Darling....

1.月に永遠を誓う

 神様
 僕に 三十日だけ時間を下さい

 それ以外には何も望みません
 愛する人の幸せな笑顔を 永遠に刻み付けておきたいのです
 そして 僕がありったけの幸せに包まれていたことを 彼女にも伝えたいのです――


 Darling.....




「綺麗な名前だよね」
 十一月も半ばになると、冷たい空気が肌を撫で上げて、無意識に人肌が恋しくなる。
 少し湿った後ろ髪に鼻を埋めながら、高城眞人(たかしろまさと)は呟いた。
 さっきまで愛し合っていたからか、彼女から立ち上る香りは女特有の艶かしさがあり、うっかりその空気を吸い込むと体がまた火照ってきそうだ。少し体温も上がっているだろうか、彼女の首筋は温かかった。
「何が?」
「君の名前」
 そうかしら、と身を捩りながら気だるそうに笑う。
 首の後ろに当たる眞人の唇がくすぐったくてたまらないのだろう、少し身を捩らせて眞人と向き合うように振り返った。黒目がちの丸くて大きな瞳が、黒曜石のようにキラキラと光っている。そこに自分が写っているのが見えて、眞人は柔らかく微笑んだ。
「僕は好きだよ。君は名前の通り、綺麗だ」
「恥ずかしいわ。そんなこと言われると」
 裸の胸元にシーツを巻き付けながら、眞人の唇にチュッと音を立ててキスをする。早坂翡翠(はやさかひすい)は、はにかむように目を伏せた。
「とても綺麗だと思うのに、ひすいは翡翠の石をつけないよね」
「だって、全く同じ名のものを身に付けるだなんて、面白くないじゃない? それに、私はあまり翡翠が好きじゃないのよ」
「どうして? 嫌いかい?」
 ゆっくりと頭を振って、唇に僅かな笑みを浮かべる。少し開いた唇から紡がれる艶っぽい声は、翡翠をいっそう色っぽく見せた。
「嫌いじゃないわ。とっても綺麗な石だし素敵だとは思うんだけど、なんだか石に負けてしまう気がして仕方が無いわ」
「そんなのは、ひすいの勝手な思い込みだよ。綺麗な翡翠色は、君によく似合う」
 宝石に負けてしまうような存在感の女ではない。むしろ、翡翠の引き立て役となり、彼女を美しく彩るだろう。眞人は自信を持って言える。
「そうだと嬉しいけど」
 翡翠は、さほど興味なさげに答えると、甘えるように眞人の胸に顔を埋めた。後頭部に眞人の手が触れ、ゆるく巻かれている彼女の長い髪を優しく撫でる。トクン、トクン、と翡翠の耳に鼓動が響いていた。この瞬間が、翡翠は昔から好きだった。情事の後、眞人の胸に顔を埋めて眠るのが好き。
 それは、もう何年も変わらない二人のスタイルだった。

 二人が出会ったのは、高校一年生の時だった。
 放課後の音楽室で、眞人がピアノを弾いていた時のことだ。音楽室に忘れ物をした翡翠が眞人を見つけたのをきっかけに、二人は親密になっていった。クラスは違ったから、会うのはもっぱら放課後の音楽室でだった。
 趣味なんだよ、と言っていた眞人のピアノだったが、素人の翡翠の耳から聴いてもそれは、とても才能を感じさせるものだった。自作だという曲をいつも眞人は弾いていた。その内、眞人が作る曲を一番最初に聴くことが、翡翠の役割になった。眞人の奏でる柔らかい音色は、翡翠の心を惹き付けて離さず、それが恋心に変わっていくのに時間はかからなかった。

