華水の月
13.尊く美しい花
「ねえ、泉くん。何怒ってるの?」
さっきから、窓の外ばかりを見つめている泉に、美緒が恐る恐る話し掛けた。
いつも多弁な泉が、さっきから全くと言っていいほど喋らない。薫を怒らせて怯えている時の泉とは違う。明らかに、何かに対して怒っている泉に、美緒は不安な気持ちを抱えていた。
ハルカと再会してから互いの近況を話して、その後二人で保健室へと訪れた。
にこやかに歓迎してくれた薫とは対照的に、泉は二人を見ることすらなく、ただ無表情に薫のデスクの前に座り、二人がいることなど気にしない様子で絡んではこなかった。少しの間、薫と美緒とハルカで雑談を楽しんだ後、外が暗いことに気付いた薫は、美緒とハルカを車で送っていくと申し出たのだ。もちろん、泉も一緒に。
そして今に至っているわけだが、泉は保健室にいる時と変わらず少しも喋らない。綾乃の件があってから、薫の車に乗ることに抵抗のあった美緒は、泉と一緒に後部座席に座り、助手席にはハルカ、という位置付けになった。
「ねえ。私、何か泉くんを怒らせるようなことした?」
「別に」
「でも怒ってるよね? 私に怒ってるんでしょ?」
「怒ってないよ」
泉の顔を覗き込むように問い掛ける美緒に、素っ気無い言葉を返す。けして、視線を合わせることはなかった。
そんな泉の様子を、薫がバックミラーでチラッと見ると、小さく溜息をついて呆れた表情を浮かべた。
「美緒。気にしなくてもいいよ。泉はただ、拗ねてるだけだから」
「拗ねてる……?」
「ああ、美緒があんまりにも……」
「薫は余計なこと言わなくてもいいんだよ!」
急に牙を剥き出した弟の言葉に、薫はハイハイと苦笑を零して、それ以上は言葉を噤んだ。
再び窓の外に視線を向ける泉を、美緒はただ戸惑うだけの表情を浮かべて見つめると、どうしていいかわからずに、俯いた。そんな美緒の様子を、薫もハルカも気付いていたが、ハルカはあえて何も言わず、そして薫は話題を変えようと美緒に話し掛けた。
「それより、美緒。もうすぐ家に着くけど、香月には何か言っとくことはないのか?」
「え……あ、はい。大丈夫です。また、いつでも会えると思うから。ねえ、ハルカ?」
「……暇があれば」
美緒の言葉に、遠慮がちにハルカが呟く。そんなハルカにチラッと目を配り、泉が小さく舌打ちした。その一瞬の泉の行動を、美緒は見逃さなかった。
「もう……本当にどうしたのよ。泉くん」
「別に」
「別に別にって。そんなんじゃわからないよ」
「じゃあ、わからないおまえが悪いんだよ」
「……あっそ。じゃあもう知らないから」
泉とは反対側の方向へ、美緒も顔を背けた。
泉の気持ちが全く理解できない。責められでもしたならば、謝ることも、言い訳をすることだってできるのに、今の泉が相手では埒があかなかった。
「美緒。家に着いたぞ」
ゆっくりとスピードを落として、車が止まった。外はもう暗くて、ここがどこなのかはすぐには判断できないが、美緒は自分の家の前であることを確認すると、すぐさま降りる準備を始めた。
薫が、後ろに振り返って、美緒を見つめる。その視線に気付いたのか、美緒も薫を見ると、少し恥ずかしげに微笑んだ。
「じゃあ、また明日な」
「わざわざ送っていただいて、ありがとうございました」
「気にするな」
「じゃあ、ハルカも、またね」
「ああ」
一通り挨拶を済ませる。泉には、あえて話し掛けなかった。険悪な雰囲気が流れているせいでもあるが、話し掛けても答えてくれない気がしたからだ。
けれど、ドアを開け、降りようとした瞬間、泉の手が美緒の細い腕を掴んだ。振り返り、泉の顔をマジマジと見つめる。
「……泉くんも、バイバイ」
ニッコリと笑って、泉にもサヨナラを言った。
掴まれた腕の力と、美緒を見る泉の瞳がなぜか寂しそうで、それだけで美緒は泉を許してしまった。彼の目から、美緒に対する後悔と、子供のような寂しさが見えたのだ。
「バイバイ」
美緒の笑顔にホッとして、泉も弱々しく笑った。
「幸せそうですね」
美緒がいなくなった車内。ポツリとハルカが呟いた。
「美緒の顔を見て、安心しました」
「俺が悲しませてるとでも思ってたのか?」
「いいえ。……ただ」
「ただ?」
小さく溜息をついて、美緒のことを思い浮かべる。
「あの頃の美緒は……本当につらそうだったから」
薫と離れていた時の美緒は、本当に儚くて、思い出すだけでも胸が痛んだ。寂しそうで、悲しそうで、すぐにでも折れてしまいそうだった。見ているだけで、涙を誘うほど……。その光景は、荒野にポツンと咲く、一輪の花のようだった。
