華水の月

76.貴方がいなければ

 見透かされていた。
 美緒に会いその背を押せたら、もう二度と会わないように二人の前から消えてしまおうと思っていることを。
「どうせおまえのことだから、俺と美緒の前から消えてしまえばいいとか思ってるんだろうけど、そんなの俺が許さない。おまえが居なくなって、そこに幸せなんてない。心に欠けたものを抱えたまま、幸せになんてなれるはずがないだろ。居なくなるだなんて、絶対に許さない」
 瞳の奥。完璧には表現することのできない深い色に写る自分の姿を見た瞬間、嘘は吐けないのだと悟る。薫の視界に映る自分の茶色の瞳は、透明であればあるほど、いとも簡単に真実を透かせてみせてしまっているのかもしれない。
「おまえが消えて居なくなることで、何もなかったことにできるほど、現実は甘くない。過去を変えられもしなければ、人の気持ちなんてものは、おまえの思うようには変わらない。そんなことで誰かを傷つけたことへの償いになるとでも思っているのなら、おまえは何の価値も分からないただのバカだ」
 泉の愚かな決断など、薫には既にお見通しだった。
 極端すぎると言われても仕方が無い。そんな愚かで逃げた決断を――。
「おまえが考えてることくらい、俺なら簡単に読める。自分がここに居る事に後悔してることもね。自分さえ居なくなれば、なんて決断は、綺麗に見えても所詮全てを投げ出すのと何ら変わらない。男なら逃げずに受け止めろ。いくら愚かでも、自分を軽んじるな。軽んじていいような、存在価値のない人間に育てた覚えはないんだから」
「で、でも薫……」
「美緒がおまえに惹かれたのは何故だと思う? それは、俺にも美緒にも誰にもないものを、おまえが持ってたからだ。おまえにしかできないこと、おまえだけの優しさの形、美緒はきっとおまえのそういうところに心を委ねたんだろう。おまえがいなくなった穴を俺には埋められない。誰も代わりなんてできないんだよ」
 自分の何が美緒の心を引きとめているかなど考えたことはない。
 見つめていたのはいつだって、薫に恋焦がれてばかりの美緒の背だった。いつも一生懸命に薫を追いかけて、薫だけを想っている、そんな美緒の背しか見えていなかった。それが、どれだけ寂しかったことだろう。
 確かに、美緒に頼られているという自覚はあれど、それは美緒が薫との関係に不安を抱いているからこその居場所なのだと、そう思っていた。
「癪だけど、美緒にとってのおまえは、代わりがいないくらい大事な人間だって思う。美緒が言わなくても、おまえが否定しても、そんなことはずっと二人を見てきた俺が一番わかるんだ。美緒はいつだって、おまえにだけ素直に甘えてた。おまえのことが大好きなんだって、全身で表現してた。美緒は、何でも一人で溜め込んでしまう子だから、唯一どんな自分をも曝け出せたおまえの存在は大きいんだよ。おまえが認めてやらなければ、美緒はいつまでも自分を許さない。俺にとっても、どちらかが欠けてしまってもいけない。それは、おまえと美緒にとっても同じはずだろ」
 ずっと一緒にいたいだなんて、思ってはいけないのに――。
 ずっと閉じ込めてきた。叶うわけなどない、叶えてはいけないと分かっていたから押し殺してきた想いを、薫の言葉が引きずり出していくようで、泉は戸惑いを隠せなかった。
「な、何言ってんだよ。……何言ってんだよ、バカ兄貴。自分が言ってることわかってんのかよ」
「分かってるよ。甘いことを言ってることくらいね。でも、間違ったことは言ってない」
「俺は美緒のことが好きなんだぞ。薫は美緒の恋人なのに、俺のことを認めていいだなんて、本気で思ってんのかよ」
 薫の言葉が重く混乱して、泉は額に手を当てた。薫の言っていることは、本来泉の望んでいたことを見透かしている。現実を考えず、理想だけを言葉にしていた。
 そんなこと、あっていいわけがないのに。
「生憎、俺は狂ってもいないし、まともだよ。正気で言えるくらいには、とっくの昔に覚悟なんて決まってるんだ。なあ、泉。この前、おまえに伝えたいことがあるって、そう言ったよな」
「ああ」
「いつのことだったか、永遠に美緒の恋人でいられる保証はないって、おまえに言った事がある。覚えてるか?」
「……うん」
