氷花

26.涙色の奇跡

「ただいま」
 懐かしい美緒の香りに心の安らぎを覚えて、彼女の柔らかい髪に鼻を埋めた。
 頭一つ分以上薫より小さい美緒。その華奢な体は、まるで子供が母親にしがみつくかのようにしっかりと、薫を抱き締めて離さなかった。薫の背に回した手が、ギュッと彼の服を掴む。
「おかえりは? 美緒」
「…………」
「言ってくれないの?」
 返事をする代わりに、美緒が薫の胸に顔を埋める。そんな美緒の髪を、大きな手がクシャッといじった。変わらない、薫のクセ。懐かしい感触に、薫がやっと帰ってきたのだということを、心の底から感じていた。
「先生のバカ……」
「それは、聞き捨てならないな。誰がバカだって?」
「先生よ。……バカバカバカ」
「酷い言われようだな」
 顔を胸に埋めたまま、美緒が曇った声で呟く。顔を上げて薫の顔を見たかったけれど、久しぶりすぎる薫の姿に、恥ずかしくてまともに見ることができなかった。拗ねたように、何度も何度も呟く。帰ってきたら、キリがないほど憎まれ口を叩いてやろうと思っていたのに、いざこうして薫を前にすると、何も逆らえなくなる自分がいた。言葉は皮肉を含んでいても、心は、薫が帰ってきたことを素直に喜んでいる。夢に見るほど、彼に恋焦がれていた。鼻を掠める薫の匂い。一ヶ月ぶりに感じる彼の体温に、ひどく安心を覚えて、涙腺が緩んでしまう。
「ただいま……美緒……」
 そんな美緒の気持ちなど、聞かずともわかる薫は、もう一度ただいまと小さく耳元で囁いて、愛しさのあまりギュッと美緒を抱きすくめた。
 ずっとずっと抱き締めたかった。もう一度この腕に抱くために一度は手離した愛しい人。けれど、君を傷つけたくて離れたわけじゃない。それを君に話したら、君はどんな顔をするだろう。泣いてしまう? 微笑んでくれる? それとも、いつものように天邪鬼に怒って見せるだろうか。
 目の前にいる愛しい人の温もりに、薫も離れていた時間を忘れてしまうくらい、夢中で美緒を感じようとしていた。胸が、焦げてしまうほど、熱い。
「寂しい思いをさせて、ごめん」
「謝ったって、許さないんだから……」
「本当に?」
「本当よ……」
「じゃあこれからは、美緒が嫌って言うくらい、そばにいるよ」
「……嘘つき。どうせそんなこと言ったって嘘だもん。だって……だって先生、あの時だってどこにも行かないって約束したじゃない」
 この一ヶ月を、美緒がどんな想いで過してきたのか。抜け殻になった心を抱き締めて、何度も何度も自分に問いかけた。
 ――なぜ先生はいなくなったの?
 けれど、答えなんて出るはずもなかった。いっそ、自分を置き去りにした恋人を憎むことができたなら、どれだけ楽だったろう。でも、薫に愛されて満たされていた日々を心の奥底で忘れられずにいたから。それを思いだす度に、美緒の意思と反して、もっともっと薫に恋焦がれていた。寂しさの中に、どれだけ彼を好きなのかということを思い知った。
 ――きっと、好きになるよりも、嫌いになるほうが難しい。
 嫌いになれたら、と思う度に、言うことを聞かない自分の心を再確認する。薫の嫌いなところを思い浮かべる度に、好きなところをたくさん発見する。もう薫なしではいられないのだ。自分が、こんなにも恋心に堕ちてしまう女だとは思ってもいなかった。
「私を一人ぼっちにして、どこかへ行っちゃったじゃない……」
「……ごめん」
「寂しかったんですよ? 先生がいなくて私……本当に寂しかったんだから……」
「そうなの?」
「寂しくて寂しくて……先生がいないと私……死んじゃうくらいダメなんだから」
 言い終えた途端、堰を切ったかのように涙が溢れだした。この一ヶ月、流さなかった涙。想いが、溢れて溢れてどうしようもない。ずっと会いたかった好きな人の体温で、凍ったままだった美緒の心は溶けだしていた。泣き顔を見られたくなくて、尚も薫の胸に顔を埋めた。すると、そんな美緒を見てクスッと笑った薫が、優しく髪をなでた。
「おまえ、可愛い女になったな」
「なによ……」
「前は、絶対そんなこと言う女じゃなかったのに……。寂しいなんて、言われたことないよ、俺」
「そんなこと……」
「好きだから会いたい、とか。寂しいから抱き締めて、とか。そんなこと絶対に言わなかったもんな。いつも強くて、自分の意志もちゃんと持ってて、俺がいなくても全然平気だったくせに」
「平気じゃないもん……」
