恋の終わりと秋の空

「僕には妻がいる。それでも君は、いいと言うのかい?」
 貴史の言葉に、沙紀は黙って頷いた。伏し目がちな瞳には憂いを帯び、すぐにでも抱き締めたくなるような哀愁をその華奢な肩に背負い、貴史の袖口を掴んでゆっくりと。
 妻がいてもいい、というわけではなかった。できるなら、誰のものでもない男性(ひと)を愛したかった。けれど、好きになってしまった男が妻のある人だったのだ。望むものと得るものは、必ずしも一致しない。いけない恋をしているという感覚が恋を燃え上がらせているだけだと理性では分かっていても、感情がいとも簡単に判断力を奪ってしまう。理想と本能が違うということを、沙紀は身に滲みて感じていた。

 職場の上司として出会った貴史とは、特に仲が良いというわけでもなければ、全く言葉を交わさないというわけでもなかった。時折コピーを頼まれる。肩がぶつかり、はにかみながら『ごめんなさい』と小さく口にする。そんな些細な関わりでしか、互いを知り合えなかった二人には、それ以上踏み込む機会もなかった。
 ただ、いつの間にか視線を交わす回数が増え、その視線は貴史を探すことに夢中になっていた。視線が絡むだけで、心ごと鷲づかみにされるような衝動を覚え、そんなチクリとした甘い痛みに沙紀の常の感覚は麻痺していった。
 気付いた時にはどうしようもない。抑えきれない衝動は沙紀を食い尽くし、呆気なく恋情に縛られてしまった。

「一瞬でもいいから、私を見てほしいんです」
 震える唇から出る控えめな言葉は、本心なんかじゃない。一瞬なんて、足りやしない。貴史の全てが欲しくてたまらない。それでも、自分に残された望みが一瞬という儚い時間しかないのなら、それに縋ってでもこの男を引きとめておきたいと、薄情な女心が沙紀を捕らえてならなかった。
「……バカな女だ。君は」
 貴史が沙紀の肩に手をかける。そして、ゆっくりと引き寄せ、曖昧な力加減で沙紀を抱き締めた。そこには、妻と沙紀の間で揺れ動く、貴史の葛藤が窺えた。
 もしも沙紀が貴史の全てを望んでいたとしたら、こんな風に抱きしめたりはしなかったかもしれない。越えてはいけないラインを、見失わなかったのかもしれない。
 けれど、全てを望まない沙紀の控えめな台詞が、貴史には可哀想に見えたのだろう。見捨てられない。置き去りになんてできない。まるで捨てられた子犬のような瞳をした沙紀を抱きしめたのは、男の本能でもあり、愚かさ故の過ちだ。一時の感情だけで安易に過ちを犯す、男の愚かさ。自分のものにしてはいけない女を、自分のそばから手放してしまうことを悔やみ、自分のものにしておきたいという征服欲に駆られ、引き止めてしまう。誰かのものにしてしまうくらいなら、自分の手で捕まえておきたいと思うのが男の本能。
 一瞬でもいい、と言った沙紀の言葉はある意味、男心を揺さぶってどうしようもない女を演出していた。
「バカでもいいです。……それで、貴方のそばにいられるなら」
 柔らかなベッドの上に押し倒され、互いの瞳を探り合う。
 触れ合ってはいけない。けれど、触れずにいられない。互いを離すまいと抱きしめあう心の動きが、叶うはずもない恋を表すように、悲しい衣擦れの音を奏でだす。
 『不倫』という禁忌が、この時の二人には甘美な響きに聞こえ、そうして二人は、一時の麻痺した恋情に身を溺れさせた。


