華水の月

77.君の傍にいたい

「産むことに決めたわ」
 彼女が懸命に出した答えは、彼にとっては驚くまでもなく自然なことだったのだろう。
 優しく受け止め、『そうか』とただ一言答えるだけだった。
「驚かないのね」
「君ならそう決断するって、分かってたから」
 何故――。
 そう疑問が浮かんですぐさま消える。いつだってそうだった。自分の思う一歩前を、彼は必ず行く人だった。
「分かってたなら、もっと前にそう言ってくれたって良かったじゃない」
「君は、自分で決めたこと以外受け入れない人間だと知っていても?」
「薫の言葉だったら、聞いたかもしれないわ」
「いや、それは愚問だよ。今君の心に一番響く声を持っている人は、俺じゃない」
 そうだろう? と瞳で問われ、麻里は苦笑を零した。
 些細な表情の変化でさえ、見透かされる。そんな察しの良さや、過ぎた優しさに苛立ったこともあった。大らかな愛し方に本気で愛されている情熱を感じなくて、不安な気持ちを理不尽にぶつけたことさえある。思えば不満ばかりをぶつけていた。大事なのは、優しくされることや愛されることを当たり前と思わず、少しでも感謝する気持ちを持つことだったのに。
 だがそれは、麻里にとってはもう、昔のことになっていたということを、この時気付いた。過去を悔いても、薫に対する激情は胸を過ぎらない。目の前の愛おしい人はもう、淡い思い出という光の中にこそある存在なのだと。
 そして、今の麻里には、それよりももっと愛おしい存在がいた。
「彼には、もう伝えたのか?」
 問われ、少し俯く。
「うん。一緒に、病院にも通ってくれてる。毎日一緒に居てくれてるわ。心配性だから」
 思い出すと、すぐさま笑みが零れてくる。麻里を心配する彼の姿は滑稽ながらも、不器用で、温かかった。
「そっか。……しかし、君には過ぎた人だよな」
「ちょっとそれどういう意味よ。祐介が私には勿体無いって言いたいの?」
「いや、ちょっとした独り言だよ」
「独り言は、聞こえないように言って欲しいわね」
 二人顔を見合わせて、クスクスと笑った。
 笑い合って、その後麻里は、少し憂う表情を見せた。
「でも、これ以上祐介に甘えてもいられない。母親らしく、しっかり一人で立たなきゃ」
「彼は、そんなこと望んでいないと思うけどね」
「そうね。……そうかもしれない」
 まだ言葉にこそされたことはないが、これから先もずっと麻里のそばにいることを、祐介は望んでいるように麻里には思えた。麻里だけではなく、腹の子さえも何も聞かず受け入れてくれた祐介。
 でも、そんな優しい彼を、縛るわけにはいかない。子の父親にしてしまうわけにはいかなかった。常識で考えれば当然だ。血の繋がりも何の責任も負わない子と女を、一生背負わせるわけにはいかない。
 麻里は、今だけではなく、未来をもしっかりと見据えていた。
「でも、この子は私一人の子だから。誰にも迷惑をかけないようにする」
「それは違うよ結城先生。人は誰しも迷惑をかけながら生きてるんだ。そうして人の温もりや愛情を覚えていくんだから」
 諭す優しい声が、胸に突き刺さる。
「そうね。この子には、母親しかいない分、愛情に飢えない子に育って欲しい。人の痛みも人の愛情も、沢山感じられる子に」
「君もだよ。君も、包まれている愛情を惜しみなく感じられる人にならなきゃ」
 薫は優しげな目元を細めて麻里を見つめていた。
 こうして優しく見守ってくれる眼差しがあることに、麻里は深く感謝する。薫がいなければ、きっと何も救うことはできなかった。ずっと彷徨って、何の光も希望も見つけられなかった。時に突き放す冷たささえ、麻里にとっては必要だったのだと気付かされる。
 そして、一人ぼっちの麻里を救ってくれたのは、他ならぬあの人だった。
「薫には、決心したことを伝えたかったの。私、頑張る。だからもう心配しないで」
「俺は、いつだって君の選んだ道を応援してるよ」
「貴方がそう言ってくれたから、救われたのかもしれないわ。……ありがとう、薫」
