恋文

 言えないんじゃない。言わないだけ。
 だって知ってるの。

 貴方が絶対に私を選ばないこと――。




「手紙、書いてくれないかな」
 唐突な申し出は、栞を充分に悩ませた。
 目の前にいる翔太の言わんとするところが分からず、眉間に皺を寄せる。翔太は両手を顔の前でパン! と合わせると、悪ガキっぽい表情を見せて、もう一度栞に懇願した。
「一枚でいいんだ。長いのよりは、さらっと読める感じで」
「手紙……?」
「頼むよ。栞、そういうの得意だろ?」
「そういうのってどういうのよ」
「女の心をグッと掴む手紙とか、人の心ひきつける文章書くの得意そうじゃん」
 そこで栞は、やっと翔太の意図するところが読めた。
「ラブレターを書けってこと?」
 思わず声が震えてしまったことに気付き、栞は必死で心が波立つのを宥めていた。翔太は少しだけばつが悪そうに笑うと、頼むと小さく頭を下げた。
「私にそんなの書けるわけないじゃない」
「そんなことないだろ。おまえ、国語の成績抜群にいいじゃんか」
「手紙は全然違うでしょ。論文を書くのとはわけが違うんだから」
 恋文の代筆など、今まで一度だってやったことはない。第一このご時世、手紙のやりとり自体珍しいと言える。栞とて例外ではないのだ。メールが当たり前の時代、改まって手紙をしたためた記憶など、最近はない。栞は溜め息をつくと、嫌よ、と断った。
「なあ、頼むよ。こんなこと頼めるの栞しかいないんだって」
「告白なら自分で言えばいいでしょ。慣れてるじゃない」
「告白とは違うよ。俺のことを知ってもらいたいだけ」
「変わらないわよ。それに今時ラブレターなんて、しかもそれをあんたがなんて似合わない」
「そりゃ、俺らしくないってのは確かにそうなんだけどさ」
 後頭部に手を当てて、翔太が照れくさそうに笑う。栞はそんな翔太の表情を、まともに見ていられなかった。
「今回好きになった子は、極端に大人しいっていうか、男とは全く関わりを持たないシャイな子でさ。話しかけても下向いてこっち見てくれないし、まともに誘ったって靡いてくれなさそうな気がするんだよ。だから、たまには違う攻め方で行こうかと思って」
「だからって、手紙? 古典的すぎない?」
「古典的でも何でも、俺の方見てくれなきゃ、何も始まらないだろう。……何も」
 語尾はやけにゆっくりと落ち着いていて、その分栞を届かぬ場所へと追い詰める。
 翔太は本気で悩んでいるように、栞には見えた。恐る恐る表情を窺うと、そこにはふざけた様子など微塵も感じられない。
「本気、なの?」
「ん?」
「本気で好きなの? その子のこと」
 栞は真っ直ぐに翔太を見た。翔太は少しだけ考えると、ニカッと笑ってみせた。
「本気で好きになれそうな予感がする」
 チクリ、と栞の心にとげが刺さる。
「どうしても、その子に近づきたいんだ」
 鮮やかな笑顔の後の真面目な表情は、反則だと思った。それ以上、気安く断る要素を見つけられなくなる。
 栞は、チクリと痛む胸にそっと手を当てた。
 もう何度目だろう、こんな痛みを味わうのは。何度も何度も味わいすぎて、思わず溢れそうになる涙を抑える術も知ってしまった。翔太の前で寂しそうな顔をしないように我慢する癖も自然と身についた。
 少しでも。
 少しでも翔太の中に女性としての自分の居場所があったなら、こんな想いをずっと引き摺ることはなかったのに。
 栞はゆっくりと目を閉じて、小さく深呼吸をすると、溢れそうになった想いを胸の中にしまった。
「仕方ないな。やってみる」