「出来れば、これから先死ぬまでずっと、美緒にとって一番の存在でいたいって思うよ。でも、人間の心なんて曖昧だ。脆くて、儚くて、壊れやすい。いくら自分の気持ちに自信があっても、もし美緒が自分から離れていってしまったらと思うと怖いよ。手放したくない。絶対手放したくない。……でも、未来なんてわからないだろ。壊れる可能性がないわけじゃない。だけど、俺との関係が変わっても、きっとおまえとの関係は変わらないよ。俺にとっても、美緒にとってもね。それがどれだけ大切なものなのかを、やっぱりおまえは分かってない」
「え……?」
「もしも美緒が一人になってしまった時、もしも美緒が壊れてしまいそうになったら、その時必要なのはきっと、あの子の我慢や臆病さを解いてやれる人間だ。だから、美緒にとって唯一寂しさを素直に言えることのできたおまえの存在を奪ってしまいたくない」
「どうして……」
「俺が誰よりも一番信頼しているのは、紛れもなくおまえだからだよ、泉」
 薫の言葉に、思わず涙が溢れた。
「逆を言えば、おまえ以外の誰かに美緒を委ねるなんてことは、死んでも許せない。それがたとえ美緒にとって良いことだと分かっていても、理解と感情は別だから……」
 美緒のそばにいることを許されたからじゃない。
 薫にとっての自分という存在が、知らない間にこんなにも尊く大きなものになっているということが、嬉しかったのだ。
 いつだって、自分という存在は薫にとって重荷でしかないと思っていた。愛されるばかりで、何も返すことができない自分が歯がゆかった。薫のために出来ることはない。ただ、困らせるばかりだと思っていた。
「俺が平気でこんなことを口にしているだなんて思うなよ」
 すると薫は、静かな声で、少し寂しげにそう言った。
「そこまで理解のある人間でもなければ、優しい人間でもない」
 フッと笑うその表情は、諦めと希望を含んでいた。
「こんな風におまえと美緒を見られるようになるまでは、時間がかかった。以前おまえに、美緒への恋を応援してやれない、と言ったことも嘘じゃないんだ。今でもその気持ちがないと言えば嘘になる。正直、お前の気持ちを考えると心が痛むし、二人の絆に嫉妬もする。でも、俺が美緒の気持ちを守れなかった時にそばにいたのはおまえで、美緒が壊れないように支えてくれたことも、美緒がおまえの気持ちを守りたい一心で泣いてることも全部、それは変えようのない事実で……。でもそれは、元はと言えば俺を思えばこそだっただろう。俺を好きでいようとしてくれる美緒の不安を、俺と美緒がずっと一緒にいられるようにとおまえが支えてくれた。そんな大切な気持ちを、二人の兄であり恋人でもある俺だけは絶対に否定しちゃいけないんだって思った。否定したら、俺の好きな二人を全部否定することになる。だから受け入れたい。だって二人は、俺にとって居てくれないと困る人だからな」
「薫……」
「それに俺は、おまえにも美緒にも自分を誤魔化しながら生きて欲しくないんだ。大事なものは大事。好きなものは好き。そんな気持ちに背を向ける人間が、誰かのために優しくあろうだなんて、そんなことは出来もしない愚かなことだ。……最初は確かに、おまえと美緒をどうしたらいいのか迷った。引き離した方が、互いのためかとも考えた。諦めてくれと、おまえに言おうかとも思った。そんなことは、俺が言わなくたって、おまえは最初から美緒に対する気持ちをどうにかしようと必死で足掻いてたんだってわかってたのにな」
 伏せた睫毛が影を作る。迷いと恐れは常に薫の中にあったのだと知らしめる。
「でもな、泉。俺思うんだよ。おまえ達が出会ってから、俺の前で笑ってくれてたおまえ達は、今までのどんなときよりも、愛おしかったなって。おまえの前で楽しそうに笑ってる美緒が好きで、美緒を大事にしてくれるおまえがすごく大切だった。だから、おまえたちが出会った事は、運命だったなって、そう思うんだ」
 敵わない――。
 そう思い知らされる。
「元はと言えば、美緒に寂しい思いをさせてしまった俺にも責任はある。だから俺は逃げないよ。全部受け止める。おまえも、美緒もね。――受け止めたいんだ」
 ただただ涙が溢れるばかりで、泉は懸命に拳で涙を拭った。
 バカな兄貴だ。こんな時こそ、兄の特権で泉を蹴散らしてしまえばいいのに、たくさん傷つけられたというのに、全てを包みこみ、許してしまうのだから。
「バカだ……。バカだよ薫は」
「おまえの兄貴だからな。否定はできない」