「仕事の面も、出来る限りサポートする」
「よろしくお願いします」
 居直り、深く頭を下げる。今その場でできる限りの誠意のつもりだった。
 いずれ、お腹が大きくなってくれば、仕事に支障をきたすのは否めない。未婚での妊娠となると、波紋も広がるだろう。もしかしたら、退職も余儀なくされるかもしれない。その点も、薫はちゃんと見越している。不安要素は尽きないが、薫が居てくれることが何よりも有難かった。
 正直、こんなにも頼れる男はいないからだ。

「あ、そういえば」
 白衣の隙間から覗く薫の胸元に、淡い薄紅の光を見つけて、麻里は悪戯っぽく笑った。
 薫のネクタイには、今日もキラキラと控えめで上品に光る薄紅の石が止まっている。
 この秘密を知っているのは、もしかして自分だけかもしれない。そう思ったのだ。
「ねえ、薫。そのネクタイピン。ピンクダイヤモンドでしょ」
「どうしたんだ、急に」
「真中さんも同じ石のネックレスをしてる。きっと貴方がプレゼントしたものだわ。そうでしょう」
「……何のことやら」
「とぼけたって無駄。大人の女の目を誤魔化せるなんて思う方が、野暮よ」
 薫は肩をすくめて観念した。
 麻里は、触れそうなほど近くで薫のピンクダイヤモンドを見つめると、溜め息を零した。
「だからあの時、触るなって言ったのね。これは、真中さんそのものだったから……」
「ああ」
「いくらおねだりしたって、私には絶対買ってくれなかったのに。ダイヤモンド」
「まあ、その辺のことは……」
「あまり聞くなって?」
 昔のやりとりを思い出し、薫は居心地悪げに麻里から視線を外す。
 二人が付き合っていた当時、麻里はよく薫にダイヤモンドのアクセサリーを強請った。だが、いつも同じ理由で拒否されていたのだ。その理由にたどりつけるまでは、ダイヤモンドはお預けだと。
 結局麻里が手にすることができなかった薫からのダイヤンドを、美緒は既に手にしていた。
 それがどういう意味を持つのか、美緒は知らない。
「真中さんには、このダイヤモンドの秘密、話したの?」
「いや、何も」
「どうして? きっと喜ぶわ」
「あまりに自然と選んでしまったから……。覚悟よりも先にね。だから、伝えるのはもう少し後でもいいかなって、そう思うんだよ」
「そう。……本当、憎らしいわね」
 フン、と鼻をならして、麻里は悪戯っぽく笑った。何なら、自分がばらしてしまおうかとさえ思った。
 確かに思い合っているのに、ゆっくりなペースで恋愛を重ねていく彼らの姿が、少し羨ましかったのかもしれない。そんな二人を微笑ましく見守ることができるようになった自分が、とても好きだと麻里は感じていた。
 だけれど。
「だけど、美緒とは離れてしまったから、もう伝えることもないかもしれない」
 それは、落胆と言うよりもずっと簡単に零した一言だった。冗談の一言でも口にしたような、そんな雰囲気。
 だが、困ったように笑いながら言った薫のその一言に、とてつもない罪悪感で包まれた。




「……うーん。ゆうすけ……うるさい」
 ピピピピという派手な電子音に脳内を掻き回され、麻里は布団を頭まで被りこみ、隣に眠る男の背を強引に押した。無防備な肩はゴロンと回転し、麻里の傍から呆気なく放り出される。簡単にベッドから落とされ、床に鈍い音を立てる体。腰に走る痛みが強烈で、落とされた彼は思わず呻いた。
「痛え……」
 落とされたその声の主は、のそのそと起き上がり、打ちつけた腰をさすりながら、麻里の頭上にある目覚まし時計を止めた。そして再び、布団の中へと潜りこむ。自分の方に背を向けている麻里を、背中から抱きしめ、すっぽりと腕の中におさめてしまった。
 麻里が抵抗を見せないのは、こうして眠るのが当たり前になっているからだ。髪に鼻を埋め、甘い匂いを嗅ぎ、再び眠りへと落ちていく。
 だがそこで、さっき鳴った電子音のことを、ハタと思い出した。
「あ! ヤバイ! 仕事!!」
 ガバッと布団ごと起き上がる。