 栞と翔太は、いわゆる幼馴染という関係だ。
 小学三年生の時に、栞が翔太の家の近くに引っ越してきてから、二人は高校二年生になる今までずっと、毎日のように顔を合わせては一緒に過ごしていた。
 小さい頃から明るくて活発で落ち着きのない翔太を、栞はお姉さん的な立場で見守っていたように思う。外でばかり遊ぶ翔太とは反対に、栞はインドアを好む文学少女だったが、肝心な時はいつも一緒に居て、お互いに知らないことはないのではないかと思うくらい、互いのことを知り尽くしている。
 翔太は社交的な性格と人目を引く整った外見もあってか、中学生になってからは、間を空けず彼女を作った。気になった子には積極的に声をかけ、十代なりの恋愛を楽しんでいた。彼女との恋愛の悩みさえ、翔太は栞に打ち明けていた。そんな二人の関係を彼女が見ていて良い気はしないだろう。それが原因かはわからないが、翔太の恋愛が長く続いたことはない。
 栞が翔太への気持ちに気付いたのは、翔太に初めての彼女ができた時だった。自分たちと比べると、少し大人っぽい女性だったことを、栞は今でも覚えている。長い髪に白い肌、それは栞とも重なるのに、栞との違いが一目でわかるくらい、彼女は雰囲気がとても大人びていた人だった。翔太の中に、年上の女性に対する憧れのようなものがあったのかもしれない。
 翔太と彼女が一緒にいるのを見た瞬間、栞の中の翔太に対する気持ちが明確になった。ただの幼馴染などではない。いつも自分の居場所だった翔太の隣という位置は、絶対に敵わない彼女という立場にあっさりと奪われてしまう脆い居場所だったことを、身をもって知ったのだ。そして栞は、彼女と重なる長い髪を切った。
 翔太のことが好きだとは、とてもじゃないけど言えなかった。
 翔太は自分に正直すぎるほど正直だ。だから、今彼の心の中には誰がいるのか、ということが、栞には全部分かってしまう。その中に自分がいないのを分かっていて、自分から当たって砕ける真似が出来るほど、栞は強くはないのだ。
 その度、何度泣いたか知れなかった。

 デスクの灯だけを付けて、下書き用のルーズリーフを一枚、目の前に置く。栞はキッチンから持ってきた紅茶を淹れたマグカップを両手で握ると、温かいそれを一口含んで小さく息を吐いた。
 昼間交わした翔太との会話を思い出す。恋文の代筆を引き受けてしまったのは、翔太を最後まで拒否することのできない自分の弱さ故だ。好きな人が真剣な顔をして頼み込んだのだ。それは自分が信頼されているからこそであり、栞はそんな自分の立ち位置すら失うのが怖かった。そう、怖いのだ。翔太に必要とされなくなったら、自分はどうすればいいのか分からない。
 栞は小さく頭を振ると、余計な雑念に捕らわれまいと、必死に自分の気持ちを追い出した。そして、真っ白の紙の上に、浮かぶ言葉を考える。
 女性が重く感じず、だけどグッと心を掴むフレーズ――。
 恋愛小説を好む栞になら、そんなに難しくない注文ではあった。自分が何を言われたら嬉しいのか、何を言われたら嫌なのか、論理的に考えながら言葉を選び綴れば、それなりの恋文ならいくらでも書けそうな気がする。翔太の注文は、できるだけ心に残るようなさりげない手紙、らしい。それを告白としてしまうのではなく、それをきっかけに二人の距離を近づけるのが目的らしかった。
 ペンを持ち、適当に浮かんだ言葉を書き出していく。
 恋愛小説を書くのだと思えばいいのだ。男の視点で、翔太の視点で考えるのだから、自分の気持ちは関係ない。
 だが、思いつくままに書き出したフレーズを文章として綴ろうとした途端、寂しさと虚無感が栞を満たして、それ以上何も書けなかった。


