通り雨が過ぎたら

「もう、会うのはこれが最後にしよう」
 まるで深く愛し合った恋人同士が、別れを惜しんだ末に決めたような台詞だと思った。
 キスもしていない、肌を重ねたこともない、愛を囁きあったことすらない。でも、一緒にいた時間は、彼が過去に付き合ったどの女性よりも長く、その距離は遠かった。そう、私が彼に許されていたのは、ただの友人という中途半端な居場所だった。
 そして、私は今その居場所を自分自身で壊してしまったのだ。
「どうして?」
 突然告げられた絶縁の台詞に、私はただ戸惑いしか感じられず、縋るように問い返してしまう。彼はただ首を横に振るだけで、私の目は見ない。まるで、私を拒むかのようなその仕草に、私はハッとした。
「私が貴方を好きだと言ったから?」
 ただの友達だった彼を、いつからか男性として愛おしいと思うようになり、膨らみすぎる気持ちの重みに私はいつしか耐えられなくなった。気持ちを吐き出すということは、私が抱えていた同じ分だけの思いの重さを、彼にも背負わせてしまうのだということが分からなかった。好きでもない女のために、そんな重い気持ちを背負えるほど、彼という人間は上手にできていない。むしろ、不器用な人間だということを、私は今の瞬間まで忘れていたのかもしれない。
 彼は少しの慈悲さえも、私にくれようとしなかった。
「おまえの気持ちを知って、これ以上一緒にいるのは、俺にはできない」
「ご、ごめん。今のはナシだから。なんか雰囲気に流されてつい口から出ちゃったっていうか……本気なんかじゃないから。だから今のはなかったことにして」
 私は慌ててさっきの告白を取り消そうとした。まさか彼ともう会えなくなるのだということまでは、予想できていなかったのだ。
「悪いけど無理だよ。聞いた以上は、もう……」
「私の気持ちなんて気にしなくていいから、だから」
「俺がわからないわけないだろ」
 彼が私を真っ直ぐと見つめてくる。射るような視線に、私は逃れられない。
「今までこんなにも長く友達やってて、今の台詞がお前の本気なのかそうじゃないのかくらい、すぐに分かるよ。友達以上の想いがあるのを分かってて、これ以上友達を続けられない。ただの友達のフリなんてできない。俺、そんなに器用じゃないんだ。ごめん……」
 こんなにもそばにいたのに、今この瞬間になって、私は彼のそういう真面目で不器用なところを愛したのだと気付かされ、途方に暮れる。一体、何を見ていたのだろう。一体、私は何を望んでいたのだろう。彼に、友達以上の関係を望めないことなど、最初から分かっていたのに。
 高校時代から続けてきた彼との関係は、たった一度の告白で呆気なく壊れてしまった。


 雨の日の公園は、子供一人いない。侘しいものだ。時々私の背を車が通り過ぎていくけれど、歩いている人は見かけなかった。
 彼と別れてから私は、目的もなくただ歩き彷徨って、人気のない公園に辿り着き、雨が跳ねるベンチの上へと腰を下ろした。湿った雨の匂いの中に、土の匂いと甘い花の香りが鼻をつく。足元を見ると、散った桜の花びらが無残に広がっていた。その様が寂しげで哀れで、春が嫌いになりそうだ、そんなことをふと思う。天を見上げると、雨が頬を叩きつけた。自分が泣いているのか、そうでないのかさえ、呼吸の苦しい雨の中ではよくわからなかった。涙すら、雨がかき消してくれていたから、尚更だ。夕刻を過ぎた空は藍色で、少しずつ光を失っていく。ああ、どうせなら私も消えてしまえばいいのに。そう思った時、視界を真っ黒なものが覆いかぶさった。
「風邪引く」
 愛想のかけらもなくそう言ったのは、高校生くらいの男の子だった。私に自分の黒傘を傾け、突っ立っている。身長はかなりあるのだろう。座っている私から傘までの距離は遠く、左右の隙間から容易に藍色の空が仰げる。だが、頬を叩く雨粒は、私をもう隠してはくれなかった。
「余計なお世話」
 私は感情を隠してそう言った。誰も私に構わないで欲しかったのだ。普通の人間なら、こんな女に愛想を尽かすのだろうが、この少年は表情をピクリとも変えず、離れていくどころか私の腕を掴んだ。
「余計なお世話なのは最初から分かってる」
 少年は私をグイと引っ張って立たせると、公園の端にあるログ調の屋根付きのテーブルとベンチの所まで連れて行った。学校の帰り道だったのか、通学用らしいバッグの中からスポーツタオルを出して、私に手渡した。
