氷花

27.氷花

 広さと、豪華さだけがとりえとも言える院長室。どっしりとしたアンティーク調の机の後ろにそびえる大きな窓は、日差しを取り込むのにこれ以上いらないというほど大きなものであるのにも関わらず、それを拒否するかのようにブラインドで闇に覆われていた。
 暗く、沈んだ空気が漂う。この部屋の主である男は、タバコを噛むように咥えながら、イライラ感を隠すことなく表面に出していた。そんな男を目の前にして、その息子であるカレは、平然と父を見つめていた。
「こんなところへおまえが一人でノコノコと来るということが、私にとってどういう影響を及ぼすのかわかっているのか?」
「話は手短に済みます。少しお話したいことがあっただけですから」
「で、話というのは何だ。瑠璃子に見つかる前に、早く済ませて帰ってくれないか」
 高飛車な腕時計に目をやりながら、イライラと足を震わせる。瑠璃子がここへ来ることにでもなっているのだろうか。ハルカのことが、学校中の噂になってからというもの、榊原は神経質すぎるほど瑠璃子の機嫌を気にしていた。幸い、榊原が周りの人間に早急に手を回したことで、彼女の耳には隠し子のことは届いていないようだった。
 しかし、人の口に戸は立てられない。いつ、瑠璃子の耳に、ハルカのことが触れるかもわからない。そんな、不安定な状況の中、榊原はハルカに関して少しの不安要素も残したくはなかった。
「では、単刀直入に言います。櫻井先生のことからは、もう手は引かれたんですか」
「……フン。そんなことはおまえには関係のないことだ」
「それはわかってます。わかってて聞いているということを、察していただけませんか」
「……諦めるわけがないだろう。あの男は不可欠な男だ。しかも、それだけじゃなく、この病院をコケにした。このままでは済まさない」
「やはり、手を引く気はないんですね……」
「当たり前だ。私は諦めが悪いんでな」
 皮肉に笑う男の瞳には、野心にも似た鈍い光が蠢いていた。やはり、ずっとハルカの心中に残っていた不安は当たっていた。
 薫ならば、今後の榊原の行動にも想像はついているかもしれないし、それに屈するということも考えにくい。けれど、榊原という男をずっと近くで見ていたハルカだからこそ、父の執念深さというものを恐ろしいほど知っていた。欲しいもののためならば、手段をも厭わないということも。心配は、不要なのかもしれない。どう考えても、薫の方が上手だろう。それを、今回の赴任劇でも証明済みである。彼ならば、その賢さでどんな状況をも対処できるとも思える。
 だが、ハルカが心配しているのは、そんなことではなかった。できれば、彼に、いや、美緒に少しの不安をも与えたくはなかったのだ。もう二度と、美緒の悲しむ姿を見たくはなかった。そして、それを食い止められる一つの方法として、自分が存在するということを、ハルカは知っていた。
「お父さん、お願いがあります」
「……なんだ」
 初めて、榊原に対し『お父さん』と呼んだ。それは、父への愛情からではなく、ハルカの覚悟の決め方として。不自然なハルカの物言いに、戸惑いを感じて榊原が困惑した。
「いずれ、俺はあなたの言うとおり、医者になります。その時は、あなたを陰で支えられるように、誰にも負けない優秀な医師になるつもりです。櫻井薫のような、賢く優秀な医師に」
「……やっと、その気になってくれたか」
「ですから、櫻井先生からは、もう手を引いてもらえませんか。俺が、あなたの望みどおりに医者になることの代償として」
「ハッ……何をバカなことを言ってるんだ。それはできない」
「櫻井先生から手を引いて下さらないのなら、俺は医者になる気はありません」
「なに?」
「真剣です。冗談なんかでこんなことは言えません」
「……もしも、それを嫌だと言ったら?」
「その時は、自分の将来は、自分で決めさせてもらいます。それに、あなたの息子として生きていくことも、考え直させていただきたい」
 暗にそれは、自分の持つ全ての秘密を榊原の妻にばらしてしまうということをも意味していた。ハルカの真剣な目に、沈黙に含まれている意味を、榊原も感じ取る。唇が、皮肉にも歪んでいくのが目に映った。
「私を脅しているのか……?」
「脅しているだなんてとんでもない。俺は、俺の価値を買ってくれと言っているまでです」
「……おまえの価値が、櫻井薫と比較して勝っているとは、今の私には到底思えない。それでも、おまえは自分に価値があると言うのか?」
「信じていますから」
 唾をゴクリと飲み込み、ハルカの目を真摯に見つめた。嘘のない目。今までに、こんなにも強い目をした息子の姿を見たことがあっただろうか、とそう思わせる目だった。そして、固い決心を秘めたその瞳は、若い頃の自分を思い起こさせた。息子の想いに、揺らぐ自分の気持ちを感じながら、やはり血は争えないと、心の隅で感じる。ハルカに屈する気はない。だが、自分と同じ血が流れるものを、価値がないものだと言うのには抵抗があった。それを認めてしまえば、自分をも否定することになる気がしたのだ。
「亨がいない今、やはり私にはおまえしか頼る者がいない。おまえがどうしてもと言うのなら、それを受け入れるしかないのかもしれない」
「じゃあ、櫻井先生からはもう……」
「今は、おまえの言うことに賭けてみよう。だが、今だけだ。いずれ、亨が戻れば、その時はどう変わるかはわからないぞ」
「わかっています……」
 榊原の言葉に、受け入れてもらえた嬉しさと、再度否定されたことの痛みが胸を切り裂いた。結局、自分はどこまでいっても兄のスペア。生まれた時から、死ぬまできっと、この事実は変わらないのだろう。
 だが、今はもう以前の自分ではない。スペアではなく、香月ハルカという存在を認めてくれる人間がいるのだから。マイナスをプラスに変えていく術を、薫から教わった今は、その事実を自分の強さの糧とすることも可能に思えた。強くならなくては。これから、自分の未来を切り拓いていくためにも。薫に言われた可能性を、自分で証明するためにも。
「おまえの条件を飲む代わりに、私からも一つ、おまえに条件がある」
「なんですか」
 ゆっくりとタバコの煙を吐きながら、いつもの粘着質な声が、ハルカに向かってかけられた。ニヤリと口の片端を上げつつ微笑む姿は、いつもの彼らしさを漂わせていた。ただでハルカの申し出を飲むほど、榊原もお人よしではない。自分の意にそぐわない条件を飲む代わりに、ハルカに対しても要求をした。その要求に、ハルカは最初から予想がついていたのか、あえて驚くでもなく、抵抗するでもなく、すんなりと、それを受け入れた。そして、そんなハルカの態度は、父を困惑させるのに充分だった。
「噂が大きくなる前に、おまえには転校してもらう」
「……はい」
「せめて、瑠璃子の耳に入る前に、根源は絶つべきだと思ってな」
「ええ。なるべく早くに、手続きを済ませますから」
「……おまえは、嫌がると思っていたが」
「俺にとっても、それが一番いいと……そう思うんです」
 青空の見えない窓に目をやりながら、少し寂しそうにハルカが呟いた。諦めにも似た大人びた表情。けれど、その表情に戸惑いはなかった。
 ただ、その瞳の奥には誰かが映っているような、そんな雰囲気が漂っていた。