「……もう、君とは会えない」
 貴史からそう告げられたのは、二人が関係を持ってから三ヶ月と経たない頃だった。
 沙紀が貴史に想いを打ちあけた時と同じように、貴史は俯いたまま申し訳なさそうにポツリと呟いた。その一言で沙紀は全てを悟り、そして恋の終焉を知った。
 きっと、妻との関係に少しずつ変化が表れでもしたのだろう。そのまま壊れゆく夫婦関係と、沙紀の存在を天秤にかけ、貴史は妻を取ったのだ。会ったことのない貴史の妻とは言え、同じ女だ。いつか気付かれるだろうことは、頭のどこかで予想していたのかもしれない。
 覚悟は出来ていたこととは言え、いざこうして現実を突きつけられるとどうしていいのかわからないもので、自分に向けられた言葉を受け止めるのに必死で、乾いた笑いが出るだけだった。涙の出し方もわからず、自分を捨てようとしている目の前の男に、どう言葉を返していいのかもわからず、ただただ手で顔を覆い、視線だけを泳がせた。
 貴史は戸惑うばかりの沙紀を申し訳なさそうに見つめると、テーブルの上に置かれていた彼女の片方の手を取り、ギュッと握り締めた。
「君のことは愛してるんだ。……でも、すまない」
 本当に愛しているというのなら、そんな風に優しく触れないでほしい。
 そんな肌の感触は、何度も抱かれ、愛を独り占めしていた幸せを思い起こさせるだけだ。互いの鼓動さえ同じリズムを刻んでいた、そんな幸福感を未練に変えてしまうだけだ。
「いいです。わかってた、ことですから……」
 無理矢理絞りだした声は、震えていた。本当は、納得なんてしていない。いつかは別れが来るとわかっていた恋愛でも、いつだって僅かな可能性を胸に秘めていた。愛する人が出来た瞬間から、女はいつだってその人との永遠を夢見る生き物なのだから。
 たとえどんな形でさえ、愛する人のそばにいたい。そう、たとえどんな形であっても。
「……沙紀」
 沙紀の手を握り締める貴史の手のひらに、力が篭る。自分から離れていこうとする沙紀を、本当は離したくないという気持ちが、そこから伝わってきた。
 その温もりが、沙紀に気付かせたのかもしれない。沙紀と同じように、貴史もこのまま離れてしまうことが心苦しいことを。でもそれが、本当に沙紀を愛しているからなのか、それとも愚かな男の征服欲が女を手放すことを許せずにいるのかは分からない。
 ただ、沙紀と別れることを、心のどこかでは悔いている。沙紀を見つめる瞳からは、離れたくないと強く願う気持ちが溢れている。だが、どちらにしたって、この男は沙紀を選ばない。結局は、愛妻を選んだことには変わりはないのだから。
「今までありがとう、貴史さん。本当に貴方のこと、愛してました」
 愛してるだなんて、別れ際の言葉じゃない。
 分かっていながら、残酷な言葉を彼に残した。貴史の心に、きつく爪あとを残すように。
 愛していると言われた貴史は、目に涙を浮かべて沙紀を苦しいほどに抱きしめた。ごめん、と何度も耳元で囁きながら、涙を零し縋るようだった。つられるように、沙紀も涙を零し、貴史の胸に顔を埋める。たとえ彼がどんな非情な男であっても、愛していたことには変わりない。
 本気で愛していた。だからこそ、許せなかったのだ。こんな形で、呆気なく自分を捨てることができる貴史の薄情さが。
 愛してる、とそう残したのは、綺麗な別れ方をするためだ。本心では、滅茶苦茶になるほど泣き叫んでしまいたかった。縋り、別れたくないのだと告げたかった。だが、そうすれば貴史は沙紀に愛想を尽かせ、別れたことが正当だったと思ってしまうだろう。それでは、意味がない。沙紀を手放したことを、この男が悔やまなければ意味がないのだ。
 貴史と過ごした時間が無駄なものだったなんて、沙紀自身が一番思いたくなかった。思って欲しくもなかった。
 たとえ別れてしまっても、貴史の心のどこかに在り続けたかった。もう会えなくなってしまっても、自分がいつか違う人を見つけることになっても、貴史にはずっと自分を忘れずに居てほしかった。だからこそ、沙紀は残酷な言葉を残したのだ。
 別れ際の愛の言葉ほど、一生心の枷になるとわかっていながら――。


 一年後の秋。
 あれから会社を退職した沙紀は、新しい職場での環境にも慣れ、毎日を平凡に生きていた。貴史との不倫関係がバレてしまうことはなかったが、あえて自分から退職を願い出た。風のように、貴史の前から消えてしまいたかった。
 彼の心の中に、残り香だけを残して。
 半年ほど前に、貴史が妻と離婚したことを、風の噂で聞いた。その時、心のどこかで安心したような妙な気持ちを覚えた。罪悪感などは、全くなかった。むしろ、自分を捨てた男が迎えた結末を、当然のものとして冷めた目で見つめていた自分がいる。時の流れは恋情を薄れさせ、沙紀を冷静にしたのだろう。
 そして、別れた貴史の幸せを心から願ってなどいなかったことに気付いた。苦しいほどに愛した分、憎しみも深かったのだろう。恋の終わりが純粋な終わりだったのなら分からない。でもあの別れからは、自分以外の誰かと幸せでいて欲しいだなんて、望めなくて当然なのかもしれない。
 彼らが離婚した本来の理由は分からなかった。それでも、独り身になったという貴史のことを知り、余裕にも同情している自分がいるのだった。

