氷花

2.ハルカ

 家に帰ってから、ホットレモンティーを入れて一息つく。立ち上る湯気が、冷え切った頬を暖かく覆って、美緒は深いため息をついた。
「そろそろ家に着いた頃かなあ」
 ふと思い出して笑みを浮かべた。
 無表情すぎると言ってもいい香月。最初は、機嫌が悪いのかと思ったりもしたが、少しの時間でも共にしただけで、香月の一部分がわかった気がした。えみが、悪い子じゃないよ、と言った意味が今ならよくわかる。カレは不器用なのだ。感情表現が苦手、そう言ってもいいだろう。だが、心の根っこの部分はとても優しいものを持っている。
 傘に二人で入っている間、美緒が濡れないようにと香月が気遣っていたことは気づいていた。美緒も同じことを考えていたからだ。傘を香月の方に傾けると、香月はすぐさま傘の端を指先でチョンと押して、美緒の方へとまた傾ける。表情は変えず、それがあたりまえのようにできる人なのだとわかった。美緒がクスッと笑うと、香月はそっぽを向いた。それが照れ隠しなのだということも、すぐにわかった。
 ――可愛い人。そんなことが、ふと心を掠めた。
 結局帰るまで香月とはあまり言葉を交わすことはなく、淡々と雨の道を歩いた。明らかに背の高い香月の方が歩幅は大きいはずなのに、ゆっくりと歩き、美緒の歩くスピードに合わせる。無言のまま、耳を覆う雨の音がやけに心地よく、美緒はこの場所に居心地の良さを感じていた。
 話したことと言えば、香月の名前のことぐらいだろうか。最初、下の名前がカヅキなのだと思ったと言うと、香月は、『そう』と素っ気なく答えただけだった。香月に興味のある美緒は、下の名前は? と聞き返したのだが、その質問に関しては、あまり聞かれたくなかったのか途端に不機嫌になり、
『別にいいだろ、そんなこと』
 と答えるだけで、教えてはくれない。なぜ教えてくれないのかわからず、何度も問うと、香月はしぶしぶ答えた。
 ――ハルカ
 それが、香月の下の名前。
 ――可愛い名前。
 そう思ったけれど、口にはしない。答えたくなかった理由が、察しのいい美緒にはわかったからだ。きっと、女の子のような綺麗な名前のせいで、色々からかわれたりしたのかもしれない。
 ――でも、素敵なのにもったいない。
 そう思ったのも嘘ではなかった。明日、カレに会ったら、名前で呼んでみよう。そんなことを思った。


 ペンを弄びながら、特に興味のない書類に目を通す。
 別に、高校生の男女が一緒に下校を共にするなど不思議なことではない。そこに恋愛感情があろうがなかろうが、男女の友情が成り立たないなどという人間が理解できないと思う自分にとっては、異性の親友がいても不思議ではないと思う。美緒が誰と仲良くしようとヤキモチを焼くほど子供ではないし、むしろ自分だけではなく周りの環境にも目をむけ、色々と経験することは美緒にとって必要なのだと、薫は思っていた。
 ――しかし。
「気にいらないんだよなあ」
 帰国後最初に目にした美緒の姿がアレだとは。本来ならば、自分が隣にいるはずじゃなかったのか、と、そう思ってしまうのだ。
 昨日、突然体調不良を訴える男子生徒が保健室へ駆け込み、薫が診断をした結果、保健室ではその病状は手に負えないと判断し、近くにある環境の整った病院へと自ら連れて行った。思ったよりも検査に時間がかかり、結果的に男子生徒は入院ということになったのだが、それに気を取られていた薫は、時間のことをすっかり忘れており、思い出した時には、すでに美緒との約束の時間を過ぎていた。しまった、と自分に叱咤し、急いで学校に戻り、約束の図書室へと訪れたのだが、とうに図書室は閉館しており、しぶしぶその場を後にしたのである。
 約束の場がないとなれば、美緒も帰ったかもしれない。そう思いつつ、優しい美緒のことだから、まだどこかに残っているかもという期待もなかったわけではない。薫は、校内を見て回りつつ、各場所で美緒がいないことを確認した後、車に乗り込み学校を出ようとした。その時のことだ。美緒と、香月ハルカと呼ばれる男子生徒が一緒に下校しているところを見たのは。
 最近転校してきた香月ハルカ。なぜ美緒と一緒にいたのかはわからないが、学生らしいカップルとも言える二人に目が釘付けになった。自分は、堂々と歩けはしない下校の道を、二人傘を差し並んで歩いていた。美緒を見つけたとは言え、声をかける理由もあるはずがないので、その場を後にしたのだ。
「今日は会えないか……」
 ハルカに嫉妬など、そんな子供じみたことはしないが、次美緒に会えるのはいつになるだろうか、と思うと、途方に暮れてしまった。簡単に会えない関係。時にはそれが二人の関係を盛り上げる要素ともなりうるが、融通の利かないこの関係は本当に不便だ。
 薫は苦笑いを浮かべると、ふとあることを思いついたかのように、パンと膝を叩いて、立ち上がった。表情には、いつもの何かを企むような微笑を浮かべて。