「例のアレ、書けた?」
「まだ」
 放課になると、隣のクラスにいたはずの翔太が真っ直ぐ栞のところへとやってきた。前の席の椅子に座り、体ごと後ろに向けて栞の顔を覗き込んでくる。少し切れ長の瞳に見つめられ、栞はフイッと視線を外した。
「なるべく早く頼むな」
「わかってる」
「ま、栞に頼んだんだから、間違いはないけどさ」
 翔太は栞に絶対の信頼を置いている。栞は翔太の味方だと、少しも疑わずにいる。今までもこれからも、栞を幼馴染という絶対的な位置に置いているようなものだ。翔太の中に、恋人としての栞を想像する余地など、ないのだ。
「私が書いたって、バレても知らないよ?」
「大丈夫だよ」
「どうして大丈夫だって思うの?」
「だって、俺のことを一番知ってるのはおまえだろ」
 残酷な台詞だと、栞は思った。
「俺が彼女に対して何を思うのかもわかってると思うし、おまえ以上に上手く書ける奴いるわけないじゃん」
 翔太は少しも気付いていない。
 どれだけ一番近くに居ても、本当に大事な栞の気持ちは少しも伝わっていない。
 それで良かったと安心するような、もどかしくて悲しくなるような、複雑な気持ちが栞の胸の中に渦巻く。
「私の手紙で上手くいこうなんて、都合よすぎだよ」
 俯いて零した声は、自分でも情けないくらい頼りない。
「なんだよ、俺の恋愛が上手くいかない方がいいのか?」
「本気でそんなこと思ってる?」
「冗談だよ。おまえは俺の絶対的な味方だもんな」
 翔太の鮮やかで素直な笑顔は、栞を少しだけ安心させた。味方という中途半端な位置とは言え、翔太の中に自分の居場所があると思えたからだ。
「それにしても、なんだか天気悪くなってきたと思わない? 降るのかな、これ」
 栞の机に肘をついて、翔太が窓へと視線を投げる。それを追いかけるように栞も窓越しの空を窺うと、どんよりと黒い雲が空を覆っているのが見えた。今にも雨が降りそうな雰囲気だ。いや、きっと降り出すだろう。何故だかわからないが、小さい頃から栞にはそういうものが肌で分かった。
「降るよ、たぶん」
 栞がそう言うと、翔太は頷いて席を立った。栞の言葉に対して少しの疑いも見せない。
「それなら早く帰んないとな。栞の天気予報は絶対だし。なあ、おまえ傘は?」
「それが、忘れちゃったんだよね。朝はすごく晴天だったじゃない? だからまさか降るなんて思わなくて」
「じゃあ一緒に入れて帰ってやるよ。俺、置き傘してるからさ」
「あ、でも今日は放課後に担任のところに行かないといけないから……。せっかくだけど、ごめん」
 栞が申し訳なさそうに謝ると、翔太は少し残念そうに肩を竦めた。
 二人が再び同時に窓の外を見ると、しとしとと雨が降り始めていた。