 溢れる涙を拭うことしかできない泉の髪を、薫の細長い指がクシャッと乱す。
「俺にこれからも、ラブラブな二人を見守れっていうの? ……残酷」
「美緒と離れてしまうことの方が、つらいくせに」
「な、何言ってんの……」
「ずっと美緒を見守っていたかったんだろう。そばにいたかったんだろう。……ただそれだけで、幸せだったんだろう?」
 美緒を奪う気などなかった。ただ愛おしくて愛おしくて。そばにいたくてたまらなくて――。
 それすら言ってはいけないと、いつも自分を諌めるしかなかった。それがどれだけ苦しかったことだろう。
 本心など簡単に見透かされて、泉は泣きながら笑うしかない。
 薫の言う通り、美緒と薫が自分から離れてしまうことの方が、泉はつらいのだ。たとえ、恋心が一生叶わなくとも。どうして、この二人はこんなにも自分にとって大きな存在なのか、それすら分からない。
「俺がいない方が、薫にとっては絶対にいいに決まってるのに……」
 そう口にしたのは、自らが思い込むしかなかったことを薫にもう一度否定して欲しかったのか、昔あった温かい居場所を取り戻したかったのか、分からない。
 だが薫は、あえて泉にその答えを求めた。
「なあ、泉。美緒にとって、何が一番つらいのか分かるか?」
 ふと間を置き、これまでの美緒を思い出して考える。
「薫に嫌われてしまうこと」
「それもあるかもしれない。……でも今の美緒には、もっともっと怖いものがある」
「薫と別れてしまうこと?」
「違う」
 薫はおもむろに首を振った。
「俺とおまえが離れてしまうことだよ」
 一瞬――。その意味がよくわからなかった。
「美緒にとって一番大事なのは自分じゃない、自分が大事にする誰かだ。美緒はいつだって、それを最優先に考える。今の美緒が何を一番不安に思ってるか……。それは、自分のせいでおまえと俺の関係が壊れてしまうことだよ」
 そんなこと。
 瞬間的にそう思ったことに嘘はない。
「俺は、美緒とおまえの気持ちのどっちを救うのかと聞かれたら、迷わず美緒だと答えるよ。それは比較しているわけじゃない。おまえのことは信じてるからだ。もう何年も兄弟やってるんだから、それくらいはわかるだろ?」
「ああ」
「だから美緒のために、酷だと分かっていても言うよ。おまえにはここに居て欲しい。おまえにも全部受け止めて欲しい」
 優しい言い方が。ほろほろと心の牙城を崩していく。
「見守るだけでも幸せだと思うなら、美緒のためにも、消えて居なくなろうなんて思うな。……おまえは自分が思っているよりずっと、皆に愛されてるんだから」
 薫は甘い。でもその甘さは油断とは違って、人というものを全て受け入れる広さと優しさを物語っていた。
「そんな甘っちょろいこと言ってたら、そのうち俺が薫から美緒を奪うかもしれないぞ。本気で奪いに行ってもいいのか」
「そんなのは承知の上だよ。……まあ、おまえに取られるほど、落ちぶれちゃいないから安心しろ。おまえにだって、絶対に渡さないよ」
「ひでえ……。言ってることが矛盾してんじゃん」
「おまえなら、とは思えても、おまえに渡したいと思うわけないだろ。死んでも絶対渡すわけない」
「俺のこと、甘く見すぎなんじゃない?」
「いや? むしろ、強敵だと思ってるから、俺も容赦しないと言っているまでだけど?」
「そこは、容赦して欲しかったな……」
「甘いな。俺は、おまえにだからこそ、手は抜かない。それは、おまえが一番知ってるはずだろ」
「仰る通りです」
 涙でくしゃくしゃになる顔を綻ばせながら、泉は微笑んだ。
 薫はただ、泉の髪を無造作に弄って、笑っていた。
 自分の何がダメなのかを責めるのではなく、自分の何が尊いのかを知ることをただ教えてくれる薫の存在は、あまりに大きかった。
 これからも変わらずに、一緒にいたい。恋も愛も関係なく、ただ一人の人間として必要だから。
 それだけの理由で十分じゃないか。難しいことを考えたって、所詮自分の気持ちに嘘は吐けないのだから。


「なあ、薫。美緒に会いにいけば?」
「……ん?」
 気持ちが穏やかになった途端、胸を過ぎったのは、薫の隣で幸せそうに笑っていた美緒の姿だった。
 思えば、そんな美緒を好きになった。
「無理矢理にでもいいじゃん。美緒が薫を好きなことには変わりないんだから、無理矢理連れ戻せばいい。美緒はきっと薫が強く求めたら、嫌とは言わないはずだよ。美緒をそばに置けるのは、薫しかいないんだから」