「香月くん!」
 四時間目の授業を終え、お昼ゴハンも食べ終わり廊下がにぎわい始める頃、シェイクスピアの本を持って歩くハルカの姿を見つけた。ハルカは呼ばれた声に振り返ると、美緒の姿を確認した後、相変わらずの愛想のなさで無表情のまま立ち止まった。少し離れた場所にいた美緒は、小走りにハルカのもとへと歩み寄る。
「昨日はありがとね」
「ああ」
「香月君のおかげで風邪引かずにすんだよ」
「大げさだな」
「そんなことないよ。私、体弱いから、風邪引きやすいんだもん」
 口を軽く膨らませて反論する。無表情だったハルカが、美緒のそんな小生意気な姿を見て、ふと笑みを零した。
「威張ることかよ」
「そういえばそうだね」
 美緒もつられるように微笑んだ。
 普段笑顔を見せない分、ハルカの時々見せる笑顔は本当に魅力的だと、そう思う。もっと普段から笑えばいいのに、と思いつつ、自分だけに笑顔を見せる、そんな優越感から黙っていた。
「それ、図書室に返しに行くの?」
「そうだけど」
「昨日借りた本?」
「ああ」
「もう読んだんだ。早いね」
「暇なんだ。特にすることもないから」
 図書室に向かって歩き出すハルカに付いて、美緒も歩き出す。最初は足早だったハルカの歩調が、美緒に合わせてゆっくりになった。斜め上を見上げながら話しかける美緒とは対照的に、ハルカは前を向いたまま淡々と返事を返す。
 最初はこんなハルカの態度が、不機嫌なのだと思っていた美緒だが、今はこうやって二人いる空間に心地よさを感じていた。けしてうるさくなく、返してくれる返事は短い言葉だけれど、その言葉がいつも的確で、自然で、それが心地よかった。いつもは聞き役の美緒が、ハルカといると、自然と自分の話したいことが口から出てくる。たくさん話し合わなければお互いを理解できない関係があるとすれば、ハルカと美緒の関係は反対に、そう言葉のいらない関係なのかもしれない。
「おまえ、どこまでついてくる気?」
「図書室までだよ。香月君も図書室行くんでしょ?」
「行くけど……」
「だよね」
「用がないなら付いて来るなよ」
「用ならあるよ」
 昨日薫に会えなかったが、今日ならもしかしたら会えるかもしれない。
「本借りに?」
「んー。まあそんなとこかな」
「そういや昨日……」
「何?」
 何かを思い出すようにハルカが美緒を見る。ふと、何かを聞こうとしたが、そっぽを向いてやめた。
「いや、なんでもない」
「何? 気になるよ」
「なんでもない」
「ふーん」
 ハルカは胸に沸き上がった言葉を飲み込んだ。
 ――おまえ、昨日も本借りてなかったじゃないか。
 そう聞きたかったが、聞かないことにした。
 人が嘘をつくのは、何か守るものがあるからだ。


