Bon Appetit

「今日は何しに来たの?」
 女の姿を捉えた男の双眸が不機嫌なまでに細められ、眉が顰められた。
 露骨に嫌そうな顔をして真綾を玄関で出迎えたのは、もう十年来の友人をやっている恭一だった。あからさまな拒絶を向けられた真綾は、恭一の頭の先から足の指までを視線だけで追った。頭はボサボサ、上下のスウェット、無精ひげは放ったままで、手は困ったように頭をかいている。顔立ちはとても整っているのに、ここまでだらしない格好だと、異性という目で見られないから不思議だ。相変わらず女気のないこの部屋に、真綾はいつものごとく訪れた。
「恭一に会いに」
 真綾は淡々と感情のない声色でそう答える。
「……えーと、それは何」
「何とは?」
「俺に用があったから来たのか、それとも俺に慰めてもらいたいから来たのか、どっち?」
「後者で」
 即答すると、恭一はすぐさま扉を閉めにかかった。片手でドアノブをしっかりと握り、もう片方の手で真綾を容赦ない力で押し戻そうとする。
「帰れ!」
「嫌だ!」
 真綾はすかさず扉の間に足の先を入れ、扉がロックされてしまうのをまず防いだ。そして押し戻されようとしている上半身は無視し、膝を割り入れる。これで、これ以上扉が閉まることはない。恭一は苛立ちを含ませ、チッと舌打ちした。
「俺は眠いんだよ! まだ寝たいのに、おまえの相手なんかしてられっか」
「うっさい。恭一以外に誰が私を慰められるってのよ」
「知るか、ボケ!」
「うっさい、ハゲ!」
「ハゲてないわ!」
「ハゲ家系のくせに無駄なあがきすんな!」
「かろうじてじいさんはハゲてねーんだよ、隔世遺伝なめんな!」
「遺伝で通じるなら、家族全員巨乳の私だって巨乳のはずなんだよ。貧乳なめんな!」
 玄関先だというのに、恥を知らない罵倒の台詞を投げ合って、扉を開けよう開けさせまいと死闘を繰り広げている。だが、さすがに恭一は男だからか、力任せに扉を引いた瞬間、真綾の方が引っ張られてしまい力に負けた。ガン、と扉が音を立てる。真綾は、痛っ、と悲鳴を上げた。
「悪い! どこかぶつけたか?」
 わずかな瞬間、恭一が怯んだ。真綾はその隙を逃さず、割りいれた膝を押し込んで、まんまと扉の向こうへと入ることができた。
「おまえっ、今の嘘だったのかよ!」
 実際に音を立てた膝は、実はちっとも痛くなどなかった。そう言えば恭一が怯むのを知っていて、わざと口にしたのだ。
「えへへー。ごきげんよう、恭一」
「何がごきげんよう、だよ。気色悪い」
「元気だった?」
「今この瞬間最高に絶不調になりましたが何か?」
 ニヤニヤと笑う真綾を、恭一は本当に嫌そうに見つめ返す。こんな光景は、今までに何度も経験しているからか、恭一に対して申し訳ないという気持ちは、少しずつ持たなくなってしまった。むしろ、ラッキーくらいに思っているのだから、真綾も相当やばい。
「女使うなんて最低だぞ、真綾」
「だって、私は女だもん?」
 少し可愛らしく首を傾げてみても、恭一には通用しない。むしろ、邪険にされる。
「貧乳なめんな、って叫ぶ人間を女とは呼びません」
 中学以来、十年も友達をやっていたら、性別なんて関係がなくなってくるのだ。
 恭一は、仕方がないなと渋々諦めると、入れよ、と真綾を中へと促してくれた。靴を脱ぎ、恭一の背を追いかける。奥に入るにつれて、恭一がいつも吸っているタバコの香りが鼻腔を掠めた。


 さっきまでの上機嫌とは裏腹に、真綾はリビングの絨毯の上に座ると、すぐそばにあるソファへと顔を突っ伏して黙り込んだ。ヒヤリとした皮の感触が頬に伝わってくる。鼻をすする前に、鼻水が少し垂れてしまって、真綾は近くに置いてあったティッシュペーパーを抜き取り、鼻に当てた。