「あの頃のような思いはもう、させないさ」
「ええ。……わかってます」
「まあ、今となっては、遠い思い出だな」
「そうですね……。今の美緒は、本当に幸せそうで、綺麗ですから……」
美緒の綺麗過ぎるほどの愛らしさは、薫に愛されている証拠なのだろう。まばゆいほどの光に満ち溢れ、可憐な花を惜しみなく咲かせている。
少なくとも、ハルカが美緒のそばを離れたことは、間違いではなかったと確信した。
何よりも望んだ美緒の幸せ。薫のそばには、それが確かにあった。
「おまえも、もっと会いに来てやればいいのに。美緒はおまえにとても会いたがってたよ」
「俺が……ダメなんですよ」
「ん?」
「俺がまだ、美緒の影から離れられないんです」
俯いて、苦笑した。
会いたい気持ちは、抑えきれないほど胸に抱えている。美緒の優しさに触れて、甘い時間に囚われたい。触れて、囁いて、抱き締めたい。未だに、美緒への恋に整理をつけられないのだ。離れれば離れるほど、募る想い。いなくなって気付く、美緒という存在の大きさ。それを、一人で全て覆えるようになるまでは、彼女とまともに向き合えない。もしかしたら、これから先、美緒を忘れられる日など来ないかもしれないけれど……。
「なあ、香月。俺は、わざわざそこまで気持ちにカタを付ける必要はないと思うよ」
「え……?」
運転席に目を向けると、対向車のヘッドライトが薫のメガネに反射してキラリと光った。
「好きなものは好きなんだ。その気持ちをごまかすことなんて出来ない。そうだろ?」
ニヤリ、と、皮肉に微笑む。真っ直ぐなその物言いが、とても薫らしかった。
好きだから会いたい。そういう単純な想いを、この男は自然と自分の中に受け入れられる。それが、自分のことであろうが、恋敵のことであろうが。ハルカの想いを知っていて尚、そういうことを口にできる薫は、とても鮮やかだった。
「相変わらずですね」
「何が?」
「美緒への……自信がです」
「そう?」
「普通、彼氏の口からそんな言葉は出ませんよ」
ハルカもつられるように、小さく笑った。
相変わらず、薫はとても大きい。彼の前では、どんな人間でも、きっと小さく霞んでしまうだろう。どんな心をも見透かされてしまうのだろう。
けれど、けして他人を軽視しない薫の優しさは、相手をひどく安心させる。彼の発する言葉一つ一つが、どれもサラッとしていて、そして深いのだ。春風が、軽やかに頬を撫でて、甘い春の匂いを残していくかのように……
「自信か……。疑えばきっと、脆く儚いものなんだろうな」
「どういう意味ですか?」
「いや。所詮俺は、信じることだけで、自分を支えてるのかと思ってね。不安に思えば思うほど、それが猜疑心となって美緒を傷つけるかもしれない。かと言って、自信を持ち過ぎればそれが奢りになって美緒の気持ちを察そうとしなくなるかもしれない。その辺のバランスを絶妙に保てていればこその、揺るがない関係なのかもしれないな。美緒が相手だと、そのバランスも難しいけどね」
苦笑する薫の気持ちが、ハルカには痛いほど分かる。けれど、そんな風に美緒を思える彼だからこそ、託すことができるのだろうと、深く思った。
「先生」
「なんだ?」
「俺はまだ、美緒のことが好きです……」
「……知ってる」
薫が、クスッと小さく笑った。そんなことは言わずとも知れている。ハルカの美緒を見る目は、愛しさそのものだ。
「美緒を……絶対に幸せにしてくださいね」
「ああ。勿論だ」
「誰もが羨むぐらい、本当に本当に幸せにしてください」
美緒の一番にはなれなかった。けれど、ハルカは美緒を想う一番の人だ。薫に負けないほど、彼女の幸せを願ってやまない。例え、自分の気持ちを犠牲にしてでも、美緒を幸せにしたい。薫の心も、ハルカの心も、今美緒を想う切なさを募らせていた。
「幸せにしないと、奪いますから」
「怖いこと言うなよ」
「本当は、奪いたくてたまらないんですよ」
「そんなことにならないよう精一杯努力するよ」
「当たり前です。それくらいしてもらわないと、俺から美緒を盗った償いにはなりませんよ」
「おいおい……盗ったなんて失礼なこと言うなよ。元々美緒は俺の彼女だっての」
互いに、クスクスと笑みを零した。普段あまり感情を露にしないハルカの笑顔はとても柔らかで、その笑顔の後ろにはいつだって美緒の存在があった。
けして強く望まない。けれど、離れても尚幸せを望むハルカの想いは、尊く、そして美しかった。
