華水の月

75.深海

 彼を何かに表すなら、空というよりも、海。
 どこまでも見渡すことができる果てのない空よりも、深く深く光も届かないほど底の知れない海。
 包まれれば胎内にいるような安心と優しさを覚え、囚われれば息もできぬ苦しさに身を滅ぼす。
 彼女が言った。
 その存在が深すぎて大きすぎるから、手を届かせることさえできない自分が、あまりに頼りなくて情けなくなる、と。
 分からなかった。
 何故なら、僕はその深い深い海の中にいることさえ知らないのだから。
 彼はまるで、深海――。


「こんなとこで寝てたら、風邪ひくぞ」
 ソファで眠っていた薫の体に毛布をかけながら、泉は独り言のように優しく囁いた。
 合い鍵を使って上がりこんだ部屋。まだ夕刻である空から、大きな窓を通して紫の光が部屋を照らしていた。
 ソファ脇のテーブルには、缶ビールの空き缶が置いてある。珍しい。薫が酒だけを口にして眠ってしまうなど。それだけ、疲れていたということだろうか。
 泉は、薫の頭元に少しだけ腰をかけ、穏やかな寝顔を見つめていた。少しだけやつれた頬。泉と一緒の時以外はまともに食事を取らず、忙しい仕事に追われ、美緒の心配ばかりをしていた。自分の心や体を顧みず、ただ愛する人のためだけに必死のようだった。いつか倒れてしまうのではないかと心配で、毎日顔を見に来ていたけれど、薫は一切泉に弱音を吐かなかった。
 たくさん傷つけてしまった最愛の兄。
 それでも、泉を責めず許してくれた薫。
「貴方がいなければ、俺はどうやって生きていただろうな」
 愛情など、全く知らずに大人になっていたかもしれない。まともに人を愛せる人間には、育っていないかもしれない。
 想像するだけでゾッとする。あの広い家の中にただ一人ポツンといる想像の中の幼少時の自分は、あまりに頼りなげで寂しげだった。
 親は居るようで居ないのと同じだ。金銭的には何不自由ない生活をさせてもらったけれど、育てられた、と言えるような間柄ではない。顔を合わせるのは朝だけ。それも出かける間際に少し顔を見るだけで、朝ご飯はいつも薫が作ったものを食べ、夕飯も、寝る時も、勉強をする時も、休みの日も、いつも薫だけが泉のそばに居てくれたから寂しくはなかった。部屋の灯り一つさえ、薫がそばにいたから灯っていたのだと、思い知らされる。
 自分に愛情を与えてくれた貴方は、一体どうやってその愛情を覚えたのだろう。
 僕がいたことは、貴方にとってもプラスであっただろうか。
 ただ迷惑なだけではなかっただろうか。
 それでも、貴方という人の弟に生まれたことに感謝したい。
 薫の寝顔を見つめ、愛されてきた過去を思い出しながら、泉は改めて思った。美緒のことをこんなにも深く愛することができた自分は、薫に愛されたからこそ存在しているのだと。
 だから、やっぱり敵わないのだ。

