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【鏡】
※注意 華水の月4部まで読んでいることが前提
パリン、と派手な音を立ててグラスが割れた。どうやらしっかり握っていると思っていた手から知らぬ間に力が抜けていたようだ。
薫はゆっくりと屈むと、床に散らばったグラスの欠片に手を伸ばした。幾つか拾ったところで、指先にチクッとした痛みが走る。切ってしまったと気付いたのは、指先から血があふれ出してくるのを呆然と見つめて少ししてからだった。
それをなかったことのように無視して、破片を全て拾いシンクの上に置く。壊れ物のそれをじっと見ていると、自分の心の中にあるぽっかり空いた穴が無性に寂しく感じられた。
どうしても、美緒が薫を拒絶して泣き叫ぶように立ち去ったあの瞬間の光景が頭を離れない。
何か一つでも知っていれば、何か一つでも気付いていれば、薫自身がどうにかすることができたかもしれないのに、何もかも全てが薫が触れることを許さぬように遠ざけていた。
無意識の内に壊してしまった美緒の心。
それを自分が癒せないことが、苦しくてたまらなかった。
傍にいれば、美緒は薫に心配させまいと自分を偽るだろう。他人なら気付かないかもしれないが、そんな一瞬の表情ですら、薫は美緒が何を思ってるのか見抜けてしまう。薫を不安にさせまいと、必死で不安を隠す美緒の健気な姿を思うと、胸が苦しくなった。
傍にいれば傷つけあう。
姿を見られるくらい近くにいれば、その不安な気持ちを瞳と心に映し出す。
今の二人は、互いを傷つける鋭利な刃物であり、互いの苦悩を映し出すだけの鏡だ。
敏感に何もかもを感じ取ってしまう自分の鏡のような心が、恨めしかった。
「ただいまー」
玄関から明るい声が聞こえてくる。スーパーの袋をガサガサと言わせて、廊下から泉が姿を現した。
「頼まれてたアスパラとベーコンと……それから赤ワイン買ってきたよ」
霞のない笑顔に、落ちかけていた心が一気に引き上げられる。薫は同じように柔らかい笑顔を返すと、買ってきたものを受け取ろうと手を伸ばした。
「ちょい待ち! 手から血出てんじゃん! 何やってんの!」
泉が薫の手首を掴み、近くにあった流しのところまで連れて行く。そして勢いよく出した水に、薫の手を突っ込んだ。指に触れる水の冷たさに、現実と妄想のスイッチがカチリと切り替わる。
「あー。そういや切ったんだった。忘れてた」
「忘れんなよ。切ったって、あそこに置いてある割れたグラス?」
「さっき床に落として、拾ってたらこんなことに」
「ぼーっとしてんなよ。らしくない」
「らしくないかな」
「ないよ! ああもうかなりグッサリいってんじゃん。深いからなかなか血止まらないよ、これ」
薫の手をひしと掴んでブツブツと文句を言う泉を見ていると、フッと笑いがこみ上げてきた。昔はよく、薫が泉の傷の手当をしてやったものだ。気をつけろと叱る薫の言葉を、泉はいつも嬉しそうに聞いていた。今やっと、その時の泉の気持ちがわかった気がする。心配されるというのは、案外悪くない。
「おまえも大きくなったよなあ」
「何だよそれ」
「あんなに小さかったのに」
「俺が小さい時は薫だって小さかっただろ。いつまでも子供扱いすんなよ。身長じゃ薫と変わんないんだぞ」
的外れなことを言い出す泉があまりにおかしくて、薫は声を立てて笑った。
「なんだよ! 笑うなよ!」
「いや、泉が怒ってるなあって思って」
「はあ? ……ったく、薫はいつもわけがわからん」
ニコニコと笑う薫とは対照的に、泉はガックリ項垂れた。
泉の持つ一生懸命さと真っ直ぐな素直さは、薫の救いだ。薫の愛情を跳ね返すように示してくれた泉の存在は、いつだって薫の宝物だった。泉が笑うから、つられるように笑顔になる。泉にしてみれば何ともなくやってのける自然なことでも、それに救われた機会が何度あったか知れない。今この瞬間だって、泉がいなかったら落ちたままだったかもしれない。
「おまえが弟で良かったよ」
ポツリと呟くと、泉が目を見開いた。
「は? なんだよ、突然」
「他人だったら性質悪いなあって思うからさ」
美緒が惹かれたのも無理はない。それが分かるからこそ憎らしいし、愛おしいのだと思う。
「そうなの?」
「うん」
「弟じゃなかったらどうなってんの、俺」
「殺してるかもしれない」
「そういう怖いことを笑顔でサラリと言うなよ」
ったくもう、と憤慨しながら泉がティッシュを薫の指に巻きつける。すぐさま救急箱を取りに行って、戻ってきた。
眉間に皺を寄せて怒っている姿を見てると、胸に温かいものがこみあげてくる。
恋敵なのに恨み言一つ言わず、自分の境遇を悲観するわけでもなく、いつも一生懸命に薫のことを思ってくれている。薫を大事にしてくれているのが言葉や表情でわかるから、泉の存在は薫に安心をくれるし、守ってやりたいと思った。
「一応褒めてるつもりなんだけどな」
「薫の褒め言葉は理解しづらい」
「そう?」
「そういうわけわからんこと言う前に、しっかりして下さいよ、薫お兄様!」
一通りの処置をして絆創膏をグルリと巻きつけると、泉は真剣な目をして薫をじっと見据えてきた。泉は泉なりに、本気で心配してくれているのが、伝わってきた。
馬鹿だなあ、と内心呟く。泉が心配するほど薫は迷っていない。たとえ一人でいても、それなりに自分自身と上手くやっていけるくらいは大人だ。毅然として見えていないなら、それは素を見せているからであって、ポーカーフェイスで感情を隠す必要がないからだ。それなのに、薫の一挙一動に振り回されてアタフタする泉を見てると、その馬鹿さに柔らかい感情が溢れてくる。泉の優しさにつけこんでいるのは薫の方だ。滅多なことではないとは言え、心配される心地よさが心を穏やかにするから、わざと流されたままでいる。それを真に受けて困っている泉を見ていると、色々なことが大丈夫なような気がして、安心した。
「おまえは本当に健気で可愛いね」
「可愛いとか言うな!」
「あ、また怒ってる」
覚悟を決めたとは言え、美緒をひたすら待ち続けることは、本当は途方に暮れるほど絶望的で怖くさえある。
捕まえに行きたい衝動を何度も押さえ込んで、息苦しさに気が遠くなる。
それでも笑えるのはきっと、こういった些細な日常に救われている証拠なのだと思う。
「分かりやすいように褒めたんだけどな」
「男に可愛いは褒め言葉になりません」
「いつもは自分で自分のこと可愛いって言ってるくせに」
「自分で言うのと言われるのとは別なんだよ」
「俺にも同意を求めるじゃないか」
「時と場合によるんだよ。今は言われてゾッとしたの。ったく、言って欲しい時は足蹴にするくせに……。そういうことはな、女に言ってりゃいいんだよ」
「うん。でも今言えないから」
「もしかして代わり?! 代わりなのか?!」
「本心だよ」
「……笑ってるし。性質悪いな、本当」
泉は、薫が長い人生の中で注いできた愛情を素直に映す鏡だ。
だからきっと、美緒を愛したことは間違っていない。
この愛し方は間違っていない。
心から愛した彼女は、もっと綺麗に鮮やかに幸せな笑顔を映してくれると信じている。
絆創膏の巻かれた指先を見て、薫はゆっくりと目を閉じた。
―END― 2010.10.15