 その弾みに、抱きしめられていた麻里はゴロンと転がされ、あからさまに不機嫌な声を彼に投げた。
「もお……今日は休みよ。バカ祐介」
 布団返して、と、彼から布団を奪い取る。そしてすぐさま、穏やかな寝息を立て始めた。
 一人取り残された祐介は、もうすっかり見慣れるようになった麻里の部屋を見回し、ハァと大きな溜め息をついた。
 今日は金曜だが、祝日だったということをすっかり忘れていたのだ。

 奇妙な同棲生活が続いていた。
 麻里から妊娠の事実を聞かされた日から、祐介はずっと麻里の家に居座り、傍を離れなかった。
 その日の夜、ありとあらゆる荷物をスーツケースに詰め込んで、麻里の家を訪れた時の彼女の表情と言ったら、今でも滑稽で忘れることができない。
 帰れと彼女は何度も言ったが、祐介はそれにけして頷かなかった。麻里の抵抗を無視し、部屋の中を簡単に見て回っただけでも、彼女が随分と殺伐とした生活を送っていることが見て取れた。冷蔵庫の中はほとんどが空っぽ。何故まともな食生活をしないのかと問い詰めると、つわりで何も喉を通らないという。青白い顔をして、痩せてしまった華奢な体をしていて、よくも大丈夫だとぬけぬけと言えたものだ。とりあえず、麻里が少しでも普通の生活を送れるように努めなければならない。まずは食事からだと、祐介は考えていた。外食でも簡単なものでもなんでもいい。吐くのが嫌だから、と駄々をこねる麻里に無理矢理にでも食事をさせる。つわりで吐いてしまう時は、構わず彼女のそばに寄り添い、背をさすった。そんな些細なことの繰り返しは、少しずつ麻里の日常に浸透し、痩せていた頬も少しずつ膨らみが戻っていった。
 食事だけではなく、寝る時も二人は一緒だ。幸い麻里のベッドはセミダブルだということで、二人で一緒に寝るのに不自由はしなかった。最初はソファで寝ようとしていた祐介だったが、分かれて眠ろうとした一日目。寒くて眠れないと、麻里が祐介を起こしに来た。ベッドに移ると、麻里は祐介の腕の中で無防備に体を丸め、すぐさま穏やかな寝息を立てた。
 妊娠している身で、彼女を抱く気など毛頭ない。キスもしていない。だけれど、抱きしめて眠り、腕の中に麻里の温もりを感じるだけで、祐介は安心を得ていた。一緒に目覚め、一緒に食事をし、一緒に笑い、一緒に眠る。ただそれだけの毎日の中で、次第に二人は、それまで気付くことのなかった愛情を覚えていった。
 時間はいつも、ゆっくりと流れている。その穏やかさが、ささやかで優しいのだ。
 特に麻里は、祐介がそばにいるという安心感を、これでもかというほど感じていた。
 薫が言った、『君の周りに溢れている幸せ』の意味が、少しずつわかるような気がしていた。


「麻里も俺も、料理の才能はないね」
 皿の上に無造作に投げ出された黒焦げになったオムレツを見つめながら、麻里の背後で祐介が溜め息をついた。
 すかさず麻里が振り向き、反論する。料理をするためにアップにした髪、その隙間から覗く白いうなじがやけに色っぽくて、祐介は見惚れていた。
「ちょっと祐介! 変なとこ見てないで私の話ちゃんと聞きなさい!」
「麻里のうなじは変なところなのか?」
「屁理屈言わないの。第一、人が真剣に話してる時に、うなじに見惚れるってどういうことよ」
 菜箸を持った手を、祐介の前でブンブンと振る。
「不謹慎だわ!」
「うん、不謹慎かも」
「かもって」
「おまえの言うとおり不謹慎なんだ、俺」
 本人の気持ちを無視して家に押しかけ同棲生活を始めるくらいなのだから、それくらいの無謀な度胸はあって然り。
「もう! 簡単に認めないでよ!」
 麻里が更に怒ってみせる。
 それがなんだか愉快で、祐介はニコニコと笑うばかりだ。少し前まえでの麻里なら、こうして食事を作ろうとすることも体が辛くて無理だったのに、今は随分と元気な姿を祐介に見せてくれている。お腹空いたな、と祐介がポロッと零しただけで、何か作ってくれようとする姿は、可愛らしかった。
