華水の月
70.冷艶
――写真って、その時感じた気持ちを形にしてくれる気がするんだ。
単なる推測が確信になったきっかけは、その言葉が薫の頭の片隅でずっと残っていたからだった。
いつのことだったか――あれは確か、麻里が保健室に運ばれてきたあの日、樹多村綾乃がふと零した一言だ。いつものように保健室に友達と連れ立って綾乃が訪れていた時、体調の悪い他の生徒を看ている薫から少しだけ離れたソファで、二人は小さなアルバムを覗き込んでいた。恥ずかしそうな表情を見せる綾乃の雰囲気から、それが綾乃の所有物であることを感じ取ったが、とりわけ気にすることでもなかったから、意識の遠くで彼女たちの会話を聞いていたに過ぎない。
『携帯で見た方が手軽じゃない? なんでわざわざ現像するの』
綾乃の友達のその一言で、アルバムの写真が携帯で撮られたものであると知り、
『写真って、その時感じた気持ちを形にしてくれる気がするんだ。携帯にデータで残しておくだけっていうのはなんか心許なくて、でもこうして形に残すと安心すんの』
綾乃の言葉が、薫の心に何かを残した。薫の中の『携帯で撮る写真』の意味というか、価値観のようなものと、綾乃のそれが多少ずれている感じがしたからかもしれない。デジカメで撮ったものを現像するというならまだしも、普段の生活になじみすぎている携帯で撮った何気ない写真を現像するという、自分ならあまり思いつかないことであったから、何故か引っかかったのだ。だがその時の薫には、それは単に『偶然耳にした生徒の会話』というレベルのものに過ぎなかった。薫は目の前にいる患者を看るのに集中し、彼女たちの会話はすぐさま写真からかけ離れていった。
綾乃のその言葉がフラッシュバックしたのは、泉から渡された写真を見た瞬間だ。少しばかり粗い画質、そしてその日綾乃と関わっていたという事実が、樹多村綾乃という一人の少女の存在を不気味に浮き上がらせた。頭の片隅に残っていた記憶が、単なる推測を確信に変えたのだ。
綾乃が同じ写真を持っているかもしれないと思ったのも、その記憶が大きな理由を占めている。写真は、その時感じた気持ちを形にするのだと彼女は言った。心許ないから、形にして手元に置いておきたいのだと。美緒に送りつけているという時点で、彼女の中には美緒に何かを伝えたいという確固たる意思が含まれていたはずだ。曖昧なままであるなら、美緒を傷つけようなどという考えは、所詮思うだけに留まっているだろう。
もしも彼女が完全な悪だとして、美緒を傷つけることに何の躊躇いも感じない人間なら、証拠と思われるものは全て消去してるはずだ。だが、少なくとも綾乃と共にしてきた時間、薫はちゃんと彼女を見てきた。いつも楽しそうに一生懸命話しかけてくれる少女らしい表情を疎ましいと思ったことなどない。どこか傷ついたような目で美緒を見る綾乃の姿もしっかりと目に焼きついている。
もしも、綾乃が自分のしていることに少しでも悔いている部分があるのなら、きっと彼女は同じ写真を持っているという確信があった。人は幸せな記憶よりも、苦しい記憶の方をより無意識に思い返してしまう傾向にあると思うからだ。今それに直面していたなら尚更のこと。誰かを傷つけてしまったという後悔に胸が疼く度、自分のしたことを無意識にも思い返し振り返ってしまうだろう。もしも薫が綾乃の立場だったなら、何度も携帯や写真を見てしまうかもしれない。一時とは言え美緒を傷つけたいという曖昧な気持ちを形にしたのなら、綾乃が美緒に対して罪悪感を抱いているのなら、彼女はきっと写真を持っている――。
えみが、それを見つけるかどうかは、この際問題ではなかった。所詮憶測に過ぎないことであるし、えみの目の届くところに写真があることの可能性の方が確実に少ないに決まっているからだ。綾乃が写真を持っている、と言ったのは、所詮薫の直感の話であったに過ぎないし、外れていたとして、特別気にする問題ではない。