「心配しなくても未使用」
 受け取ったタオルを私がじっと見つめていたからそう言ったのだろう。少年は私の真向かいに座ると、視線を外して遠くの景色を眺めていた。
「……ありがとう」
 私は小さく呟いて、そのタオルに顔を埋めた。ふんわりと花の香りがする。柔軟剤の匂いだろうか。ぶっきらぼうで無表情なこの少年と、その香りとがあまりに釣り合わなくて、私は心の中でクスリと笑った。柔らかい感触と、花の匂い。しばらくの間その感触に自分を預けたことで、波立っていた心が落ち着きを取り戻した。
「ねえ」
「……何?」
 遠くから、少年の視線が私へと戻ってくる。改めて見た少年の面立ちは、女性のような美しさと透明感を備えていて、あまりの綺麗さに息が止まるような美少年だった。今になって気付くなんて、さっきまでの私は本当にどこか違う世界に飛んでしまっていたのかもしれない。
「どうして私を助けたの?」
「別に」
 あくまでも少年は無表情だ。クールに装っているというよりは、感情表現の乏しさを感じる。
「雨の中でずぶ濡れになってる女見てたら、ほっとけなくなった?」
「…………」
「それとも、なんかワケありだな、とか、可哀相だなって、同情してくれたの?」
 なぜか私は饒舌になっていた。特に何かを語ろうとしない少年に、自分の気持ちを吐き出してしまいそうだった。
 こんな少年の目にさえ、私という女は哀れに映ったのかと思うと、情けなくて泣けてくる。それなのに、十歳くらいは年齢が離れているかという無口なこの少年に、自分の気持ちを分かって欲しいなどと傲慢な気持ちを抱いているのも本当だった。
「本当は哀れに思ってるのに何も言わないなんて、優しいんだね」
 視線を落として小さく呟くと、ずっと無口だった少年が口を開いた。
「優しくなんかない」
 見た目とは反した男性らしい響く声だ。
「親切でずぶ濡れの女拾うほど優しくないし、見ず知らずの女相手に話相手になれるほど器用でもない」
「そうなの?」
「誰かに同情できるほど、出来た人間でもない。哀れみなんて、感じてないよ」
「じゃあ、どうして私に傘を傾けたの?」
 親切でも同情でも哀れみでもない。期待していた全てを裏切った少年の台詞は、私を困惑させるのには十分だった。
「俺に、似てたから」
「……君に?」
 少年の目は私の瞳を見透かしているかのようだった。私の姿に、一体何を見ていたのだろう。聞き出すことができたら、私も少し救われるような気がした。
「私の何が、君に似ていたの?」
「……いいよ。あまりいい話でもないから」
「いいじゃない。聞かせてよ。どうせ何を聞いたって、私の気持ちが今より落ちることはないわよ」
 それからも少しせがむと、少年は観念したのか、小さく溜め息を吐いた。形の良い薄い唇が、語りだす。
「俺も昔、大好きな人にふられて、雨の中から逃げられずにいたことがあるから」
「え……?」
「あんたの姿見た時、あの時の俺と一緒だって思った。……だから、なんかほっとけなかった」
 困ったような微笑は、少年の美しさをいっそう際立たせていた。私の心に寄り添おうとしてくれている、それが分かる優しい声は、正直反則とも言えるほど私の心に響く。
「彼女の傘が風に吹かれて飛ばされても、泣いてた彼女の姿が見えなくなっても、真っ暗で何も見えなくて、少しも動けずにいたあの時の胸の痛みを知ってたから、かな」
 それって同情と一緒かもしれないけど。と、少年は小さく呟いた。頑なに無表情だった少年が見せた弱い一面は、私の強がりを壊すのには十分過ぎて、私は目元を手のひらで覆うと、笑うしかなかった。涙が零れそうだった。
「私、ふられたなんて言ってないわ」
「ふられたんだろ」
「どうして分かるのよ」
「分かる」
「根拠がないじゃない」
「直感」
「適当ね」
 私はあえて真実をはぐらかす。だが少年は、抑揚のない口調のまま、私の胸を突いた。
「指先が震えてる。それが根拠じゃないの」
 目元を隠した指先で、そっと自分の肌に触れると、少年の言うとおり指先が震えていた。涙が指先に触れ、気付かれないようにそっと拭う。はあ、と大きく息を吐いて、顔を上げた。
「雨に打たれてたから、すっかり体が冷えたのよ」
 少年は、あっそ、と感情なく返事を返すだけだった。


