華水の月

40.美艶にして、罪

『かおるー……お腹空いちゃったあ。我慢できない』
『仕方ないな。じゃあ何か作るから、ちょっと待ってろ』
『本当? ありがとう薫。大好きよ』
 ハイハイ、と髪を撫で、キッチンへと向かう薫の姿を目にしていたのは、遠い昔の話。
 二人でいる時は、ほとんどと言っていいほど、薫が料理をしていた。外食は、麻里が好まなかったからだ。薫の手料理の味を知ってしまってからは、外で食事をしたいなどと思わなくなった。
 長身で美しい背中。いつも、その背を眺めているのが好きだった。自分のために料理をしてくれる男の手に、色気さえ感じていた。時折、その背に纏わりついては料理の邪魔をする麻里を、薫は怒るでもなく、疎ましがるでもなく、困ったように微笑んでいた。手は空いていないから、よく額をくっつけ合い、『怪我をしても知らないぞ』と言われるのが好きだった。
『もうとっくに怪我してるわ』
『どこに?』
『薫にヤケドした』
 バーカ、と頬に触れるキスは、本当に焼け付くのではないかと思うくらい熱くて、嬉しくて。恋焦がれるという感情を初めて感じた男だった。
 料理が不得意な麻里を、薫が責めたことは、一度もない。女なんだから、という言葉を口にしたこともない。いつも、ありのままの麻里を愛してくれていた。ワガママも、家事ができない不器用なところも、それが麻里の良さだと思わせてくれるくらいに。
 そんな薫の優しさに甘えて、いつも薫ばかりが何かをしてくれていたように思う。今思えば、薫のために何かをしてあげたことなんて一度もないのだ。料理も。手作りのプレゼントも。包み込むような愛し方も。
 料理一つできない女が好みなわけではなかっただろう。いくら寛大といえど、薫も男だ。彼女の手料理くらい、望まない方がおかしい。きっと、麻里が頑張って料理の一つでも作れば、薫は嬉しく思ったに違いない。出来上がったものが例えどんなものでも、彼は誉めてくれたはずだ。むしろ、そういった麻里の努力を、心のどこかでは期待していたに違いないのに。薫はいつだって優しくて、何一つ麻里に強制することもなければ、責めることもなかったのだ。
 そういう薫の優しさを、いつの間にか、与えられるのが当たり前だと思い込むようになった。それくらい、さりげなく全てをくれる薫の姿が、当然だと思うようになったのだ。彼女なのだから、甘やかされて当然なのだと。
 なんて、愚か――。
 離れてみて初めてわかる、その愛情の大きさ。失った後に知る喪失感は、計り知れなかった。どんな男と付き合っても、満たされなかった。いつも、比較するのだ。薫と……。薫の愛し方と……。
「今は、少しくらいは作れるようになったんだけどな」
 上手とは言えなくても、簡単なものならそれなりに作れるようになった。でも、上達していく料理の腕とは反比例に、自分が情けなく思えて仕方がなかった。
「もっと早くに、薫に食べさせてあげられたら良かったのに……」
 ――もっと早くに。
 ――昔だったら。
 そんなことばかり考えては、再認識させられる現実。
 美緒は、薫に料理をしてあげたことがあるのだろうか。きっと、可愛らしいあの子のことだ。自分のできる精一杯で努力して、薫を喜ばせようと頑張っているに違いない。たとえ、料理が得意でも、不得意でも。
 それが、圧倒的な美緒と麻里の差だ。愛を望むより、愛を与えたいと思う、美緒の愛し方。それは、薫の愛し方にも似ていた。

 シンクの前に立ち、指でスッと撫でると、冷たい感触が指に残った。もう、二度とこの場所に薫が立つことはない。付き合っていた当時と同じマンションで暮らしつづける麻里の部屋のキッチンには、今も薫の面影が残っていた。彼が愛用していたエプロンも、そろえた食器も、そのままに。
 けれど、もう。二度と薫がこの場所に立つことはないのだ。
