Darling....

2.黒い太陽

 街角にある洒落たアクセサリーショップ。
 店内は高級感を漂わせながらも、客が気軽に入れるような温かい雰囲気と店員の優しい心配りがある、知る人ぞ知るちょっとした有名店だ。
 店の奥には、得意の客などが軽くお茶を飲める洒落たスペースがある。アンティーク調の、猫足の長椅子にテーブル。その脇には、モダンな赤の間接照明が置いてあり、背後には光を大きく取り入れることのできる壁一面の窓ガラスがあった。
 目の前に出されたのは、紅茶と茶菓子、そしてベルベットの小箱だ。
 店長である水瀬和臣(みなせかずおみ)は、高校以来からの親友である高城眞人に小さな小箱を渡した。
「はい、頼まれてた例のもの、出来上がってるよ」
 ニヤリと自信を含んだ笑みが和臣の口元に浮かぶ。
「ありがとう、和臣。こんなにも早く仕上げてくれるなんて吃驚だよ」
「何せ親友のおまえの頼みとあっちゃね。こんなことくらいお安いご用だよ」
 眞人が小箱をあけると、そこには和臣に頼んでいたものが理想どおりに仕上がっていた。さすがプロだなと感心するのは、和臣の仕事っぷりを昔から知っており、最も信用しているからだ。
 少しだけ箱の中身の確認をして、すぐさま箱を閉じてポケットへとしまう。
 和臣は、満足気な眞人の表情を、嬉しそうに見つめていた。
「喜んでくれるといいな、ひすいちゃん」
「ああ」
 早く翡翠の嬉しそうな笑顔が見たい。眞人は期待で胸を膨らませる。
「しかし、おまえもやることが粋だよなあ。最初頼まれた時は何事かと思ったけど」
「粋なんかじゃないよ。ひすいにはこれが一番いいなと思ったんだ」
「愛する人の気持ちを一番分かっているのは、やっぱり愛する人ってか?」
 からかったつもりでかけた和臣の言葉だったが、眞人は当然といった顔で和臣の言葉を受け入れた。
 好きなものは好きなのだと、人を愛することを当然として受け入れている眞人のそういう部分はとても彼らしいと和臣は思う。自分なら、誰かを好きな気持ちをこんなにも純粋に受け止められるかなんて分からないと、内心和臣は思った。
「もうかれこれ一ヶ月近くひすいちゃんに会ってないんだけど、元気にしてる?」
「元気だよ。ひすいは昔から明るすぎるくらい明るくて元気だからね。時々ついていけないこともあって困ってる」
 そういうわりには、やけに幸せそうな眞人の表情は、和臣をも幸せな気持ちにする。
「同い年のくせに、そんなこと言うとジジィ臭いぞ」
 眞人は違う違う、と首を振った。
「話が合わないとかそういうことじゃないんだ。ひすいと話すのは楽しいし、会話だっていつも尽きない。でもなんていうか、ひすいと話してると、彼女は僕とは別世界に生きているような感覚に陥るんだ。元々の人間性が、違い過ぎるせいかもしれないけどね」
「そうだな、ひすいちゃんはおまえとは真逆の感じだ」
 和臣が豪快に笑った。
 八重歯の覗くその笑みは、彼の顔立ちと同じように野生味を感じさせるものだった。同じ二十五歳と言えど、眞人と和臣は随分違った雰囲気をしている。
 和臣は、アクセサリーショップの店長という職業柄もあってか、とてもオシャレな男で、身に付ける宝飾類や服装、そして髪型も一般でいう二十五歳のサラリーマンたちのそれとは随分とかけ離れていた。
 ピアスに不精髭、そしていつもかけている少し薄い色味のサングラス。そんな風貌にも関わらず、なぜか紳士的な気品をも兼ね備えているのは、有名店の敏腕店長たる所以だろうか。性格も明るく豪快で、荒っぽい口調や素行が少し目立つこともあるが、人柄がそれをカバーしてか全然気にはならない。
 一方の眞人もサラリーマンからはかけ離れた風貌ではあるが、高校生の頃からさほど変わらない繊細な美しさを持った男だった。