 担任のところに進路の相談に行った後、栞はすぐさま帰り支度を済ませると、急ぎ足で校舎を後にした。今はまだ小雨だが、そのうちザッと降り始めるだろう。雲行きが怪しかった。
 靴を履き替え、頭の上に鞄を乗せ、走り出そうと一歩踏み出したその時だった。栞の視線の先に見慣れた人物が映って、思わず足が止まった。
「翔太……?」
 長身でガッシリとした体躯には不似合いな、ピンク色の傘を差して立っている。まさか置き傘とはあの可愛らしい傘のことだったのだろうか。後姿から翔太の表情が少し見えただけだが、気恥ずかしそうに立っているその姿が可愛らしくて、栞の口からフッと笑みが零れた。もしかしたら、栞を待っていてくれたのかもしれない。過去に何度か覚えがあったからか、栞には根拠のない確信があった。
「仕方ない。あんな可愛い傘じゃ恥ずかしいだろうから、一緒に帰ってあげようかな」
 何気ない独り言を呟いて、嬉しそうに翔太の元へ向かおうとすると、彼の体の向こうに影が揺らめいたのが見えて、再び栞の足が止まる。
 影の正体は、女の子だった。髪が長くて華奢で身長はきっと栞よりも小さい。彼女の手が、翔太のシャツをさりげなく掴んでいる。翔太の体に隠れて見えなかっただけで、二人はずっと同じ傘に入っていたのだろう。
 ――そうか。あの子が。
 ガン! と鈍器で頭を殴られたかのような衝撃だった。まともに考えれば、それが女物の傘であることなど分かりきっているのに、そんなことすら想像できなかった自分が、栞は恥ずかしくてたまらなくなる。翔太に好きな子がいることも分かっているのに、翔太が自分の前にいると思った瞬間、そんな常識は頭から抜けていた。
 思ったよりも良い感じじゃないか。全く近づけないと翔太は言っていたけれど、彼女の穏やかな表情を見ればまんざらではない。栞は内心呟いて、落胆する。
 自分じゃない別の女の子と一緒にいる翔太を見るのは、もう数え切れないくらいだった。だけど、いつになっても慣れるものじゃない。むしろ、好きになればなるほど、そんな光景は酷く栞を傷つけていた。今この瞬間でさえ、胸が苦しくて痛くて堪らなかった。
 頭の上に乗せていた鞄を、ギュッと胸に抱きしめる。ポツリ、ポツリ、と雨粒が栞の頬を濡らした。翔太が身を屈めて彼女に微笑みかけている。その笑顔はけして栞に見せたことのない、少しの緊張と気恥ずかしさを帯びた優しい笑顔で、それを見た瞬間、栞は二人に気付かれまいと雨の中へと飛び出した。
 走る。だが、彼らが見えなくなると思った瞬間、深い水溜りに足を取られ、栞は躓いた。
「痛っ……」
 幸い派手に転ぶことはなかったが、バシャッと派手に水しぶきが上がり、栞のスカートや靴下を汚した。自分を支える為に思わず地面に付いた手の平に雨粒が落ちるのを見た瞬間、どうしようもなく情けなくなる。
 翔太が、自分じゃない誰かと一緒にいる。それだけで、こんなにも心は壊れてしまいそうだった。
 愛されたこともない。だから、失うものなど何もないのに、心ごと何かに引き千切られてしまいそうだ。
 どうして私は、私なんだろう。
 どうして、幼馴染として出会ってしまったんだろう。
 そんな馬鹿な愚問さえ、栞の脳裏を過ぎった。
 翔太がいないと思った心の中に隙間風が吹く。その感覚があまりに寂しくて、翔太の前では絶対見せない涙が栞の瞳を覆い始める。その時だった。
「栞!」
 雨の中を、バシャバシャと水しぶきが跳ねる。栞の視線の先に男子生徒の制服が見えて、思わず顔を上げると、そこにはついさっきまでピンクの傘の下に居た翔太が立っていた。
「おまえ、こんなとこで何やってんだよ」
 右の二の腕を捕まれ、無理矢理立たされると、翔太は栞の前に屈みこんで、汚れた膝を手のひらで払った。
「怪我ないか? 痛いとこは?」
「なんで……」
 一旦あふれ出した涙は、簡単に止められるものではない。栞は、揺れる視界で、ただ翔太の心配そうな顔を見つめるしかできない。翔太は栞の膝や太腿から手荒く土を払い落とすと、栞が持っていた鞄を奪い取った。
「このタオル借りるからな。ったく、何ボケッとしてんだか。本当にどんくさいやつだなあ、栞は」
 栞がどこにいつもタオルを入れているのかすら、翔太は知っている。手際よく鞄からそれを取り出して、濡れた栞の膝や手を拭き、自分も汚れた手のひらを拭うと、翔太はゆっくりと立ち上がった。頭一つ分、栞より高い身長。見下ろされていては、栞にはまともに翔太の表情を計り知ることができない。
「こけたのがそんなに痛かったのか? ん?」
 頭の上に手をポンと置いて屈みこみ、翔太は栞の瞳を覗き込んだ。その瞬間、水晶玉のように溜まっていた栞の涙は、ポロッと頬を伝った。
「子供みたいに泣くなよ、バカ」
 全てを包み込むような優しい声だった。弱い栞を守ってくれているような、柔らかな声だった。いつも栞が世話を焼いてやらなければ何もまともにできない奴なのに、今この瞬間、翔太がとてつもなく大きく見える。
 でも、本当は知っていた。どこか頼りなく見える翔太の本当の姿は、とても優しくて広くて大きい存在なのだと。周りの皆は何といおうと、ずっと翔太を見てきた栞だけは、知っていた――。