 誰の耳にも入ることのないまま、ハルカの転校の話は進み、そして数日の後、カレが発つ日を迎えた。
 その日の朝は、いつも賑わしい教室が、更に輪をかけてざわついた。皆、壇上に立つハルカを見つめながら、担任教師が話す内容を真摯に聞き入れる。
 『転校』という二文字は、あまりに唐突すぎて、誰一人その現実を受け入れられないようだった。ヒソヒソと話すものもいれば、あからさまに寂しそうな表情を浮かべる女生徒もいた。愛想のない性格からか、なかなか人を寄せ付けない雰囲気はあったものの、整った顔立ち容姿は何をしていなくても女の子の目を引き、密かにハルカに対して恋心を抱いているものも少なくないようだった。
 そして、他のクラスメートと同じように、当日になってハルカの転校の話を聞かされた美緒は、目の前で淡々と挨拶を済ませていくカレを見ることができずにいた。早鐘のように打つ鼓動。唐突すぎる話に、ただ戸惑うしかなくて、不安に手を握り締めていた。そんな美緒の様子を、目の端で捉えながら、ハルカも寂しそうな瞳で彼女を見ていた。

 一通りの挨拶を終え、HRが終了すると、ハルカと担任は二人連れ立って教室を後にした。クラスメートたちが、ハルカを目にするのは、これが最後の姿になった。ただ、転校の報告と挨拶をするためだけに、この日学校に顔を出したと言ってもいいほど、淡々とした別れに、ハルカがいなくなったということの喪失感を、まだ誰も感じられずにいるようだった。
 だが、時の流れは待ってくれない。一時間目開始のチャイムがなると、ついさっきまでここにあった悲観的な空気は、ピリッとした授業の雰囲気を漂わせる。チャイムが鳴り終える前に、教室へと入ってきた英語教師の結城麻里は、点呼の前に教室中を見やると、ぽっかりと空いた二つの席に視線が釘付けになった。
 一つは香月ハルカのものだ。もう一つは……。
「今日は、真中さんはお休みかしら?」
 そう呟きながら、けれどそれ以上は何も追求しなかった。