だが、メモリーカードを届けに来たえみは、同じ写真を見つけたことを薫に報告してくれた。綾乃の行動を読めていたことに、怖い怖いと呟いては薫のことをおちょくって不思議そうな顔をしていたえみだが、薫は人の行動が最初から読めるような現実離れした特異な能力を持っているわけでもないし、こういう推測に至ったのは綾乃を見てきたからこそ出た結果論に過ぎない。何の接点もきっかけもなく、誰かの考えや行動を推測できるほど人という生き物が長けているだなんて思わないし、第一、理由のない適当な憶測だけで決め付けてしまうほど、薫は言葉というものを軽んじていない。多少人よりも観察力に優れていると言える範囲のことだ。まあ、えみにとって自分を絶対的な存在にしておく方が薫にとっては都合がいい分、あえてえみに弁解することなく好きなように思わせていた。でも、綾乃が写真を持っていると知り、正直ホッとしたのも本当だった。
手渡されたメモリーカードから、PCを使って問題の写真を削除する。綾乃がこれ以上自分を追い詰めるような行動をしない為にも、根拠となるものを削除するのは致し方ない。もしも、綾乃の元に残しておいた写真を彼女が悪用しようとしたとして、データ自体を消去しておけば、後は現存するモノ自体を押さえれば済む話だ。だが、そんな心配は無用である気がする。誰が仕掛けたことなのか安易に予測できるような行動を起こす、その幼稚さが計画性のなさを思わせるからだ。用意周到で計画的なものではなく、感情的に起こした事態だからこそ、その熱が冷めれば二度目を犯そうなどという気にはならないだろう。
他にも、楽しそうに友達と映っている綾乃の姿がチラッと視界に入り、知らずため息が零れた。とりあえず証拠は押さえることに成功したが、問題なのはそんなことではない。
正義を振りかざせば、綾乃を救うことはできないだろう。薫にとって、自分の写真を乱用した綾乃が何一つとて正しい存在ではないからだ。そして、一番大事な美緒も救うことはできない。二人の恋は、もはや正義の下では許されることのない禁断のものなのだから。
できれば誰も傷つけたくはない。だけれど、そんな甘い理屈が通るわけがないことくらい、嫌というほど理解している。ならば、多少のリスクを負っても何が最善であるかを探すのが懸命だ。幸い、綾乃は今写真を持っている。事態は悪いことばかりではない。
大事なのは、何が正義なのかではない。そう、何が最善であるか――なのだ。
写真がないことに気付いたのは、その日の最後の授業の時、自分の席から斜め前に座る美緒の背と自分の携帯を見比べている時だった。美緒の華奢な背に、傷つけたかもしれない後悔を胸に抱きながら、それでも自分にはその写真があるという強みを確認したくて、携帯を弄っていたのだ。
けれど、保存してあったはずの写真が見当たらない。綾乃はすぐさま携帯に入っているメモリーカードを調べたが、それがないことに気付いたのと、教師から注意を受けたのが同時のことだった。
「樹多村。授業に集中できないのなら、これは先生が預かっておく」
科学教師である佐伯祐介は、授業に上の空で携帯に夢中になっている綾乃を注意すると、彼女の手から携帯を奪い、ポケットへとしまってしまった。あっ、と思わず口にしそうになり、舌打ちと共に息を呑む。クラスメートの視線が一斉に綾乃へと注がれたのは当然の事で、美緒も例外ではなく心配そうに綾乃を見つめていた。居た堪れず、綾乃の方から愛想なく視線を外す。美緒は、少しだけ目を伏せて、すぐさま前を向いた。