 真綾の隣に座り込んで、タバコをふかしている恭一が声をかける。
「で、今度は何。マザコンだった? 何日も風呂に入らない不潔野郎だった? 金銭感覚がバカの博打野郎だった? 一日何回もヤらないと気がすまない絶倫野郎だった? それとも」
「その辺でストップ!」
 ソファに突っ伏したまま叫ぶと、自分の鼓膜に思いのほか響いて、自分でも吃驚する。
 恭一は言われたままに黙ってくれたが、その代わりに大きな溜め息を吐いたのが聞こえた。今、恭一が挙げた最低男のラインナップは、真綾が過去に付き合ってきた男たちのことだ。本当はまだ酷いのがいるが、自分でも思い出すだけで気持ち悪くなるような過去を、他人の口から聞かされるのは結構きついものがある。それでも、そんな男たちに我慢できなくなって別れるたびに、こうして恭一に話を聞いてもらってきたのだから、全てを知っている恭一にこうして言われてしまうのは致し方なかった。
「で、今度はどうしたの?」
 からかうでなく、本気で心配してくれている声に、真綾は一つ大きく深呼吸をすると、口を開いた。
「他に女がいた……」
「二股? なんだよ、またおまえ浮気されたわけ?」
 心配そうな声が、呆れた風に変わって、真綾は咄嗟に顔を上げる。
「違うもん!」
「違うって……だって、他に女が居たんだろ? おまえっていう彼女がいたのに」
「……だから、違うんだってば」
「どう違うんだよ」
「だから、違うの!」
 恭一は、はいはい、と言いながら、涙と鼻水でグチャグチャになった真綾の顔を、ティッシュで拭いてくれた。
「私が、浮気相手だったの」
「は?!」
 恭一は本気で驚いたようで、真綾の鼻の中にティッシュをぐりっと力任せに詰めてきた。痛いと反論すると、ゴメンとニヤける。あ、もしかしてわざとか? と思ったのは、案外外れてはいないかもしれない。
「今日、知らない女が私のところへ来てさ、突然頬を引っ叩かれたの。一瞬わけが分からなくて、何この女って思って」
「殴り返したんだな?」
「うん、そう。……って問題はそこじゃなくて」
 すかさず入ってくる恭一のツッコミに話を折られまいとするも、事実だから否定もできない。実際に真綾は、殴られた直後に、殴り返したのだ。やられたらやり返すのは、真綾の信条だ。
「とりあえず話を聞いてみたら、私の彼氏が、その女の婚約者だって言うわけよ。最初は信じられなかったけど、よくよく話を聞いてみたら、その人の言ってることは本当なんだなっていうことが分かった」
「ふーん。……でもまあ、二股には間違いないわな」
「そしたらその人、急に私の前で泣き出しちゃってさ……」
 思い出すだけでも胸が痛くなる。『彼を返して』と言いながら泣きじゃくる彼女は、真綾を力任せに殴った時の彼女とは打って変わって、とても脆く小さく見えた。テーブルの上にポタポタと涙の雫を落として、恥も忍んで、浮気相手である真綾に懇願するその姿は、とても可哀相に映った。
「なんかその人を見てたら、知らなかったとは言え、私は彼を好きでいたことで、誰かをずっと傷つけてたんだなって思って……」
「思って?」
「すごくすごく、自分が悪いことしたなって、申し訳なく思って」
「思って?」
 恭一の片方の眉がピクリと上がる。さあ、本音を言ってしまいなさい、と急かされているかのように。
「あの男が、無性に許せなくなった」
 肩をすくめ、やっぱりね、と恭一は小さく溜め息を吐く。