「ハルカ!!」
 校門を去っていこうとするハルカの背を見つけて、美緒は夢中で追いかけていた。美緒の声が背後から聞こえて、ハルカの足が立ち止まる。だが、すぐさま振り返ることができず、背を向けたまま美緒の次の言葉を待った。
「どうして……何も言わずに行くの?」
 小さく心細そうな美緒の声。聞こえてしまってから、ハルカはやはり後悔した。相変わらず、この声に弱いのだ。心も何もかもをあっさりと奪い取っていく、この愛らしい声に。
「寂しいよ……。何も言わずに言っちゃうなんて」
「何も言えなくてごめんな」
「どうして、何も言ってくれなかったの?」
 言ってしまえば、君から離れる決心なんてつかなかったんだ――なんて、口が裂けても言えるわけがない。相変わらず、ハルカの気持ちなど知らずに残酷な言葉を並べる美緒に、呆れたように苦笑を零しながら、彼女の方へとゆっくりと振り返った。
 そこに映る愛しい光景に、涙が出るほど胸の中が恋しさで溢れる。やっぱり君を好きだと、そう思ったけれど、何も言わないことが美緒への優しさだと気付いた今は、ただ苦笑を浮かべるのが、ハルカにとって精一杯だった。
「ねえ、遠くへ行ってしまうの?」
「いいや、そんなに遠くへは行かない」
「また……会える?」
「ああ。……おまえが望めばいつでも」
「本当に?」
「俺はおまえから離れるけど……でも、おまえが会いたいと言えば、すぐに会いに来るよ」
「じゃあどうして転校なんか……」
「いずれ、医者になりたいって前にも言ったよな」
「うん……」
「そのためにも、ここよりももっと進学に適したところで勉強したいんだ。それに……今のままじゃダメなんだって思う。いつまでたっても……強くなれないから」
 美緒のそばにいれば、いつまでも彼女の優しさに縋ってしまうだろう。そしてそれが、互いの首を締めることになることも、わかっていた。だから、今はきっと離れることが二人にとって一番いいことに違いない。それが、どんな別れよりも寂しいことなのだとわかっていても。
「ごめんね。私、全然ハルカの力になれなかったよね」
「何言ってんだよ……。そんなことない。俺はおまえに、たくさん優しさをもらったよ。だから、強くなりたいってそう思うんだ」
「優しさなんて……全然あげられてないよ」
 そう言って、美緒が落ち込むように俯いた。そんな彼女のそばまで歩みよって、無防備なままの彼女の手に、そっと触れた。途端、目の前にいる気配に気付いて、美緒が顔を上げる。
「優しさってさ。……弱さとも、強さとも共にあるんだって、そう思うよ」
「弱さと強さ……?」
「美緒に教えてもらったのは、弱さとともにある優しさ。俺の弱さを何も言わずに抱きしめてくれたのは、美緒だけだった。何も否定せず、何も求めずに、ただ抱きしめてくれたのは、おまえだけだったよ」
 救われたんだ。その、君の儚い優しさに。闇の向こうに、光を見つけたように。
「櫻井先生には、強さとともにある優しさを教えてもらった。ただ、そばにいて慰めるだけが、優しさじゃないってね。今までは、ただ自分の人生を悲観するだけだったんだ。でも、あの人に出会って、それがなんて愚かなことかってわかったよ。だから、あの人には……本当に敵わない」
「櫻井先生が……」
「なあ、美緒。いいこと教えてやろうか」
「……何?」
 触れる美緒の指先を、ギュッと握り締めた。どうせなら、少しばかりのイジワルとして、言わないで置こうかとも思った。だけれど、君の幸せを望む以上、それがどんなにくだらないことかということをわかっているから。
「櫻井先生がここへすんなりと戻ってこられた理由、知ってる?」
「ううん……知らない」
「二年、自由にさせてもらう期間と引き換えに、その後、校医をやめて病院で医者として働くことを承諾したそうだ」
「二年……?」
「普通の人なら、その期間が何なのかわからないだろうな。でもさ……俺思うんだ。その二年って、美緒のためじゃないかって」
「そんなわけ……」