 ――もう、二度と。
「……誰?」
 落ちそうになる意識を、急に引き上げたのは、携帯の着信音だった。音のなる方へと歩みより、光る自分の携帯を見つけると、手に取った。
 液晶には、『佐伯祐介』の文字。
 何かといつも麻里を気遣ってくれる心優しい同僚だ。よく二人で飲み明かしては愚痴を零し合い、挫けそうになる麻里を支えてくれている。薫との再会で、一度はボロボロになった心を救ってくれたのも、他ならぬ佐伯祐介だった。
「……もしもし?」
『あ、麻里? 俺、佐伯だけど』
 二人きりの時は、互いに名前で呼び合う。最初は、結城先生、佐伯君と呼んでいたはずが、今では互いの心に踏み込みつつあった。
 一度は、愛し合えるかもと思った男。薫がいなければ、きっと今頃恋人にでもなっていたかもしれない。それくらい、麻里にとっての祐介の存在は大きい。けれど結局、『〜かもしれない』という期待だけでは、どうしようもないのが恋なのだ。引力の如くひきつけられ、自由を奪われるのが恋。そうでなかったら、麻里は自ら祐介を選んでいたに違いないのだから。
「どうしたの?」
『用はないんだけど、ちょっと、ね』
「何?」
『おまえ最近、体調悪いだろ。それで気になってさ』
 体調が悪いなどと零したことは、一度もない。
 確かに最近は祐介と飲みに行っていないが、けれどそれも気にする程度のことでもなかった。
「体調が悪いなんて、言った覚えはないわ」
『うん。聞いてない』
「なら、どうしてそんなこと聞くの?」
『おまえを見てたらそれくらいわかるから。それだけで麻里に電話する理由にはならない?』
 おかしな男だ。
 祐介はいつだって、麻里の考える外側から、ポンと言葉を投げかけてくる。自分だって気付かないことも、彼には全部お見通しなのだ。薫のことだってそう。祐介はきっと知っている。麻里が、薫に恋焦がれ、苦悩していることも。実際に薫の名前を出したことはないが、きっと言わずとも知れているだろう。
「変な人ね」
『失礼だなあ。これでも結構まともなつもりなんだけど?』
「祐介はいつもそうよ。何も考えていないように見えるのに、時々ものすごく鋭い言葉を投げかけてくるじゃない」
『そうかなあ』
「その笑顔に油断しそう」
 気さくで、明るくて。時にお調子者で、麻里を笑わせるのが大好きで。色気や美しさなどは、薫に比べるとだいぶ劣るのに、それでもこの男には心の全てを許している。薫と、比較しないのだ。佐伯祐介という男だけは。
 だからこそ、一緒にいられる。一緒にいて、話を聞いて欲しいと思える。祐介の笑顔は、麻里の心のわだかまりを、いつだって溶かしていくようだった。
『じゃあ、もっと油断してよ』
「嫌よ。これでも結構頑張って我慢してるんだから」
『我慢の価値なんて、俺に対してはないんじゃない?』
「え?」
『おまえの悪いところだったら、もうこれでもかってくらい知ってんのに、今更いい子ぶられてもどうにもなりませんけど?』
「ひどいこと言うわね。それでも男なの?」
『そんなおまえを知り尽くしてても一緒にいようと思える俺は、すっごい男らしいじゃないか』
 祐介の言葉に、思わず笑いが零れた。
 その時気付いた。もう、随分と長い間笑っていなかったことに。
『体調、良くないんだろ?』
 もう一度、聞き返された言葉。
 なぜか二度目は、素直に聞き入れることができた。
「ちょっとね……。でも大丈夫よ」
『大丈夫って言ったって、おまえの場合は無理するからなあ』
「でも、ものすごく悪いのって言ったら、祐介だって困るくせに」
『今まで十分俺を困らせてるんだから、一つくらい増えたって大したことじゃないよ』
「失礼な人ね」
『まあ、俺がちゃんと見てれば済むことか』
「え?」
『なんでもないよ。独り言』