 泉は、手に持っていた合鍵をキーチェーンから外し、テーブルの上へと置いた。金属の感触が指から離れる瞬間、何故か泣きそうな気分になる。それを吹っ切ろうと腰を上げ、自分もビールをと思い、冷蔵庫へ向かった。中から一本ビールを取り出したその時、ふと背後からかけられた声に、振り向いた。
「……泉?」
「悪い、起こしたか」
「いや、ちょっとうたた寝してただけだから。すぐ起きるつもりだったし」
「疲れてるのは分かるけど、そんなところで寝てると、風邪ひくぞ」
「……そうだな。医者がこんな不注意で風邪ひくなんて、恥さらしもいいとこだな」
 苦笑しながら体を起こす薫に、泉はグラスについだ水を手渡した。自分は缶ビールを開け、口に含む。隣に座ると、薫は『ああ』と何かを思い出したようだった。
「例の写真の件だけど、片付いたから」
「片付いたって、どういう意味?」
「もう、美緒にあんな嫌がらせをすることもないだろう」
「犯人と、直接話したってこと?」
「犯人なんて言い方は、ちょっと酷いかなって思うけどね」
 まあ強ち間違ってはいないけど、とでも言いたげに薫が笑う。
 写真を送りつけた誰かのことよりも、その内容によって美緒が傷つけられたことにばかり気を取られていた泉は、送り主のことなど全く気にかける余裕がなかったのだが、薫の真実を知った今では、そうやって美緒や自分を陥れた誰かを許すつもりはなかった。誰なのか、気にならないという方がおかしな話だ。
 最初、なかなか口を割らなかった薫だが、泉もけして無関係ではないということを考慮し、渋々その名を口にした。ただし、泉からは何もしないという条件を付けて。念を押さなければ、感情のままに行動する泉は危険だと、そう思ったからだろう。
「樹多村綾乃だよ」
「樹多村綾乃?」
 まるで初めて聞いたとも取れるような泉の表情に、薫は呆れた顔を見せた。まさか、ここまでの反応を示すとは思っていなかったのだ。
「まさかおまえ、本当に誰なのかわからないのか」
「樹多村……樹多村……。え、誰なのかわかんないんだけど」
 今でこそ改善された女癖の悪さ。
 でも、過去は過去として、やはり改善されるものではないらしい。
「最低だな、おまえ」
「な、なんだよ。誰のことか本当にわかんないんだけど」
「なら、こう言えばわかるか。おまえのせいで、美緒が殴られることになった、その相手」
「あ! え? でも、美緒が殴られたことを俺が知ってるって、どうして……」
「だってあの時、おまえも陰から見てただろ」
「うーわあ。全部お見通しだったのかよ」
 居心地の悪さに、泉は顔を歪ませた。
 けれどすぐさま綾乃のことを思い出し、沸々と沸く嫌悪の感情は胸の中に広がっていった。
 刺すように責めるあの鋭い眼差し。泉は綾乃のことが好きではないが、彼女の気持ちが分からなかったわけではない。理解できるようになったのは、自分が叶わぬ恋をしてからではあったけれど。
「確かに、あの子だったらやりそうなことだな」
 簡単に美緒を殴った女だ。あの衝動をもってすれば、何でもやるだろう。
「だからと言って、一方的に責める気にもなれなかった。美緒が傷つけられていたからこそ、彼女のやったことを暴いたけど、そうでなかったなら、俺も寛容できたかもしれない」
「どうして?」
「好きという気持ちは、そんなに単純なものじゃないからだよ。好きこそ単純だけれど、それに絡んでくる感情は、時に醜く歪んでしまうものなんだ。嫉妬もすれば、憎みもする。元はと言えば、樹多村が美緒を傷つけるようになった理由はおまえにあるんだからな、泉」
 ジロリと睨まれて、瞬間心が萎縮する。
「え……。俺?」
「俺が知らないとでも思ったのか。おまえ、樹多村とそれなりの関係を持ったことがあるだろう。しかも、その時のことは、まるで最初からなかったことのようでしか、おまえの記憶にはない。名前を覚えてないのが、その証拠だ」
「あ、あれは……、あの子が自分から仕掛けてきたんだ。一回きりの割り切りでいいって。でも、結局最後まではやってないし……」
 泉の言葉に嘘はないだろう。後々面倒になるような、感情の伴う関係を最初から持つような男ではないことくらい、薫も分かっている。だが、そういう問題ではないのだ。あの時の泉はまだ、人として大事なことを見失っていた。
「それでも、女の体をもてあそんだことには変わりはない。たとえ仕掛けたのが向こうだったとしても、それに同調すればおまえも同罪だよ」
 きつく咎められ、泉は息を呑んだ。
「……そうだな」
 昔の泉なら、薫の言葉に反論し続けたかもしれない。
 けれど、美緒を愛するようになり、女を慈しむことがどういうことなのかを覚えた今、たとえどんな理由があろうとも、女の気持ちや体を弄んだり利用するということが、どれだけ罪深いことなのかを、泉は知っていた。たとえ悪いのが綾乃の方だとしても、彼女にしたことを思い出し、罪悪感を感じていた。
「樹多村には一切興味を示さなかったおまえが、美緒にはありったけの愛情を見せた。彼女からしてみれば、それが許せなかったんだろう」