授業中に携帯を触るなど、進学校であるこの学園では当然の如く御法度だ。見つかれば没収されることなど綾乃でさえ分かっていたのに、突然のパニックで平常心が奪われていたことに、綾乃は自分を叱咤した。ましてや、薫と麻里の写真を盗み撮った携帯を没収したのが、よりにもよって祐介だとは、なんと皮肉なことだろうと内心呟いていた。
「放課後、帰りに先生のところへ取りに来なさい」
教壇の上から投げられる優しくも厳しい祐介の声に、綾乃は『はい』と小さく返事をする。ある意味、彼の手に渡った携帯の中に、例の写真がないことに綾乃が少しの安堵感を覚えたのは言うまでもない。
授業が終わり、生徒達が皆帰っていくと、綾乃は血相を変えて教室内を探し始めた。自分の鞄の中も机の中も探した。床にも這いつくばった。ありとあらゆるところに目を配った。だけれど、一向に見つかる気配がなかった。
ドン、と机を叩き、苛立ちに髪をかきあげながら座りこむ。体育の授業を終えるまでは、確かに携帯の中にメモリーカードはあったはずなのだ。午前中、さっきと同じように美緒の背を見ながら写真を見ていた事を、綾乃は確かに覚えている。
だとすれば、着替えている最中に、教室内のどこかに落としたとしか考えようがない。携帯の中に入っているメモリーカードが落ちてしまうなどということは考えがたいが、この際綾乃には、この教室内を探すより他に方法がない。誰かの手によって奪われてしまったのだとすれば、それはあの写真を綾乃が撮ったということを知る者だけだ。
――美緒なのだろうか。
ふと、綾乃の脳裏に写真を送りつけた相手の横顔が過ぎる。――否。彼女は、綾乃が知る限りでも、今日一日ずっと綾乃の知らないところで行動をしていた形跡はない。今の綾乃は、美緒の一挙一動に神経全てを奪われているのだ。
だが、そう確信しつつも、綾乃は美緒の机の中を探った。綺麗に整頓されている彼女の机の中には、調べるまでもなくメモリーカードが見つかる気配は全くなかった。シンと静まり返った教室内には、結局綾乃の探すものが見つかることはなかった。
救われたのは、鞄の中にしまってあった水色の封筒と一枚の写真が残っていたこと。美緒に送りつけると決めた時、なぜか同じものを自分でも持っておこうと取っておいた。本来なら、疑わしいものは何一つ持っていない方がいい。メモリーカードのデータはまだしも、現像した写真など持っていない方がいいに決まっている。
でも、それらを自分の手元に置いておいたのは、綾乃自身の良心の呵責なのかもしれない。何度も何度も、無意識に写真を見返してしまう。その度に戸惑いと後悔が渦巻くのに、なかったことにできるほどの強さもない。自分のしたことへの罪悪感、それ故に、その写真を見る事で、激しく自己嫌悪に陥る反面、自分が平常からかけ離れていくことを制御していた。己の残酷さを振り返るきっかけを、残しておきたかったのかもしれない。それは、綾乃が後悔しているということをも、意味づけていた。
仕方なく、綾乃は自らの帰り支度を整え、科学準備室へと向かった。没収された携帯を返してもらうため、佐伯祐介の元へ訪れたのだ。ドアの前に立ち、コンコンとノックをすると、ドアの向こう側から返事が聞こえ、綾乃はそっと扉を開いた。
そこで目に入ってきたのは、白衣を着た男性の背中。
理科教師である祐介が白衣を着ることはけして不思議ではないが、綾乃にとってその背は誰とも見間違うことができないほど特別なもので、胸の高鳴りに足が竦んでしまった。
「櫻井、先生……。どうして」
名前を呼ばれて振り返った人物は、紛れもなく櫻井薫、その人だった。
夕日が差し込む大きな窓を背に、スッと立ち上がった美しい長身の姿に、綾乃の心臓はバクバクと音を立てて破裂しそうになる。薫は、椅子ではなく机に軽く腰掛けると、腕を組み、綾乃に対して優しい笑みを零した。セピア色に染まるこの愛おしい存在は、全て綾乃のためだけに語りかけていた。