 独り言の割には、随分と堂々とした口ぶりで、そんな彼の言葉にまた笑いがこみ上げる。
 たとえ、恋人のような絶対的に近い存在でなくても、麻里を見てくれている人はここにちゃんといる。そんな祐介の気持ちが、ただの友情に過ぎなくとも。そう思うだけでも、随分と気持ちが楽になった。
『じゃあ、また明日』
「うん」
 ありがとう、と言えば良かっただろうか。告げる前に切れた電話を耳に当てたまま、動くことができなかった。
 けれど、数分も経たぬうちに、麻里を襲う気分の悪さに、意識は否応なしにも現実に引き戻される。軽い眩暈も起こしていた。貧血気味、というのもあるかもしれない。ここ最近、まともに食事を取っていないのだから、当たり前だ。口にするのは、必要最低限のサプリメントと、野菜ジュースくらいだ。それさえも胃が受け付けないことがある。体調の変化は、見て見ぬフリをしようとも、確実に麻里を蝕んでいた。
「……来たかな」
 来訪者を告げる部屋のチャイムが鳴った。それが誰なのかわかっている麻里は、重い腰を上げると、玄関まで迷わず向かった。
 扉をゆっくりと開ける。するとそこには、最愛の人に少し似た、可愛い年下の彼の姿があった。
「どうも、お久しぶり麻里さん」
「いらっしゃい、泉くん」
「ごめん、ちょっと遅れたかな」
「いいえ。時間ぴったりよ」
 部屋の中へ泉を促し、リビングへと向かう。
 泉から電話がかかってきたのは、ちょうど三十分くらい前。空が薄闇を纏いはじめたくらいの時間帯。
『今から行ってもいい? バイクだから、三十分もかかんないと思うんだけど』
 と、いつもの彼らしい雰囲気で聞いてくる声に、拒否する理由もなかった。
 泉に会うのは、一ヶ月ぶりくらいだ。最後に会った……いや、最後に彼を見たのは、あの空港。無理矢理薫にキスをした麻里を、睨むでもなくただ呆然と見つめた後、美緒を連れて去っていった。あの時の背中は、いつもの泉ではなく、紛れもなくただの一人の男だった。美緒を守るためだけにそこにいる。そんな風にさえ感じさせるくらい。ある意味、そんな男をそばに置く美緒に、嫉妬さえ覚えた。
「どうせ、いい話じゃないんでしょ」
 床に、大きくて弾力のあるクッションを敷いて、斜め向かいに座った。テーブルの上には、麻里のマグカップと、泉に出された洒落たコーヒーカップ。そのマグカップを両手で持って、伏目がちに呟いた。
「泉くん、私のこと嫌いだもんね」
「嫌いだなんて思ったこと、一度もないけど?」
「嘘。真中さんの前であんなことしたから怒ってるくせに」
「確かにそれに関してはものすごく怒ってるけどね。でも、美緒に会うよりもずっと前から、麻里さんのことは好きだし、そんな簡単には変わらないよ。麻里さんは昔も今も憧れの人だから」
 泉の口から、そんな台詞が出るのは意外だった。もっと、徹底的に罵られるかと思っていたのだ。何一つとて、泉の望みを聞き入れてやらなかったのだから。
「でも、一つだけ聞いてもいいかな」
「何?」
「どうしてあの時、美緒の前でわざとキスなんてしたの? 薫の気持ち無視して……」
「どうしてだと思う?」
「……いっぱい考えたけど、よくわかんなかったよ」
 わざと見せつけるようにキスをした麻里。
 あんなことをしたからと言って、美緒から薫を奪えないのはわかっていることだろう。尚更自分を傷つけるだけの行為ではないのか。けれど、いくら考えても、泉に答えは出なかった。
「泉くんのせいだよ」
「……え? 俺?」
「あの時、本当はもう薫のことを諦めようと思ってた。薫に諦める術を教えてもらってたはずだった。でも……なんていうのかな」
 脳裏に焼き付いて離れない。
 美緒と泉が、微笑みあっているあの姿が。
「泉くんが真中さんを大事にしてる姿見てたら、どうしようもなく心が乱れたの……」
「それってどういう……」