 顔立ち自体にパッと人目をひくような華やかさはないものの、彼の仕草や涼しげな眼差しが回りの人間を優しい気持ちにさせてくれる。線は細いが、小柄というわけではなく背もほどほどにあるものの、どこか儚げな雰囲気がある。ピアノを背にすると、それは一層際立ち、彼が孤高の天才であるということを一気に納得させる独特な雰囲気があった。
 どこか孤独を感じさせ、美しく、優しく、儚げな青年だ。一見、通じるもののない眞人と和臣だったが、高校に入って同じクラスになって以来、ずっと長いこと親友という関係が続いている。自分にないものを互いがもっているからこそ、惹かれるものがあるのかもしれない。二人はよき理解者で、家族のような関係を築いていた。高校が同じということもあり、和臣は翡翠とも昔から仲が良く、時折三人で食事をしたりすることもあった。
 眞人と翡翠が築き上げてきた愛の形を一番知っているのは、紛れもなく和臣だった。
「相変わらず綺麗なんだろうな、ひすいちゃん」
 懐かしむように和臣はのんびりと翡翠を思い浮かべている。
「一ヶ月前に会ってるんだろう? さほど変わってないよ」
「いやいや、ひすいちゃんは会う度に綺麗になってる気がするよ。おまえは毎日のように会ってるから気付かないだけだ。それも勿体無いことだな」
 ハハッと笑ったが、事実眞人も、翡翠の変化が目に見えては感じられてはいなかった。毎日一緒にいれば、当然のことかもしれない。それが幸せというものでもあるのかもしれない。
 パッと見、きっと和臣の方が翡翠の彼氏に相応しく見えるだろう。
 今時のOLらしく、ファッションにも手を抜かず、髪もいつも綺麗に整え、メイクも華やかで可愛らしい。元々の明るい性格が、彼女をより際立たせる。よくしゃべりよく笑う、太陽のような女だ。
 何も知らない人間なら、同じような派手な人間が彼氏なのだと思うことだろう。眞人と翡翠が付き合っていることを知らない人間は、二人が並んでいるのを初めて見た瞬間少しばかり驚いた表情を見せるのがそれを証明していた。
 いつも穏やかで物静かな眞人に対し、社交的で友人も多い翡翠。二人が出会った経緯を知らない人間は不思議に思っても仕方ない。
 だけれど翡翠は昔から眞人以外の男には目もくれなかった。それは眞人も同じことだ。出会った瞬間から、タイプだとか性格だとかを全く関係させない、運命のようなものを互いに感じていた。
 眞人は、先日交わした翡翠との大事な話を、和臣にも話すことにした。いつも大事な話をする時は、いつも和臣に一番に報告していた。
「僕さ、ひすいにプロポーズしたんだ」
「マジか?!」
 唐突な眞人の告白を受け、和臣は目を見開く。
「うん。プロポーズって言っても、二人の間では結婚することはずっと決まってたようなものだから、そんな改まったものじゃないけど、来年結婚式を挙げようかってひすいに伝えた」
「で?!」
 和臣が身を乗り出して眞人に問うてくる。眞人は苦笑しながら、答えた。
「もちろん、受け入れてくれたよ」
「……そっかあ」
 自分事のように安心する和臣の態度が、眞人は素直に嬉しい。和臣はいつも眞人のことを真剣に考えてくれている。
「僕のお嫁さんになってくれるって、言ってくれた」
 眞人の言葉を聞き安心した和臣は、大げさなほど大きな溜息をついて椅子に身を預けた。良かったあ、と深い溜め息が零れている。
 正面に座る眞人がクスクスと笑いながらティーカップを手に取り、口に運ぶ。
 和臣は、ふと目に入ったその繊細で美しい指先に見惚れていた。
 こういう瞬間、やっぱり眞人は天才なのだと思う。この指から、あんなにも優しく透明で心に響く曲を作るのかと、しげしげと見つめてしまうのだ。指先一つでそれを納得させてしまうのだから、他に理由なんて言いようもないけれど。