「わかってるよ。天邪鬼だっただけだよな、美緒は。本当は甘えたいくせに素直に甘えられない、可愛い女だよ」
 薫はそう言って、美緒を抱き締めながらあやすように少しだけ体を揺すった。息苦しくなったのか、美緒が胸に埋めていた顔を少しだけ覗かせた。その涙に濡れる目元に、唇を落とす。
 君は本当に可愛い。その、泣き顔さえも、罪なくらいに。
「可愛くなんてないもん……」
「おまえの可愛さは、俺だけ知ってればいいの。……俺の言う可愛い女っていうのは、見た目のことじゃないから」
「どういう意味?」
「愛さずにはいられない女っていう意味だよ。それくらい、おまえは可愛い」
 愛さずにいられないほど、愛している。心が、美緒から離れることを許さないのだ。本当は、抱き締めて二度と離したくはない。
 美緒が、ハルカを慰めるためにそばにいると選んだことを、許していたとは言え、嫉妬していなかったと言えば嘘になる。その優しさも微笑も、自分だけのものにできたなら、と何度も思った。
 けれど、君は優しすぎるほど優しいから。
 縛れない、その体も、心さえも……。
「本当はずっと前から、素直に甘えて欲しかったよ。泣くことも、笑うことも、どんな感情も全て俺には見せて欲しかった。おまえは、全然そんな素振りを見せないから」
「だって……」
「どんな時でも、美緒の気持ちを大事にしたい。だって、俺とおまえは二人でいて意味があるんだから」
「二人でいて……?」
「なんで俺がおまえと一緒にいると思ってんの? 美緒のことをいつも幸せにしてあげたいからだろ」
「私を?」
「それに、俺を幸せにできるのも、おまえしかいないんだから……」
「私が先生を幸せにしてるの? ……酷いこと、いっぱいしたのに」
「酷いことだって、おまえじゃないと気にもしない。それに、それ以上の幸せを俺はおまえにもらってるよ」
 そばにいるだけで意味がある。想うだけ、想われるだけで意味がある。一緒にいるだけで幸せだと感じられる関係。確かなものはなくとも、そんな些細な感情だけで繋がれる関係があるとしたら。きっと薫にとってそれは、美緒しかいないだろう。
「泣くことだって、おまえがいなければ意味がない。笑うことだって、おまえがいなければ、心から笑えない。優しくすることも、おまえがいるからできるんだよ」
 薫の言葉に、美緒は一ヶ月間の自分の姿を見た。今まで気付けなかった、『意味』。離れてから、初めて知ったたくさんのこと。薫は、最初からわかっていたのだ。知らなかったのは、自分だけ。本当に幼いだけで情けない恋心。
 今、薫の言葉でわかった。自分が何のためにいるのかと。それはきっと、あなたと一緒に生きるためかもしれない。
「私ね、先生がいなくなって初めてわかったんです……。先生がいないと、私、まともに何もできなくなる」
「美緒とは思えない発言だな」
「本当はきっと、前からそうだった……。ただ、先生がいつも優しいから、気付かなかった……。優しさを、当たり前だって思ってました」
「生憎、俺の優しさは、美緒だけのものなんだけど?」
「でも、私の優しさは……」
「おまえは、おまえのままでいいんだよ。無理に変わらなくてもいい。おまえの全ては、その優しさだけじゃないだろう。憎しみや、羨望や、悲しみだって持ってる。俺が独り占めしたいのは、その中でも一つだけ。おまえにとっての一番だけだから」
「もう、先生以外に恋はしないもん」
「それは、俺なしじゃ生きられないって受け取ってもいいのかな?」
「そんなことを言う女を……嫌いになりますか?」
「いいや、光栄なことさ。そんなにまで美緒に想われる男なんて、俺以外にはいないんだから」
 弱いことを愚かだと、薫は思わない。むしろ、嬉しくさえ思っていた。初めて、心から自分を求められた気がした。いつも対等でなくてもいい。弱ささえ、見せてくれる女で構わない。きっと美緒の優しさは、その弱さ、脆さとともにあるものだから。
 愛しくてたまらないのだ。美緒を支える術が、世の中に自分だけしか存在しないという事実が、こんなにも胸を奮わせるほど嬉しいだなんて思ってもいなかった。
「ほら、顔上げて。まだ、おまえの顔をちゃんと見てないよ」
「だって泣いてるから」
「いつからそんなに泣き虫になったんだ?」
「ずっと……我慢してたせいだもん」
「我慢?」
「先生が泣くなって言ったから、頑張って我慢したの。そしたら、いつか帰ってくるんじゃないかって……」
「バカだなあ……それは、他の男のために、だろ?」