「最高の恋人も居て、私が望んでも手に入らないものをあの子は全て持ってて、それだけでも私にとっては羨ましすぎる存在なのに、あの子は泉くんていう存在までいて……」
 愛される美緒が悪いわけではないことくらいわかっている。
 愛されない自分が悪いのだとわかっている。
「何もないわ、私には。何も……」
「そんな……」
「薫がいるくせに、って思っちゃったのよ。我慢できなくなったの。だから、キスした。本当はするつもりなんてなかったんだけどね」
 ある意味あの行為は、衝動に駆られたからと言ってもいい。
「泉くんが、たいして格好良くもない男だったら、こんなに嫉妬したりしなかったかもね」
 アハハ、と乾いた微笑を浮かべた。無理して作った、笑顔。それがあまりに痛々しくて、泉は麻里を見ていられなかった。
「もっと、私を怒ってもいいのよ」
「やめとくよ。きっと、言い出したら止まらなくなるから。これでも結構抑えてるし」
「やっぱり泉くんは、真中さんの味方なんだね」
「……まあね。正確には、美緒と薫の味方だけど」
 ――綺麗事。
 泉の言葉はどれも綺麗事だ。
 好きな人が幸せであればいいだなんてこと、麻里は絶対に思えない。薫と美緒が幸せであればあるほど、苦しくてたまらないのに……。
 けれど、そんな風に思える泉を、心底羨ましく思う。できれば、自分も、そんな風に思える女になりたかった、と。
「いつまでも、味方でいる気?」
「できれば」
「どうして真中さんを無理矢理にでも奪わないのよ。あの時だって、泉くんだったら真中さんのこと奪えたかもしれないのに」
「傷ついた女口説き落として何の意味があんの」
「……バカね。傷ついた時ほど、優しい言葉が身にしみることはないわ。まともに戦ったって薫に勝てるわけないんだから、そんな時こそチャンスをものにしなくてどうするのよ」
「確かに」
 クスクスと泉が笑う。
 コーヒーを一口含んで、小さく溜息をついた。砂糖もミルクも入れていないただのブラックコーヒーは、じんわりと苦味を口の中に残す。恋は甘いものだと思っていたけれど、泉の恋も、麻里の恋も、このブラックのように苦い。
「あの後、真中さんと薫は何事もなく上手くいってるみたいね」
「……は?」
「この間二人を見たわ。とっても幸せそうだった」
「ちょっと待って。幸せそうだったなんて……何事もなくなんて……勝手にそんなこと思われたらたまんないんだけど」
「少なくとも、薫は何も変わってないようだわ」
「でも美緒は傷ついたんだよ。麻里さんのせいで」
「……そうね」
 泉の目つきが、挑むような厳しさに変わった。堪えていた何かが、一気に噴出した。
 もっと、罵って欲しい。傷つけて傷つけて、この恋は最初から望んではいけないものだと思えるくらいに。
「あの時の美緒が、どれだけ傷ついたか、麻里さん知ってんの?」
「……知らない」
「見てるこっちが痛くなるくらい震えて泣いて、心が壊れたんじゃないかと思うくらいで……。どれだけ傷つけたと思ってんだよ! 美緒がどれだけ……!」
「……そうね」
「美緒は悪いことなんて何もしてないのに……なのに、それでも美緒は、あのキスを見なかったことにするって割り切ったんだよ。それがどれだけ苦しい決断だったかわかる?」
「ちょ、ちょっと待って。見なかったことにするってどういうこと? ……あの子、薫を責めなかったの?」
「薫には結局何も言わなかったよ。あのキスは、薫の意志じゃないんだって、美緒もわかってたからね」
 泉の言うことが信じられなかった。
 もしも麻里が美緒の立場なら、有無を言わさず薫に問いただすだろう。彼が悪くても悪くなくても。薫の言葉でなければ、きっと何も払拭できない気がする。泉の慰めよりも、強い思い込みよりも、恋人の言葉ほど強いものはないのだ。