 店内には、いつもエンドレスで同じ曲が流れている。
 和臣が店を出した時に、眞人がプレゼントした曲だ。眞人のピアノだけでアレンジされた静かな曲は、それでいてどこか切なく愛おしささえ感じさせるメロディで、アンティーク調の店内によく馴染んでいた。
 時折、『これはなんという曲ですか?』と店員に聞いてくる客さえいるほどだ。
 元々和臣の店はアクセサリーショップが主ではあるが、和臣が海外で買い付けてきた洒落た雑貨や小物なども置いてある。そんな和臣の抜群のセンスは、若い女の子から熟女まで多くの女性を虜にして、店はいつも女性客で賑わっていた。

「結婚かあ。よかったなあ。本当に」
「ありがとう、和臣」
 ニッコリと笑って、礼を言う。和臣は頬杖を付くと、しげしげと眞人を見つめていた。
「しっかし長かったよな。何年だっけ?」
「付き合い始めたのは十七の頃だったから、八年かな」
 うん、と頷いて確信すると、和臣が驚きに目を丸くする。
「八年?! ……よく八年も長いこと付き合ってこられたな」
 そんなに不思議なことだろうか。当然のように翡翠と時間を過ごしてきた眞人には、和臣の感覚こそわからない。
「長いだなんて思ったことはないよ。だって、これから先もずっとひすいと一緒に過ごしていくんだ。そう思うと、八年なんて短いし、それになんだか勿体無いよ」
「勿体無い?」
「百年でも千年でも一緒にいたいって思うのに、もう八年も経ってしまったことと、これから一緒にいる時間に限りがあることが勿体無い」
 少し憂いげな表情はとても美しく、眞人の言った言葉に、和臣はぼーっと聞きいってしまう。
 眞人の美しい指先は、和臣がテーブルの上に置いておいた茶菓子をつまんでいた。
「やっぱ芸術家は言うことが変わってるよな……」
「僕、何かおかしなこと言ったかな」
 首を傾げてキョトンとする眞人には、思い当たる節など一つもない。
「おまえの言うことには、時々本当に感心させられるよ。少なくとも俺は、女と八年も過ごした月日を勿体ないと感じたことはないからな」
「和臣の場合は、一年ともたないからだろう?」
 眞人はケラケラと笑った。
 女遊びが激しいというわけでもないのに、なぜか和臣の恋愛は続かない。歴代の彼女全てを眞人は知っているが、どの女性も皆、自分から和臣の下を離れていった。
 振られるほうが恋愛は楽だと和臣は言う。さほど傷ついた風もないから、何も言えないというのが、眞人のちょっとした悩みでもあった。
「誰かずーっと好きな人でもいるの?」
「お? なんだかちょっと核心をつく質問じゃない?」
「質問を質問で返さないの」
 ビシッ! と眞人が言い放つと、和臣は頬杖をついて少し困った表情を見せた。
 ――ビンゴか。
 言い当てたというのに、何故か不安な風が眞人の胸の中に吹き荒れて、それ以上は問わない方がいいのだと脳が指令を出していた。
「ま、俺のことはどうでもいいけどさ、おまえのことは本当にめでたいよな。そっかあ、とうとう結婚かあ。ひすいちゃん、大事にしてやれよ」
「ああ。誰よりも幸せにする」
「今でも充分幸せなくせに」
「ひすいとなら、もっと幸せになれると思うんだ」
 少し目を伏せてとても幸せそうに話す親友を、和臣は目を細めながら見つめていた。
「おまえが幸せだと、俺も幸せになれる気がするよ」
 そして、親友からの心からの贈り言葉に、眞人も微笑を返した。