「遅かったな、樹多村」
「ど、どうして先生がここにいるんですか」
「佐伯先生に急ぎの用ができてね。それで俺が代わりに待ってたんだよ。預かりものと一緒に、君をね」
淡々と並べられる言葉は、薫が口にするだけで簡単に真実味を帯びてしまう。むしろ、『君を』と言った語尾だけが綾乃の心を喰らい、簡単に平常心を奪ってしまう。自分のためだけに薫がそこにいる。それだけで世界は、急に色を帯び始めるのだ。
綾乃は、薫が口にしたその理由に、全く疑いもしなかった。
けれど本当は、綾乃の携帯を祐介が持っていると偶然知った薫が、無理を言って祐介に代わりを申し出たのだった。綾乃と接触するために。
「授業中に携帯触ってたんだって? ダメだなあ。もっと見つからないように上手くやらないと」
クスクスと薫が笑う。その柔らかい微笑みに、綾乃もついついつられるように微笑んでいた。好きな人が笑ってくれるだけで幸せだ。だけれど、好きな人から笑顔を奪うことがどれだけ悲しいことなのかということを、この時の綾乃はまだ知らなかった。
「誰かと夢中でメールでもしてたの?」
「い、いえ、そんなんじゃ……」
「もしかして、彼氏とか?」
「彼氏……」
薫の口から『彼氏』という言葉が出て、綾乃の胸は無意識にもズキリと痛みを残した。伝えたいのに伝わらない気持ちにもどかしくて、ギュッと胸を押さえこむ。
「彼氏なんて、いませんから」
思わず口から飛び出た、その声色の刺々しさに綾乃は顔を歪めた。薫の前ではもっと可愛くいたいのに、伝わらない気持ちのもどかしさに、八つ当たりしてしまったのだ。いつも、言葉より感情が優先する。そんな自分が綾乃は嫌いだった。
「そっか。失礼なことを聞いてしまったな。ごめん」
「……いいえ」
「とりあえず、没収した携帯を返す前に、ちょっとは叱っておかないと佐伯先生の立場がないからね。これからは、授業中の携帯は禁止。わかった?」
優しく叱る薫の言葉に、綾乃は俯きながらも返事をする。すると薫は、綾乃の携帯を取り出そうと白衣のポケットへと手を入れた。
その時のことだ。
綾乃の携帯が白衣の中から現れると同時に、彼女の足元に何かがヒラリと舞い落ちたのだ。
「おっと。ごめん。拾ってくれる?」
――ドクン。
心臓が大きく波打ち、薫の言葉が綾乃の耳の奥で耳鳴りにようにキーンと響く。自分の目に写っているものを信じたくなくて綾乃は咄嗟に顔を上げると、平然とした無表情な薫の瞳が彼女を見ていた。
「どうした樹多村」
その視線が、まるで責められているかのように感じたのは、綾乃の中にある罪悪感が彼女を縛り上げたからだろう。綾乃が震えだす唇を噛むしかできないでいると、薫は動けないでいる彼女の足元に屈んで、落ちたものを拾いあげた。
それは、綾乃が美緒に送りつけた写真を入れていた、水色の封筒だった。
美緒を陥れた、水色の罠――。
「はい、じゃあこれ。樹多村の携帯。次からは気をつけるように」
薫は、綾乃へ携帯を渡すと、またも見せつけるように、水色の封筒を持った手をピラピラと振った。その仕草は、まるで綾乃にわざと気付かせるようにも、無意識にも見えて、綾乃は何も言えずにただ呆然と立ちすくんでいるしか出来ない。罪悪感というものは、人をこんなにも雁字搦めに縛るものなのか。自分の犯した罪の重さを、綾乃はこの時初めて身に感じていた。
薫は、そんな彼女を一瞥すると、『先生は先に帰るから』と一言残し、彼女の前を颯爽と立ち去った。綾乃の目の前から、背の高い影が消えて、夕日がぱあっと彼女を照らし出す。その光の鮮やかさに増す不安。まともに目が開けられなかったのは、眩しかったからじゃない。迫り来る恐ろしい何かに目が眩んだのだ。綾乃は振り返ることができず、ただドアの音がパタンと閉まる音だけを確かめるように聞いていた。