「どうして、何も聞かないのよ。聞かずに納得できるなんて、そんなのありえないわ。薫の言葉じゃなきゃ、ダメに決まってるじゃない」
「麻里さんがそんなこと言う資格ないんじゃない? 元々、麻里さんがあんなことしなかったら、美緒も傷つかずに済んだんだ。何も変わらなかったんだから」
「それは、そうだけど……」
「美緒は強いよ。麻里さんが、入り込む隙なんかないくらい」
 本当に、そうなのだろうか。彼女の強さが、薫の何もかもを信じさせているのだろうか。
 ――否。
 女の直感だが、それは何か違う気がする。美緒の心が強いことは認めよう。それは、ずっと前から知っていることだ。
 でも、薫に何も聞かずになかったことにするなんて……それは、ただの逃げなんじゃないだろうか。現実を受け止めたくない、という逃避なのではないだろうか。言葉がなくとも、何もかもを悟れるような薫の強さと似ているけれど……美緒のそんな態度は、それとはまた違う気がする。
 聞かないのではなく、聞けない。それは、信じているのではなく、信じられないからじゃないかと。そんなことが麻里の胸中で駆け巡った。
 ふと視線を上げ、泉の目を見る。きっと、彼にも、そのことはわかっていない。
「泉くんは、それでいいと思ったの?」
「え?」
「薫に何も言わずに、二人で知らなかったフリをして」
「最初は……確かに薫に問いただすべきだって思ったけど、美緒がいいならそれでいい」
「そう……」
「俺が守ってやることで、美緒が楽になるなら、別にそれでいいんだ。美緒のためだったら、いくらでもそばにいてやれるし」
「……じゃあ、薫は結局、何も知らずに貴方たちを見てるのね」
「何が言いたいの?」
「所詮みんな、自分自身のことしか考えていないということよ。薫を除いて……」
 心のままに薫を欲し、身勝手な恋をする麻里も。現実を受け入れられず、薫に何も言葉をぶつけられない美緒も。自分だけが美緒を守れるのだと思い、知らず優越感に酔っている泉も。皆、自分自身に夢中になりすぎて、何が最善なのかを見失っている。それが、何よりも正しいのだと思い込んでいる。そんな身勝手な思いが、後々、どれだけ薫を傷つけることになるのかわかっていないのだ。唯一、その予感を感じている麻里でさえ、その現実から逃げている。
 結局、人なんて、自分が一番大事。自分が思う通りにしか生きられない。自分の信じる道しか、歩めないのだ。
 狂った歯車は、誰かが回し始めたものでもない。一人一人の弱さが、確実に狂わせているのだ。クルリ。またクルリと。その歯車はもう、薫の力では止められないところまで進んでいる。ただ一人。いつだって、誰かのためを思える優しさを持っている彼だけが、何も知らないがために。むしろ、彼のその残酷なまでの優しさが、歯車の歩みを助長さえしていた。
 でも、誰も知らない。誰も気付いていない。今もまたこうして、世界が歪んでいくのを。
「お願いだからもう、美緒を傷つけるようなことはしないで……。もう嫌なんだ。美緒が泣くのは」
「…………」
「麻里さんの気持ちはわかるよ。痛いほどわかる。どれだけ薫のことが好きかもわかってる」
「わかってないわよ……」
「わかるよ」
「わかってたら……わかってたら、私はこんなに惨めじゃないもの」
 泉のように、綺麗に誰かを愛せない。
 愛された時間を知っているからこそ、貪欲になる。抱かれた腕を覚えているから、離れられない。甘い麻薬は恐ろしく、時に狂気になって自分を蝕んでいく。
 惨めで惨めで。美緒を守ろうとする泉にさえ憎しみを覚えるくらいで。そんな麻里の気持ちが本当にわかるのなら、泉はここへは来ていないだろう。
「こんなにも惨めに、誰かを愛したことなんてないでしょう?」
「惨めだなんて……」
「好きになればなるほど惨めになる……。本当は綺麗に薫を愛したいのに……」