「櫻井先生はどうせ、そんなこと言わないだろうけど、でも俺にはわかるんだよ。きっと、美緒のそばにいるために、戻ってきたんだなって」
 ハルカから知らされる事実に、美緒は戸惑いながらも、嬉しい気持ちでいっぱいのようだった。ただ、その嬉しさを素直に顔に出してしまえば、ハルカの目にどう映るのだろうかと考えたのだろう。素直に感情を表すことができずにいた。
 恐る恐る、美緒がハルカの表情を窺う。すると、これ以上にないほど優しく、美緒を見つめる瞳があった。
「素直に、嬉しいって思っていいよ」
「そんな……」
「俺は、おまえが幸せそうにしていれば、それが一番嬉しいから」
 できれば、美緒を幸せにするのが、自分であればどれだけいいだろうと思っていた。けれど、所詮それは自分には過ぎた役なのだということを、今は痛いほど理解している。好きな人の幸せが、自分にとっての幸せだと、そう思えるようになったことは、一種の諦めなのかもしれない。けれど、そうであったとしても、君が幸せであるなら、それ以上何も望むことなんて自分にはないから。
 貪欲にでも、美緒が笑顔でいることを切に願う。美緒の幸せが、薫の隣にあるのなら、安心さえ覚えてもいた。
「美緒。これだけはさ、言っておきたかったんだけど」
「何?」
「俺さ……おまえのことを好きになったのは、自分が寂しかったからとか、おまえが優しくしてくれたからとか、そんな安易な理由じゃない」
「え……?」
「運命とか……全然信じてなかったけど、でも、おまえに出会えたことは、俺の中で運命だったってそう思えるよ」
 愛しく思ったきっかけは、確かに美緒の優しさに触れたからかもしれない。けれど、それでは説明できない理由が、ハルカの中には確かにあった。
 君に恋をしたのは運命だった。それは、逆らいようのない必然として。
「きっと、何年前に出会っていても、これから何年も先に出会っていたとしても、おまえに櫻井先生がいてもいなくても、俺はおまえのことを好きになったって、そう言える自信があるんだ」
「ハルカ……」
「タイミングなんて関係ない。叶わないとわかっていても、俺はおまえに出会えたことを、心の底から嬉しいって、そう思うよ」
「……ありがとう」
 ハルカの優しい言葉が、美緒には本当に本当に嬉しかった。美緒を見つめる瞳は、本当に優しく、出会った頃のハルカとは別人かと思うほどに、雰囲気は柔らかくなっていた。きっと、これが本来の香月ハルカの姿なのだろう。カレを取り巻く残酷すぎる環境が、いつしかカレの本来の優しさを隠してしまっていたのだ。虚勢を張ることでしか、生きる術を見つけられなかったに違いない。
 だけれど今こうして美緒の前に立つハルカは、本当に優しい目をしていた。ずっと、感じてはいたけれども、まともに見ることのなかったハルカの優しさに触れて、美緒の心は安心にも似た落ち着きを覚えた。出会えて良かったと、ハルカの口から聞けたことで、何かが終わったようで、始まったような、そんな不思議な感覚を感じながら……。
「櫻井先生と……仲良くしろよな」
「うん……」
「泣かされたら、いつでも言ってこいよ」
「泣かされないもん……」
「すぐに、飛んでくるから」
「すぐに?」
「ああ、すぐに」
「なんか、正義の味方みたいだね」
「俺はおまえの、“友達”だろ?」
「……うん」
 『友達』と、言葉にした時の胸の痛みは、きっと一生忘れないだろう。美緒に嘘を吐いた。彼女を、安心させるための、嘘を。けれど、間違った嘘ではないことを、ハルカ自身が一番わかっていた。
「じゃあ、俺そろそろ行くから」
「また、会いに来てね」
「ああ」
「絶対だからね」
「うん」
「電話もメールもするから」
「わかった」
「ハルカの幸せが、私にとっても幸せなことだって、忘れないでね……」
「……ありがとう、美緒」
 こんな自分でも、存在を望んでくれて。
 君という愛しさに、人生を捨ててもいいほど、本気で恋に落ちていた。そして今も、その気持ちは変わらない。