「栞」
 優しく呼ぶ。その声さえ、泣きたくなるほど愛おしい。
「栞、大丈夫か?」
 だが、涙が唇を伝い、そのしょっぱさを感じた瞬間、ハッと我に返る。
 栞はすぐさま涙を拭うと、傍に立つ翔太の体を押しのけた。
「なんで翔太がここにいるのよ」
「なんでって、おまえが走ってるのが見えたから……」
「彼女と一緒にいたんでしょ」
 翔太の肩越しに後ろを見ると、ピンクの傘を差した彼女が、遠くから自分たちを見ていた。ただ呆然と、自分たちを見ているその冷静な目に、栞は焦る。
「ダメだよ。こんなところ見たら誤解するよ? あの子なんでしょ。翔太が好きな子」
「ああ」
「なら早く戻って。私なんかに構っちゃダメだよ。せっかく、二人きりになれたのに、こんな下らないことでダメになったらどうするの」
 早く離れなければと力いっぱい翔太の体を押す栞の手を、翔太が掴んだ。ハッと顔を上げると、そこには栞を真っ直ぐに見つめる真剣な眼差しがあった。
「下らないって何だよ」
 あまりの威圧感に、栞は何も言えなくなる。
「栞が痛い思いしてるのに、下らないわけないだろ。ましてや泣いてたりしてんのに、俺が駆けつけないわけないじゃないか。俺に見て見ぬふりしろって言うのかよ」
「バカッ。そういうのは時と場合っていうのが……」
 捕まれた腕を放そうとするも、翔太の力は余計に強くなるばかりだった。
「そんなの関係ない」
「何、言って……」
「おまえを見捨てる理由なんてどこにもない」
 睨み付ける翔太の視線に耐え切れず、栞は目を伏せた。何故、こんなにも翔太が感情的になるのか、分からない。幼馴染だから大事なのだろうか。たとえそうだとしても、こんな台詞は自分に無意味な期待を持たせてしまうだけだ。いっそ、放っておいてくれた方が良かった。自分の為に駆けつけて助けてくれる彼を、これ以上好きにならずにいられる術など、栞は知らないのだから。
「バカッ。声が大きいよ。彼女に聞こえたらどうするの」
「だけど、おまえが」
「私なら大丈夫だよ。泣いたのは目に砂が入ったの。それだけなの。だから、早く戻って」
 油断して力が抜けたのを見計らって、栞は腕を振り払った。
 早く。早く行って――。
 そうでないと、また涙が止まらなくなる。
「だったらこれ、俺の傘使えよ」
「え?」
「濡れて帰ったら風邪引くだろ。だから、これ使え」
 翔太は適当に近くに放ってあった自分の鞄の中から折りたたみ傘を取り出すと、こっそりと栞の手に持たせた。
「言っとくけど、俺が傘持ってることはあの子には内緒なんだから、俺らが見えなくなってから差せよ?」
「何それ。傘忘れたって嘘ついて、彼女の傘に入れてもらってたってこと?」
 子供じみた翔太の嘘に、何故か緊張が緩まって、栞は呆れたように苦笑を零した。それに幾分か安心したのだろう。翔太はいつものおどけた雰囲気を纏うと、しーっと指を唇に当てて栞を窘めた。
「だってこんな絶好のチャンスないじゃん。雨の日に相合傘。二人の距離を縮めるのに最高のシチュエーションだろ」
「翔太ってなんか、考えることが古いっていうか、幼いよね」
「うるさい。幼馴染のくせに、今更なこと言うな」
 ピンッと軽く額を指で弾かれ、今度はしっかりと翔太に微笑んでみせることができた。『幼馴染』と断言した翔太の言葉に、やはり近づけない距離を感じたのだ。切ないながらも、栞は安堵する。一旦は剥がれ落ちた自分の心のヴェールを、なんとか取り戻せたことに。
「ありがとね、翔太」
 手渡された折り畳み傘を後ろに隠して、栞は翔太を見上げた。漆黒の瞳が、栞を真っ直ぐ見下ろしている。
「泣くなよ」
「え?」
「俺がいなくなった後でまた泣いたりするなよ」
 滅多に見ない栞の涙に動揺したのだろう。心配そうな瞳は揺れている。
「おまえが泣いたら俺……どうしていいか分からなくなる」
「……泣かないよ」
 栞は翔太を安心させるために、大きく頷いて嘘をついた。
「泣かないから、早く行って」
「…………」
「翔太」
「……わかった。じゃ、また明日な」
 翔太が足早に彼女の元へと駆け寄っていく。段々と小さくなっていく翔太の背をしっかりと見送りながら、栞は胸の痛みに必死で耐えた。
 ――行かないで。
 それすら素直に言えないくらい、二人の距離は近すぎる。
 彼女の元へ戻った翔太は、小さく頭を下げながら何度も彼女に謝っていた。当たり前のように、彼女の手からピンクの傘を奪っている。彼女は顔の前で両手を左右に振って、気にしないで、と言っているようだった。そんな姿は、女の目から見てもすごく可愛くて、栞は思わず溜め息をついた。
 翔太が選ぶ女は、いつも何かしら、栞が敵わないものを持っている。
 それは、翔太が栞をけして選ばないという現実を突きつけられているようだった。
 それでも、翔太を好きだと思う自分の気持ちに嘘は吐けない。
 きっともう、諦めることすらできないほど恋焦がれていると、捕まれた手首に真剣な翔太の姿を思い返しながら、そう思った。
「行か、ないで……」
 貴方がいなければ、言えるのに。
 涙が――止まらなかった。