「大丈夫だよ。麻里さんは惨めなんかじゃない。俺はわかってるから」
「だったら、奪ってよ……。私の気持ちがわかるんなら、真中さんのこと、薫から奪ってよ」
「…………」
「できないくせに……」
 顔を両手で覆った。零れそうになる涙を手のひらでギュッと押さえて、我慢する。
 もう、グチャグチャだ。泣き崩れることができないのは、かろうじて残る麻里のプライドだった。
 すると、そんな彼女を柔らかく包むように、泉の腕が彼女を覆った。後ろから抱え込むように、ふわりと。
「もうやめようよ、麻里さん。どうして、そんなに自分を傷つけながらも薫を愛そうとするんだよ」
 必死で泣くのを堪える麻里を、泉の優しい手が癒す。
「薫が自分のものにならないってわかってんだろ。わかってるくせに、麻里さんは自分から傷ついて、ボロボロになって、どうしてそこまでしなきゃなんないんだよ」
「それでも……欲しかったのよ」
 たとえボロボロになっても。
 たとえ、この身が朽ち果てても。
 それでも薫の愛が手に入るなら、どんなものでもくれてやる。
 麻里は、そんな自分を惨めなのだと罵った。けれど、泉から見た彼女のそんな愛し方は、ある意味身震いするほど美しいと思えた。誰かのために、こんなにも身を焦がし。自分が傷を負うことも厭わない。どんな女よりも、男に従順で、可愛い女だ。たとえ麻里がどれだけ美緒を傷つけようとも、嫌いだと思えないのは、そんな彼女の可愛らしさや想いの切なさを、泉自身が感じているからだろう。
 それでも、今の泉にとっては、美緒より優先するものなんて、この世になかった。
「でも、お願いだよ麻里さん。もう二度と美緒を傷つけないって約束して」
「…………」
「今度そんなことをしたら、俺もきっと黙っていられない。もう、麻里さんを愛しいとも思わなくなる」
 抱き締める腕は優しいのに、綴る言葉はあまりにも残酷で。美緒を包む泉の愛情に、嫉妬した。できることなら、麻里だって、美緒のように優しく愛らしい女になりたかった――。
「二度目を犯したら、私を殺しに来る?」
「ああ。きっと……殺したくなる」
「そう。怖いわね」
「その時は、俺だけじゃなく、薫も麻里さんを許さない」
「……そうね」
 背中から抱き締める体に身を預け、何かを諦めたようにゆっくりと微笑んだ。
 許すも許さないも、もう既に――。
「約束してあげないって言ったら、どうする?」
「いつかバチが当たるよ、そんなの」
「もう、バチなら当たってるわよ」
「え?」
「もう十分、罰は受けてるわ……」
 泉が麻里から少しだけ身を離し、彼女の表情を見ようと覗き込んだ。そこには、悲しいくらいの微笑があった。けれど、彼女はそれ以上、何も答えなかった。

 ――罰ならもう、とっくに受けている。
 空港でのあの時から、薫は一切麻里を見なくなった。美緒にキスシーンを見られていることは、知らないはずなのに。むしろ、そんなことは薫にとって、どうでもいいことなのかもしれない。
 あのキスが、薫を変える全ての合図になった。
『おまえとは、ずっと友達でいたかった』
 空港での別れ際、そう言った時の薫の寂しそうな微笑みは、今まで見たどの笑顔よりも泣けてきた。
 ラインを超えたのは、麻里だ。薫の忠告を無視し、その先には絶望しかないとわかっていて、踏み込んだ。あの夜のことは、薫自身にも非があるとわかっていたからこそ、許されたワガママ。十分過ぎたくらい、優しい一夜だったのに。触れ合う温もりを、一瞬自分だけのものにできたのだと高を括った。
 でも、二度も強く薫を望んだ麻里の気持ちは、薫にはけして届かない。すれ違いざまに向けてくれていた優しい視線も、何気ない会話も、今となっては何もない。あんなに冷たい目をする人だなんて、今まで知らなかった……。
