華水の月
48.蜘蛛の糸
美緒を家まで送り届け、再び薫の家に帰ってくる頃には、泉の衣服や髪はすっかり乾いていた。雨の匂いはそのままに、湿り気は帯びていても、薫にばれる程度でないことは容易にわかる。
泉は玄関先に置き去りにされたままの美緒の折り畳み傘を手に取ると、物音を立てないようにとゆっくりと部屋へと上がった。
「おかえり」
「あ……ただいま、薫」
ちょうどその時、寝室から薫が姿を現した。咄嗟に傘を背に隠す。まだ青白い薫の顔色に、体調が回復したわけではないことはわかった。きっと、人の気配に気付いて起きてきたのだろう。
泉の隣に美緒がいないことを不信に思ったのか、すぐさま問われた。
「美緒は?」
「え……っと」
「帰ったのか?」
「うん」
「いつ?」
「さっき……お粥作ってからすぐに……」
「一人で出てったのか?」
「いや……それは」
「さっきから留守にしてたってことは、おまえも一緒だったってこと?」
まるで尋問を受けているかのような薫との会話に、泉は後ろめたさを感じ、まともに薫の顔を見ることができない。
薫の氷の目は、嘘を吐く心をけして許さないだろう。視線を絡めとられたら終わり。全て見透かされるに違いないのだ。
「美緒は先に帰ってたんだけど、俺が後を追いかけて、送ってきた」
「ふーん……」
「夜も、遅いしさ。危ないと思って……」
「俺に何も言わずに帰るなんて、美緒らしくないな」
心臓が、キュッと萎縮するのがわかる。後ろ手に隠した美緒の傘だけはけして見られまいと、それにばかり気を取られる。
「たぶん、薫が寝てるのを起こしたくなかったんじゃないかな」
「でも、美緒が帰ったのって、おまえが寝室に居たときだろ? 起きてるかどうかくらい、確かめるんじゃないの? 普通」
「それは……」
「それに、おまえに言わずに帰ったのだっておかしいんじゃない?」
怒らせて……いるのだろうか。
薫は普段あまり人の心の中を探ろうとはしない。こういう物言いをする時は、必ずと言っていいほど、相手に対し不信感を抱いている時なのだ。弟だからこそわかる、些細な兄の変化。
薫は、確実に泉に対し、何かしらの疑いを持っている。
「俺に何も言わなかったわけじゃないよ。キッチンに、用事が出来たから帰る、って置き手紙もちゃんと残してたし……」
置き手紙なんて、最初からあるわけがない。
「じゃあなんでおまえは、知らない間に帰ったはずの美緒を追いかけてまで、送り届けてきたわけ?」
「あいつが、リビングに忘れ物しててさ。それで、急いで追いかけただけだよ」
「忘れ物って?」
「腕時計。……料理する時に外したままだったんだと思うよ」
咄嗟に思いついた言い訳にしては、割と上手い嘘だと思った。薫を騙せたかどうかは別として、それなりに筋の通る言い訳。安堵で、胸を撫で下ろす。薫はそんな泉をじっと見つめたまま、黙り込んだ。
嫌な緊張感だ。泉が最も苦手とする、薫の沈黙。普段優しい分、無感情な薫の雰囲気は、心臓が凍りつくのではないかと思うほど恐ろしい。いや、事実凍りつかせるのだ。言葉も呼吸も感情も全てを奪われる。
相変わらず泉は薫の目を見られなかったが、張り詰めた空気の中、薫が小さく溜息を吐いたのがわかった。
「腕時計か。……ったく、今日は時間に振り回された一日だったな」
「……そうだな」
「泉」
「何?」
「わざわざ美緒を送り届けてくれてサンキュな。おまえが居てくれて安心した。本当なら、俺が美緒を送り届けてやりたかったんだけどね」
「何言ってんだよ、薫は病人なんだから寝てないとダメだろ? 薫に無理させたら、俺が美緒に文句言われるんだから」
「仰る通りです」
クスクスと、薫が小さく笑う。その時初めて緊張が解けた気がして、泉がゆっくりと視線を上げた。そこにはもう、責めるような薫の雰囲気は微塵も感じられなかった。
途端、包み込む静かな安心感。薫が笑っている。それだけで、泉の心の中に立つ波が穏やかに凪いだ。その感覚は、美緒が笑ってくれた時と同じくらいに泉を揺さぶり、そして幸せを運ぶのだ。