「私もシェイクスピア読んでみようかな」
「読めば」
「どんな感じ? 面白い?」
「さあ」
 興味がなさげに答える。図書室に着いた後、二人並んでシェイクスピアのコーナーの前に立っていた。昨日出会った時と同じように。ハルカが数冊の本を手にとって見ている姿を見つつ、美緒も真似るように本を手に取った。読書は好きだが、シェイクスピアはまだ読んだことはない。
「さあ……って。いつも読んでるのに」
「俺がどう思うかはおまえには関係ないだろ」
「そんな言い方ないじゃない」
 ハルカの言葉にトゲを感じた。土足で心に踏み入るな、そう言われたようだった。
 ショックを受けたような美緒の様子に、ハルカが言葉を付け足す。
「勘違いすんなよ。別に言いたくないわけじゃない」
「え?」
「おまえがどう感じるかはオレには分からないし、余計な先入観も持たせたくないから言わなかっただけだ」
「そ……っか」
「どうせ読むなら、素直に読めるのが一番だろ」
 皆が同じように感じるとは限らない。自分が相手を好きだからといって、向こうも好きになってくれるとは限らない恋愛と同じように。
「じゃあ、読んでみよう」
 ハルカの言葉に笑顔を取りもどした美緒は、手に持っていた一冊を借りると決めた。
 どんな風に感じるだろう。できるなら、ハルカと似たように感じられるといいな、とそう思った。
「ねえ香月くん」
「ん?」
「ハルカ君って呼んでもいい?」
 昨日こっそりと決めていたことを打ち明けた。途端、ハルカが怪訝な表情を浮かべる。思いもよらなかった質問だったらしい。
「だめ……かな」
 上目遣いに見上げる。こんなお願いをされたら、普通の男ならイチコロだろう。
 しかし、ハルカは怪訝な表情を緩めない。
「だめ?」
 もう一度問いかけたのだが、ハルカは美緒から視線を外した後、何を思ったのか、美緒の両耳を両手で覆った。途端、無音の世界に包まれる。
「え?」
 耳を塞がれているせいで、自分の声が、やけに近くに聞こえた。急なハルカの行動が理解できなくて、美緒は両耳に宛がわれたハルカの手を無理やり剥がそうとする。少しはハルカの力が緩んだものの、今度は、頭ごと抱きしめられた。ハルカの右腕は頭を全部包み、左腕は肩を包んで。普通に抱きしめるのと唯一違っていたのは、何かから守ろうとする、そんな抱きしめ方だったことだ。無音だった世界はまた無音へと引き戻される。


『真中さん、なんか生意気だよね』
『ほんと、留学してたのがそんなに偉いのかっつーの』
『男子もバカみたいに騒いじゃってさ。あんな子のどこが可愛いのよ』
『お嬢様ぶって、実際は性格ブスのくせにね』
『もう帰ってこなくてもよかったのに』
『本当。みんなにちやほやされてムカツクよねー』
『今度痛い目見せてやろうよ』
『アハハ。それいいかもー』
 ちょうど自分たちがいる本棚の向こう側から聞こえてきた美緒への中傷。美緒が気づいてなかったのがせめてもの救いだった。ハルカは美緒を抱きしめたまま、中傷していた女生徒たちが去っていくのを待つ。美緒を傷つけるものから守るように、強く強く抱き締めて。
 何を悪いことをしたと言うのだろう。中傷していた女生徒に対し、美緒が直接的に何かをしたなんてことは絶対にないだろう。中傷のしかたを聞いていて、そう感じた。ただの妬みだ。もしかしたら、相手の名前も知らない間柄かもしれない。ましてや美緒が、人を傷つけたり、バカにしたり、蔑んだりするような人間でないのに。
 愛らしい容姿、誰からも好かれる優しい性格が、時に歪んだ嫉妬を生み出すものなのだ。それは光があればこその影であり、全ての人間から愛されるなど無理なことだとわかっていても、美緒には聞かせたくなかった。傷ついた顔を、見たくなかった。いや、自分のそばで微笑む美緒を、傷つけたくなかった。そんな気持ちが咄嗟に美緒を守っていた。恋かどうか、そんなハッキリした感情はなくとも。
「ハルカ」
 ゆっくりと腕を解きながら、小さな声で呟く。
「ん?」
「『くん』なんか付けなくていい」
 抱き締められて窮屈にしていた美緒が、ほっと息をつく。
 キミが喜ぶなら、嫌いな自分の名前でも、受け入れよう。
「ハルカ、でいい」
「ありがとう、ハルカ」
 ニコッと美緒が微笑んだ。本当に、本当に嬉しそうに。
 そんな表情を見て、少し照れてしまったハルカは、またそっぽを向いて、
「行くぞ」
 と愛想のない言葉を返す。踵を返して、そそくさと足早に立ち去った。ハルカの照れた表情が目に浮かぶようで、嬉しくなった美緒は、急いで後を追いかける。なぜ抱き締められたのかはわからなかったけど、そんなことはもうどうでもよかった。
「待ってよ、ハルカ!」
「…………」
 やっぱり名前を呼ばせるのは間違いだったかも、とハルカが思ったときは、もう既に遅し。

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