「な、なんで……」
完全に薫が遠のいたと思った瞬間、綾乃はすぐさま携帯よりも自分の鞄の中を探り始めた。あの封筒は、自分の知る限りでも二枚しかあるはずがない。美緒に送りつけたものと、自分が持っているもの。美緒に送りつけたものが、薫の手に渡っているとしたら最悪なことだ。
だけれどもっと最悪なのは、綾乃の持つ方が薫の手に渡ってしまっていた場合。その時は、盗撮の犯人が自分ではないなどと弁解するのは難しい。ましてやあの日、あの瞬間の数十分前まで綾乃は薫と一緒にいたのだ。勘の良い薫なら、すぐさま綾乃を疑うだろう。
それに、綾乃と美緒のどちらの言い分が薫の信頼を得るかなど、問わずとも分かることだ。こんな時、美緒には泉という存在がいるその強みに、激しく嫉妬を覚える。
綾乃は必死で鞄の中を探した。震える指先で前ポケットを開けると、その片隅に水色が見え、綾乃はそれをすぐさま取り出し胸に抱きしめると、あからさまに安堵の溜め息をついた。だが、安堵できたのは、そこまでだった。
「何をそんなに必死で探してるの?」
いつもより低く聞こえた男性の声。綾乃の喉の奥で、ひゅっと息が潜んだ。
「樹多村が探してるのは、もしかしてこれかな?」
綾乃が恐る恐る背後を振り返る。するとそこには、ドアに背を預け、人差し指と中指で水色の封筒を挟んではぴらぴらと振っている薫の姿があった。
「せ、先生……」
薫は、その場から立ち去ってなどいなかったのだ。
一度はドアを開け、閉めるそぶりを見せた。けれど、本人は一歩たりともその部屋から出てはいなかった。余裕を失い、振り向けずにいた綾乃は、そのことに全く気付かなかった。まさか、事の一部始終を薫が全て見ていたことなど、気付くはずもなかったのだ。
「あれ? でも、樹多村も同じ物を持ってるね。先生とお揃いだ」
口元に浮かぶ薫の冷ややかな笑みに、綾乃は恐怖を覚えた。形の良い薄い唇がこんなにも冷酷な微笑を浮かべるところなど、綾乃はこれまで一度だって見た事がない。カタカタと肩が震え出す。目の前にいる男は、明らかにいつもの穏やかな櫻井薫ではなく、氷のような冷静さと残酷さを備えた別人のようだった。
「どうして先生が、ていう顔をしてるね。本来の持ち主は、別にいるはずなのにっていう顔だ」
「し、知りません……」
「知らないんじゃない。分からないんだろう、樹多村」
力ない手から鞄がガタンと落ち、体は背後にある机へと崩れ落ちる。かろうじてお尻が机の角に引っかかり、綾乃は地面に座りこむことはなかった。
薫が綾乃へ近づいてくる。言い逃れようとも、薫の厳しい視線に囚われ、綾乃は寸ミリたりとも動けずに居た。まるで、首に何かの糸を巻き付けられたように、綾乃は薫から逃げられない。
「分からないなら教えてあげようか。これは、君が真中に送ったものだよ。俺は、それを泉から渡されたんだ。当然だよな。元々、これを持つ権利は俺にあるんだから」
「あいつが……」
「真中に送り付ければ、それがすぐに泉の手に渡るってことくらい、考えられなかったのか? 泉が真中のそばにいつもいることくらい、君なら分かってたはずだろ」
「じゃあやっぱり、あいつと美緒は……」
薫の言葉で、綾乃は全てを飲み下す。その封筒に入っているものが、薫の写真であるということも、そして、泉と美緒がやはり深く通じているということも。
薫の端的な台詞は、本来の事実である薫と美緒がという意味ではなく、泉と美緒が深い仲であるということを綾乃に思いこませることに成功していた。元より、薫と美緒の仲を綾乃に暴露する気など、薫にはない。泉と美緒の仲が良いことは、言わずと知れた事実だ。何も嘘は言っていない。真実を言わずとも、誤解させておくだけなら弁解する必要もない。
それも、薫の思惑通りだった。泉には悪いが、美緒を守るためなら、薫は何だってすると決めていた。