やっぱり、たとえ薫をどれだけ悪だと決めつけても、泉は薫を憎むことはできない。嫌悪や憎しみを凌駕するほど、絶大的な信頼と愛敬の念をこの兄に抱いているのだ。だから、自分のしていることの罪悪感を、これでもかというほど噛み締めてしまう。薫を心の中で勝手に悪に仕立て上げ、薫一人を締め出し、美緒と秘密を共有し一緒にいることへの罪悪感を。
「まあ、美緒もいないんだったらもうちょっと寝ておこうかな」
「明日も仕事なんだろ?」
「もちろん。校医と言えど、忙しい身だしね」
「薫は名医さんで有名だからな」
「名医なんかじゃないよ。買いかぶりだ」
「嘘ばっか。それだけ引っ張りだこで人気の名医のくせによく言うよ。医者も患者も薫を放っておいてくれないじゃん」
「なんだあ? そんなお世辞言って、なんか買ってもらおうっていう魂胆か?」
優しく笑って、泉の頭を軽く叩いた。
「買ってくれるなら買ってもらおうかな。あ、薫のバイクでもいいよ? あれすごく気に入ってるし」
「バーカ。たまには兄貴にプレゼントしようとかって考えはないのか」
「いいじゃん。薫だって腐るほど金持ってんだし。俺に貢いでくれたってバチは当たんないって」
「おまえに貢ぐくらいなら、美緒に貢ぐよ」
呆れた表情は、美緒に見せる時の男の表情ではなく、泉だけに見せてくれる兄の顔。
本当に、最愛の兄だ。薫を目の前にし、その優しさに触れると、その感情は否応無しにも泉を満たしてしまう。こんなにも愛せる人間はいないと、そう思えるくらいに。
生まれてから今までずっと、薫以上に尊敬したり、その存在を大事に思う人間なんていなかった。付き合ってきた女と比べても、大事な友人たちと比べても、それは一目瞭然だった。兄弟、というよりももっと深いところで薫と泉は繋がっているのだ。
仕事で多忙な両親の元で育った二人。いつも二人だけで時を過ごしてきた。
親からの愛情を受けなかったわけではない。人並み以上の生活を与えてくれていたし、彼らは彼らなりに二人を愛してくれているだろう。ただ、多忙ゆえに時折しか会えない生活の中で、家にはいつだって『親』という人間はいないのが当然だった。薫と二人で寄り添って生きているのが当然だったのだ。
薫が十歳になろうかとする頃には、既に家事全般はこなせるほどになっていたし、食事の用意も泉の身の回りのことも、全て薫がしてくれていた。思えば、親が子に教えるべきであろう、礼儀作法から常識、勉学も、自転車の乗り方に至っても、薫はそこらへんにいる一般的な親よりも、一生懸命に泉に教えてくれた。
泉が寂しい思いをしないように。泉が、家族の温もりを知らずに育つ人間にならないように。そして、一人の人間として恥じることのないように。普通の家庭に育つ子どもよりも上だと言えるくらい、泉は薫の愛情を一身に受けて育ったのだ。
泉が熱を出した日は、薫におぶられて病院に通い、寝ずの看病を受けた。寂しくて眠れない夜は、そっと抱き締められ、同じベッドで一緒に眠った。友達が父親とキャッチボールをしていることに羨ましく思っても、薫が泉のどんなボールをも受け止めてくれることで寂しくは思わなかったし、嬉しいことも悲しいことも、誰よりも先に薫へ話すのが当たり前だった。そしてそんな泉の気持ちを誰よりもわかってくれるのは、薫だった。思えば、泉が思い浮かべる思い出のどのシーンにも、必ずと言っていいほど、そこには薫がいる。
それはもう、兄と呼ぶよりも、親同然だった。泉にとって薫は、兄であり、父親であり、母親でもある。そして、いつも一緒にいて何でも話し合える関係は、親友とも言えた。
『大丈夫だよ。泉は兄ちゃんがちゃんと守ってあげる。泉には、僕しかいないもん』
物心付いたころから、薫から何度も聞かされた言葉。後になって知る。呪文のように繰り返し呟いていたその台詞は、薫自身の寂しさを紛らわせながら、自分を必死で奮い立たせていたのだと。
歳はそう離れていない二人だ。泉が幼いのと同じように、薫だって幼かったのだ。必死で自分に責任を課さなければ、弟一人を守り抜けるわけがない。
『泉には僕がいる』
