氷花

1.彼とカレ

 美緒が留学してから、二ヶ月が経とうとしていた。季節は移り変わり、街の色も変化を続ける。流行っていた映画も、今はもう誰も見向きもしない。
 薫が美緒の元へ訪れて、深く深く気持ちを確かめ合ったのは一ヶ月とちょっと前。あの頃のことが、今はもういい思い出として心の中に残っているけれど、今も変わらないのはお互いを思う愛情だった。
 薫は、美緒の元へ来た後、少し滞在してから日本へと戻った。校医という立場を、一度は全校生徒の前で捨てたものの、理事長、校長その他教師の面々などが許すはずもなく、一ヶ月の休職という扱いでいたのである。もちろん、本人は強く退職を願ったが、自分が思っていたよりもずっと、薫はこの学校にとって不可欠な人物であり、その人徳を買われていた。長々とした理事長の説得の末、薫は休職という条件を飲んだのである。美緒を置いて、一人だけ先に帰ることには抵抗を感じたが、そこは薫も大人である。自分の立場と現実をわきまえ、泣きそうな美緒を慰め、一ヶ月先に日本へと帰ってきた。その愛しい彼女の顔を、瞳に強く焼き付けて。
 イギリスにいる頃の二人はというと、再会したときの衝動的な愛情がずっと続いていたわけではなく、とりわけ親しい様子になったわけでもなく、日本にいる時とさほど変わらない距離感でお互いの関係を保っていた。普通ならば、もっと濃密に触れあったりという想像を呼び起こすことだろうが、この二人に関しては、互いの性格がそれを許さないのか、美緒は相変わらず薫の軽い言動や行動に抵抗を覚えるし、薫はそれを見るのが楽しいと言った風で、あえて恋人らしい関係を求めることはなかった。時折、自然と流れる雰囲気で、キスをしたり、ということはあっても、それ以上のことはない。それでも、互いの気持ちを深く確かめ合った今となっては、二人とも不満に思うことはなかった。


「今日か……」
 カレンダーに目を移し、日付の周りに赤いマーカーで印を付けている部分を見る。背もたれに身体をあずけ、腕組みをした後、小さなため息とともに、笑顔がこぼれた。
 そう、今日は美緒が留学から帰ってくる日。
 少しは見た目も変わっただろうか。薫が日本に戻ってきてからというもの、美緒とは時々送る手紙以外、連絡は取っていない。電話、毎日のコミュニケーションは、あえて美緒が拒んだのだ。声を聞いては、会いたくなって帰ってしまうから、と。
 一度留学を決めた以上、やり遂げる。そんな気の強いところは、男としては、嬉しいような哀しいような。一人の人間として成長するのは喜ばしいことだが、時にはハメを外して、会いたいだけという感情で自分の元へ来てくれたら、それはそれで嬉しいに違いないだろう。
「さて、放課後までには仕事終わらせとくか」
 どうせ放課後まで美緒には会えないだろう。いや、もしかしたら、放課後さえも久々に会った友達に囲まれて会えないかもしれないが、どっちでも構いはしない。同じ空を見上げられるところまで、美緒が帰ってくるのだから。
 ふと薫が空を見上げると、怪しい暗い雲が、空を不気味に覆っていた。


「美緒ー。本当に寂しかったんだからね?! もうっ! なんで私に黙って行っちゃうのよお……」
「ごめん。本当にごめんね?」
「ごめんじゃすまされないよ。美緒がいない間私がどれだけ寂しい思いしたことか」
「泣かないでよ、えみ。本当にごめんなさい」
「今度こんなことあったら、親友やめるからね?!」
「わかったよ。ごめんね」
 ずっとこんな調子である。久々に会った美緒に、えみが感極まったのか、ずっと泣きじゃくっては美緒に縋っているのだ。周りの人間も、美緒がいない間のえみの落ち込んだ様子を知っているからか、『良かったな』と声をかけていくものや、苦笑いをしながら慰めるものなど多々いたが、そんな人たちのことなどそっちのけで、えみは美緒にばかり縋っていた。自分がこんなにまで思われていたなんて気づいていもいなかった美緒は、えみを泣かせてしまったことに悪い思いをしながらも、嬉しい気持ちと、友達を思う優しさで心の中は満たされていた。
 よしよしと、えみの頭を撫でながら、皆の優しい笑顔に囲まれていたのだが、ふと一瞬教室の角に違う視線を感じた。ちらっと目を向けると、窓際の一番後ろの席に、腕組みをしながらこちらをじっと見つめている少年が一人。逃げられないほどの強い視線。目に力があるというのはこういう人のことを言うのかもしれない。
 見たことのない顔だった。美緒が留学する前には絶対にいなかったと断言できる。
 一度見たら絶対に忘れようのない顔。それくらい印象的で、美しい顔立ちをした少年だった。薫とは違うタイプの――。薫の顔立ちはとてもシャープで文句の付け所がなく、例えるなら氷のような美貌だが、この少年は、まだ幼さの少し残る、愛らしい顔立ちをしている。甘さの残る、しかし洗練された気品のある顔つき。薫が氷なら、この少年は花と言ったところか。
 なぜこっちをずっと見つめているのかわからない。しかもあんなきつい眼差しで。居た堪れなくなって、美緒はふいっと視線を外した。えみを宥めながら、一生懸命あの視線を忘れようとする。
 けれど、頭の中は、もうこの少年のことでいっぱいだった。