 それは正直に望む気持ちでもあった。
 だが、薫にはその気持ちが伝わらなかったのか、視線を落とすに過ぎなかった。
「そうかもしれないな」
「だったら……」
「でも、俺から少しだけ距離を置いた」
「えっ。距離を……置いた?」
 泉は自分の耳を疑った。
「今の美緒は、まだ俺を選ぶほどの勇気はないよ。自分を責めてばかりで、自然に笑うことすらできない。だから、俺から距離を置いたんだ」
「別れた……ってこと?」
「違うよ。美緒に自分で考える時間を与えただけだ。今まで俺たちは、俺が美緒の手を引いて、俺が美緒の気持ちを追いかけて掴まえて、そんなことの繰り返しだったんだ。美緒の気持ちがなかったわけじゃない、むしろお互い想い合ってはいたけど、いつも何かが欠けてた」
「欠けてたって、何が?」
「美緒はけして自分から強く俺を求めない。臆病で自信がなくて、求めることで俺に嫌われたらって考えてる。そんなこと絶対あるわけないのにな。それを俺が伝えて引き止めて、それでも別に構いはしない。――でも俺は、もっと美緒に愛されたいんだよ」
 鮮やかにサラリと言ってのけたセリフに、泉は呆気に取られる。
「美緒は元々自分のワガママな気持ちだけに生きられる女じゃない。いつも他人のことばっかりで、自分の事は控えめで。でもだからって、全ての気持ちを押し殺していいわけがないだろう。欲しいものは欲しい、好きなものは好きだって主張することも大事だよ。何かを傷つけて押しのけてでも、大事にしなきゃいけない何かまで、失って欲しくない」
「それは確かに、そうかもしれない」
「あの子はもっと、自分の気もちだけに貪欲に生きることを覚えなきゃいけないんだよ」
 泉は妙に納得して、頷いた。
 美緒の控えめな性格は可愛らしくもあるが、時に歯痒くもなった。
「だから、俺から一歩引いて、美緒の出方を待ってみることにした。美緒に、もっと俺のことを考えてほしかった。自分自身の気持ちとちゃんと向き合ってほしかったんだ。今頃はきっと、まさか俺がこんな風に離れるなんて想ってなかった分だけ、色々悩んでるだろうなあ。置いていかれたと思って怯えてるかもしれない」
 どこか意地の悪い笑みが、やけに引っかかる。そして、最愛の兄の腹黒い思惑に気付いてしまった。
「まさか」
「ん?」
「悩んでるだろうなあ……って。試したってこと? ならその場で答えを待てばいいじゃん。可哀想に」
 謀られたとも知らずに置いてきぼりにされた美緒を思うと、少しばかり同情した。それが、美緒にとっては必要なことだとはわかってはいたけれど。
「おまえはまだまだ美緒のことがわかってないな」
「分かってないって、何が」
「たとえば美緒にその場で答えを求めたら、きっと自分を引いた答えしか出せないよ。一度強がった手前、絶対に自分が我慢をした答えを出す。俺はそんな答えは欲しくない。俺の前で我慢なんてさせたくないんだ。でも、少し距離を置いてやれば、是が非でも自分の本心と向き合うだろう? 俺が離れるかもしれないと思えば、それこそ我慢の価値と自分の本心を天秤にかけるさ。失うものの価値が分からないほど、美緒はバカじゃないしね」
「だから、別れるでもなく、距離を置いたってこと?」
「完全に失ったものよりも、手の届くところにあっても掴まえられないものの方が、人間は後悔も欲も感じられるものだからね。本当に欲しければ、必ず奪いに来る。見えない背を追うことはできなくても、見える背には手を伸ばすだろう?」
「それを分かっててやるんだから、やっぱり薫はどこか歪んでるというか、屈折してるよな」
 その愛し方も、優しさも。
「どれだけ傷つけ合おうと、どんなやり方を駆使しようとも、俺は美緒を手放す気はないんだよ。これで美緒が自分から本当に欲しいものを求められるなら、言うことはないだろう?」
「……鬼畜っすね」
 皮肉な笑顔は、ピクリとも崩れない。
「何とでも」
「そんな風に踊らされてることも気付かないんだから、お見事です」
「それは美緒に限らず、おまえもだな」
「……ごもっともです」
 泉は呆れたように笑った。だが、泉が思うよりも、薫の心中は複雑に渦巻いていた。