 体が冷えた、という私の台詞を真に受けたのか、それとも一旦離れることで私を落ち着かせようとしてくれたのか、少年は近くのコンビニに温かい飲み物を買いに行ってしまった。濡れた髪が、タオルで少し乾きを取り戻した頃、私は戻ってきた少年に、今日あったことを少しずつ話した。この少年になら、話してしまいたいと思ったからだ。不思議なほどに、冷静に話を紡ぐことができた自分に、私は少し驚いていた。少年は淡々と聞くだけで、何か助言をするわけでもなければ、慰めの言葉一つかけてはくれなかった。
「本当に愛想がない子ね」
 私は小さく笑う。なんだか、この静かな雰囲気が心地よかった。
「なんて言えばいいのか、わからないし」
「残念だったね、の一言でもかけなさいよ」
「それであんたが救われるとも思わないんだけど」
「愛想は人と上手く付き合うための処世術よ」
 そんなことは、少年だって百も承知のはずだ。ただ、私を相手に愛想は必要ないというだけのことだ。事実、ここでやたらと慰めの言葉をかけられたら、私は話を続けられなかったと思う。欲しいのは哀れみや慰めの言葉ではなく、素直に気持ちを吐き出せる空間だったからだ。一緒にいて話を聞いてもらうだけで、少年が頭のいい人間だということは感じていた。少ない言葉の中での間の取り方、視線の外し方や合わせ方、その一つ一つが私を気遣ってくれているのが分かった。だから、初めて会ったばかりのこの少年に、こんなにも気持ちを委ねてしまったのかもしれない。
「あーあ。せめて、友達関係だけでも続けられたら、まだチャンスがあったのかもしれないのに。……私って、バカだなあ」
 本音が零れて、項垂れる。改めて、私はこの恋を引きずっているのだと気付かされる。
「私の気持ちを知ったら、もう一緒にいられることができないんだって。友達ですら、いてくれないんだって。……友達でもいられないなんて、私って一体彼のなんだったのかな……。友達って、そんなに簡単に切り捨てられるものじゃないって思ってたのに……」
 木のテーブルに突っ伏して、私は震える息を吐いた。冷たい木の感触が頬に伝わって、じんわりと目頭が熱くなった。
 友達ですらいられない、と言った彼の気持ちだけが、私にはどうしても分からない。分からないから戸惑って、分からないから悲しくて、そんなことすら分からない自分が情けなくてどうしようもない。告白のタイミングが悪かったのか、とか、彼の心が狭いんじゃないかとか、色々な理由を探してしまう自分が嫌だった。もやもやするばかりで、自分の気持ちが定まらない。散々考えて、両手で顔を覆った時だった。
「俺の、好きになった人はさ」
 突然、頭上で小さく少年の声がして、私は耳を澄ました。
「俺の好きな彼女は、今でも変わらず友達で居てくれてる。俺が望んだから、変わらずに笑いかけてくれる。……俺は、彼女に救われた部分がすごく大きくて、大切なものを沢山もらったんだ。……だから、彼女が居なくなったら、また昔の自分に戻ると思った。きっと、彼女もそれを分かってたと思う。今は、たとえ恋人じゃなくても、離れていかないでそばにいてくれることが、すごく幸せだって、そう思うよ」
 私はゆっくりと起き上がり、顔を上げた。
「何それ。きっぱり捨てられた私に対する自慢?」
 自嘲的な笑みが浮かんで、無意識に少年を睨んでいたと思う。私と全然同じなんかじゃない。少年は今でも幸せで、今でも彼女が愛おしくて、そばにいることができて、幸せ者なのだ。私とは全然違う。
 だが少年は、私に言い返すでもなく、少し悲しい表情を見せるだけだった。
「でもさ」
「何よ」
「でも、それが時々すごく苦しい」
 まるで、泣いてしまいそうな表情だった。美しい分余計に、その悲壮感は私の心に訴えかけてきた。
「好きになりすぎて、愛しすぎて、大事になりすぎて。……でも絶対に手が届かないその距離感が、痛くて苦しくて辛い」
 つい少年を責めたことを悔いるほどに。
「大事なものや思い出が増えるほど、好きな気持ちが大きくなるほど、彼女が俺の心食い尽くして、苦しくなる。……そばにいるのに傷ついて泣きたくなるなんて気持ち、こんなに人を好きになるまで知らなかった。愛されないことを思い知るほど苦しいことって、きっと他にない」
 私は何も言えなかった。
 そばにいるだけでいいだなんて、安易に口にしてしまったことを悔いた。こんなにも悲痛に誰かを思う気持ちを、私はきっと知ることはないだろう。
「だから、あんたが好きになった彼の決断は、結果的に誠実でもあるんじゃないの」