「私には、何のことだかさっぱりわかりません……」
口を一文字に結び、綾乃は必死に否定する。ここで認める馬鹿など、そうそういるはずもない。そんなことは、二人にも分かっていた。
「へえ。じゃあ、樹多村が持ってるその封筒の中身と、俺が持ってるこの封筒の中身、見比べてみようか」
「そ、それは……」
「できないの? どうして?」
薫が、綾乃のすぐ目の前に立ち、彼女を見下ろした。綾乃は恐怖で薫を見上げることが出来ず、ただ写真を渡すまいと、必死に握り締めていた。
「同じ物じゃないなら、見せられるんじゃないかな」
「先生には、見せたくないんです」
「どうして? もしも、同じものだとしたら、俺には見る権利があると思うんだけど」
「こ、これは別の写真ですから」
咄嗟に口から出た言葉が、どれだけの愚答であるかということに気付いたのは、無表情の中に歪む薫の冷たい笑みを見た瞬間だった。
「へえ。写真なんだ。封筒の中身」
「えっ……」
「俺は写真だなんて、一言も言ってないよな。でも、樹多村はこの封筒の中身が写真だって知ってた。どうしてだろうな」
「そ、それは……」
薫の言葉に反射的に顔を上げた綾乃の頬に、ヒヤリと冷たい感触が走る。手に持っていた封筒を、薫が綾乃の頬へと当てたのだ。夕日が薫のメガネのレンズを反射し、彼の表情は読み取れなかった。それに救われ、綾乃はまた一つ嘘を吐く。
「私も……同じ物を送りつけられたからです」
「同じ物を?」
「……はい」
冷静に答えることのできた自分に、綾乃はホッと息を吐いた。元より、綾乃が送りつけた証拠などないのだ。同じ物を持っているからと言って、疑われることはあったとしても、決定的に犯人である証拠はない。同じ境遇だと言い張れば、美緒にだって疑いはかけられる。
だけれど、そんな浅はかな言い訳に心を軽くしたのは一瞬のことで、綾乃は再び薫に恐怖へと突き落とされる。
「嘘はいけないなあ、樹多村」
「嘘って……」
「じゃあ、これはなんだろう」
頬に当てられた封筒を、薫が上下に軽く振った。カサ、カサ、と何かが擦れる音がする。封筒の中に、何か小さいものが入っているような音だ。それが何なのかくらい、勘の良い綾乃にはすぐに分かった。
薫は、真っ青になる綾乃の表情を満足そうに見やると、封筒の中から小さな黒いチップを取り出し、彼女の唇へと押し当てた。
「悪いけど、中身全部見せてもらったよ。たくさん写真が入ってた。……君の写真がね」
「なっ……」
「誰が見たって、このメモリーカードの持ち主が誰のものかなんてすぐにわかるだろう。それでも君はまだ、言い逃れるつもりなのかな」
あまりの驚愕に、綾乃は全身の力が抜けていくのを感じていた。目の前の麗しい男は、残酷なまでの氷の微笑で綾乃を見つめている。
「盗んだんですか……先生が」
「盗んだなんて人聞きの悪い事言わないで欲しいね。先に仕掛けたのはどっちだ。生憎俺は、誰かに振り回されることも、自分の知らないところで利用されることも嫌いなんだよ。俺にとってマイナスなら、尚更ね。君のしたことを許せるかどうかは、君次第だよ」
「そ、んな……」
「俺を怒らせて、自分が得をするのか損をするのか分からないほど、君は馬鹿な女じゃないよね。俺にも守りたいものがあるんだ。見た者の不信を買うような写真を使われて、気安く見過ごせるほど穏やかじゃない。嘘ばかり吐かれると、俺もそろそろ許せなくなるんだよ。樹多村」
本当の恐怖というものは、必ずしも暴言や暴力とは共に非ず。背筋も凍りつくような、薫の持つ艶やかな美貌と、それを助長する冷酷さに綾乃は震え上がる。
事実はもう、綾乃が逃れることを許さなかった。
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