華水の月
2.偶然と必然の相違
「おまえ、どうやって入ってきたんだよ」
「どうやってって……玄関からだけど?」
「んなことはわかってるよ。どうやって玄関開けたんだって聞いてんの」
薫は、とぼける泉にイライラするでもなく、至って普通に聞き返していた。美緒の髪を優しく撫でながら、呆れたような表情は崩さず泉を見ているのが、美緒の目の端に映る。
落ち着いた薫の声のトーンと一緒に、さっきまで欲情していた美緒の体が急激に冷めていく。どうしてよりにもよって今日なのだろう。あまりのタイミングの悪さに、ここへ彼が訪れたことは計算だったのではないかと思えるほどだった。
「これ、作ったんだよ」
「あ?」
「薫ん家の合鍵」
「いつの間に……」
「この前、ここに遊びにきた時にちょっと拝借させてもらった」
「おまえなあ……」
泉は自慢げにそう言った。もうすでに、この合鍵は泉の所有物なのだ。本来の持ち主が承諾せずとも。
「後で返せよ。その鍵」
「いいじゃん、別に。弟に合鍵を渡しとけば何かと安心だろ?」
弟、と泉が言ったところで、美緒の体がピクッと動いた。
さっきから、あえて沈黙を保ち様子を窺っていたのだ。誰かもわからない男がいる以上、声も出せないし、こんな状況下では動くことも不可能。薫に顔を隠されているせいで、相手を見ることも叶わなかった。まあ、誰かに薫との関係を知られることを恐れている美緒にとっては、彼女を見せまいと隠す薫の行動がありがたくはあったのだが。
五感の最後の頼みの綱。聴覚だけで、相手を探ろうとしていたのだが、ふいに聞かされた思わぬ真実に驚きを隠せない。
――弟。
あまりに薫と結びつかない響き。薫はこれまで家族の話などを一切したことがなかったからか、弟という言葉を聞いてもいまいちピンと来なかった。孤独とは違う、一人というスタイルが似合う薫だからこそ、余計に違和感を感じる。家族などという人生や生活を感じさせるものに、薫は全然染まっていないのだ。それはクリアすぎるほど透明に。
とは言え、弟と聞いた以上、それまでの緊張よりも更に強い緊張が美緒を縛ってしまうのは致し方ない。
「おまえに鍵なんかやったら、安全どころか危険だね」
「なんでだよ」
「実家に女連れ込むより、ここに連れ込んだ方が楽で安心だとか思ってるんじゃないのか? どうせこの部屋使ってヤルつもりだろう」
「そんなことはない……と思うけど」
図星をさされたのか、居心地が悪いように苦笑いした。最後まで否定できないのは泉の良いところだ。とりあえず抵抗はしてみるものの、結局正直に答えてしまう。
「やっぱりそんなことだと思った」
「でもさあ、薫……」
「だから、おまえには絶対鍵はやれない。おまえのセックスシーンなんか見たくないし」
「でも今までに結構見てるよな?」
「不本意でだ」
「不本意でも見たことには変わりないじゃん」
「しかも、全部違う女相手だしな。おまえの恋愛観、腐ってんじゃないのか」
「ひでえ言い方。それでもお兄様かよ」
過激な会話に美緒の思考は追いつかない。ただ一言一言に顔を歪ませて反応するのが精一杯で、たとえばこの会話に加われと言われても到底無理だろう。
薫の口ぶりからして、弟の情事の場面を何度か見たことがあるのはわかった。それに対し、泉が何の抵抗を感じていないことも。
「あとで、その鍵、置いて帰れよ」
「どうしても?」
「どうしても。甘えた目してんじゃねーよ。気色悪い」
「気色悪いとか言うなよ。可愛い弟だとは思えないわけ?」
「じゃあ逆に聞くけど、俺がおまえを可愛い可愛いって甘やかしたら、そっちの方が気色悪いだろうが」
「まあな。……ところで薫。そっちの彼女、紹介してくんないの?」
ふいに自分に向けられた話題に過剰に反応してか、美緒の体が強張った。薫はどう答えるのだろうと思うと、心臓が飛び出してしまうほどバクバクする。
泉が美緒の様子を探ろうと動いたと思った瞬間、薫が抱き締める力を強めた。
「今はしない」
「え? 何で? 美人の彼女なんだろ。見せてよ」
「こんな姿、おまえに見せたくないだろ」
「別に俺は、入浴中とかそんなの気にしないけど? むしろ、濡れて火照ってる方が女は色っぽいじゃん」
「だからだよ。勿体なくて、おまえには見せたくない」
「何それ。独占欲とか、そういうの? だからそんなタオルぐるぐる巻きにしてんの?」
「どうとっても構わないさ。だが今日は日が悪い。また改めて来ることだな」
「どうやら本気のお相手ってわけね。……つまんねえ」
わざとらしく舌打ちをする泉は、心底残念そうな溜め息を吐いた。