「元はと言えば、私が真剣にオムレツ作ってる横から祐介が口を出したのが悪いのよ。せっかく上手にできたかもしれないのに」
「初の成功?」
「うるさいわね」
 ニヤッと笑うと、額に菜箸がピシャリと飛んできた。
「でもさ、それは違うよ。だってオムレツが今にもスクランブルエッグになりそうだったから、早く巻かないとって急かしただけじゃないか」
 熱したままのフライパンに水をかけると、ジュッとした音がした。
「急かすからいけないのよ!」
「でも結果、こうして黒こげなわけだから、急かしたところで遅かったってことだな」
 ハハハと祐介が豪快に笑う。
 いくら麻里が睨んで見せても、祐介の前だとその意味を為さない。のれんに腕押しとはこのことだ。祐介の大らかさは、些細なことじゃビクともしないのだ。
「何よ、祐介だって料理へたくそなくせに!」
「うん、だから言ったじゃん。麻里も俺も料理の才能はないねって」
「一緒にされたくないわ」
「上手じゃない時点で一緒じゃないかな。どっちが作っても、大差ないだろ」
「目玉焼き一つまともに作れない人に言われたくないわね」
「あれは急遽スクランブルエッグにしたんだから、結果オーライじゃない?」
「玉子の殻入りのスクランブルエッグだったけどね。ったく、祐介はいつものんびりしてるんだから」
 麻里が溜め息を吐くと同時に、祐介の口角も上がる。
「料理なんて楽しければそれでいいじゃん」
「食べられなかったら、意味ないじゃない」
 それでもやっぱり憎らしくて麻里が口を尖らせていると、今度はジュウと何かが吹き出す音がして、二人の視線はすぐさまそちらへと促された。
「ああ! ポタージュが!!」
 すぐさま火を止める。鍋からはポタージュが溢れ出し、コンロを酷く汚していた。焦げた匂いが鼻にツンとする。
 温めるだけのコーンポタージュを、鍋に入れて火にかけていたのだが、会話に気をとられていた麻里は、すっかりそのことを忘れていた。
「うわあ、スープが焦げるのって初めて見たよ。さすが麻里」
 祐介が楽しそうに微笑みながら、鍋の中をへらで掻き回す。
 鍋の底には、しっかりと焦げ目があとを残していたのだった。


「なかなか落ちないなあ、この焦げ」
 焦げた鍋に水を張り、へらで焦げ目を落としている祐介の背後へと声をかける。蛇口から細く落ちる水の流れをじっと見ている。
「ねえ、祐介」
「ん?」
 祐介が穏やかに返事をする。そんな些細なやり取りが心地よい。
「幸せって、何だと思う?」
「幸せ?」
「そう、幸せ」
「唐突だな。何で急にそんなこと聞くの?」
「私にはよく分からないから……」
 麻里は未だに、何を幸せと呼ぶのか分からずにいた。と言うよりは、漠然としすぎて掴めずにいた。
「さあ。どうなんだろうね。人によって価値観は違うけど……俺の場合は、好きな人が笑っていてくれたらそれだけで幸せだよ。とっても普通だけどね」
 麻里は祐介の隣に立ち、左腕にそっと額を押し当てた。
「好きな人が笑ってくれていたら、それだけで自分も嬉しくなる。嬉しいことを一緒に嬉しいって感じられたら、それって幸せなんじゃないかな。幸せは作ろうと思えばいくらでも増やしていけるものだと思うよ」
「ふーん」
「だから、そんな顔をしてる麻里を見てるのは、ちょっと寂しいかな」
「え?」
 ハッと顔を上げると、シャープな顎のラインが目に入った。
「傍にいられるようになって、以前よりはずっと幸せになったけど、でも麻里がそんな顔をしているのは寂しい」
「そんな顔って……」
「いつもはニコニコ笑ってるのに、ふとした瞬間どこか遠くに意識が飛んじゃうだろ。何を考えているのかまでは詮索しないけどね」
 麻里はそっと目を閉じた。祐介はいつだって、麻里の心を察してくれようとする。そして、絶妙の距離感で見守ってくれていた。麻里には出来ない、そんな優しさを持った人だった。
 脳裏にふと過ぎる。それは愛らしい少女の姿。
 穏やかな毎日の心地よさを知ってから尚、彼女への罪悪感だけが募る。