「だって! だってよ?! 婚約者がいるのに私に手出してさ、恋人いない暦一年とか嘘までついちゃってさ、婚約者と私の両方を手玉にとって遊んでたんだよ?! 許せないじゃない!」
「見抜けなかったおまえもおまえ、じゃないのか?」
「そうだよ! 相変わらずダメな男を見抜けない私も最低よ! だから彼女にはちゃんと詫びて、その後あいつのところへ乗り込んで、怒鳴りつけてやった!」
「殴ったが抜けてる」
 突っ込まれて、真綾はウンウンと頷く。
「そう、殴った! で、もちろんきっぱり別れてきた!」
「うん……まあ、おまえならそうするだろうね」
「でも、でもさあ……」
 ずっと張り詰めていた声のトーンが、少しずつ落ちてくる。真綾は地面に視線を向けて、ゆっくりと目を閉じた。脳裏には、今朝会ったあの彼女の悲しそうな表情が浮かんでくる。
「無意識にでも、あの人を傷つけてた自分が、すごく嫌だ……」
 今までの恋愛は、最低ではあったけど、どれも自分に非はなかった。我慢できるだけ我慢して、それでも耐えられなくなって別れる、というパターンがほとんどだったが、今回はそうではない。自分は、被害者ではなく、加害者だった。それが、嫌だった。
「私がいるって知った時、どれだけ傷ついたのかな……。もうすぐ結婚するって決まってたのに、その幸せが壊れる瞬間て、どれだけ怖いものなのかな……」
「おまえが相手じゃなくても、きっとその男は同じことやってたんじゃないの?」
「そうかもしれないけどさ……」
 後悔したって意味はない。実際に、自分は何も知らなかったのだから。彼女も真綾の事情を知ると、『貴方は悪くないです』と、頭を下げる真綾に気遣ってくれた。その優しい気遣いが、逆に堪えた。
「なあ、腹減らない?」
 果てなく落ち込んでいる真綾に、恭一が優しく声をかけてくれる。また二、三枚ティッシュを取って、真綾の涙を拭きながら。
「減った」
「OK」
 恭一は真綾の頭をガシガシと強く撫でると、すぐさまキッチンへと向かった。



「はい、カルボナーラどうぞ」
「ありがとう大将」
「せめてシェフかマスターにしてくれ」
 一人分のカルボナーラと水がテーブルの上にポンと置かれた。恭一は真綾の真正面に座っている。
 こうして恭一が真綾にカルボナーラを出してくれるのは、もう習慣になっていた。失恋しては押しかけてくる真綾を、面倒くさそうにあしらいながらも、結局は話を聞いてくれて、こうしてパスタを作ってくれる。普段遊びに来た時も、ボンゴレとかペペロンチーノとか色々作ってくれるが、不思議なことに、失恋した時は必ずカルボナーラを出してくれるのだ。
「いただきます」
 手を合わせて、フォークを取る。まだ湯気の立つ出来立てのカルボナーラをフォークに巻きつけ口に運ぶと、なんとも言えないまろやかさと良い香りが口の中いっぱいに広がった。クリーミーで且つベーコンの塩気と黒胡椒がアクセントでちゃんと効いているカルボナーラは紛れもなく絶品だ。
「美味しい」
 思わず感嘆の台詞が漏れる。
「当たり前だ」
 恭一が、ニカッと笑った。
 恭一の料理はいつも温かい。すごく温かくて、真綾の冷えてしまった心に温もりをくれる。まるで、心のカイロみたいだと思う。涙の味しかしない時だってあるのに、どんなに有名な洋食店だって、恭一のパスタには敵わない。
「ねえ大将」
「せめてシェフかマスターにして」
「ねえ恭一」
 候補は悉く却下して、真綾はズルズルとパスタをすする。行儀が悪いが、なんだかそんな風に食べたい気分なのだ。
「なんでいつも失恋した時はカルボナーラなの?」
 とても美味しいけど不思議だった。
「さあ……」