ミステリアスな薫だからこそ気になってしまう、その私生活や考えていること。薫には悪いが、探りを入れたくてしょうがないのだろう泉の気持ちが、美緒にもよく分かる。掴みたくても掴めない、薫という存在。隠されているわけではないのに、見えないからこそ、余計に探ってしまいたくなるのだ。だが、美緒は泉ほど薫に立ち入ろうとはしない。拒否されるかもしれないと思うと、怖くて踏み込むことができない。薫がどれだけ嫌がっても、泉が踏み込むことができるのは弟ならではの強みだ。結局は許されることを知っていればこその、強み。
「ねえ、薫の彼女さん」
泉は、薫ではなく美緒に向けて話し掛けた。途端、薫が嫌そうな顔をする。
「今度会うときは、色々聞かせてよ。どこで出会ったとか、いつ頃から付き合ってるのとか。薫全然教えてくれないからさ」
「おい」
「あと、薫がどんなセックスするのか、とか」
「泉!」
薫が少し大きな声で叫んだせいで、体が揺れ、湯船に波が立った。
美緒は、過激な泉の言葉にわざわざ反応してしまって、体中が心臓になってしまったのではないかと思うほど、鼓動が高鳴っている。真っ赤に染まる頬。湯に浸かりすぎているせいで、余計に全身を血が巡り、眩暈を感じはじめていた。無意識にギュッと薫にしがみつき、そんな彼女の様子を感じて、薫も彼女の背を撫でた。
問題の当の本人は、ひとしきり湯船に浸かる二人の様子を楽しみ、とりあえず納得すると、帰ろうかとする素振りを見せた。さっきから風が通り抜けている扉を閉めようとする。しかし、急に何かを思い出したかのように振り向き、とんでもないことを口にした。
「なあ、薫」
「なんだ」
「薫ってさ、意外に結構年下でも大丈夫だったんだな。まさかロリコン?」
「はあ?」
「だってそっちの彼女、薫の学校の女子高生だろ」
そう泉が口にした途端、美緒の中で何かの糸が切れた。
ああ、もう終わりだ、と自分の中で誰かが囁いた声さえ聞こえた気がする。
遠のく意識。ぐったりと抜け落ちる体の力。逆流する全身の血――。
「美緒!」
薫が美緒の異変に気づいて名を呼ぶ。抱き締めていた腕は、肩を叩いて。
ダメだよ先生。誰かの前で名前なんて呼んじゃ……
そんなことを思いながら、美緒は完全に意識を手放した。
気づけば、見慣れない高くて白い天井が美緒の視界を覆っていた。全身はだるく、頭の中は霞がかかったようにぼーっとする。ふいに喉に渇きを感じて、お水……と、口にしていた。
「水? よかった、目が覚めたみたいだな」
美緒の瞳を覗き込むようにして見つめた薫の心配そうな目。弱々しく微笑んで、頬に優しく手を触れた。
「どうしてそんなに心配そうな目をしてるんですか?」
「どうしてって……おまえが意識を失ったまま、なかなか目を覚まさなかったからだろ?」
「意識を失った……私がですか?」
「覚えてないのか?」
そう言われて、目覚める前のことを思い起こそうとした。すると、途端に思い出すバスルームでの出来事。断片図のように、切り取られた言葉の数々が美緒を辱める。思い出せば出すほど、羞恥が美緒の中で広がって、焦りと不安が満ち溢れた。虚ろだった目が、急に意思を灯してはっきりと目覚める。
「先生。あの人。あの人は?」
「あの人? ……ああ、泉のことか」
「今はどこに」
「心配しなくてもいい。おまえが意識を失ったと同時に帰らせたから」
「どうして私が先生と同じ学校の生徒だって知ってたの?」
「え? ああ、たぶん脱衣所の制服でも見たんだろ。あいつすっごい目聡いから。まあおまえの顔は見られてないし、大丈夫だよ」
「でも噂になったりとか……あ、そうか。弟さんだからそんな心配いらないですよね」
「おまえはいつも、心配しすぎだよ」
「でも先生に弟さんがいるなんて知らなかった。いたんですね」
「ああ。出来の悪い弟だよ」
そう言って苦笑した薫の笑顔は、美緒を見る時や生徒たちを見る時のどの時でもない優しい顔をしていて、ふとそれが、薫が兄であることを印象付けた。
たとえ美緒でも、血の濃さには勝てない。そう思うと、物悲しい気分を少し感じさせた。
「でも先生。よく咄嗟に私が見えないように守ってくれましたね」
「ああ……。まあな」
「嬉しかったです。だって、いくら先生の弟さんでも、あんな場面で会うのは嫌だから」
「さすがに俺だって裸のおまえを見せたいっていうほど悪趣味じゃないよ」
「でも先生のことだから、弟さんになら堂々と紹介でもするのかと思いました」
「まあ、紹介したいのは山々だよ……けどなあ」
「なんですか?」
「一緒の学校じゃなければ何も問題ないんだが。……まあ大丈夫だとは思うけど」
「……なんだか、意味ありげですね」
いつもの薫とは思えない歯切れの悪い返事に、美緒は眉を潜め、その先にある薫の言葉を待った。
だが薫は、美緒の不安そうな表情を打ち消すように、ポーカーフェイスの鮮やかな笑顔で微笑んだ。