「ねえ、えみ」
「何?」
 やっと普通に戻ったえみに、さっきから疑問に思うことを打ち明けた。
「あの人って……誰?」
 相手に気にならない程度に、小さく彼を指差した。
「ああ。美緒がいない間に転校してきたカヅキ君だよ」
「苗字は?」
「カヅキが苗字。香月って言うんだよ」
 ノートに字を書きながら説明してくれた。香月……。転校生なら知らないのも仕方ない。
「喋ったことある?」
「うん、何度かね。結構大人しい感じの子だけど、悪い感じじゃないよ」
「ふーん」
「どうしたの? 美緒。留学から帰ってきて速攻で恋?」
「ち、違うよ!」
「香月、格好いいからなあ。顔は可愛い感じだけど、立ったら結構身長あって格好いいんだよ」
「そう……なんだ」
 えみはカレを狙ってるのかな? なんて思いつつ、チラッと香月を見た。本を片手に読みふけっている。
 シェイクスピア――。一瞬表紙が目に付いた。
 伏し目がちな表情が、睫毛の長さを一層強調する。さっきのような、きつい視線はもう向けてはいない。けれど、何かひっかかる『カレ』の存在。なんだろう、胸の奥がザワザワする。
「ねえ、美緒。今日さ、久しぶりだからケーキでも食べに行こうよ」
「あ……ごめん」
「なに?! なんか予定入ってんの?!」
「予定っていうか……ちょっと図書室に用事が」
 帰ってきた日は、放課後図書室で待ち合わせしよう。そう薫と約束していた。
「ええー。楽しみにしてたのに」
「ごめん、明日! 明日必ずいくから!」
「本当? もうっ……じゃあ明日ね」
「ごめんね」
 なんだか今日は謝ってばかりだ。


 それなのに、そんなときに限って彼は来ない。
「先生、忘れちゃってるのかなあ……」
 まさか。あれだけ再会できるのを楽しみにしていたのだから。
 美緒は抑えきれない気持ちを胸に、ソワソワしながら、読む予定もない本を探すフリをして、本棚の前に立ち尽くしている。図書室には、もうほとんど人はおらず、逢引にはぴったりとも言えるほどの空間を提供していた。空はもう暗くなりつつあり、閉館の時間も迫っていた。
 しかし、彼はまだこない。もしかしたら、会議でも長引いているのかもしれない。薫の性格上、忘れているというのは考えにくかった。
 せっかく会えると思ったのに、今日会うのはもう無理かもしれない。そんなことを考えていた時、美緒の背後に大きな黒い影がいるのに気づいた。薫が来たのかと思い、途端笑顔になって振り向こうとしたけれど、自分の右肩側から本が一冊見えたことで、振り向くのをやめた。
 ――シェイクスピア。
 本棚に収まっていく見覚えのあるシェイクスピアの本を見届けると、ゆっくりと振り返った。やはり、そこにいたのは、『彼』ではなく、『カレ』だった。
「あ、ごめん、邪魔だったね」
 いつの間にシェイクスピアのコーナーに自分が立っていたのかはわからないが、美緒は申し訳ない気持ちになってこの場をどこうとした。しかし、カレはそんなことを気にもせず、本を戻した後、すぐにその場を離れた。
「香月くん! ……だよね」
 呼ばれたカレが、ゆっくりと振り返る。
「そうだけど?」
「私、同じクラスの真中美緒です」
「そう」
「ずっと留学してて、私だけ挨拶するの遅れちゃって」
「別にそんなのいいけど」
 顔に似合わず愛想は全くない。別に怒っているわけではないのは、表情を見ればわかるが、どこか喋るのが面倒くさそうな印象を与える。単に、口数が少ないだけかもしれないが。
「よろしくね」
「何が?」
「だから、同じクラスだから……」
「だから?」
「仲良く……したいなと思って」
 なんでこんな風に責められた風な口調で言われなければならないんだろう。なんだか、尋問を受けているかのようだった。本当に、可愛らしい顔には似つかわしくない性格をしている。極度の捻くれ者なのかなんて、悪い印象を与えるような男だった。
「ふーん」
 マジマジと香月が美緒を見つめた。ちょっと興味ありげな表情で。
「仲良くしたいなんて言われたの、おまえが初めてだよ」
 ――え?
 語尾に少し、微笑を残したような気がした。まさかカレが笑うなんて……とは思ったが、確かに、微かな笑みを見た気がした。その一瞬に呆気に取られているうちに、香月は図書室を後にし、美緒は本当に図書室に一人になった。