そう言って抱き締めてくれる腕は、幼子ゆえ、あまりに小さなものだったけれど、泉にとってこんなにも安心できる場所なんて、ありはしなかった。そしてそれはきっと、薫にとっても同じだっただろう。泉の存在が、薫に幸せを与えていただろう。二人はいつだって、寄り添い合って生きていたのだから。
泉が高校に上がるのと同時に、薫が家を出て一人暮らしを始めたことで、その存在の大切さをより噛み締めることになった。薫の愛情を受け、何の不満もなく幸せに育った泉とは対象的に、誰にも頼れず、幼い頃からたった一人で泉を守ることだけに必死で生きてきた薫は、どれだけ寂しく不安な想いを抱えて今まで生きてきたのだろうかということも、考えられるくらい大人になった。
そして思い知るのだ。
薫、という人の底なしの強さと優しさを。それが、人としてどれだけ素晴らしいものなのかということを。
薫と少し距離を置くことで、彼の人間性がどれだけ尊く、そしてそんな兄に育ててもらった自分がどれだけ幸せなのかを、知ることになる。そんな薫の大事さを感じれば感じるほど、彼への愛情は深さを増し、こんなに愛おしい存在をけして失ってはいけないと、心の中で強く誓った。
だからこそ泉は、薫の幸せを誰よりも望むのだ。自分が幸せに生きて来られた分、薫にはその何倍も幸せになってほしい。泉はけして、薫よりも他人を選ぶことは絶対にしないだろう。
「どうした? 沈んだ顔して。また美緒と喧嘩でもしたのか?」
「喧嘩……?」
「おまえたちはいつも衝突しては、勝手に落ち込んでるじゃないか。俺はそれを慰めるのにいつも一苦労なんだけど?」
薫の背に昔を思いだしていた泉の髪を、薫がクシャクシャと弄る。幼い頃から今も変わらない薫の癖だ。いつも泉に安心をくれた、大きな手。その優しい手の感触に、思わず泣きそうになった。
「喧嘩はしょっちゅうしてるし、そんなことで落ち込まないよ。落ち込んだら俺の負けみたいじゃん」
「おまえたちの喧嘩に勝ち負けもないだろう。元々、くだらない理由でばかり喧嘩してるし?」
「くだらなくても、俺と美緒にとっては結構真剣なんだけどね」
「ったく、本当におまえたちは仲がいいのか悪いのかわからないな」
でも、美緒と出会って世界が変わってしまった。
正直なところ、美緒と出会った頃の泉は、美緒に対して微かな嫉妬心を抱いていたと言える。それまで自分に向けられていた薫の愛情が、全て美緒に向けられていることへの嫉妬。
けれどそれは、美緒という人をあまりに知らなかったからだ。そして、『女』というものを、愛しく思ったことのない経験故だった。知ってしまってからは、言うまでもなく二人の幸せを願った。薫に愛されることの幸せを知っている泉は、美緒にもその幸せを感じて欲しいと心から願ったのだった。
けれど今。
美緒を思う時や、美緒と一緒にいる時の泉は、薫を一番に想うそんな気持ちを無意識に心の裏側に隠してしまう。美緒を想う気持ちの方が上回って、彼女以外何も考えられなくなる。理性が奪われている。たとえ薫の気持ちに背いても、美緒を守ること以外は心が許さないのだ。
今まで、女という存在にこんなにも心を占領されるだなんて思ってもいなかった。美緒という存在が、薫と天秤にかけられるほど重いものになるだなんて。
だが、冷静に考えてわかることもあるのだ。
泉が美緒に惹かれた理由の一つ。それは、美緒という存在が、薫を幸せにしてくれるものだとわかるから。自分の大事な薫という存在を、美緒が優しく守っていてくれることを知った時から、それだけの理由で泉は美緒という存在を愛しく思えた。自分の望むものが美緒の中にあることを、心から嬉しく思ったのだ。
ただその先に、一人の女として愛してしまう運命が待ち構えているなんて、知るはずもなかったけれど。
今となっては、泉にとってどちらの存在がより大事かなんて、判断が付けられない。比べられない領域で、二人はそれぞれに泉の一番大事な人なのだ。だからこそ、その時置かれた状況や感情で、泉は判断力を奪われ、ゆらゆらと揺らめいてしまう。特に、薫へ疑いを抱く今は、美緒より大事なものなんて、この世にはない。