 高校二年生になったある日のことだ。
 いつものように、ピアノを弾く眞人の隣で、翡翠は耳を澄ませて座っていた。眞人の横顔を見つめながら音色を聴くのも良いけれど、目を閉じて彼の世界に身を委ねてしまうのも良い。翡翠が眞人のピアノに耳を傾け目を閉じた時だった。ふいに音色が止まり、そして唇に柔らかい何かが触れた。触れた温もりに体が竦んで、翡翠はゆっくりと目を開けた。
「ひすいが、好きだよ」
 眞人がゆっくりと唇を離し、そう呟いた。目の前にあった眞人の優しげな瞳は、翡翠を一心に見つめ不安に揺れていた。それでも逸らすことなく真っ直ぐに翡翠を見つめ、
「ずっと、好きだったんだ」
 そう告げて翡翠を優しく抱きしめた。翡翠は、心から嬉しくて、心臓が震えているのを感じていた。初恋、そう言ってもいい。眞人に感じる初めての深い愛情に、自らも気持ちを打ちあけた。
「私も、眞人が好き」
 恥ずかしげに俯き紡いだ言葉は、生まれてきて初めての愛の告白の言葉だった。『好き』というたった二文字の言葉なのに、伝えるだけで恥ずかしさに心が壊れそうになる。逸らすことなく翡翠だけを見つめる瞳はやけに熱っぽく、翡翠はたまらず目を閉じる。眞人は翡翠の告白を受け止めるとゆっくりと微笑んで、もう一度翡翠の唇にキスをした。そのキスは、彼の持つ全てと同じように、とても穏やかで柔らかかった。

 あれから、何度季節が巡っただろう。
 眞人は音楽大学を卒業し、作曲家兼ピアニストとして地道に活動している。彼の人柄が表れているような優しく美しい曲調が評価され、高城眞人という名が売れるのに時間はそう必要なかった。今では、業界の人間になら誰にでも名の通じる有名人だ。彼の名を詳しくは知らずとも、彼の曲を全く知らないという人間は、世の中にも少ないだろう。ブラウン管からも、街中でも、眞人の曲は人の生活に浸透するように溢れている。
 だけれど、元々目立ちたがりの性格ではないからか、最近では活動を少し控えめにしている。自分の意に反して、あっという間に名が売れ忙しくなってしまったことに多少の違和感があったのだろう。プライベートを大事にしたいのだと、眞人は翡翠に以前そう教えてくれた。今でも変わらずそばにいてくれる眞人の存在が、翡翠は愛おしかった。
 そして、翡翠も眞人と同じく今年で二十五歳。彼女は、女子大学を卒業し、普通のOLとして働いている。高校生の頃から可愛らしい翡翠ではあったが、大人になるにつれ、その美しさは見違えるほどだ。元々の明るさが周りの人間を魅了して、彼女は友人にも多く恵まれ、元気はつらつと仕事を楽しんでいるようだった。

