣かないのに、櫻井のことになると、すぐにポロポロ涙流して……。いつからそんなに泣き虫になっちゃったの?」
「……ごめんなさい」
 えみの前で泣いた事など、美緒は未だ嘗て片手で数えられるほどしかなかった。
「そんなに好きなら、泣くより伝えなきゃダメだよ。櫻井のこと、想うだけで泣いちゃうほど好きなんだって、本人に伝えなきゃダメ。櫻井ね、美緒のこと想ってすごく切なげな目してた。あんな完璧な人が、美緒のこと考えるだけで脆く見えた。美緒はすごく愛されてるんだよ。二人に何があったのかは私はよく知らないけど、櫻井もきっと、美緒が帰ってきてくれるのを待ってると思うよ」
 ね? とえみが覗きこむ。
 上手く返事ができない美緒は、泣くのをこらえ息をするのに必死だった。
「ったく……やっぱ櫻井には敵わないなあ」
「なにが……?」
「『美緒は泣き虫だから、もし藤井の前で我慢しきれずに泣いてしまったら、何も責めずにそっと抱き締めてやって』なんて、そんなのイマイチ信じられなかったのに、美緒ってば本当に泣くんだもん」
 困ったようにそう言って、えみの腕が美緒をそっと包み込んだ。
「美緒が何を思って何に泣くのかなんて、きっと櫻井には全部お見通しなんだよね。でもさ、全部分かってるのに助けてあげられないのって、どれだけつらいんだろう。本当に大事な人の為に、気持ち押し殺して自分じゃない誰かに託すのって、どれだけ苦しいんだろう。……私ならきっと、そんなことできないよ」
 えみを通して語られる薫の言葉は、たまらなく切なく、何を言われても涙が止まらなかった。
「本当は綾乃のことだって怒鳴りたくて叱り付けたくてたまらないんだと思う。美緒を傷つけるものを簡単に許せるほど、櫻井は甘くないもん。この間少し話してて、櫻井薫っていう人がどれだけ怖くて、強くて、優しい人なのかっていうことを嫌っていうほど知ったよ。美緒がつらい顔してるのを、櫻井はずっと知ってた。何をどうするのが一番いいことなのかを、ちゃんと探してた。だから、内心穏やかじゃないに決まってるのに、美緒のためだと思うから、自分を押し殺してでも綾乃を改心させることだけを考えてたんだよ。さっきさ、すれ違いざま櫻井が綾乃の件が無事に済んだことを教えてくれた時、『俺って大人だよなー』って苦笑いしながら零してる櫻井見てたら、この人も色々苦労してるんだなって感じちゃって、それが美緒のためなんだと思ったらなんか嬉しくて仕方なかった」
 以前薫が、美緒を殴った綾乃のことを本当は怒鳴りつけたくてたまらないのだと零していたことをふと思い出した。美緒を傷つけるものは、女であろうと許せないのだと。
 薫はどれだけの気持ちを押し殺しながら、綾乃と向き合ったのだろう。もしも美緒が薫の立場なら、冷静にいられただろうか。
「ねえ、美緒。あんたにとって櫻井は、簡単に手放してしまえるような存在なの? このまま離れちゃっていいの?」
 これまで誰も触れてこなかった単純な質問をえみから投げかけられ、美緒は改めて己の心を見つめ直す。
 傷つけたから、離れなければいけないと思った。
 でもそれは、単純に美緒が薫を手放してしまうということだ。自らが選んだ選択は、薫の気持ちなど全く考えていない自分勝手なものだ。
「えみも先生も、私のこと買いかぶりすぎてるよ。私、そんなに大事にされていいような人間じゃないのに」
 自分の愚かさに反吐が出る。
 それでも美緒は、自分の愚かさから逃げようとは思わない。むしろ見つめ合って認めて、だから余計に許せなくなるのかもしれない。
「自分の守りたいものも守れない。そんな人間が守られていいわけない」
「美緒……?」
 突然自分の気持ちを吐き出し始めた美緒を、えみが心配そうに肩を掴み覗きこんでいた。
「だって、本当に守らなきゃいけないものは、いつだって目の前にあったのに、それに気付くことすら出来なかった。傷つけて、気付いたの。それは当たり前なんかじゃなくて、……どれだけ大事で、失いやすいものだったのかってことに」
「櫻井のこと?」
「先生だけじゃない。泉くんのことも……。守らなきゃいけないのは、大事な人の笑顔だったのに……」
 薫の腕の中に、簡単に戻ることなど出来ない。
 大事なのは薫だけじゃない。美緒にとって泉は、恋人とは違う位置で一番大事な人なのだ。
 傷つけられない。傷つけたくないのだ。絶対に――。
「泉くんは、私のことを好きだって言ってくれたの……。気付かなきゃいけなかったのに、ずっと気付けなくて傷つけてきた。先生と泉くん、あんなに仲が良かったのに、私が先生を信じられなくなったから、泉くんの中の優しい先生を奪っちゃったの。私が、泉くんをそんな風に変えちゃったの。それなのに、簡単に先生のところへなんて、戻れないよ……」
「美緒……」
「私にとって泉くんはお兄ちゃんみたいなすごく大事な人なの。泉くんがいなかったら、私はきっとずっと昔に壊れてた。ダメな私を、泉くんは全部受け止めてくれた。甘えても泣いても、ただ笑って大丈夫って言ってくれた。どんな気持ちで私を受け止めてくれたのかと思うと苦しくなる。それなのに、私が泉くんを追い詰めたのに、私だけ平気な顔して先生の元に戻れるなんて思う? ……泉くんのことも大好きなんだよ。大好きなのに、傷つけられないよ……。泉くんの手を手放すことだけが、私にできる精一杯の誠意だったから――」