 次の日。思わぬことが栞の身に起こった。
 昨日翔太と同じ傘の下にいた彼女に、呼び出されたのだ。
「あの、翔太くんとはどういう関係なんですか?」
 単刀直入に聞かれた瞬間、翔太の中の彼女のイメージと、実際の彼女は随分と違いがあることに栞は気付いた。自分から動けないような待っているだけの女の子ではない。彼女を目の前にした途端、栞の中の危険信号が点滅し始めている。
「幼馴染、ですけど」
「幼馴染って、どの程度の?」
 彼女の真剣な眼差しが、栞と翔太の関係を遠ざけようとしている。今までの彼女とは少し様子が違う。幼馴染という栞の立場ですら、この子から奪われるかもしれない。
「近所に住んでるってだけで、ただの知り合いだから、心配しなくてもいいですよ」
 栞は予防線を張った。
 彼女に無意味な心配をさせたくないと思ったことも、翔太の立場を考えたことも、全て嘘ではない。だけれど、自分の居場所を脅かされたくない。それが一番の理由だった。
 こんな言い訳しかできない自分が悲しい。翔太を応援することしかできない、そんな自分の立場が嫌いなのに、それすら失いたくないと心の奥底で願っている自分の弱さが嫌だった。
「昨日のことなら心配しないで下さい。彼はただの善意で、助けてくれただけですから」
「あ、はい。それなら翔太くんが何度も言ってたから、知ってます」
 彼女が嬉しそうに微笑む。
 そうか、本当にただの善意だったのか。栞の胸はまた、チクリと痛む。
 最初から知っていたし、自分が翔太にそう仕向けたことなのに、間接的に聞かされた事実はやはり苦しかった。
「彼女じゃないんですよね」
「……違いますよ」
「良かった」
 極端にホッとした表情を彼女が見せた途端、翔太の恋は叶ったのだと瞬間的に悟った。
 泣いてしまいそうだった。