「じゃあ、また今度な」
「ああ。今度はひすいを連れてくるよ」
「おう。楽しみに待ってっから。次はメシでも一緒に食おう」
 眞人の細い肩を、和臣の大きな手がバシッと叩く。いつもながらその力強さに圧倒されてしまいそうになり、眞人は苦笑した。和臣は自分のバカ力に自覚がないのだ。
「わかった。美味しいとこ、探しとく」
「頼んだよ、眞人」
 店先で見送られながら、眞人は和臣に手を振り背を向けた。
 秋も去りゆこうとしているのに、今日はなんだか温かい一日だ。空を見上げると、太陽が眩しく、真っ青な空は濁りなく透き通っていた。
 きっと、今夜も月夜だ。
 今夜は翡翠が眞人の家へと遊びに来る。夕飯を作ってくれるのだと言っていた。きっと、たくさんの食料を買い込んでくるだろうと思うと、眞人の口元からは自然と笑みが零れた。
 翡翠は、昔から料理があまり上手ではない。どちらかというと、手先の器用な眞人の方が料理上手なのだけど、翡翠はいつも頑張って眞人のために腕を振るってくれるから、眞人もそれに甘んじていた。美味しい、と言えないときもあるが、そんな時でも『ありがとう』と心から思う。
 両親を早くに失くして、ずっと一人ぼっちだった眞人にとって、翡翠という存在は家族の温もりをくれる女性だった。
「これ、隠しとかないと」
 ポケットから取り出したのは、さっき和臣から渡された小箱だ。さっきは充分に見られなかったから、もう一度取り出してよく見てみることにした。
 目の前にかざすと、太陽の光に反射してキラキラと光る。半透明な深緑はよく映えていて、きっとひすいの肌の上でも美しく輝いてくれるだろうと想像できた。
 誕生日にこれを渡したら、きっと翡翠は喜んでくれるに違いない。
 それと同時に、眞人は翡翠のために曲を作ろうと考えていた。
 最近では、仕事のためだけに曲を書いてばかりいたから、翡翠のためだけに書く曲だと思うとワクワクしてくる。
 考えるだけでも、次々と頭の中にメロディーが浮かび出し、それを忘れまいと手を伸ばし引き止めるのに眞人は必死だ。早くピアノの前に座って、譜面に翡翠への気持ちを埋め尽くしていきたい。
 はやる気持ちを抑えながら、眞人がもっていたものを小箱に戻そうとした時のことだった。
 大通りに面した歩道を歩いていた眞人だったが、ふと視線の先にいる小さな女の子が目に入ったのだ。
 五歳くらいだろうか。少しばかりおぼつかない足取りが可愛らしくも危なっかしい。周りに母親はいないようで、女の子は不安そうに辺りを見回していた。
 母親を探しているのかもしれない。通り過ぎる通行人は皆、女の子を見はするものの、まるで関わりたくないと言うように避けて通り過ぎていた。
 女の子が持っている小さな淡い緑のボールが眞人の視線を釘付けにする。ピカピカと光る真新しさに、買い与えられたばかりの印象を受けた。
 だが、すぐ隣にはいつ車が通ってもおかしくない車道だ。そんな場所で、こんな遊び道具を与える親の気がしれないと少しばかり憤慨しながら、眞人は女の子の下へと近づいた。一緒に母親を探してやろうと、女の子に声をかけようとしたその時だった。
「邪魔だな!」
 咥えタバコをした小汚い中年男性が、通行の邪魔だと女の子を軽く突き飛ばしたのだ。男が振り上げた手が、女の子の持っていたボールに当たり、いとも簡単にボールが道路の真ん中へと飛ばされた。

 ――翡翠。

 太陽の光に淡く反射する深緑に、一瞬眞人は翡翠のことを思い出した。
 ボールが空間へと投げ出されていく様は、まるで幸せを呆気なく奪い去っていくように見えたのかもしれない。
 女の子が『あっ』と声を発し、そのボールを追いかけようとした。
 同じくボールを目で追っていた眞人も、その方向へと駆け出した。
 女の子の方が、二メートルほど先に道路へと飛び出した。

 その時、爆音と共に黒い太陽が現れたことを、眞人は覚えている。
 それまで白く輝いていた世界が、一瞬にして黒い太陽に食い尽くされたのだ。いいや、正確に言うとそれは、大きな車体が太陽を隠したに過ぎない。それまでアスファルトを照らし続けていた太陽が、大きなトラックの車体によって、光を遮られたのだ。
 その影に、ボールを持った女の子は確かに立っていた。トラックの鳴らす爆音が、彼女への危険を知らせているのに、何一つ動くことは叶わない。
 眞人は、手のひらの中にある翡翠への贈り物をギュッと握り締めると、無我夢中で黒い太陽の中へと身を投じた。

 その日から、翡翠の誕生日までは、ちょうど三十日だった――。



To be continued....

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