そんな風に心全てを美緒に奪われたのは、いつからなのだろう……。
「あ、後で美緒が作ったお粥温めて寝室に持ってくから」
「サンキュー。じゃ、ゆっくり待ってますよ」
「うん、すぐに行くよ」
「あ、そうだ泉」
「……何?」
「美緒、安心した顔してた?」
「え?」
「俺の方が心配でさ。あいつが寂しそうな顔してると、ほっとけなくて」
「大丈夫……だよ。うん……」
「そっか。ありがと」
安心したように微笑み、手をヒラヒラと振って寝室に入っていく薫を見送りながら、後ろ手に隠していた美緒の傘を視線の先に戻した。
――俺だけは、おまえを絶対に裏切らない。
思いだすだけでも、呆れてしまう台詞。
けれど彼女は、その台詞に何も不信感を抱かず、受け止めてくれた。泉の優しさに心奮わせ、涙を零し、そして笑ってくれた。
きっと、今日のこの雨で、美緒の中の泉の存在はより大きくなっただろう。それは、互いの心の中で互いの存在や気持ちを共鳴しているからこそ、わかることだ。でも……。
「結局裏切ってんのは、どっちだよ……」
なぜあの時、自分の気持ちだけを庇い、彼女に告げてしまったのだろう。それまで、いつだって『薫は絶対に裏切らない』と美緒に言い聞かせた台詞を、自分自身にすり替えたのか。
言わずとも知れている。美緒の中の泉の存在だけは、脅かされたくなかったのだ。たとえ美緒の薫への信用を失っても、自分だけは美緒から離れたくないと、無意識に心の奥底から願った。それくらい、美緒に対する恋しさは知らぬ間に深くなっている。恐ろしいほど、自分の気持ちが美緒という一人の女に呑みこまれていくのがわかった。
結局、裏切っているのは薫ではなく、泉自身なのかもしれない。
美緒と薫が幸せでいいと、ただ願っていただけの頃とは、確実に何かが変わっていた。それを、薫が悪なのだから、という勝手な確信に押し付けて。自分以外は、美緒を支えてやることができないと、決め付けて。
以前から感じていた予感。泉が、美緒と薫の幸せを素直に願うことができたのは、美緒の気持ちが絶対的に揺らいでいなかったからに過ぎない。
二人が幸せなら、自分の気持ちなんてどうでもよかった。二人の幸せを壊してまで、美緒を奪うつもりなんて毛頭なかった。麻里に言った言葉は、どれも嘘ではないのだ。でも、傷付き不安に揺れている美緒の心が目の前にある今、そんな願いは脆くも崩れ去る。美緒を支えずにいられる自分なんて、どこにもいないのだから。愛しているからこそ、泉は美緒に手を差し伸べずにはいられない。
『でもやっぱり私は先生のことが好きだから……信じるよ』
美緒との別れ際、彼女が泉に告げた言葉が耳の奥で響く。
蜘蛛の糸ほどの細さしかない、弱い言葉だった。あと何か一つでも衝動が起きれば、きっとすぐに切れてしまうくらいの美緒と薫を結ぶ糸。
でも、その台詞に救われた。美緒を、薫から完全に引き離さずに済んだことを。
そして思い知った。結局泉がどれだけ体裁を守ろうと、薫の存在には追いつけないことを。
『俺がおまえを全部受け止めてやる。挫けてしまいそうなときは、絶対に俺の元へ帰ってこい。一人でなんか、絶対泣くな。俺の知らないところで、勝手に苦しんだりするな。弱くたっていいんだよ。泣きたいのなら、俺のそばで泣いて欲しい……』
別れ際、そっと抱き締めながら言い聞かせた台詞に、美緒は小さく頷いてくれた。頷きながら、切なく微笑んでいた。
『こんなにも弱い私を見放さないでくれてありがとう』
と、小さな声で、呟いていた。
そんな風に強く結びついていく二人の関係を、薫に秘密にしていることへの背徳感。
それでも、美緒を愛していると想う気持ちには、偽りはなかった。
切れそうで切れないのが蜘蛛の糸。
兄の存在を心から大事に思う冷静な自分は、薫と美緒を結ぶ蜘蛛の糸が、切れないで欲しいと願いながらも
美緒を愛してしまう男としての自分は、見えない心の奥底で
その蜘蛛の糸が切れてしまえばいいと願っている……。
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