「何を幸せって言うのか、私にはまだよくわからないの。でも私ね、お腹の赤ちゃんと祐介のことが誰よりも大事よ。絶対に幸せになって欲しい」
「うん」
 奪ったものの代償は大きく、それを取り戻すことがどれだけ難しいのかということを、今になって知った。
「でも、同じくらい幸せになって欲しい人がいるの」
 何を今更。
 彼女にそう罵られたって仕方がない。
 でも思うのだ。
「誰かを傷つけて、誰かを不幸にして、そんな事実の上に成り立つ幸せなんて、本当の幸せじゃないわよね」
 美緒の涙が胸を過ぎる度、麻里は引きちぎられるような胸の痛みに耐えていた。
 子を授かってから知った。祐介がいてくれることの当たり前さが、どれだけ尊いものなのかを知って初めて。
 美緒が耐えたもの、美緒が麻里へと向けてくれた優しさは、彼女の気持ちをどれだけ犠牲にしてきたものなのかを。察することが出来ず自分勝手に振舞ったことが、どれだけ愚かだったのかを。
 お腹に鈍い痛みが走る。
 貴方もそう思うよね――。
 そう心の中で呟きながら、麻里は腹をさすった。
「人の不幸の上に成り立つ幸せか」
 肩に触れたままの麻里の頭を、祐介の手がポンと撫でた。
「誰も傷つけずに生きられる人なんて、いるのかな」
 いない。でも、できるなら誰も傷つけたくはない。
「互いに傷つけあっていたのなら、その方がずっと良かったのよ。――でも、私は一方的に傷つけたの。優しい心を踏みにじったわ」
「なあ、麻里」
 祐介の両腕が、ゆっくりと麻里を抱きしめる。
「麻里の傷つけてしまった人は、君の不幸を望むような人なの?」
「え……?」
「優しい心を踏みにじったと、そう言ったね。少しでも君を想ってくれたその気持ちを裏切ったと、後悔しているんだろ?」
「……うん」
「なら君は、その償いを態度で示さなきゃいけないよ。悔やんでいるのなら、これ以上、その人を裏切っちゃいけない。でもそれは、君の不幸をもって返すんじゃない。自分を貶めることが、誠意にはならない」
「でも……」
 抱きしめる腕に力が篭る。その力強さは、麻里に安心をもたらす。
「少なくとも俺は、おまえにこれ以上傷付いて欲しくない」
「祐介……」
「人の傷を、自分の傷では償えない。その人が君に優しくしてくれたのなら、尚更だよ。大事なのは、麻里がその人に対してこれから何ができるか、じゃないかな」
 涙が目元を覆い、細い肩は震えていた。
「あなたは私のように、誰かを酷く傷つけたことがないからそんなことが言えるのよ」
「たとえ、そうだとしても」
「そんなに単純なことじゃない。……何が出来るかなんて分からない」
「うん」
「分からないから……傷つけてしまったんだもの」
「今でも、分からない?」
 やんわりと問われて、麻里は押し黙る。
「分かりたいと思っているなら、麻里はもう大丈夫だよ」
「…………」
「不器用な人だね。でも俺は、だからこそ麻里を守りたい。だからせめて、自分を傷つけることだけはしないで」
 温かい――。
 祐介の言葉も体温も空気も、全てが温かかった。
 許されているような錯覚を起こすほど、祐介の優しさにズルズルと引き込まれる感覚に次第に逆らえなくなっている。
 麻里にとって祐介はかけがえのない大事な人だ。
 だが、大事だと思う気持ちが、この先何に繋がるのか今は分からない。
 激しく人を愛したことしかない麻里にとって祐介は、愛しているとは言えない距離。
 祐介の存在はひたすらに優しく柔らかく心地良い、でもそれが彼を愛しているということなのかと考えれば、まだよく分からなかった。
 祐介を失いたくはない。
 そう思うのは、一人でいることの不安、寂しさ、その弱さを祐介に頼っているだけの、自分勝手な我侭なのかもしれない。
 不透明で曖昧な関係を思いながら、だが麻里は祐介の気持ちを察した上で、自分の未来に彼を連れてはいけないとそう思った。
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