華水の月

9.ストロベリーキス

「この子、泉の彼女?」
 泉がエリカと呼んだその女は、美緒をじっと睨み付けながら、泉にそう問うた。
 だが、泉はそんな彼女のことなど気にもならないのか、自分のアイスクリームを黙々と食べている。返事をしない泉に苛立ち、エリカが美緒から視線を外した。
「人が聞いてるんだから答えなさいよ」
「なんで?」
「なんでって……」
「なんで俺がおまえに、そんなこと答えなきゃなんないの?」
 情のない物言いに、美緒が不安げに泉を見上げた。その視線に気付いたのか、アイスクリームを食べながらニッコリと笑って、美緒の頭をポンポンと軽く叩く。美緒からエリカへと視線を移すと、そこにはもう優しい眼差しなど欠片もなくなった。
「例えば俺が、こいつは俺の彼女だって言ったとしたら、おまえに何か得があるの?」
「……少なくとも、この子には得があるんじゃない?」
「どんな?」
「泉が、どれだけ酷い彼氏かってこと、教えてあげられるじゃない」
 引きつった表情で、それを言うのがやっとと言ったエリカの様子に、彼女が泉の元彼女であることを悟る。あまりの居心地の悪さに、美緒が俯いた。それを、落ち込んだと言う風に取ったのか、エリカは少し満足そうに笑った。
「女を女だとも思ってない。好きにさせるだけさせて、後のことは全然無関心。恋愛をただの遊びだと思ってる冷血漢な男ってね」
「ふーん。おまえの中の俺ってそういう男だったんだ。なんか、可哀想」
「可哀想って……どういう意味よ」
「そんな俺しか見られなかったおまえが可哀想って言ったの」
「何よそれ……。じゃあこの子は違うっていうの?」
「少なくとも、おまえのことよりはずっと大好きだよ。なあ? 美緒」
 泉が美緒をみてニッコリと微笑む。
 何を言おうとしているのだろうか。まさか、彼女だと紹介するつもりなのではないかと、一瞬美緒の心の中で焦りが募った。
 優しく見る泉とは対照的に、エリカは美緒を睨みつける。まるで、憎悪の対象が泉から美緒に移ったかのようなその目に、美緒は居たたまれなくなって視線を泳がせた。女とは、なぜにこんなにも同性に嫉妬する生き物なのだろう。いくら美緒に悪いところがないと言えど、エリカにはどうでもいいことなのだ。泉の彼女、それはすなわち、泉と同じくらいの嫉妬の対象になる。
「最初から遊びだってわかってて付き合ってたんだろ? それなのに、なんで俺が文句言われなきゃならないわけ」
「あんたは遊びのつもりでも、私は……違うわ」
「最初はおまえだって遊びのつもりだったじゃん。それが心変わりしたからって、俺に関係ないよ」
「そういうところが……冷血漢だって言うのよ」
 この女は、まだ泉のことが好きなのだ。睨みつける目に、涙が溢れてくるのを見て、美緒はそう思った。自分も恋をしているからわかる。その目には、泉に対する愛しさと、憎しみがこもっていた。きっと、好きな分だけ、憎しみも深いのかもしれない。
 けれど、泉にはそんな彼女の気持ちはわかるはずもなく、ただ平然と彼女を見つめた後、美緒の肩に手を回し引き寄せた。
「生憎、俺は今幸せだからさ。そんなこと言われてもどうにもできないよ。ほら、美緒がびっくりするから、やめてくれてない?」
「やっぱり……彼女なんだ……」
 憎しみの色から、寂しさの色に変わった瞬間を見逃さなかった。彼女のそんな表情に少しばかり胸の痛みを覚えて、戸惑いを隠せなくなる。
 ここで、やはり違うと言った方がいいのだろうか。それとも、泉の成り行きに任せた方がいいのだろうか。考える間もなく、沈黙の間は去り、そして泉は答えた。
「そうだよ。新しくできた俺のカノ」