「頑張ったんだけどね、翔太の望むような手紙、書けなかったんだ」
 放課後、いつものように栞の元へ訪れた翔太に、断りを入れた。
 翔太はさほど気にしてはいないようだった。それもそのはずだろう。必死で距離を縮めようとしていたことも、もう必要がないのだから。
「ごめん」
 栞が目を伏せると、翔太は栞の頭の上にポンと手を乗せた。
「いいって。俺も結構無理な頼みごとしてたし」
 いつもより翔太の機嫌が良いのは、きっと気のせいではないだろう。
 頭から手を離し、栞の目の前で翔太が肘をつく。少し首を傾げて栞を覗き込んだ。
「それより、昨日怪我しなかったか?」
 見つめられるだけで、栞の体に緊張が走る。縮まる距離に戸惑い、栞は咄嗟に後ろへと身を引いた。
「大丈夫、だよ。翔太の方は? あれから上手く行ったの?」
「ああ。結構いい感じだったよ。おまえが気遣ってくれたおかげで、誤解されずに済んだし」
「私のおかげって……。そういうのは普通、自分で気付かなきゃいけないんだよ?」
「そう言われても、おまえ相手だと何をするのも当たり前だから、気付くものも気付けなくなるんだよな。正直、あの時おまえが戻れって言ってくれてなかったら、分かんなかったかも」
「ダメじゃん。そんなんじゃ……」
 幼馴染としてしか見てくれないくせに、そんな台詞を投げられても、栞にはどうしようもない。翔太の中に、栞に期待させようとする意識がないのが分かっているからこそ、余計に複雑になる。
「栞に頼りすぎてんのかもな」
「女の子に頼るなんて、情けないよ、翔太」
「ごめんごめん。幼馴染ってことで大目に見てよ」
 きっと二人は近すぎるのだ。だから、お互いが本来どんな距離感を保つべきなのか、見えなくなってきている。
 翔太が変わらないのなら、栞から変わるしかないのかもしれない。
 意識し始めたのは栞。だから、終わらせるのもきっと、栞の役目だ。
「でも、ちょっと見てみたかったな。栞が書いたラブレター」
「そんな簡単じゃないよ。特にラブレターなんて」
「そうかなあ。好意を持ってるっていうことを文章にするだけの話だろ? 気になってるとか、相手のことをもっと知りたいとか……」
 好意を文章にするだけ。
 その言葉は、栞の心を酷く締め付けた。
 翔太の言葉はきっと間違ってはいない。恋なんて、初めはさりげないものだ。最初から本気で誰かを愛する恋なんて、そうありはしない。少しずつ膨らんで、少しずつ好きになる。
「そうだね。私も最初は恋愛小説となんら変わりないと思ったよ。女の子が好きそうなフレーズもいっぱい浮かんだし、どんな言葉が好感を持たれるのかもすぐに想像がついた。……でもそういうのって、今の私には嘘でも書けないって分かったの」
 いざ書こうとした時、栞の脳裏に浮かんだのは翔太だった。
 好きな人に何を伝えたいだろう、何を知って欲しいのだろう、そう考えると、それまで沢山書き出していた言葉はどれも陳腐に感じられて、そしてそのどれもが栞の気持ちを表してはくれなかった。
 一緒にいたい、毎日会いたい、触れたい、抱きしめたい、もっと君を知りたい。
 浮かんだ言葉はもっと沢山あったけれど、相手に対する欲求よりもっと膨れ上がってしまった想いがある。
「ねえ、翔太」
 栞は、真っ直ぐに目を逸らすことなく翔太を見つめた。
「翔太は、本当に誰かを好きになったことが……ある?」
 伝えた途端泣きそうになって、語尾が掠れる。
 今までずっと隠してきた栞の想いを、翔太に伝えたかったわけではない。でも、何も伝わらないことが、何も知ってもらえない気持ちが、あまりにも悲しかった。
「本気でって、急になんだよ」
 翔太は、突然の栞の言葉に戸惑っているようだった。
「本気で好きなら、上手になんて書けないんだよ」
「え?」
「本気で好きになると、好意を文章にするだけなんて言葉、きっと言えなくなる。好きってそんなに幸せじゃないもん。好きなのに苦しくて、苦しくて辛いのに諦められなくて。そんな気持ち、知らない方が良かったって、後悔するくらい――」
 そう。本気で貴方が好きだから、溢れすぎた想いを適当な言葉なんかで伝えられない。言葉なんかでは誤魔化せないのだ。好きになれば、なるほどに。
「悲しい恋しか知らないの。だから、私には上手には書けなかったんだ……」
 栞は翔太に向いて少し寂しげに微笑むと、ゆっくりと席を立った。追いかけるように見上げる翔太の視線から逃げるように、背を向ける。
「栞、おまえ何かあったのか?」
「何もないよ」
「俺になら言えるだろ。遠慮すんなよ」
 翔太の声は、栞のことを本気で心配している声だった。
「可愛い彼女できそうなんだよ。幼馴染だからって、他の女の子と仲良くするのって、彼女が悲しむよ」
 せっかく彼女の前で張った予防線も、もう意味を感じなかった。今、どこかでラインを引かないと、栞は今以上に翔太に飲み込まれてしまう。
「何それ。なんかいつもの栞らしくない」
 栞が引いたラインに気付いたのか、翔太の声が少し荒っぽくなった。
「ちゃんと彼女のこと見てあげな、って言ってるんだよ」
「それでおまえのことがどうでもよくなるなんて思ってんの? だとしたら無駄。栞が女だからって理由だけで、今更距離置くとか考えられない」
「いつまでもそんなんじゃダメなんだよ……」
 突き放すようにそう言うと、翔太は黙り込んだ。
 男女の友情など、どちらか一方に恋愛感情があれば成り立たない。
 彼女の隙を盗んで翔太と少しでも一緒にいようとするような、そんな嫌な女には成り下がりたくない。そこに恋心がないなら堂々と一緒にいられても、翔太のことが好きでたまらない栞には、後ろめたくて仕方がなかった。
 それに、いつまでも幼馴染なんてポジションで満足できるなんて、思わなかった。
「彼女と仲良くね」
 栞は翔太の前から立ち去った。
 心が泣いていることを、見透かされたくなかった。