 結局、薫は来る気配がない。
 もう今日は無理だと思いつつも、会いたいという想いが美緒をココに留まらせた。それから三十分、四十分、待ち続けた。しかし、やっぱり来なかった。別にショックではない。しかたないのだと割り切ることもできるし、ましてや今は不安に思うほど自分の気持ちに確信がないわけではない。
「よしっ!」
 美緒は、自分の気持ちに区切りをつけるかのように、小さくそう叫ぶと、スッと立ち上がり、図書室を後にする。玄関まで伸びる廊下には、誰の気配もなく、薄暗いだけの怖い雰囲気が漂うだけだ。
 ふと、鼻を掠める嫌な匂いに、心が動いた。
「え? まさか……雨なの?」
 廊下のサイドに居座る窓越しから空を見上げると、さっきまでは薄暗いだけだった雲が、真っ黒に空を覆い、パラパラと雫を落としていた。まさか雨が降るなんて。今朝、出かけるときに美緒が見た天気予報は、雨が降るだなんて全然予想もしていなかった。
 今日はなんだか思い通りに行かない日だ。薫に会えなかったことも、この雨のせいにしてしまおう。そんなことを考えつつ、濡れることを覚悟して、靴を履き替え外へと出た。

 窓から見るよりも、一層強さを増している雨。鼻につく嫌な匂いとともに、気持ちも落ち込みそうになる。空を見上げていた顔を俯かせ、小さくため息をついた。
 しかたない、行くしかないのだから。雨の降る地面に足を踏みいれた。さて走ろう、と思ったその時――。
「おい!」
 あまり聞き覚えのない声が美緒を引きとめた。振り返ると、たたんだ黒い傘を右手に持ったカレが、玄関の壁に背をついて立っていた。
「え……?」
「これ、持っていけよ」
 香月が美緒へと歩みより、右手に持っていた傘を、差し伸べる。
「え、でもこれ香月くんの……」
「いいから」
「でも、なんで?」
「俺、二つ持ってるからいいんだよ」
 相変わらずぶっきらぼうな言い方で、無理やり美緒へと傘を押し付ける。少し怒っているかのようなその言い方に、さっきまでなら威圧感を感じていたのに、美緒はなんだかカレが可愛らしく思ってしまった。
「でも、悪いよ」
「いいから持っていけよ」
「いいの……?」
 返事をする代わりに、香月は美緒に傘を渡し、早く帰るようにと促した。背を押され、美緒は戸惑いながらも傘を差し、ありがとうと一言伝えてその場を後にする。
 しかし、ちょっとした疑問が一つ浮かんだ。
 なぜカレはあそこにいたのだろう。偶然だとしたら不自然だ。カレと図書室で別れてからは、軽く一時間くらい経つ。
 それまで何をしていたのだろう。気になりだしたら止まらない。下心があるとか、そんな風には感じなかったけど、カレの真意が知りたくて、踵を返した。玄関へと足早に駆ける。
「香月くん!」
 いた――けれど。
「……え? なんで? 傘二つあるって」
 鞄を雨よけにして、小走りにかけてくる香月と目が合った。二つあるからと差し出された傘は嘘だったのか。
「なんだよ。帰ったんじゃなかったのか」
「二つあるんじゃないの?」
「別にいいんだよ」
 答えになっていない。むしろ、こんな答え方をされたからわかってしまった。香月は最初から傘を二つ持ってなどいなかったことを。
「なんで? なんで私に……」
「わかんねえよ」
「でも……」
「いいからおまえはそれ持って早く帰れ」
 乱暴に言い放って、美緒の横を通り過ぎようとした。瞬間、美緒は無意識にカレの制服を掴んだ。
 なぜカレを引き止めたのかはわからない。美緒に傘を貸したカレの気持ちがわからないのと同じように。
「じゃあ、一緒に帰ろう?」
「え……?」
「だったら二人とも濡れないでしょ。だから、ね?」
 香月が返事をすることはなかったが、そっぽを向いて差し伸べられる傘に入ったことで、その気持ちは伝わってきた。きっと、見えない表情の向こうでは照れたような表情を浮かべいてるに違いないと思ったら、美緒はなんだか楽しくなってきて、知らぬうちに香月に対し、好意を抱いていた。
 あまりくっつき過ぎず二人寄り添って、一つの傘を差し、ゆっくりと歩く。特に何かを喋るわけではないのに、なんだか穏やかな雰囲気があった。美緒の持つ傘が香月側に寄りすぎて美緒の肩が濡れると、それに気づいてか、香月は傘を美緒の方に寄せ、自分が濡れるようにとさりげない優しさを見せていた。

 まさか、そんな二人の姿を『彼』が見ているとは思わなかった。
 二人を見届けた後、無表情に車の窓を閉め、雨音の激しくなる中、スピードをあげその場を去る『彼』がいることなど――。
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