「人の彼女捕まえて何してるんだ?」
 泉が言い切る前に、被さるように重なった声。背後から聞こえたその声に、振り返ろうとしたが、その間もなくあっさりと抱き寄せられていた。胸の前で交差する腕。
 なあ、美緒。と耳元で囁く声に、それが誰なのか、見ずともわかった。
「薫!」
 泉が、驚きを隠せず名を叫んだ。エリカも急な展開に驚いているのか、薫を凝視したまま、視線を離せないようだった。
 わけもわからず、ただ鼓動だけがドキドキと高鳴り、美緒は、自分を抱き締める薫の腕に触れるのがやっとといった様子で、次の展開を待った。
「勝手に俺の彼女取らないでくれない?」
 自信ありげな薫の声に、泉はさっきまでの冷静さとは逆に、焦りを隠せない様子だった。
「な、なんでこんなとこにいるんだよ」
「こんな修羅場に巻き込まれて怖かっただろう? バカな泉のことはほっといて、さあ、行こうか、美緒」
 泉の質問にはあえて答えず、薫は美緒を抱いていた腕をほどき、彼女の肩を抱くと、颯爽と店内を後にした。

「ねえ。あの人誰? めちゃめちゃ格好いいじゃん」
 ポツンと残された二人。最初に口を開いたのは、エリカの方だった。
 どうやら、薫の姿に見惚れていたらしく、さっきまでの険のある雰囲気は全く残っていない。泉に向いて問い掛ける。あわよくば知り合いに、とでも思っていたのだろうか。
 だが、泉はあまりの驚きに何も考えられず、ただ二人が去って行くのを見ていた。


 店内を出たかと思うと、すぐさま近くのビルの間にある路地裏に連れ込まれた。
 途端、遮られる光。だけれど、その分、薫の表情を間近に感じた。
 ドキドキと高鳴る鼓動。それくらい近くにある彼の存在に、美緒は薫をまともに見られない。背中を壁に押し付けられ、体の両脇に腕をつかれ、吐息が触れるほどの距離感で美緒を見る瞳に、恥ずかしくてたまらなくなる。
「俺のいないところで何浮気してんの?」
「えっ……浮気なんて……あの……」
「ダメだろ。勝手に、彼女だなんて言わせたら」
「あ、あれは泉くんが……」
「しかも、肩まで抱かせて……。この体は俺のものだってこと、もう忘れたのか?」
 彼の指先が、唇から首筋を辿って胸元へと下りていく。それを追いかけるように、唇が喉元へと押し付けられた。
 ビクリと跳ねる体。触れるだけの愛撫に反応する美緒を、薫は楽しげに見つめている。その目には、いつもの意地悪な色を浮かべながら。
「忘れたのなら、もう一度教え込まないといけないかな」
「先生……?」
「俺のこと以外、何も考えられなくなるように……」
 美緒が手に持っていたアイスクリームを引き寄せて、舌でそれをすくった。口に含むとすぐに、美緒の唇を指先で少しだけ開かせ、そこへ容赦なく唇を重ねていった。忍び込む彼の舌先。まるで何もかもを奪うような激しい口付けに、美緒はいとも簡単に快楽の中へと堕ちていく。
 甘いストロベリーの味が、あまりにも濃厚に美緒を犯した。薫から与えられるその甘さに、貪欲にそれを欲して自らも舌を絡み合わせる。触れ合う感触が心地よい。薫は美緒の腰を引き寄せると、より深く口付けを交わした。
「美味しい?」
 キスの合間に囁かれた問い。
 薄目を開けて、薫の姿を瞳に写すと、色っぽい彼の視線に心ごと攫われた。
 いつものことなれど、本当に男なのかと見紛うほど薫は色っぽく、その色香は触れるもの全てを彼の色へと染めてしまうのだ。薫が触れると、その場所から美緒の体は彼の色を帯びる。
「なあ、美緒。俺まだデザート食べてないんだけど」
「デザート……?」
「昨日の夕食、どれもすごく美味しかったのに、デザートだけなかっただろ」