 翔太と彼女が仲良く帰っていくところを、校舎の窓から見送って、栞は自分も身支度を整えると、もうすっかり人気のなくなった玄関へと向かった。
 隣のクラスの靴箱の前に立ち、鞄を開けた中から一枚の封筒を取りだす。宛名も差出人の名もない真っ白なその封筒を見つめながら、栞は溜め息をついた。
「次は、もっと素直に気持ちを伝えられる恋だといいな……」
 最初からお互いを知らない人と出会って、自然に恋をして、少しずつ好きになって、苦しい想いや我慢などない恋がいい。一緒にいて沢山笑って、一緒にいて安心して、お互いが一番大事な存在でいられるようなそんな――……
 理想を並べながら、現実の残酷さに涙する。
 諦めが付くまでには、どれだけの時間がかかるだろう。予想すらつかない。恋は、翔太しか知らないのだから仕方がない。
 でも、いつまでも二人が幼馴染のままでなどいられないことを、栞が一番分かっている。幼馴染でいることの方が、この先もっと辛いことも分かっている。
 だから、もうこの恋は諦めよう。

 栞は持っていた封筒を再び見つめると、そっと翔太の靴箱の中に入れた。
 誰が書いたかも分からないこの手紙が二人を結びつける要素など、何も持ち合わせてはいないだろう。
 意味のない手紙。そう、何の役にも立たない手紙――。

 知っている。
 貴方が決して私を選ばないことを。
 それでも、貴方の傍にいて、貴方だけを見つめてきた自分の気持ちが嘘ではないことを、伝えたかった。
 ただ、貴方に知って欲しかった。

 初めて書いた恋文には、ただ一言。



 ずっと、貴方が好きでした。



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