 少なくとも、これ以上私が傷つくことはない。この少年のように、傍に居て好きな気持ちを募らせることもない。愛おしさに胸が切り裂かれることもないだろう。
 友達のままでいられたら――なんて、そんなことが無理なのは自分が一番分かっていたはずなのに、いつの間にか女々しく縋っていた。そんな痛みに私が耐えられないことをきっと彼は分かっていたから、私をきっぱりと振ってくれたのだと、初めて気付かされた。
「……あまり、上手く言えないけど」
 ぶっきらぼうな少年の声が、優しく聞こえてくる。私は小さく首を振って、ううん、と呟いた。
 少ない言葉だから、きっと良い。少年の言葉には、嘘がないと分かるからだ。誰かに自分の話をすることは、きっと少年にとっては嫌で、すごく難しいことだったろうに、私のために話してくれたことが、ただ嬉しかった。
「じゃあ、ふられた彼女に、今も心の根っこ掴まれてるんだ」
「まあ……」
「格好悪い」
「ほっとけ」
「見ず知らずの女に自分の情けない姿さらしてる時点で格好悪いでしょ」
「見ず知らずじゃなきゃ、こんなこと話してない」
 ああ。それもそうか。
 妙に納得して、私は心の中で頷く。私が気持ちを曝け出せたのは、少年のことを何も知らなかったからだ。真っ白だから、そこに飛び込むのに勇気がいらなかった。
「可哀相にね。君ほど可愛かったら、新しい彼女くらいすぐ見つかるのに」
「いいんだ。俺が選んだことだから」
「……そっか」
 少年はそれでも彼女がいいのだろう。私とは、想いの強さが違うような気がする。
 少なくとも私は、少年の言葉で、彼への諦めの付け方を探し始めていた。ついさっきまで現在の恋だったものが、少しずつ過去へとシフトしているのが、自分でも分かった。
「じゃあ私は、いい失恋が出来たってことなのかな」
「いい失恋?」
「きっと私、苦しい思いしてまで好きで居続けられるほど強くないから。だから、私にとって一番良かったってことでしょ?」
「……さあ」
「そこは、ウン、て言うの」
 相変わらず、愛想のある言葉一つ吐かない少年に思わず笑いが零れる。
「言わない。……傷つくことに、いいも悪いもないだろ」
 自分の気持ちを理解してくれる人の存在が、こんなにも尊いものだとは思わなかった。
「ありがとう」
「何が?」
「とにかく、ありがとう」
「俺は傘とタオルしか貸してない」
「そういうことじゃなくって……色々よ、色々」
 無愛想なところは子供なのに、恋愛観や中身は私よりもずっと大人の少年に、私は心から感謝の気持ちを抱いていた。
「本当にありがとう」
 心の中の雨はいつしか、止んでいた。


 しばらくすると、地面を叩きつけていた雨音が聞こえなくなった。
 少年は、『じゃあ』と軽く言って立ち上がる。サヨナラの代わりに、空き缶をポンと近くのゴミ箱に投げ入れて、私に背を向けた。
「ねえ、名前は?」
 せめて、名前くらい聞いておきたかった。呆気ない時間の終わりを、せめて記憶で残しておきたかった。
「どうせもう会わない。だから、知る必要もないだろ」
「どうせって……可愛くないなあ」
 たぶんそう言われるだろうなと予感していた私は、苦笑いをこぼすだけだ。少年は空を見上げると、バッグを肩にかけて呟いた。
「通り雨だから」
「通り、雨?」
「さっきの雨も、ここで出会ったことも、全部」
 だから、心に留める必要もない。全部雨の中に流してしまえばいい。気持ちも、何もかも。
 そう、聞こえた。
 無表情な少年の美しい目が、私を見つめ返す。
「私の失恋も?」
 そう聞き返したけれど、
「さあ」
 返ってきた言葉はやはり無愛想で、だけど――否定もしなかった。


 きっと、もう会えないからこそ記憶は優しく残るものであって、ずっと一緒にいたら傷つけてしまうに違いない。
 気まぐれなこの通り雨さえも、刹那的に私を包んだからこそ優しかった。そして、あの少年も――。
 さあ、雨がまた私を捕まえる前に帰ろう。
 一歩、そしてまた一歩と、私は自分から踏み出せる。もう、春を嫌いだなんて、きっと思わない。
 私は、柔らかいそれを頬に押し付けて大きく息を吐いた後、通り雨の過ぎた後の道を真っ直ぐ歩いた。
 名前も知らない少年が忘れたスポーツタオルには小さく、『H.K』のイニシャルが刺繍で刻まれていた。



−END−
Copyright (C) 2010 Sara Mizuno All rights reserved.