「え……ちゃんと用意しましたけど……」
 虚ろな目で彼を見る美緒を、慈しむような微笑で返して、薫はまた彼女の唇にキスを落とした。夢か現かもわからないような美緒の表情は簡単に薫の欲情を煽る。美緒が与えられている快感が、すぐさま薫に跳ね返っていくように。
 結局、溺れているのは、どちらかわからない。それくらい、二人がいる海は深く、波は揺れるのだ。
「泉のせいで食べ損ねたんだ」
「え……泉くんが先生の分まで食べちゃったの?」
 あれだけアイスクリームをこよなく愛する彼ならば、やりかねないと思った。きちんと、二人分のシャーベットを用意していた。だから、薫が食べていないとなると、やはり泉が……。
 けれど、そんな美緒の思惑とは裏腹に、薫の手が美緒の胸元へと伸びる。思わず触れられた感覚に、美緒の体が反応した。
「違う。……泉のせいで、美緒を食べられなかったって言ってるんだよ」
「え……」
「本当はあの夕食、二人きりで食べるはずだったんだろ?」
「それは……」
「本当なら最上級のデザートがあったはずなのに、泉のせいで食べ損ねたよ」
 制服のブラウスをスカートから引っ張りあげると、薫はすぐさまその間から手を忍び込ませた。直に触れる肌。しっとりと吸い付くような滑らかな肌の上を薫の手が這い、細身の体には不似合いな大きな膨らみへとたどり着く。ゆっくりと口付けを交わしながら、下着越しの胸を楽しむと、その手は背中へと回り、器用にブラのホックを外した。
「やっ……ダメッ……」
 それまでは、まるで抵抗を見せなかった美緒だが、さすがにそこまでは考えていなかったのか、急に小さな抵抗を見せた。だが、薫はお構いなしに直接胸の膨らみを手で覆うと、少し荒々しく揉みしだき、指先でつぼみを捉え、唇は彼女の首筋を辿っていた。
「あっ、先生……そんなにしたら……やっ……」
 抵抗することよりも、薫から与えられる快感に身が捩れて、美緒は小さく甘い声を上げるしかない。途端、薫は愛撫している手の動きはそのままに、再び唇で言葉を塞いだ。飲み込むしかない喘ぎ。封じられれば封じられるほど、快感が逆流していくようだ。薫は、唇を合わせたまま呟いた。
「声は我慢して。聞かせたくないから」
「え……?」
 誰に? と問う前に、また激しく口付けられる。
 立つのがやっとなほど、体全てが薫に染まっていた。彼から与えられる快感だけで、この体は支配されているのではないかと思うほどに。
 胸を弄っていた手は、そこから下へと伸び、スカートの下から下着の中へと忍び込んでいく。口付け合っていた唇は、はだけた胸元へと下りていった。胸の谷間を、薫の舌が這った瞬間、軽い絶頂に達したような感覚が背筋を駆け抜けて、手に持っていたアイスクリームをポトリと地面に落とした。
 薫が美緒の指を引き寄せ、自分の口に含んだ。いつの間にか溶けて指に絡み付いていたアイスクリームを、舐め取るように舌を這わせている。その淫靡さに、美緒は見ていられなくて、目を伏せた。指先から伝わる感覚は、いっそう研ぎ澄まされて、彼女の体を熱くする。
「ねえ、先生。誰かに見られたらどうするの……?」
「何? やめてほしいの?」
「そういうわけじゃ……」
 どうしてここが、彼のマンションではないのだろうかと、悔やんだ。それくらい、いつもは奥手な美緒でさえも、快楽に身を委ねてしまいたかった。
 薫に全てを奪われたい。
 この身も、心さえも。
 けれど、まだ微かに残る理性が、夢の中から美緒を引き上げる。
「さすがにここではしないよ。ただ、わからせるまではやめられないけどね」
「もう……充分です」