「独身男の家に、いつも生クリームが常備してあるっていうのは、私からしたら結構気色悪いんだけど」
「おまえね……作ってくれる人間に対してその言い方は何よ」
「だってうちの冷蔵庫に生クリームなんてないもん。かろうじて卵はあるけどさ」
「おまえの場合は、料理を全くしないからだろ。卵だって、どうせたまごかけご飯にするくらいだろうが」
 テーブルを指先でカンカンと突くのは、恭一のクセだ。大体、真綾の言い分に不服があるとカンカン突いている。
「たまごかけご飯美味しいんだよ? T.K.Gだよ?! 卵なめんな」
 それ一つで究極の栄養食なのだ。真綾からしたら、神的食材だ。
「そのT.K.Gにも色々食べ方があるってことも、おまえは知らないんだろうねえ」
 恭一が呆れた口調で真綾を詰る。真綾は手を止めて、その話題に食いついた。
「ほら、これ見てみ。こんなにも色々食べ方があるわけよ。卵なめてんのは、どっちかっていうと醤油かけて混ぜてかけるだけがたまごかけご飯だと思ってるおまえだろ」
 恭一はソファの脇に置いてあったマガジンラックに手を伸ばし、そこから一冊の本をとると、真綾へと手渡した。それは、たまごかけごはんのレシピだけをいくつも掲載している料理本だった。『それやるから、勉強しな』と真綾にプレゼントしてくれる。
 真綾が興味深くそのレシピ本を眺めていると、食べ終わった皿に恭一が手を伸ばした。
「あ、お代わりください」
 真綾はすかさずお代わりを注文する。
「……失恋したのに、よく食うなあ」
「失恋は腹が減るんです」
 恭一は再びキッチンへと戻ると、大きな鍋に再び水を入れ、火にかけた。どうやら、真綾の希望を聞いてくれるらしい。
「さっきの話だけどさ」
 レシピ本に夢中の真綾に、恭一が遠くから声をかける。真綾は振り向いた。
「さっきのって?」
「失恋した時、どうしてカルボナーラなの? って話」
「ああ、うん」
「おまえ、初めて失恋した時、何日も食べられなくなっただろ。何か食うか? って聞いても食わなくてさ。水も飲まない、何も食べないで、あの時は大変だったよな」
 大学に進学して、一人暮らしを始めて間もない頃、真綾は初めてできた彼氏との失恋で、部屋にこもってしまったことがある。その時、心配して駆けつけてくれたのが恭一だった。コンビニ弁当やら、果物やら、ジュースやらと色々届けてくれたのに、真綾は何も喉を通らなかったのだ。
「でも、あの時、俺がカルボナーラ作ってやったらさ、それだけは食べたんだよ。美味しいって、鼻水垂らしながら食べてさ、汚いったらないのに、なんかすごくホッとしたこと、覚えてるよ」
「恭一……」
「だから、カルボナーラなら食うんじゃないかっていうのが無意識にインプットされてんのかもな」
「きょういちい……」
 恭一のさりげない優しさに胸を打たれて、真綾はまた顔をグシャグシャにして涙ぐみ始めた。
「今思えば、あれが不幸の始まりだったんだけどな。……まさか、失恋のたびに家に押しかけられるようになるなんて」
 一方の恭一は、あからさまに苦渋に満ちた顔をしている。
 キッチン脇に置いてあったティッシュを二、三枚取って、真綾のところへやってくると、それをまた顔に押し付けた。
「だから、拭けっての」
 真綾の後頭部をポカンと手のひらで叩いて、またキッチンへと戻っていく。真綾はグスグス言いながら、恭一の背を見つめていた。だらしない背中なのに、大好きな背中だ。
「恭一い……」
「何よ」
「スウェットがずり落ちてパンツ丸見えになってる」
「ほっとけ」 