 ――ねえ、美緒。
 君は優しすぎるほど優しいから、離れることの本当の理由を告げることはできない。知ればきっと君は、寂しい表情を浮かべて、受け入れてはくれないだろう……。
 けして言葉にはしなかったけれど、君から離れることは、自分なりの精一杯の愛し方だった。君から離れることでしか、君の幸せを守る術を知らなかったんだ。
 君のそばで、君を愛することができるのは、世の中でも彼一人しかいない。どんなに望んだって、君の隣は永遠に手には入らない。ならば、香月ハルカとしてしか愛せない愛し方を、君に残していこうと、そう思った。君が一番好きだから、君の一番好きな人を守ってあげよう。君の隣に、いつまでも先生がいられるように。そう、思ったんだ。
 出会った時期を間違ったなどと、そんなことは思っていない。
 君と出会えたことは、人生においてどれだけの幸福だっただろう。君の優しさに触れ、自分という存在を初めて受け入れられた。生まれてはいけなかったと思ってきた人生を、生まれてきて良かったと初めて思えたんだ。底知れぬ君の愛情に触れて、本当に本当に、誰かを愛しいと、そう思った。
 氷のように冷えきった心に、君が花を咲かせてくれたんだ。
 だから、いつか君と対等に立てるくらい強くなった時、その時はまた……今は黙って連れて行く君への想いを、もう一度告げても構わないだろうか。
 ――ねえ、美緒。
 愛しくて愛しくてたまらない君のそばに、いつも幸せが溢れていますように。
 君の心の中にも、氷花が、咲いていますように。


