アカシア

 僕には秘密がある。


 純白のドレスに身を包んだ彼女が、僕の目の前に立っていた。
 雲ひとつない真っ青な空の下、新たな人生のスタートを切る日、その瞬間に僕と彼女は向かい合っていた。
 この日を迎えるまでに、僕と彼女との間にはどれほどの月日が積み重ねられてきただろう。
 何度も四季を繰り返した。
 春は同じ場所で桜を見上げ、夏は二人で海風を感じ、秋は淡い色彩にたそがれ、冬は雪の白さを前に語り合った。
 二人には言葉など必要がなかった。
 一緒にいることが、当たり前だった。
 出会った時から、互いを必要としていた。
 
 
「綺麗だな」
 そう言うと、彼女は恥ずかしげに目を伏せた。視線の先で彼女の指が踊り、真っ白なシルクの生地の上をスルリと滑る。ほんのりと桜色に染まる滑らかな肌は、純白のドレスによく映えていた。彼女を着飾るパールもダイヤも、今日の彼女の前ではひれ伏すほどの美しさだ。
「だって、この日のために必死でブライダルエステにも通ったし、ダイエットも頑張ったんだもの。少しくらい綺麗じゃなきゃ、ドレスに申し訳ないわ」
「本当に綺麗だ」
 ほお、と感嘆の溜め息が零れた。僕は心の底から、彼女の美しさに見惚れていた。本来の何も着飾っていない姿や、しっかりお洒落を施した姿を知っていても尚、純白のドレスに身を包んだ彼女は目を見張るほど美しかった。
「綺麗だなんて台詞、あなたの口から聞けるなんて思ってなかった」
「こんな日くらい、褒め称えなくてどうする」
「だってあなた、いつも本音を言わないじゃない」
 クスッと彼女が小さな笑みを零す。懐かしさに思いを馳せているのだろうか。僕の瞳の奥を見通しては、優しい表情を見せていた。
「ずっと一緒にいたけど、あなたはいつも大事なことは隠すんだもの」
「そうだったかな」
「言わなくても、私には分かっていたけど」
 出会った頃と少しも変わらない挑戦的な目が、真実を口にしない僕を責めていた。
「ただ、聞かなかっただけよ。言葉ほど、気持ちは簡単じゃないでしょう」
「君も僕も、肝心なところで不器用だからね」
「素直に生きることが、とても下手なのよ。呆れるくらいにね」
 顔を見合わせ、互いに笑ってみせる。彼女は僕の傍まで寄ってくると、シルクの白い手袋を纏った指を、僕の首元へと添えた。
「ネクタイ、曲がってるわ」
 まるでそれは、長年連れ添った夫婦のような自然さで。
「こんな日くらい、ピシッとしなさいよね」
 僕には、彼女がいなければダメなのだと、改めてそう思わせる。
 彼女は僕のネクタイから手を離すと、二歩下がって、大きく深呼吸をした。
「ねえ」
「何?」
「……私、幸せになれるかな」
 彼女が上目がちに僕を見上げている。頬がうっすらと紅に染まり、零れ落ちそうな唇が僕に答えを問うていた。
「迷っているの?」
「いえ、確信が欲しいだけ。幸せになれる確信が」
 幸せ――漠然としていてよく分からないが、彼女の幸せを誰よりも願っているのは僕自身だった。
「大丈夫。君に不幸は似合わないよ。幸せになるために、今日を迎えたんだろう」
「うん」
「君は幸せになれるよ。誰よりもね」
 窓から差し込む光が、彼女のドレスをキラキラと輝かせていた。幸せは既に彼女の周りに溢れている。誰が疑うまでもなく。僕すら、疑うまでもなく。
「ありがとう。貴方にそう言われたら、怖いものなんてないわ」
「ああ」
「ありがとう」
「うん」
「ありがとう」
「何度言うんだ?」
「何度でも言うわ。私の気持ちが、貴方に真っ直ぐに届くように」
 彼女は僕の目をじっと見つめていた。
 幸せになれ――。
 言葉にしたのは僕の方なのに、彼女の目は、しっかりと僕にそれを伝えてきた。強く、そして悲しいほどに。
「じゃあ、そろそろ行かなきゃ」
 彼女はドレスの裾を翻すと、僕に背中を向けた。颯爽とした立ち姿は、何の迷いも恐れも感じさせない。それなのに、大きく開いた背中から首筋にかけての華奢さが、寂しげに見える。
 そこに居るのは、僕の知っている彼女ではなく、花嫁だった。
 僕ではない誰かを幸せにするためだけに歩く花嫁だった。
「バイバイ、私の最愛の親友」
 背を向けたままの彼女が、光の中へと踏み出していく。
 瞬間、僕は初めて彼女が自分から永遠に離れてしまうことを痛感し、傷付いていた。
「君は」
 思わず、そう口走っていた。
「何?」
 彼女が足を止め、キョトンとした表情で振り返る。
 彼女の向こうには、まばゆいばかりの幸せな光が溢れている。ここをくぐり抜ければ、彼女を幸せにしてくれる人が待っている。
 これから幸せに向かって歩いていく彼女を引き止める権利など、何も持ち合わせていないのに。
 誰よりも幸せになれると、身勝手なまでに言い切ったのに。
「君は、僕にとって誰よりも幸せになって欲しい人だけど、でも今だけは違う。誰よりも幸せになんてなって欲しくない」
 僕は今、とてつもなく君が不幸になればいいと、願ってしまっていた。
「何を……言ってるの?」
「君を不幸にしてしまいたい。……僕の手で」

 僕には秘密がある。

「……君が好きだ」

 ずっと――今日までずっと君に言えなかった秘密が。

「僕と、結婚してくれないか」

 幸せの光に包まれていた彼女が、その一瞬、大きな困惑と憂いに歪み、崩れ落ちた。



−END−


※アカシアの花言葉 【秘密の愛】
Copyright (C) 2010 Sara Mizuno All rights reserved.