「まあ、好きでやってるんじゃないさ。これでも、俺は俺なりに抱え切れないくらいのリスクを背負ってる。最悪な結果になる可能性が少なからずある分、不安にも思う。本当に欲しいもののためじゃなきゃ、こんなことできないよ。それに、美緒に伝えた言葉はどれも嘘のない本心だ。駆け引きなんて、あの子の前だとただ本心を曝け出してるのと変わらない。美緒の泣き顔をもう見たくない。そのためなら、俺はどんな我慢もできるよ」
「でも、だからって身を引くなんて真似、そんな賭け、俺にはきっとできない」
「俺は美緒に恋がしたいんじゃない、美緒と――恋愛がしたいんだよ」
 目を伏せたままフッと微笑む薫の横顔に、泉の視線は釘付けになる。美しかった。
「恋は一人でもできるよ。誰かを愛おしいと思う、誰かを幸せにしたいと思う、でもそれが一方的なら、それはただの恋だ。愛じゃない。今俺が美緒を一方的に求めたところで、美緒が同じように向き合ってくれないなら、それは愛し合うということにはならない。愛情は、二人で育てていかなきゃ意味がないんだよ。だから俺は、美緒が逃げずに飛び込んで来てくれるまで、待つ――」
 その時初めて、泉は『恋愛の定義』というものを知った気がした。
「もしもの話だけど」
「ん?」
「もしもいつか俺が美緒を手放すことがあった時、もしもその時おまえが美緒を大事に思ってくれていたなら、その時は美緒のこと頼むな」
「手放すなんて、そんな日来ないくせに」
「だから、もしもだって言っただろ? もちろん、手放す気なんてないよ……」
 少し弱々しい語尾に何故か気を取られ、薫の方を見やると、薫はただ俯き加減で苦笑を零しているだけだった。だけれど、そんな儚い表情が、泉の中に大きな不安として残ったことは否めなかった。
 以前感じた薫の『脆さ』が、またちらりと掠めたのだ。何なのだろう、この『脆さ』の正体は。
「薫なら大丈夫だよ。そんな風に何に迷わされることなく、誰かのことを強く思えるのって、やっぱ凄いなって思う。……薫ほど強くない俺は、もし俺が薫の立場なら、そんなこと言えないかもしれない」
 薫は、ゆっくりと首を横に振った。
「それは違う。俺は強くなんてないよ。むしろ美緒に出会ってなかった頃の方が強かった。美緒に出会っても、今の俺に比べたら昔の方が毅然としてた。誰かを好きになるってことは、誰かのために己を捨てることができるほど強くなれるけど、その分、その人の存在が大きくなればなるほど、臆病になって脆くなる。かけがえのないものだと自覚すればするほど、自分の弱点を大きくしていくようなもんだよ。自分を守るのは簡単だ。でも、愛する何かを守ることは、容易いことじゃない。それだけの覚悟も恐怖もリスクも一緒に背負うということなんだから」
 『脆さ』の正体がふと、泉の目に映った。
「それだけ、美緒の存在が俺にとって大きくなってしまった――ということかもしれない。でも、それがどれだけ幸せなことかを教えてくれたのも美緒だ。そしてそれは、俺にとってのお前も、美緒にとってのお前も一緒だよ、泉。美緒にとってのおまえも大事過ぎるから、あの子は自分を傷つけて耐えてでも、おまえを守ろうとするんだ。自分の幸せよりも、おまえの幸せを容易く選んでしまえるくらいにね。俺も同じだ」
 花を綻ばせたような優しい微笑が泉を捉えた途端、泣きそうになってしまうのは、それだけ愛されているのだという証拠かもしれない。
「なあ、泉。俺は、おまえが自分の弟であることを恨んだことなんて一度もないよ。おまえが弟で良かった。おまえがいなかったら、今の俺はなかっただろう。きっと心の寂しい人間に育っていたと思う。おまえを守っているようで、その存在に守られていたのは俺の方だった。おまえは、今までもこれからも、自慢の弟だよ。……ありがとう、泉。おまえがいてくれて、俺は本当に幸せだった」
 この日の薫の言葉を、泉は後世胸に刻むことになる。
 涙と共に胸に響いた言葉を。
 この時の、薫の優しい声色と瞳の色を。
 そして心から愛した、彼女への熱情を。
 誰かに出会えたことと、自分がこの世に生まれたことを、初めて心から感謝した瞬間だった。

 ありがとう。
 深海のような深く柔らかい優しさに包まれて、自分が生まれた意味を思い知る。
 貴方がいなければ、今の僕はここにはいなかった――。
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