プライドと青

 他人は私を『なんでも器用にできる人』と言う。
 そんなものは外見のイメージが勝手に作り出したまやかしだ。

 本当の私は、素直に気持ちを伝えられない、ただの不器用でしかない。



「別れようか」
 呆れるくらい天気の良い日だな。
 そんなことを考えながら、私は目の前の男に、『今日何食べる?』くらいの気軽さで言葉を投げていた。
「えっ……。突然、何」
「別れたいの。いいでしょう」
 確かに、突然ひどい言葉だとは思う。だが、そもそも誰も傷つかない別れの台詞など、最初から存在しない。
 別れ話を切り出したのは、この日が初めてだった。
 ここでダメだと言われても、私が一度決めた以上、承知してもらわなければ困る。そもそも私は、恋人の気持ちを確かめるためだけに、わざと別れ話を切り出せるような器用な真似はできない。『私のことが好き?』と聞けたのも、付き合い始めの数ヶ月だけだった。恋心が愛情に変わってきた頃から、些細な表情で相手の心の動きが読めるようになり、『好き』という言葉の中にある少しの嘘さえ見抜くのが怖くて、聞くことさえできなくなったのだ。
 目の前にいるさっきまで恋人だった人『亜樹』は、大きな溜め息をついて眉間に皺を寄せていた。女っぽいのは名前だけじゃない。その中身も、男にしては優しすぎるくらいで、私はそんなところをこよなく愛していたけれど、その反面、男らしくない優柔不断なところは嫌いだった。何かと物事をハッキリと口にする私に頼っていた部分もあるのかもしれないが、時と場合によっては、ただ責任を押し付けられているとしか感じられないこともある。いつも何かを決めるのは私の方。ご飯を食べに行くのも、デートに行く場所も、セックスをするのかどうかさえ、何もかも全部私が決めていた。そんなことにももう、疲れていた。
「突然何を言い出すのかと思ったら……柚子はいつもそうだ。自分の好きなように勝手に決めて、一度そうと決めたら意地でも曲げない。少しは譲歩しようとか、俺の気持ちを考えようとか、そういうのってないの?」
「だったら、亜樹の気持ちを教えてよ」
「俺は……突然のことすぎるし、今は混乱してて分からないよ」
 やはり亜樹は、自分が決断を下すことから逃げた。
 亜樹の気持ちがどうであろうと、結局決めるのは私じゃないか。自分の決めたことを押し通したことがないのは、亜樹の方なのに。
 喉から言葉が飛び出そうになって、私は必死で押し込めた。
「とにかく別れたいの。お願いだから別れてよ」
「だっておまえ……四年だぞ。四年も一緒にいたのに、こんなにあっさり終わるなんて」
「引き摺るような別れ方、私は嫌いなの」
「別れ方の問題じゃないだろ」
「どちらにせよ、私の気持ちは変わらないから」
 言い切り、別れ話の前に注文していたマルゲリータのピザを一切れ手に取って、私はそれを口に入れた。
「こんな時によく食えるよな……」
 亜樹が呆れた声で私を詰る。食ってなきゃやってられないなんていう私の気持ちが、この男に分かるわけもなかった。
「……分かったよ」
 亜樹が観念して、項垂れる。私の予想よりそれは少しだけ早かった。
「おまえが一旦言い出したら聞かないのは、俺が一番知ってるからな」
 こんな時でさえ、私に責任を押し付けるかのような言い方をする亜樹の言葉に傷ついて、私は必死でピザを胃に押し込んだ。
 予想していたこととは言え、こんなにあっさりと承知されると虚しいものだ。引き摺りたくないと言ったのは私の方なのに、それでもどこかで、自分たちが四年かけて築き上げてきたものの重さを信じていた。私が思っていたよりもずっと、亜樹の中の私に対する想いは浅くなっていたということなのかもしれない。所詮、情での繋がりでしかない不確かなものなんて、脆いのだということに気づかされ、私は深く目を閉じる。
 目の前の亜樹は、一つ大きな溜め息を吐くと、グラスを手にとってアイスティーの氷を揺らしていた。
「なあ、柚子」
 お互い、視線は合わせない。
「何?」
「別れる原因って何。俺の何が嫌いになったのか教えてよ」
 嫌いなところなんて、挙げだしたらきりがない。
 優柔不断なところが嫌い。いつも人に合わせてニコニコして、誰もが皆亜樹を良い人だと思っているけれど、本当は責任を課せられるのが嫌いなだけの無責任な男だし、内心相手に対して何か思っていても、面倒臭いを理由にして自分の意見を主張しないところも嫌い。だらしなくていいかげんで、何かをしてあげるのは私の方で、時々自分が母親なのではないかとさえ思うこともあった。キスも下手、セックスも下手だった。
 言い出したら、いくらでも言える。
 でも、私はそれらを口にはしなかった。
「亜樹のことが嫌いになったんじゃない。……他に好きな人ができたの」
「他に好きな人って……何それ」
「だから、亜樹とはもう一緒にいられないの。分かって」
 亜樹は、しばらく黙っていた。
 私はまた窓越しに空を見上げて、時間が淡々と過ぎていくのを待っていた。
 亜樹が何を言おうと、別れたくないと縋ろうと、私はもう別れを決めていた。
「その人は、柚子を幸せにしてくれる?」
 思いもかけない亜樹の言葉に、私はドキリとした。
 他の人を好きになったという恋人の裏切りを真に受けたのに、そんな台詞が出てくるとは思いもよらなかったからだ。
「俺といるよりも、その人といる方が、柚子は幸せになれるのか?」
 真剣な亜樹の目をまっすぐに受け止めた時、私は初めて亜樹から告白を受けた時のことを思い出していた。あの日も、こんなに真っ直ぐな目で私を求めてくれた。はにかんだ笑顔が可愛くて、OKの代わりに私から亜樹を抱きしめたことを今でも鮮明に覚えている。でも、今の亜樹の目には、真っ直ぐさの中にも、私を求める強さは宿っていない。それを知ってしまった時から壊れ始めたのだ。全ては。
「私といない方が、亜樹が幸せになれるのよ」
「どういう、意味?」
「私のそばに、亜樹の幸せはないんだよ」
 知らなければ良かった。私が貴方を幸せにできないことなんて。
 私は震える声を必死に抑えながら、嘘の笑顔を作って見せた。
 亜樹は少しだけ不可解な表情を見せていたが、やがて私から目を逸らすと、これ以上何も変わることがないことを悟ったのか、小さく頷いて見せた。
「わかった。……ごめんな、柚子。今まで、何もしてやれなくて」
「なんで振られたあんたが謝るの?」
 茶化すように笑ったけれど、亜樹はいつものように笑い返してはくれない。
「ずっとおまえに甘えてばっかりだった。いつも、おまえに強がらせてばかりで、ごめん。本当はもっと、おまえの気持ちに気づいてやらないといけなかったのに、できなくてごめんな」
 その台詞は、私の本心を見透かしているかのようで、私は胸が苦しくなるのを抑えることができなかった。
 すっかり冷え切ったピザが、私の視線を釘付けにする。
 カラン、とアイスティーの氷が揺れた瞬間、恋は終わったと気づかされた。