 そろそろ、二人も『結婚』という二文字を意識し始めていた。
 交際歴が十年を迎えるまでには、結婚しようと、ずっと二人で話しあってきたのだ。二人が導き出す『結婚』という答えは、単なる人生の通過点に過ぎない。心が通じ合った日から、二人には永遠しか見えていなかった。
「来年、春になったら、君をお嫁さんにしたいと思うんだけど、いいかな」
 翡翠を抱き締めて、眞人が耳元で囁いた。
「突然ね」
 翡翠は、眞人の申し出にクスクスと笑った。何を今さら、聞くだけ野暮だとも言いたげな雰囲気だ。眞人はそんな翡翠の余裕のある態度に、少しばかり不服を感じる。こういうことは、きちんと言葉にして伝えておきたいのだ。
「突然じゃないよ。ずっと考えてきたことだ。ひすいを、僕のお嫁さんにしたい」
「……来年の春か。色々急がないと、あっという間に来てしまうわよ?」
「返事は聞かせてくれないの?」
「聞かなくたって、わかってるくせに」
 翡翠が眞人を受け入れないはずがない。出会った頃から、それは当たり前のように描いてきた未来だ。翡翠の隣には眞人しかありえないように、眞人の隣にだって翡翠しかありえない。心の内は互いに読めるが、やはり言葉としてハッキリさせておきたくて、眞人はもう一度翡翠にプロポーズをする。
「言葉で聞かせて欲しいんだ。……ひすい、僕と結婚してくれる?」
 翡翠は少しだけ間を置くと、自分の中で噛み締めるように、小さく頷いた。
「……うん」
 恥じらいながら小さく頷く翡翠が可愛い。何年一緒に居ても、翡翠はそう言った恥じらいを失わない女なのだ。
 眞人は翡翠の額に唇を寄せ、キスをした。唇に触れる熱は少し熱く、微熱でもあるのかと思い顔を窺ったが、その頬が照れのあまり真っ赤に染まっているのを知り、眞人は愛おしさに胸が満たされていた。
「じゃあ、君に似合う婚約指輪を買いに行かなきゃ。やっぱりダイヤがいいね。どんなデザインがいい?」
「あまり高価なものでなくてもいいわ。勿体ないから」
 遠慮ではなく本心なのだろうが、それを簡単に受け入れられるような代物ではない。
「一生に一度のものだよ。遠慮しなくてもいい。僕が、ひすいにぴったりの婚約指輪を選ぶから」
 眞人はその表情に余裕と自信を浮かべていた。
 翡翠の指は綺麗だから、きっとどんなデザインのものでも似合うだろう。眞人が脳裏に指輪のことばかり思い浮かべていると、翡翠が彼の後ろ髪をクッと引っ張り、視線を呼び込んだ。少しふくれっ面をした翡翠に、眞人は何か気を咎めるようなことを言っただろうかと不安になる。
「それよりも、眞人、何か忘れてない?」
「ん?」
「婚約指輪よりも、先に何かあるでしょ?」
 少し唇を尖らせて、翡翠が眞人を見上げる。少しばかり責めて困らせてやるつもりだったが、眞人はその意思に反し、柔らかい表情を見せた。
「もちろん、覚えてるよ」
「本当に?」
「ああ。来月は、ひすいの誕生日だものね」
 そう答えると、翡翠は嬉しそうに笑った。
 来月は、翡翠の二十五歳の誕生日だ。毎年、眞人の誕生日も、翡翠の誕生日も、二人で一緒に過ごしている。前日から待ち合わせをし、誕生日になる瞬間を二人で迎えた。『おめでとう』そんなささやかな一言でも、恋人と一緒にいるだけで、何かを誓うような特別な響きを伴う。
 今年も二人で過ごそうと、眞人が翡翠に提案する。翡翠は、とても嬉しそうに頷いた。
「何か欲しいものはある?」
「私、ネックレスが欲しいわ」
「ネックレス? いつも素敵なのをしてるじゃないか」
 眞人が翡翠の首筋に手をやった。シャラッと指に絡めたのは、翡翠が身に付けているネックレスだ。二人が出会った頃から、翡翠はずっとそれを肌身離さず身に付けている。いつのことだったか、眞人がそれについてたずねると、それは翡翠の祖母の形見なのだと教えてくれ、彼女はお守りのように大事にしていた。
「確かにこれも大事だけど、眞人から貰ったものだって身に付けたいわ。女だもの」
 翡翠が自分の首に手を回し、ネックレスを外すと、それを眞人の目の前にかざした。
 チェーンはいたって普通のものだが、ペンダントトップはアンティーク調で少し変わったデザインのものだ。透かし彫りされた金属の中に、小さな石が数箇所散りばめられている。少し古びた感じが逆に魅力的で、それは美しい翡翠にもよく似合っていた。よくよく見ると、真ん中に何かがはまっていたような穴がある。目を凝らさなければただのデザインかとも思えるが、見れば見るほど、そこには何かの石がはまっていた形跡があった。
「ねえ、ひすい。ここには何か石が入っていたんじゃないか?」
 翡翠は最初から気付いていたのか、その質問にはさほど驚きを見せない。
「ああ。きっと入っていたのでしょうけど、私が頂いたときにはもう既にない状態だったの。でも、これはこれでとても素敵なデザインだし、私は気にしていないわ」
「そうか」
 翡翠がそう言うのなら、あえてそれ以上は問わないでおこうと、眞人が口を噤んだ。
「わかった。じゃあ、誕生日には新しいネックレスをプレゼントしよう」
「本当?」
「うん。近々、和臣のところへ相談に行ってみようかな」
 翡翠を抱き寄せ、高い天井を見上げていると、親友の懐かしい面影が眞人の脳裏を掠めた。
「あ、だったら、その時にこのネックレスもクリーニングしてもらえないかな。少し色がくすんできたのが気になっちゃって」
 翡翠が身を乗り出し、それがいいと言う。確かに、和臣ならば何の心配もなく預けられる。
「分かった。和臣に伝えておくよ。でも、いつも付けていたものなのに外しても構わないの?」
「眞人のプレゼントがあるから、綺麗にしてもらったら、これはもうしまっておくわ」
 翡翠から手渡されたネックレスを、眞人は大事に受け取り、ベッド脇のデスクへと乗せた。
 その時眞人は、手からネックレスが離れて行くのを少し名残惜しそうに見る翡翠の眼差しを見逃してはいなかった。