 最後に寂しげな笑顔を残して背を向け去っていくハルカの姿を見つめながら、美緒はただ見送ることしかできなかった。引き止められなかった。ハルカの目は、誰が何と言おうとも動じない固い決心を秘めていたから。
 離れていくハルカの背。胸の中にぽっかりと穴が空いたようで、寂しさを感じずにいられなかった。さっきまで触れられていた指先を、ギュッと握り締める。まだ、ハルカの温もりが手に残っているようで、痛いほど胸が締め付けられた。
「真中!」
 そんな彼女をいつから見ていたのだろう。突然、聞きなれた声が美緒の名を呼んだ。振り返ると、玄関の壁に背をもたせかけて、困ったように優しく微笑む薫の姿があった。
「先生……」
「香月、もう行ったのか?」
 その問いに、ただコクリと頷いて返事をした。薫がいる方へと歩みよる。触れられるほどそばまで近寄ると、薫が苦笑を残したまま、美緒の髪をクシャッといじった。
「泣いてもいいよ」
「え……?」
「寂しいんだろ。香月がいなくなって」
「別に……」
「我慢するな。おまえにとって、香月がどれだけ大きな存在だったかくらい、俺だってちゃんとわかってるよ」
 頬に触れる薫の指先から、優しさが伝わって、涙腺が緩んでしまう。けして泣くまいと思っていたのに、やはり、ハルカがいなくなった喪失感は、美緒にとっては大きなものだった。目の奥が熱い。込み上げてくる涙を止める術を、美緒は知らなかった。
「……っ」
「泣きたいだけ泣けばいいさ。俺がずっと抱きしめていてやるから」
 美緒の瞳から涙が零れ落ちようとした瞬間、薫がフワリと優しく美緒を抱きしめた。声をかみ殺すようにして泣く彼女の髪を優しくなでる。小刻みに肩を震わせる美緒の様子に、それでも泣くことを我慢しているのだということを悟った。
「なあ、美緒。香月の優しさ、忘れずにいてやれよ」
「……え?」
「香月がおまえに残していったもの、全部でなくてもいい。ただ、忘れずにいて欲しい」
 薫にはわかっていた。ハルカが美緒から離れた本当の理由を。
 きっと美緒はそれを知らないだろう。でも、それで構わないのかもしれない。不器用な香月ハルカの、精一杯の愛し方を美緒の心が感じていれば、それで……。
「いつでも会えるさ」
「会えるかな……」
「俺がおまえを泣かせばすぐ来るんじゃないの? 浮気でもした日は大変そうだぞ」
「……するの?」
「して欲しいの?」
 そう言って美緒の瞳を覗き込むと、薫の言葉を真に受けたのか、不安そうに見上げる視線とぶつかった。まだ、涙は浮かべたまま、戸惑うような瞳で薫を見ていた。そんな美緒の額に、自分の額をコツンとくっつける。伝わる穏やかな体温に、クスッと微笑を零した。
「美緒。きっと香月は、すごくいい男になると思うぞ」
「ハルカが?」
「ああ。振ったこと、後悔するんじゃないか?」
「……イジワルですね。本当はそんなこと思ってないくせに」
「いつかまた奪われないように俺も気を付けないとな」
 美緒の後頭部に手を当てて、胸の中に引き寄せた。何の抵抗もなくストンと落ちてくる体を、優しく抱きしめる。
 愛しい人が、自分の腕の中にいる悦び。叶わなかったとは言え、きっとハルカも望んでいたに違いない。そんなカレの切ない気持ちを想うと、薫の中で、一層美緒を愛しく想う気持ちが高まった。
 愛さなければいけない。香月ハルカが愛した分、それ以上に……。
「大事にするよ、おまえのこと」
「……うん」
「ずっと、一緒にいような」
「……はい」
 抱きしめられながら囁かれる甘い言葉に、胸の中の寂しさは少しずつ中和されていった。彼の優しい言葉に、甘く満たされる心。二度と、二度とこの腕を離すまい。
 そっと瞳を閉じる。すると、その瞳の向こうに、穏やかに微笑むハルカの姿が見えた気がして、美緒の心は切なく締め付けられた。


 氷の美貌を持つ『彼』と、花のように儚い『カレ』。
 二人の男性に翻弄された少女の心は、確実に大人への一歩を辿っていた。
 愛し合うだけが、恋愛の全てではない。誰かが誰かを思う時、その数だけ恋愛の数がある。愛される数だけ、優しさの形がある。時に、離れていくことが、優しさの形だとしても。

 きっかけは、雨。
 愛想のない『カレ』に惹かれて、その優しさにカレの寂しさを見た。
 離れていく『彼』に切なさを覚えて、本当に大事な人を知った。
 ―― ハルカ。
 あなたが残してくれたものは、寂しさだけではなく、本当の愛情だったのかもしれない。
 与えてくれた愛情。気付かせてくれた愛情。初めて知った深い愛情。
 花のように儚いその笑顔に、いつしか気付かされていた。
 離してはいけない、本当に大事な人を、心の底から欲した。
 心が痺れるほどの愛で、満たされていた――。

 あの日、あなたに出会えたから。

 きっかけは……雨。



−完−




 前作の花影恋歌からお読み下さった方も、連作の華水の月を読んで過去を振り返って下さった方も、最後まで氷花をお読み下さりありがとうございます。氷花を通し、伝えたかったことは『優しさの形』でした。皆様の心の中に、氷花がどのように映ったのかは私には分かりませんが、貴方の心の中に、少しでも氷花が優しさや切なさを残すことができたならと、切に願います。
 そして、貴方の恋愛に、少しでも氷花が咲きますように――。

水野 沙羅 拝
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