 この体は、薫だけのものだ。彼以外には、こんなにも熱くさせられる人なんていはしない。けれど薫は、色っぽい美緒を見て満足気に微笑むと、ゆっくりと首を振った。
「違うよ。おまえを自分のものと勘違いしかけてる奴に、おまえが俺だけのものだってことをよく知らしめておかないといけないってことだよ」
「え……?」
 美緒に言うにしては、大きすぎる声に、違和感を感じて顔をしかめた。ニッコリと微笑んで美緒を見つめた彼は、光が細く差し込む路地裏の入り口に向かって振り向くと、きっと二人の様子をずっと見ていただろう彼に向かって呟いた。
「なあ。泉?」
 あまりに冷ややかなその笑みに、背筋に氷が這うような感覚を覚えた。
 ゾクリと、心臓を凍らせるような笑み。
 笑っているのに笑っていない。彼の目には、無の色が見えた。それは、感情も何もない、本当の無の世界。こんなにも恐ろしい薫を見るのは初めてで、さっきまで感じていた快感など、いとも簡単に消え去ってしまった。
「あー……えっとお……」
 薫の視線を受けきれず、泉は視線を泳がせた。返す言葉が見つからないのだろう。その姿には焦りと戸惑いが見えた。薫の迫力に押されている、そういう台詞がぴったりな雰囲気だ。
 彼の反応を見て満足したのか、薫は美緒の方に視線を戻すと、いつものように髪をクシャッといじり、乱れた美緒の衣服を整えた。
「俺でさえ、皆の前で美緒って呼べないのに、あいつだけ呼べるなんて許されるわけがないだろ?」
 そう言ってニッコリと笑った笑顔は、やはりまだ凍りつくような冷たさが残っていた。
 ――氷の微笑。
 このフレーズは、薫にこそ似合いかもしれない。


 車を取りに行くからと言って、美緒と泉をその場に残して薫は去った。残された二人はというと、まだ凍り付いてでもいるのか、その場に立ち尽くして苦笑いしか浮かべられなかった。そのうち、薫が完全に去ったことを感じ取ると、泉が壁に手を付き大きな溜息をついた。
「マジ怖え……」
 本気で怖かったのだろう。
 呟いたその言葉は、あまりにも的を射ていて、美緒は急に泉が滑稽に思えた。クスクスと笑いが漏れる。泉は、美緒の様子に気づくと、そばまで近寄ってきた。
「おい、何笑ってんだよ」
「だって、泉くんが子供みたいに見えるんだもん」
「おまえは薫が怒ったのを見たことがないから、笑ってられるんだよ」
「だって怒らせることしないもん」
 クスクスと笑いが止まらない。泉が言い訳をすればするほど可笑しかった。やはり彼は薫の弟なのだ、ということをマジマジと感じさせられた気さえした。
「あの冷たい微笑みは、本当に心臓に悪い……」
「でも、怒鳴られたりしなかったんだからいいじゃない?」
「バカか、おまえは。薫は怒っても怒鳴ったりしないんだよ。……ただ相手を徹底的に追い詰めて突き落とすんだよ……」
 言っている意味がさっぱりわからないが、本当に怖そうに話している泉を見る限りでは、どうやら薫を怒らせた経験があるらしいことはわかった。そして、それがトラウマになっていることも。
 どうやら、泉にとって薫は絶対的な存在のようだ。
 苦痛に歪む表情を浮かべていた泉だったが、足元をふと見て、あっ! と叫んだ。
「おい、バカ美緒。俺のアイス何落としてんだよ?!」
「えっ? ……ああ、ごめん」
「ごめんじゃねーよ。……あーあ、俺のアイス……」
 しゃがみこんで、地面で溶けていくアイスクリームを見てシュンとする泉を見ると、止まったはずの笑いが、また止まらなくなってしまった。

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