 思わず、こっちから逃げたくなるような、氷の視線。見つめられる前に、麻里の方から視線を外してしまう。そこには、冷酷すぎるほどの薫の恐ろしさが見えた。きっと、嫌われているわけではないだろう。たかがキスをされたくらいで戸惑うほど、薫は女に慣れてないわけじゃない。
 全ては、美緒を守るための行為だ。麻里を寄せ付けなくなったのも、全て美緒を傷つけさせまいと薫がわざとやっていることなのだ。当然だ。友達の枠を超えて一緒にいようとする女を、美緒が不安に思わないわけがないのだから。麻里を許すことは、美緒を裏切ることになるのだから。
 この間、美緒と一緒にいる薫と出会った時も、容赦のない視線を麻里に送り込んできた。
 ――美緒を傷つけるのだけは、許さない。
 そう言われている気がした。
 泉がいてもいなくても、どっちにしたって、麻里は薫には近づけない。もう、自分の力だけでは、動くこともできなくなっていた。だからこそ、縛られる。どこにもいけない想いを、胸に閉じ込めたまま。
 そしてそんな想いは、もう一つの不安に駆り立てられていた。
 二つ目の――罰。

「ねえ、麻里さん。罰ってどういう意味……」
「心配しなくても、もうキスできることもないわよ」
「え……」
「薫が、それを許さないわ」
 そこで話を一方的に切ると、泉の体から離れ、立ち上がった。途端襲う眩暈にクラクラして、額に手を当てる。
 泉は、そんな彼女には気付いてはいなかった。
「ところで、泉くんはそんな話をしにきたんじゃないでしょ。私に聞きたいことがあったんじゃないの?」
「あ、うん」
「たぶん私にとってはきつい質問なんだろうけど」
 呆れた笑いがクスクスと聞こえる。
「なあ、麻里さん。夕飯は?」
「……食べてないけど」
「これからどっかゴハン食べにいかない? 奢るし」
「悪いけど……遠慮しとくわ」
 その時初めて、麻里の顔色が優れないことに気付いた。額に手を当てたままの、彼女。最初はただのポーズかとも思ったが、どこか自分を支えるような苦痛が見えた。頭痛でもするのかと思い、迷わず問うていた。
「頭痛いの? 風邪?」
「ううん。なんでもないの。気にしないで」
 そうは言っても、襲う眩暈は止まらない。次第に気分が悪くなり、胃から迫り来る嘔吐感に襲われた。
「ごめん。ちょっとトイレ行ってくる」
「あ、うん。大丈夫?」
「大丈夫よ……」
 部屋を去り行く彼女の背を見送りながら、複雑な気持ちを抱えていた。
 元々、泉がここへ来たのは、大阪での三日間、薫との間に何もなかったのかを麻里に問いただすのが目的だった。何もないと信じてはいても、確信があるわけじゃない。麻里の口から、確かな言葉が欲しかったのだ。薫には、聞けないその事実を。
 美緒の不安が、まだ心に残っていると知った今、どうしても知っておかなくてはいけない。場所を変え、改めて問うつもりだった。けれど、急に小さく見えた彼女の背を見ていると、それを聞くことがとてつもなく酷に思えて、泉は悩んでいた。何故か、今にも麻里が崩れ落ちそうに見えた。
 どうしようか。
 聞かずに帰るなら、ここへ来た意味はない。
 そんなことを考えながら、元々自分の座っていたクッションへ戻ろうとした。
 その時、ちょうどテーブルの下にあった固体に手が触れ、カサリと音を立てた。
「なんだよ……これ……」
 思わず手に取り上げた、細長い箱。その箱の下には、ドラッグストアの紙袋。
「なんで、こんなもの……」
 荒波が、ザワリと押し寄せる。
 その箱に書かれているものを凝視し、泉はそれ以上何も言えなくなった。
 そして、漠然とした不安が麻里の言葉を呼び起こし、確固たる悪に変わった気がした。

 ――もう、罰は受けている。

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