 そんなどうでもいいことをポカンと思えるのは、それだけ気持ちが落ち着いてきたということだろう。泣いているのは、もう失恋のせいではないことを、真綾も気付いていた。
 恭一は二つ目のカルボナーラを作り終えると、再びテーブルまで持ってきてくれて、真綾の前へと腰を下ろした。また、指でカンカンとテーブルを突き始める。ああ、また何か言われるのかな、と真綾も気楽に構えていた。恭一の文句には慣れっこだ。こうして文句を言われることで安心してるなんて、マゾっ気も甚だしい。
「おまえさ、実はいい女なんだからさ、もうちょっと男を見る目養った方がいいと思うぞ。なんかおまえ見てると、他の女が犠牲になる前にとりあえず私が、って感じに見えるわけよ。わざわざ自分から悪い男に引っかかってるっていうの? だからって誰も感謝しないんだからさ。それどころか被害受けてる人間は、事実ここにいるわけだし」
「私がいい女って?」
 話の後半はだいぶ無視して、真綾はそれだけを聞き返した。恭一は溜め息をつく。
「なんでそこだけちゃんと聞くかな」
「私のどこがいい女?」
 真綾は知りたかった。これまで恭一の口からそんな台詞は一度だって聞いたことがなかったからだ。劣等感ばかりのわけではないが、身近な人間に褒められればやはり嬉しいし、大きな自信になる。
「とりあえず、誰かを傷つける恋愛だけはしないところ」
「え?」
「さっきだって、婚約者だったっていう人を庇っただろ」
「それは……その人じゃなくて、あの男が悪いんだし」
「普通はな、そんな状況になったら冷静になんて考えられないんだよ。実際に、婚約者がおまえに会うなり殴ったのがいい証拠だ」
「私も殴ったよ」
「おまえの場合は条件反射だから」
 それもそうだ、とお互い爆笑する。だがすぐさま黙ると、恭一がコホンと咳払いした。そうだ、笑っていいような話ではない。
「でもおまえは、彼女の気持ちをちゃんと理解して、自分がどうすべきなのかを見極めることができただろ。そんな女は、そうはいないと思うよ」
「……うん」
 話を聞きながら口に運ぶカルボナーラは、美味しいはずなのにあまり味がしなかった。恭一の言葉が嬉しくて、心が満たされてしまって、上手く言葉が出てこない。
「だから、次はいい男見つけろよ」
 パスタをズルズルすすりながら、ウンと小さく返事をする。
 だから汚いんだって、と言いながら、恭一が真綾の鼻にティッシュを当てる。どうやらまた、無意識に涙ぐんでいたらしい。
 真綾は、カルボナーラを口いっぱいに頬張りながら、手荒に鼻を拭かれる感触を感じていた。頭をポカンと叩かれると、胸の辺りがズキンと痛くなった。目の前の恭一を見つめると、呆れたような優しい表情に、その痛みが溶かされるのが分かった。
「ねえ、大将」
「だから、シェフね」
「恭一」
「何よ」
 真綾は水を口に運びながら、漠然と考えていた。考えていたことを、無表情のまま恭一にぶつけてみた。
「私の彼氏になってよ」
 そうだ、きっとそれがいい。
 漠然とそう思ったのだ。どうして今まで気付かなかったのだろう。いい男なら、真綾の目の前にずっといたではないか。そりゃ、家にいる時の恭一はズボラだし、見た目もいい加減だが、恭一のご飯は誰が作るものより美味しい。毎日こんなご飯が食べられたら、きっと真綾は幸せだ。
 だが恭一は眉を顰めて、首を小刻みに横に振った。
「嫌だ」
 あからさまな拒絶は、ショックというよりも、コミカルに映る。
「どうしてよ」
「ダメ男の仲間入りするなんて、絶対嫌だからな」
「あんたが今、次はいい男を見つけろよって言ったんじゃん」
「でもやだ。おまえに選ばれるのは怖い。付き合うようになったら、自分がダメ男になる気がする。だから嫌だ」