「ねえ、眞人。なんだか今日は穏やかな夜ね」
 風の囁きさえ聞こえてくるような、静かで優しい夜だった。何故だろうか、静けさが広がれば広がるほど、人の心に忍びこみ、理性を煽っているかのように感じる。翡翠も眞人も、その不思議さを感じていた。
「そうだな。こんな静かな夜は、少し不思議な気分になるね」
「ざわつきが収まらない?」
「かもしれない」
 悪戯っぽい翡翠の言葉を耳の奥で響かせながら、眞人は翡翠の背中越しで存在を主張する窓へと視線を流す。カーテンの閉められていない窓の外には、大きな真ん丸い月が見えている。月光に照らされ艶を増す翡翠の美しい肌に唇を寄せ、眞人は強く吸い付いた。首筋に朱を刻まれる、愛の証。月の光は、きっと人の心を乱す力を秘めている。
「私もよ。なんだか妙に貴方が欲しくてたまらないの。……幸せすぎだから、かしら」
「それなら、もっと幸せに溺れてしまえばいい」
 結婚、という未来を決めた二人には、幸せ以外何も瞳には映らない。
 いつも心のどこかで願っていた。愛する人を、早く自分だけのものに縛ってしまいたい、と。いっそ、殺してしまってもいいのじゃないかと思うくらい、互いを求めているのだ。それはある意味鬼畜で、そして残酷なまでに美しい愛の形。
 肌を蹂躙していく眞人の指に、翡翠は快感のあまり背を仰け反らせる。二度目の交わりは、優しくもあり、激しさも潜めていた。眞人が翡翠の中を指でかき回すと、翡翠は小さく声を上げ、唇を噛み、眞人に許しを乞うた。いつも美しい音を奏でる、神のように美しい眞人の指。だけれど、翡翠の前でだけは、その指がある意味彼女を高める凶器になる。
「お願い……。もう我慢できない」
 自ら脚を開き、全てを喰らいつくせと、翡翠が眞人を呼び込む。まだ冷静さを欠いていない眞人は、少しだけ身を離し、準備をするため枕元へと手を伸ばした。
 それが何を意味するのかくらい、翡翠だってわかっている。眞人の腕に手を乗せ、そっと制した。
「このままでいいから。……来て」
「だけど……」
「未来を約束したのよ? 私は眞人の妻になるわ。だから、もう構わないの」
 自分の行動に責任を取れないような子供ではない。二人にはもう、二人が為す全てのことを受け入れ、責任を背負っていく覚悟が出来ている。
 いつまでも二人で。
 これまで避妊を怠ったことのない眞人だったが、翡翠の強い気持ちを感じ取り、素直に申し出を受け入れた。優しく額にキスをし、翡翠の目を見つめながら、彼女の中へと生まれたままの姿で重なっていく。何も隔てるもののない肌の交わり。尋常ではない熱さと柔らかさが直に眞人を包み込み、思わず声をあげてしまいそうな快感に身を震わせた。ゆらゆらとした水の揺らめきが、二人の境い目をなくし、同化させていく。
 そして翡翠も、初めて感じる素の眞人の熱を奥まで迎え入れ、恍惚とした表情を浮かべる。少し開いた唇から、何度も眞人の名が発せられた。
「僕だけのひすいだ。……ひすい。君を愛している」
 愛おしげに髪を撫でられ、何度も愛を囁かれながら、翡翠は体に刻まれる眞人の律動に我を忘れていった。意識がはじけそうになるのを必死にこらえ、最後の最後まで眞人の全てを忘れまいと彼にしがみつく。そして、彼を包み込む翡翠の全てに、眞人も高みへと引き上げられていく。
「離さない。……ひすい、ずっとずっと」
 彼女が絶頂を迎えると同時に、翡翠の中に精を放って、眞人が彼女の胸へと倒れ込んだ。びくびくとした眞人の脈動が翡翠の中心から脳髄まで響き、いずれは醒めるであろう夢のような快感に切なささえ感じる。大きく息をする眞人を、まるで母親が子を抱くように翡翠は抱きしめた。
 眞人の全てを受け止めた部分は熱く熱を持ち、自分たちは生きているのだということを深く実感する。眞人の命を自らが受け止めたのだ。自分の最奥に震えながら熱くたぎる眞人の精に、翡翠は涙が零れてしまいそうなほど嬉しくてたまらない。
 何かが生まれるような予感に、翡翠は幸せに浮かされるような思いを抱いていた。

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