「でも……でも……嫌だったんだもん」
「約束、ちゃんと守ってくれてありがとう」
 そう言って、急に美緒から体を離した。そして、少し屈んで美緒のお尻へと腕を回す。気付くと、薫の腕の上に座るように、軽々と抱き上げられていた。美緒の視線が、薫よりも少し高くなる。これでは、泣き顔を隠すことなどできない。
「美緒。おかえりって、言って」
「え……?」
「まだ聞いてない。おまえの口から、おかえりなさいって。おまえに言ってもらえないと、いつまでも帰れないんだよ」
 君が許してくれて、初めて元に戻れるだろう。確かな言葉が欲しかった。心から、歓迎される言葉を。
「ただいま、美緒」
「…………」
「美緒。おかえりは?」
 涙に濡れる頬に、目元に、優しく唇で触れられる。何度も優しく降るキスに心地よさを感じて、美緒はうっとりと目を閉じた。そして、小さく呟く。
「おかえりなさい……」
 言い終わると同時に、頬を辿っていた唇が、美緒の唇に触れた。優しく優しく、触れるだけのキス。まるで、壊れものを優しく扱うかのように。懐かしい感触に、もっと求めたくて夢中になる。美緒は、両手で薫の頬に触れると、もっと深く口付けるように自ら身を寄せた。
「どこにも行かないで……先生……」
 口付けの合間に、美緒が切なく零した言葉。その声色に、美緒の想いが伝わって、薫の心が切なく締め付けられた。美緒の口付けに応えるように、少し乱暴に唇を塞ぐ。吐く息さえも漏らさず、美緒の全てを奪うような激しいキスだった。少し息苦しく喘ぐ彼女の隙を見つけると、開いた唇の中に容赦なく入っていく。躊躇いがちに彷徨う美緒の舌先を捉えて、容赦なく絡み合わせた。
 喘ぐ呼吸が苦しい。胸は、甘く痛みさえ覚えて締め付けられた。容赦ない激しい口付けに、指の先から抜け落ちる力。美緒は離れまいと、薫の首に腕を回し、彼の全てを受け止める。
「美緒……会いたかったよ」
 乱暴に美緒の唇を奪っていた唇は、頬を辿り、首筋へと下りて行く。左腕は、美緒をしっかりと抱きかかえたまま、右手で器用に胸元のボタンを外していた。露になる肌に、ためらいなく唇を落とす。すると美緒は、甘い声を漏らし、薫の髪を掴み、必死に快感に耐えていた。
「ずっとずっと……会いたくてたまらなかった。この肌に、触れたかった」
「あ……っ……先生……」
「本当は、誰にも触らせたくない。誰にも……渡さない」
 それは、薫がほんの少しだけ零した独占欲。快感に溺れていく中でも、聞き逃さなかった。
 ――誰にも……渡さない。
 たった一言の、その言葉が。少しの独占欲を含んだその言葉が、美緒の心を締め付けているだなんて彼は知っているだろうか。求められることの悦びに、薫しか見えなくなる。この人のためなら、全てを捧げても構わない。そう、思えるほどに……。
「先生……っ」
 胸元に降るキス。優しく触れていたかと思うと、時折激しく舌先が肌を刺激して、美緒の快感の芽を容赦なく責めたてる。声をあげてはいけないと思うほど、その意に逆らって体は熱さを増し彼を求めてしまう。肌だけでは足りない。もっと。もっと、全身で彼を感じたい。
 けれどそう思った時、薫の動きがピタリと止まった。途端少し寂しさを覚えた美緒は、薫の目をじっと見つめ返す。ぽーっとした虚ろな美緒の視線。上気した頬はほんのり紅く染まって、色気さえ感じさせていた。
「バーカ。そんな目で見るな」
「え……?」
「もっとして下さい、っていう目だよ」
「そ、そんな目してません!!」
「して欲しいのはわかるけど、これ以上やったら止まんなくなるだろ」
「して欲しくなんて……!」
 薫の言葉に急に羞恥を覚えて、顔を真っ赤にした。言葉では反論していても、体が彼を求めていたことは確かだ。きっと無意識にそんな目をしていたのかもしれない。図星を指されて、美緒は慌てふためき、さっきまでの甘い雰囲気など忘れ去っていた。
「しかたないか。美緒ちゃんの体は正直だから」
「なんでこういう時だけ“美緒ちゃん”なんて呼ぶんですか?!」
「えー。だってあんまり可愛いから。もっとして下さいっていう目がね。ほら、もう一回してよ」
「し、しないもん!」
「やっぱり、エッチなことされてる時しか出来ないもんなの?」
「も、もお……先生のばかあ……」
 抱きかかえられてる美緒には逃げ場がなくて、仕方なく薫に抱きつくことで彼の視線から逃れた。反論したところで、この男の饒舌ぶりには敵わない。抵抗すればするほど、もっと恥ずかしい思いをさせられることを、美緒は身をもって知っていた。