 店員に亜樹の分のグラスと冷えたピザを下げてもらった後、私は肘をついて窓の外に視線を移した。店を後にした亜樹の背を、ガラス越しに見つめる。亜樹は、ポケットから携帯を取り出すと、どうやらメールを確認していた。
「おまえのほかに好きな男なんか、いるかっつーの」
 誰にも聞こえないほどの小さい声でぼやく。声にして出さなければ、苦しさに押しつぶされそうだった。
 私の最大の嘘は、亜樹にはバレていただろうか。どちらにしても、こうなることに変わりはなかっただろう。
 亜樹が、携帯を耳に当てる。誰かと電話をしていた。
 きっと、あの子だ――。
 私は、瞬間的に悟った。
「最後まで気づかせないでよ」
 亜樹の詰めの甘さに苦笑いを零す。
 私が亜樹の気持ちの揺れに気づいたのは、二ヶ月前だ。その頃から、亜樹の中にある私だけの居場所が、誰かに少しずつ侵食されていくのを、毎日の亜樹の表情から感じるようになった。その侵食は次第に私を脅かすほどになって、きっと今ではもう亜樹自身でどちらかを選べないほどの割合になっている。でもそれは単純に、愛情の割合ではない。
 私がこのまま彼女でいられることは簡単だった。亜樹を一生私のそばに縛り付けることなんて、彼を知り尽くしている私にとっては容易いことだった。優しくて優柔不断な亜樹だ。他に好きな人ができたからといって、私を切ることなんてけして出来ないだろう。きっと一生胸に秘めて、私のそばにいる。その証拠に、亜樹は付き合い始めてから今日のこの日まで、きっと私以外の女と関係を持ったことはない。
 でも私は、恋情ではなく、ただの情で一緒にいられることに甘んじられるほど、自尊心のない女ではなかった。
 奪われたのは心だけ。でも、その心なくして、一緒にいる意味などない。つまらない女でなどいたくない。本当に自分でも呆れるくらいの潔さが、この恋を終わらせたのだ。
 『私のこと好き?』って聞ける可愛い女なら、きっとこんな別れ方はしなかっただろう。でもこれが、私が亜樹の背中を押せる精一杯だ。
 好きな男を他の女にくれてやるなんて選択、亜樹と付き合う前の私なら考えられなかった。
「ああ……もう、すごく……」
 沢山ある。嫌いなところならいくらでもあった。
 毎日一緒にいてうんざりすることもあった。それほどそばにいた。
 でも――。

「すごく、すごく……好きだったなあ……」

 言葉を噛み殺すこともできないほどに、想いはあふれ出して止まらなかった。
 下手なセックスの後に、抱きしめてくれる腕の温かさに、涙が出そうなほどホッとしたことも。
 私が仕方なく選んだ店で食べた料理がすごく美味しいと笑ってくれたことも。
 機嫌が悪くて八つ当たりする私に怒ることもなく、ただ頭を撫でて慰めてくれたことも。
 私をけして否定せず、一番の味方でいてくれたことも。
 そして、不器用で素直になれない私を、『大好きだよ』と何度も言って抱きしめてくれたことも。
 きっと――きっと一生忘れられないだろう。
 嫌いなところさえ愛せた人は――そして私の全てを丸ごと愛してくれたのは、亜樹が初めてだったのだから。
「幸せにならないと、許さないんだから。……バーカ」
 こんなにも、自分より誰かを幸せにしたいと思ったことはない。
 そう思える自分が誇らしくもあった。
 離れていく亜樹の背から目を逸らし、空を仰ぐ。
 視界が揺らいで、目いっぱいの青しか映らなかった。

 その青は、初めて零した涙の色。
 私のプライドの色。



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