「それよりおまえ、水だろ? ほら、ここに持ってきてるから」
「え、ああ、ありがとうございます」
「きっとのぼせた上にあんなことがあったから、心も体も混乱して意識を失ったんだろう。まあ目が覚めたんだから良かった良かった」
薫が美緒の背に優しく手を添え、ベッドから起き上がるのを手伝う。重い体をゆっくりと起こしながら、薫の差し出すグラスを受け取った。そのとき、自分が裸で寝かされていたことを知って、黙って赤面しながら毛布を胸に抱え込んだ。
喉を通る水の冷たさが心地よい。冷たさが体を突き抜けるのを感じながら、体が少しずつ目覚めていく感覚を覚えた。だが、心はスッキリしない。さっきの薫の物言いが気になってしかたなかった。
「ねえ、先生。何なの?」
「何なのって何が?」
「先生らしくない。そんなはっきりしない返事」
「そうかなあ」
「そんな曖昧な返事いつもはしないもん。いつも言い切るじゃない」
「俺だって時々は曖昧な返事もするよ」
「そういう意味じゃなくって……何か私に隠してませんか?」
責めるような美緒の瞳。薫は、逃げるでもなくその瞳を平然と見つめ返した。別に何もないよ? とでも言うように。
だが、その瞳を信用はしない。この男は、平然とした顔で嘘をつけるタイプだから。
「別に隠してはないけど、はっきりしないのは俺の態度じゃなくって、泉のこれからだよ」
「は? 言ってる意味がまるでわかりませんけど……」
「泉が将来のことをちゃんと考えてないから、こっちも迂闊な行動に出られない」
「どうしてですか?」
「なんていうか、別に紹介しても構わなかったんだけどさ。もしものことがあったら困るしね」
「その“もしも”が何なのか聞いてるんです」
「別にいいじゃん。もしもの時がくれば、おまえにだってわかるんだし。来なければ何も問題はないだろ」
「気になるんです。このままだと気持ち悪くていてもたってもいられません」
「しかたないなあ……。じゃあどうしても知りたいんだったら、エッチ一回」
「えっ……」
ニヤリと薫が微笑むと同時に、美緒の顔が赤面した。まるで、ポンッと音でもたてかのように瞬時に変わる表情。
――エッチ一回。
その一言は、美緒を黙らせるのに十分だった。
言ったところで美緒がその条件を飲む事がないと知っている薫にすれば、それ以上追求されないために言い放った禁句でもあった。真っ赤になって戸惑う美緒の髪を、クルクルと指で弄ぶ。瞳には、淫靡さを漂わせる色を浮かべて。そんな彼の視線から逃げるように、美緒も俯いた。
することがないとわかっていて言った誘い文句。そこに、少しの期待があるかないかは、定かではないが。
そして、その『もしも』は突然やってきた。
ざわつく教室内。視線は、教壇の上に立つ人物に皆釘付けだ。麗しい女教師、結城麻里ではなく、その隣に立つ長身の人物に。格好いい、とか、誰? などという小声がチラホラ聞こえてくる。美緒は、そんな彼らに混じることなく、ただその長身の人物を頬杖をつきながら、じっと見つめていた。
生まれつきだろうか。少し茶色がかった髪。瞳の色も同じく茶色で、スラッとした体型。スーツをきっちり着込んではいるが、年齢は二十歳前後と言ったところか。顔立ちは、皆が見惚れてしまうのが頷ける整った顔立ちをしている。そう、とても綺麗な。
だがどちらかというと、美しいとか綺麗というよりは、可愛らしいとか格好いいとか、そういう表現の似合う無邪気さの漂う印象を感じた。人柄が顔に出ていると言うのか。人懐こそうな明るい笑顔に、正直そうな目。嫌味や、冷たさをまるで感じさせない、そんな雰囲気を持った人だと思った。
薫からミステリアスな雰囲気や、氷のようなシャープさを取ってしまえば、こんな感じになるだろうか、と、ふいに美緒の中で比較してしまう。だけれど、やはり薫の方が上だろうかと、欲目ではなく心からそう思った。なぜ彼と薫を比較してしまったのかは、よくわからなかったが。
麻里が、隣に立つ彼を紹介し始める。
そして、比較してしまった理由を、まざまざと理解させられることになった。
「今日から教育実習でこのクラスの英語を指導してくれる“櫻井泉”さんよ」
「櫻井泉です。どうぞよろしくお願いします」
深々と頭を下げ、とびきりの笑顔で微笑んだ。彼に向けられる好意的な女の子たちの視線。
けれど美緒は、そんな彼を見つめながら絶望を感じていた。
俯く視線。顔は、真っ青に青ざめていた。
――櫻井泉。
あの日から、忘れようとも忘れられなかった名。まさか、こんな場で会うなんて。
薫の言っていた『もしも』の意味が、今ようやくわかった。
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