「あんたねえ……」
 思わず真綾に笑いが零れる。
 もちろん本気で彼氏にと言ったわけではないから、恭一のこの反応は冗談のやりとりとして面白かったのだが、心の片隅で恭一の優しさに少し心が傾いたことを、真綾は感じていた。心のどこかに恭一の存在が引っかかっている。一つ前の失恋のときよりも、そしてその一つ前の失恋のときよりも、今が一番恭一の存在の有難さを感じている。
 この人の傍は心地が良い。
 それが愛なのだとしたら、真綾はそれも良いかもしれない、と思った。
「じゃあ、彼氏じゃなくて、私が好きになるだけならいいの?」
 小首を傾げて、少し微笑みながらそう言うと、恭一は真綾をじっと見つめて黙り込んだ。視線が絡み、静けさが緊張を誘ってか、次第に真綾の笑顔も消えてくる。こんなにも長く恭一に見つめられたことなどない。十秒ほど沈黙のまま見つめ合っていると、恭一がおもむろに口を開いた。
「そういうのはとりあえず、料理が出来るようになってから言え」
 素っ気無くそう言って、立ち上がる。馬鹿馬鹿しいと小さく呟いている。だが、真綾の目には、恭一が少しだけ照れているように見えた。それは、女の扱いにクールで、とりわけ真綾の扱いは雑なはずの恭一が見せた、一瞬の隙だった。
「えー、料理って、例えば?」
 お皿とフォークを持って、キッチンへと向かう恭一を追いかける。逃げるのを追いかけるのが楽しいのだ。部屋に無理やり上がりこんだ時もそうだが、真綾は恭一の嫌がることをするのが楽しい。
「たーとーえーばー?」
 半分残ったままのパスタを口に運びながら、恭一を覗き込む。
「行儀悪いんだよ、おまえは」
 恭一は真綾の行動に呆れて皿を取り上げると、ちゃんと向き合った。そして、ピッと真綾の鼻に指先を当てる。
「俺より美味いカルボナーラ作れるようになってから言えってこと」
 どうせおまえには無理だけど、と暗に言うような自慢げな表情で、真綾を見下ろしていた。真綾は、グッとあごを引くと、恨めしそうに恭一を見上げる。
「それ、無理なのわかってて、言ってるでしょ」
 真綾にとって、恭一のカルボナーラが最強なのを知っていて、恭一はそう言ったのだ。
「無理かどうかなんてわからないだろ」
「無理だもん」
「頑張れよ」
「玉子かけご飯で精一杯の女にできると?」
「ゼロに近い可能性でも、けしてゼロじゃないと思うけど?」
「だって、私が作るんなら、恭一はもう作らないんでしょ?」
「もちろん」
「そこまでしてまで、好きになれなくてもいいわ」
「なんだそれ」
 恭一が、ハハッと声をあげて笑う。真綾も肩を竦めると、恭一から皿を取り返して、残りのパスタを平らげた。
「だって、恭一のカルボナーラが食べられなくなったら、寂しいんだもん」
 寂しい時や傷ついた時に温めてくれるものがなくなるのは寂しい。何気ない言葉のかけあいも楽しいし、駆け引きのない関係も心地よい。
 恭一は、真綾にとって、美味しくて温かいご飯みたいな存在だ。あるだけでホッとして、満たされる。いつもじゃなくてもいいけど、時間が経てばまた恋しくなって会いたくなる。
 温かくて優しくて、どこか懐かしくて。――きっと、変わらずにそこに居てくれるから大事で。
「とりあえず、さっきやったレシピ本試してみ。結構美味いからさ」
「じゃあ、たまご持ってかえっていい?」
「それくらい買えよ」

 でも、恭一のために何か作れるようになるのも、悪くないな、なんて真綾は思った。



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