「あいつ、そんなに悪い奴じゃないのかもな」
ハルカを下ろした後、助手席へと移動した泉が、呟いた。
その言葉が意外だったのか、薫は泉をチラッと見やると、弱く微笑んだ。
ハルカと薫の話をずっと後ろで聞いていた泉だったが、最初はハルカを嫌いだと言い張っていた強い感情は、少しずつ折れかかっていた。それは、美緒に対するハルカの強い意思を、まざまざと見せ付けられたからだろう。ハルカの優しい思いを、卑下するのではなく素直に受け入れて感化されるところは、泉のいい所だった。
「おまえ、結局一言も喋らなかったな」
「何喋っていいかわかんねーもん」
「まあ、確かにおまえと香月は合いそうにはないけどさ……」
「それに、俺には入れない世界だったからな」
まともに恋をしたことのない泉にはわからない感情。一人の女のために、ここまで強く想える薫とハルカの気持ちに臆する自分がいた。今までなら、本気で恋愛をするなんて馬鹿馬鹿しいと思っていたのに、美緒を強く思う二人を見ていると、少し羨ましいとさえ思った。それは、美緒が相手だから、という要素も影響していたに違いない。
「そういえば、あいつが美緒の元カレだって、薫言ってたけど、あれ嘘だろ」
「なんで?」
「なんとなく……違うかなって」
美緒を想うハルカの気持ちは、元カレにしては強すぎて、そして深い。口数の少ないカレの言葉一つ一つ、どれも全て切なさがしみていた。伝わらない思いだからこそ、その思いは指をすり抜けて零れ落ちていく。誰も、すくってはくれない、彼の想い……。
「でも、少なくとも、美緒にとってはただの友達じゃないよ」
「ふーん……」
「ある意味、羨ましいくらい、美緒にとっての香月は特別だ」
美緒とハルカを結びつけるもの。
泉には到底想像がつかないが、それは、さっきハルカが言っていた三人の過去かもしれない。
「なあ。美緒って……そんなにつらい想いしてたのか?」
「ん?」
「あいつが言ってたから……」
泉の知らない薫や美緒の過去。
ハルカの口ぶりからして、二人の恋がただ単純に重ねられてきたわけではないことはわかった。
「そうだな。あの頃は、美緒も香月もつらい思いをしたかもしれないな」
「薫も?」
「俺は……つらいと思ったことはないよ」
「どうして?」
「守るべき人が、明確だから……かな。美緒を守るためなら、どんなことだって受け止められるよ。いくらでも強くなれる。どんな悪人にも、なれる」
薫の言葉に嘘はないだろう。美緒の為なら堕ちるところまで堕ちる覚悟など、とっくに決めている。どれだけ残酷なことだって、やってのけるに違いない。薫は、そういう人だ。
「なあ。そんなに美緒が大事?」
「少なくとも、この世に存在する全てのものの中で、一番大事かな」
「昔の彼女よりも?」
「比べる対象にもならないよ」
「そんなこと聞いたら、麻里さん怒りそうだな」
クスッと泉が笑った。なぜか、とても複雑な気持ちだった。
兄に、本気で愛する恋人がいる。それはけして、泉にとって何ら問題のないことだ。兄が幸せなら、それがどんなに嬉しいことか、そんなことは泉にもわかっている。事実、愛し合う薫と美緒はとてもお似合いで、お互いがお互いを必要として存在しているのだということは、見てとれるほどだった。その眼差しも、言葉も、全てが互いのためにあるほどに。
泉の中で、美緒に対しての好感は、日に日に増していた。妹として、申し分ないほど可愛らしい。人の気持ちを思いやれて、優しくて、けれどとても強い。泉の嫌いな、男に媚びる女ではない。
けれど、美緒がそんな女であることが、嬉しくなかった。どうせだったら、嫌いな女が薫の彼女だったら、と。どうして今になって、こんなに複雑な気持ちになるのかわからなかった。
「美緒は幸せものだよな。薫にこんなに想われて」
「それを言うなら、俺も幸せ者だ」
「美緒に愛されて?」
「ああ。愛する人の一番になれることほど、尊いものはないと思うよ」
一番。
ハルカにはなれなかった位置。そして、泉にもなれるはずのない位置。
「なあ、どうして、美緒のことがそんなに大事なの?」
「ん?」
「美緒の、どんなところに、そんなに惹かれたのかなあと思ってさ……」
「言わなきゃわからないか?」
薫が、泉に向かって、困ったように微笑んだ。
「……いや、わかるよ」
聞かずともわかる。
本当はわかりたくなんてなかった。
異性としての、美緒の魅力なんて――。
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