 美緒は、今まで抱えていた全ての不安を、えみに打ち明けた。
 二人の間に何があったのかも、何を信じられなくなったのかも、何が大事なのかも。
 裏切られているかもしれない不安から、麻里との関係を聞けないことも。
 美緒の気持ちを知れば知るほど、えみは一緒に苦しみ、泣いてくれた。
 美緒が背負っているものが、単純な色恋沙汰ではないことを知り、答えなど出せなかった。
「そんなつらいこと、ずっと一人で抱えて……。もう、なんでもっと早く言ってくれなかったの?」
「言えないよ……。だって自分でも何が何だかわからなかったんだもん」
 未だに分からない。
 そんな曖昧な気持ちを誰かに上手に伝えられるほど、美緒は器用じゃなかった。
「櫻井にちゃんと聞きなよ。本当のこと、全部聞く権利は美緒にはあるでしょ?」
 それが麻里との関係の真実であることを察して、美緒は首を横に振った。
「無理だよ。だって私、どこかでまだ先生を信じられない気持ちが残ってるの。信じたい気持ちが半分、でも残りの半分は傷付きたくないって逃げてる。もし私の不安が当たったらって思うと、怖くて怖くてたまらない。受け入れられる自信なんてない。そんなんじゃダメなんだって、私が一番わかってるのに」
「美緒……」
「好きなくせに信じられなかった。先生の目を見られなかった。弱い自分を庇った。そんな自分が嫌い。先生のことを信じられなかった自分が一番大嫌い。許せないの。だからもう、会わないって決めたの……」
「……たく、あんたって子は、本当にバカなんだから。もっと好きな人のことだけ考えて生きてりゃいいのよ。自分がどんな人間だっていいじゃない。間違ったっていい。好きな人だけ幸せにできたら、それでいいんだから」
「ワガママすぎる、そんなの」
「美緒はちっともワガママじゃないじゃん。どうしてそんなに自分を責めるの」
「じゃあ、えみなら選べるの? 誰かを傷つけてまで、自分のワガママに生きられるの?」
 縋り責めるような目からは、美緒の苦しい想いが溢れていた。
「……ごめん、私の言うことが間違ってる。泉先生も櫻井も、あんたにとって大事だから苦しいんだよね」
「私なんて居なければ良かった。出会わなければ良かった、最初から」
「バカ! ……そんな、そんなこと言わないでよ」
 えみはギュッと美緒を抱きすくめた。
「そんなに自分を責めたら、苦しくなるだけでしょ?」
「苦しい、なんて、思えないよ……」
 薫が自分を責めて悔いていることを、知ってしまったから――。
 だから、自分が一番苦しいだなんて台詞は、吐いてはいけないと思った。せめて、弱音を吐かずに立って居なくては、と思った。
 薫と泉を救うためには、嘘でも笑ってなくてはいけない。気丈に振舞わなければいけないのだ。
「ねえ、美緒。離れることが一番いいって言ってるけど……あんた本当は、二人ともそばに居て欲しいんじゃないの?」
「何言って……」
「だって、少し前の美緒は、すごくすごく綺麗で輝いてたから……、幸せだったんだなって」
 そんなワガママなことは思っていないと、自分の中で否定する。
 でも、昔のように三人で笑い合っていたあの日々のように戻ることができたなら――。
 甘い思い出に気を取られそうになり、美緒は現実を見ようと必死で頭の中から掻き消した。
「今の美緒、格好悪いね。すごく格好悪い。いつもの凛とした美緒じゃなくて、ただの泣き虫の情けない女の子だよね。いつもは、自分の意志をはっきり持ってて、そのためなら何にも揺るがないほど強いのに、今の美緒は色んな事を考えすぎてグチャグチャになってる。一人で抱えすぎて、怯えてる」
 美緒の頬にえみの両手が触れる。
 その手は温かくて、えみの瞳の中に、母親のような優しさを見た。