 そんなあまりの美緒の可愛さに、薫がククッと笑いを堪える。耳元に触れる美緒の頬が熱くなっているのを感じて、見えなくとも、美緒の様子が思い浮かんだ。恥ずかしくてたまらないのを、必死に堪える愛くるしい姿。思えば、そんな彼女の姿を見て、惹かれはじめた恋だった。
 控えめで、大人しくて。けれど、芯は強く、そして涙脆い。怒ったり、拗ねてみたり、それが本当は甘えたい心の裏返しだとわかっていて、でもそれが愛しくてたまらなかった。
 ――美緒。こんなに心狂わせる恋をした相手が君で、本当に良かった。
「先生が悪いんだから」
「何が?」
「私が素直になれないのは、先生が悪いんだから!」
 ギュッと首にしがみついたまま、美緒が拗ねたように呟く。からかえば、思った通りの反応する美緒が楽しくて、また噴出してしまいそうになる。堪えているつもりだったが、抱き付いている美緒には、薫の肩が小刻みに揺れているのがすぐにわかった。肩に手を置き、体を離し、薫の表情を確かめると、やはり微笑を隠せずにいた。
「ほら、そうやってすぐに笑うからでしょ!」
「いいじゃん、別に。可愛いなあーって思ってるだけなんだから」
「もう……なんで先生を好きなのかわかんない……」
 やりきれない気持ちで、そう呟いた。どこまでも、心奪っていくこの男が憎らしい。何一つ思い通りにならない自分の感情に、歯がゆい思いをするばかりだ。
「そんなの簡単だろ。おまえは、俺しか好きになれない女なんだよ」
「私だって、初恋の一つや二つ、してるんだから」
「本当おまえはバカだな。そんなの好きのうちだろ。初めて愛したのは誰だよ。言ってみろ」
 そう言って、美緒の額をツンとつつく。美緒をからかうのが楽しくてたまらない。いつしか二人の雰囲気は、いつもの二人に戻っていた。明るく楽しい中にも、甘さを残す柔らかい日差しのような、そんな雰囲気に。
「……ムカツク」
 美緒らしくはない言葉。だが、今の彼女の心を説明するには、ぴったり的を射ていた。
「誰がムカツクって?」
「何でもわかってて聞くから、先生はキライです」
「はいはい、今のキライも愛してるって意味ね。美緒は本当に難しい女だな」
「何よ。先生だって、何にも言わないくせに」
「俺が? いつ?」
「いつも言わないじゃないですか。いつもはぐらかすでしょ」
「そうかなあ。……美緒、愛してるよ」
 わざと、美緒の耳元で甘く囁いた。真面目すぎるくらい、真剣に。その意味を、美緒もわからないほどバカではない。またからかわれたと憤慨し、余計に薫が憎らしくてたまらなくなる。
「な。俺はちゃんと言ってるじゃないか」
「もお……先生なんか大嫌い!」
 叫ぶ言葉もこもるほど、きつく薫を抱き締めていた。
 愛してるけど。愛してるけど、たまには自分の思う通りの恋をしたい。結局、どこまでいっても薫には敵わないのだ。振り回されるだけ振り回されて、けれどそれ以上に、堕ちていく恋心。からかわれて拗ねる美緒を見るたびに見せる笑顔に、いつしか安心を覚えている自分もいた。
 ――憎らしい男。でもしかたない。結局、彼を好きになってしまった美緒の負けなのだから。
「また、ここから始めよう。美緒」
「……先生?」
 抱き上げていた美緒をそっと下ろして、髪を撫でると、優しい微笑みで彼女を見つめた。その瞳に、さっきまでとは違う、薫の本当の優しさを感じて、美緒もじっと見つめ返す。髪に触れる彼の手に、そっと自分の手を重ね合わせた。
「もう、おまえを離したりはしないから。もう二度と、寂しい思いはさせない」
「……うん」
「だから、いつまでも俺のことだけ好きでいてくれるって約束してくれないか?」
「約束……します」
「ありがとう。愛してるよ、美緒」
 はにかむように微笑む彼女を見て、自然と薫にも笑顔が零れる。右手で、美緒の頭を引き寄せて、そっと胸に閉じ込めた。

 心の底から愛している。時に、手離すことの苦痛をも耐えられるくらいに。
 これだけの想いを、一体どれだけの時間をかければ、君に全て伝わるだろうか。
 一年? 二年? きっと、一生かかったって伝えきれないに違いない。
 生きることに、限りがあることを悔やんでしまうくらい、愛しているよ。
 
 ――なあ、美緒。
 君に出会えた奇跡を、誰に感謝すればいいだろう。

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