「でも、あいつは俺のことなんて全然好きじゃない。むしろ、薫のことが好きだったはずなのに」
 泉が首を振ると、薫もその反応に頷いた。
「そうだな。でも、理解と感情は別物だよ。おまえが美緒を特別扱いしたことで、ただでさえ憧れだった美緒には敵わないと、そう思ったんだ。それで終わっていたなら問題はなかった。でも、俺とおまえが兄弟であったことが、彼女の嫉妬を余計に煽ってしまったんだろう。おまえと親密になれば、俺との距離が近づくことは容易に想像できることだし、俺にとっての美緒も、おまえと同じようなそういう目で見ているのではないかと、思ったのかもしれない。事実、間違っていないんだから、勘の良いあの子は、薄々感じていたのかもしれないけどね」
「じゃ、じゃあ、俺が美緒に近づかなかったら良かったってこと……?」
「それは結果論に過ぎないよ。美緒にとってのおまえが大事でなかったら、樹多村の前で庇うこともしなかっただろう。遅かれ早かれ、美緒にとっておまえは特別な人間だったわけだ。感情のままに生きるおまえに、美緒を特別扱いするなというのも無理な話。だとしたら、結局避けられなかったことかもしれない。まあ、おまえがもっと早く恋愛というものを大事にできる人間だったなら、話は別だけどね」
 そこで一旦話が途切れると、泉はあからさまに深い溜め息をついた。
「……女って怖え」
「バーカ。本来女性は優しく慈悲深いものだよ。それを恐ろしいものに変えてしまうのだとしたら、やっぱりそれは男にも責任がある」
「さすがフェミニスト薫様」
 意外と、清々しい気持ちで話を進めることができたことに、泉は不思議を感じていた。薫が泉に気負わせまいと、そういう雰囲気で話を進めてくれたことが大きいのかもしれない。
 泉を厳しく嗜めつつ、だけれど全てが悪いわけではない、仕方のないこともあったのだと、諭してくれた。そういう薫の優しさは、逆に自分の愚かさを素直に受け止めさせるものでもあった。やわやわと、真綿で首を締められるような息苦しさの正体は、自分の中にある罪悪感のせいだろう。
「まあ、おまえにも原因はあるんだから、責任は取ってもらわないとな」
 グラスに口をつけながら、薫は色っぽい眼差しで泉をチラリと見た。
「責任って、どうすれば……」
「美緒が殴られたのも、酷い仕打ちを受けたのも、元はと言えばおまえが悪い。でも結局その尻拭いをしたのが俺だっていうのは、なんだか筋が違うと思わないか?」
「でも俺には、薫ほど上手くあの子を手懐ける自信はないんだけど」
「樹多村は、だろ。でも、美緒の気持ちなら、おまえは誰よりも分かってる。美緒が唯一何もかもを許せたのはおまえだけだ。おまえだって、美緒の前では何より必死に生きてたんじゃないのか。ただ、美緒を守るためだけに」
「な、何言ってんの……」
 声は震えていた。
 踏み込まれる。
 必死で隠していた心の奥底を、薫の鋭い眼光が見通してくる。
 薫がチラリと、テーブルに無造作に置かれた裸の合鍵を見た。その後すぐに泉へと視線を戻す、その目配せに責められているような感覚に陥り、俯くしかなかった。
「おまえが欠ければ、あの子は壊れる。自分のせいだと、また自分自身を責めるんだ。美緒を傷つけたと思うなら、これ以上あの子を泣かせるような真似はするな。美緒の中の自分を軽んじるな。一度美緒の心に踏み込んだのなら、最後まで目を逸らすな。守ると決めたんだろう。自分の勝手で守ると決めて手を差し伸べたのに、自分の勝手でその手を離すなんて、そんな無責任なこと絶対許さない」
 厳しく強さも感じさせる絶対的な声。
 いずれ薫と美緒の仲が戻ったとしても、自分だけはもう傍にいることはないと泉は決めていた。美緒がつらい想いをするなら、彼らの前から消えることも考えていた。愛する二人の為なら、なんだって出来ると。
 だけれど、薫は泉に、これからも守れと言う。美緒という存在を、全て受け止めろと。
「逃げるなよ」
 泉は顔をハッと上げた。薫は厳しく泉を見据えていた。
 瞳の中に、鈍い光が揺れている。
「美緒に会って、これで会えるのは最後だとサヨナラを告げるつもりなら、最初から愛したりするな。見守るでなく、自分が一切身を引けば――なんて自己犠牲的な愛は、自分を慰めるのに都合がいいだろうが、俺は逃げているとしか思わない」
 身動きができない。
 それはまるで、海の底にいるような、計り知れない圧力に押しつぶされているかのようで。
「そんな綺麗事は、迷惑だ――」
 揺れた。
 その一瞬。
 遠く昔から許されていたはずのその場所は、寛厳でありながらも畏怖すら孕んでいるのだと知る。
 圧倒的に深く大きい存在の中では、ただ一つの逃げや甘えさえ許されない。

 彼はまるで、深海――。
 包まれれば胎内にいるような安心と優しさを覚え、囚われれば息もできぬ苦しさに身を滅ぼす。

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