 すっかり秋の色を帯び始めた街は、あの頃よりも数段美しくなった沙紀にぴったりと似合っている。赤信号が灯る横断歩道の前でスッと立つ彼女を、誰もが振り返る。
 傷ついた分、沙紀は美しくなった。泣いた分、沙紀は強くなった。あの恋愛は、彼女にとって無駄ではなかった。恋の苦さも、愛の甘さも、全てを貴史から学び取った。そして、人肌の恋しさも。
 貴史との恋があまりにも嵐のようだったからか、沙紀は未だに新しい恋を見つけられずにいる。ついつい、今の貴史がどうしているのかを想像してしまっている自分がいる。新しい自分に変わりたくても、どこかでまだ貴史のことを引きずっていた。
 わざと愛していると残したことへの代償か。それとも、愛した時の熱が燻っているのだろうか。
 それだけが、貴史が沙紀に残した傷跡だった。

 信号が青に変わった。
 沙紀は、高いヒールの踵を鳴らし、ゆっくりと前へと歩き出す。高い空を見上げ、大きく息を吸い、生きていることを実感する。そして、人の波に視線を戻し、現実を見据えた。
 ――その時だった。ふと、過去に足元を奪われたのは。
「貴、史――」
 あの頃と同じように、沙紀の前に貴史が立っていた。
 向かい側の歩道からこちらに向かってくる貴史は、沙紀よりも数秒遅れて彼女に気付いた。
 言葉はなく、一瞬にして瞳が探りあい始める。軽く開いた唇から、互いの名が漏れた。貴史は、あの頃とほとんど変わっていなかった。無意識にも胸がざわめき、高鳴るのが分かった。震える指先が、思わず彼を求めそうになる。
 だが、よくよく見ると、いつも抜群のセンスで着こなしていたはずのスーツは少し陰りを見せ、その表情もどことなく疲れを感じさせていた。愛していた頃の、男としての強く惹かれる香りを失っていた。
 それは妻が居なくなったからなのか、それとも――。
 沙紀を見る貴史の瞳が、戸惑いを帯びる。昔愛した女を見て、まるで泣いてしまいそうな瞳をしていた。
 ――沙紀。
 彼の唇が、彼女の名をかたちどる。その時沙紀は、貴史が沙紀のことを未だに忘れられずにいることを、瞬時に悟った。
『愛してる』
 そう彼に残した言葉が、彼の胸の中で後悔として生き続けていることを。
 以前の沙紀なら、そんな貴史をすぐにでも抱き締めていただろう。駆け寄り、その髪を撫でていただろう。だが、今の沙紀は、冷静な目で彼を見つめている自分に安堵していた。
 あの時の自分とは違う。今改めてハッキリと自覚する。
 沙紀はゆっくりとまぶたを閉じ、そしてゆっくりと開くと、再び歩き始めた。
 互いの肩が触れあいそうなほど近くで、すれ違う。
 貴史が、沙紀を追いかけるように振りかえる。
 沙紀は、口元をキュッと引き締め、少しだけ笑みを浮かべ真っ直ぐに前を向いて歩いた。
 昔愛した男は、所詮『愛しただけ』の男に過ぎない。カツカツと鳴らすハイヒールの音が、貴史への決別を告げていた。
 ――これで、本当のサヨナラができる。
 沙紀が、心の中で呟く。
 本当に愛した、たった一人の人。沙紀と同じくらい傷ついたであろう貴史の後悔が見えた瞬間、何かが沙紀の背を押した。
 彼の全てが欲しかったわけじゃない。安定した生活や、彼の子供が欲しかったわけじゃない。きっと自分は、二番目という立場にいたから、一番を欲していただけなのだ。手に入れられなかったからこそ、無性にその全てを欲していただけだと。
 自分が愛した分と同じだけ愛されたかった。
 自分が傷ついた分だけ、彼にも傷ついて欲しかった。
 同じ痛みを、感じてほしかった――。
 今、貴史に出会い、沙紀は確信していた。彼とあの時決別したことは、間違いではなかったと。
 今こうして互いを見つめ合っても、何も得る術はないということを。
 自分よりも後悔を残している貴史の姿に、やっと本当の決別の意味を見出した。

 もう過去は振り返らない。
 空を見上げた途端、沙紀の頬を一筋の涙がつたった。
 冷たくも温かい秋の風は、彼女を美しく彩っていく。



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