「ねえ、美緒。確かに美緒は間違ってるかもしれない。花まるはあげられない子かもしれない。でもね、私はそんな美緒が好きだよ。花まるじゃなくても、努力賞をあげる。頑張ったねって誉めてあげたい。今までずっと一人で、よく頑張ったね。泣きたかったよね。好きなのに好きって言えなくて、苦しかったよね。つらくて、信じられなくなることもあるよ。美緒は完璧じゃないんだもん。完璧な子が、こんなに繊細で優しいわけないじゃん。私は美緒を責めないよ。そのままの美緒が好きだから」
 そのままの美緒が好き――。
 それは、ハルカの言葉を彷彿とさせて。
 苦しかったね――と労わってくれる言葉は薫を思い浮かばせ、彼らの存在の大切さをより美緒に知らしめた。
「もう自分を責めちゃだめだよ……」
 薫が美緒へと差し出した『えみ』という優しさはあまりに大きくて、どれだけ抗っても、美緒の心を慰めて仕方がなかった。
 頑なだった心が、もう解けてしまいそうだった。
「えみ……」
 解けていく――。
「私、私ね……」
「うん」
「本当は……、本当は、信じたかった。先生のこと何もかも全部、信じられる自分でいたかった。……でも、色々なものに押しつぶされそうで、自分を守ることに精一杯で、信じさせてもらえなくて……っ。どうしていいのか分からなくて……っ」
 結城麻里という脅威に追い討ちをかけるかのように迫る綾乃の悪意。
 度重なる偶然や必然と言う名の仕打ちに、いつの間にか薫を見失ってしまったのは、けして美緒だけのせいではない。
 美緒はボロボロだった。それを笑顔で隠すだけで、精一杯だった。薫に真実を問いただす余裕などなかった。そうしなくてはいけないと分かっていても。
「でも、本当はただ……」
 でも、そんなものはいくらでも耐えられた。あの人さえ、見失わなければ――。
「本当はただ、ずっと先生のそばにいたかったの。先生とさえ一緒にいられたら良かった。私が欲しかったのは、ただそれだけだったのに……っ」
「そっか……」
「あの頃に戻りたいよ……、えみ――」
 どれだけ虚勢を張り正義を語ろうと、十七歳の幼い恋心は素直さを隠せない。
 美緒はえみに縋りつき、その肩に額を埋めた。
 初めて本心を口にした。
 ただ薫のそばに居たかった。愛する人のそばに居たかったのだと。
 ただそれだけを言えずに、言える場所がなくて、美緒は一人で気持ちを閉じ込めていたのだ。
 えみは何も責めず、ただ美緒の話を聞いて味方になってくれた。薫の気持ちよりも、美緒の気持ちだけを守るように。美緒にえみという味方を差し出した薫の本当の願いを、その意味を、えみはちゃんと感じ取っていたのかもしれない。
 その日はずっと、えみは美緒のそばに寄り添い、二人で色んなことを語らいながら夜を過ごした。ずっと眠れない日々が続いていた美緒に、少しの安らぎが久々に訪れた穏やかな夜だった。
 他愛のないことを話すだけで自然と笑みが零れ、たった一瞬でも、つらいことや苦しいことを忘れることができたのは、何もかもを承知の上で美緒の味方であってくれようとするえみのおかげだろう。
 えみの存在は、美緒にとって精神安定剤のように、または姉のように、柔らかく優しかった。
 そして、話を聞いてくれるえみに、美緒が時折零した言葉。

 ――あの頃に、戻りたい。

 何も捨てずにいられたあの頃に。
 薫も泉も、共に美緒に笑いかけてくれたあの頃に。
 失ってしまったからこそ、その想い出に溢れる優しさは尊く、憧れ、そして恋焦がれてしまう。
 それが果てしなく輝き続けるのは、けして手など届くはずがない月のように儚いからだと分かっているのに――。

 ただ単純に、貴方を好きだと言えたなら。
『先生が好きです』
 そう、言えたなら。
 そう、言いたかっただけなのに――。

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