華水の月

39.1パーセントの嘘

「なんか外が騒がしいね」
 玄関で靴を履き替えていると、校門の方を見ていた親友のえみがそう言った。
 下校の時間。全校生徒が学校を後にするのだから、ある意味騒がしくて当然とも言えるのだが、えみのその言葉にふと何かを感じて、美緒も校門の方へ視線を向けた。
 十数人、いや二十人は越しているだろうか。女の子たちの群れが見える。全員同じ方に視線は向いており、その先には注目を引く何かがあるのだろうと咄嗟にわかった。
「本当だ。誰か来てるのかな」
「あの様子だと、かなりイイ男がいると見た!」
「えみってば、またそんなことばっかり……」
「何言ってんのよ。女の目は正直なんだから、あれだけの人だかりってことは、絶対イイ男がいるんだよ」
 私たちも見に行こうよ、とえみが美緒を急かす。
 元々、行動がおっとりとしている美緒は、それでも特に急ぐわけでもなく、ゆっくりと靴を履き替えていた。用意が済むとわかった途端、えみが美緒の腕を掴む。そして容赦なくその手を引くと、とても嬉しそうに微笑みながら玄関を出た。
「えみって本当に好きだね、こういうの。見るだけなのに、意味ってあるの?」
「相変わらず美緒はバカちんだなあ。イイ男ってのはね、見るだけでもご利益があんのよ」
「そう?」
「たとえばほら、櫻井見てる時とか、気持ちにパッと花咲くじゃん? チラッとあの顔見れただけでもドキドキするでしょ? 今日もいいものをありがとう! って感じよ」
「実際それ、櫻井先生にもよく言ってるよね」
「だって、あんなにイイ男そうそういないっしょ。マジで美形じゃん、癒されるー」
「癒されるんだ……」
 ハハハ……と美緒が苦笑する。自分の彼氏で親友が癒されてるなんて、なんと言ったら良いものか。
 元々えみと薫はとても仲が良い。それは、美緒と薫が付き合う以前からずっとそういう感じで、校内ですれ違ったりすると必ずと言っていいほど、二人は会話をしていた。『やっぱ櫻井は今日もイイ男だよねえ。目の保養になるよ、サンキュー』なんて台詞を薫に言っているのを、えみと一緒にいることの多い美緒はよく耳にしていた。そんなえみの台詞に、薫もいつも冗談で返しては談笑していた。『校医を呼び捨てすんな』と、優しく叱ったりして。
 えみに限らず、薫は普段こういった感じで女の子と戯れていることが多い。一見軽いノリ。けれど、けして女の子を傷つけない優しさ。巧みな話術も、女の子を惹き付けて離さない魅力の一つだろう。美緒と一緒にいる時の、甘い雰囲気の薫とは、また少し違った。
「香月にも結構言ってたんだけどね。あいつも本当に綺麗だし」
「そうなの?」
「そうそう。でも無視すんのよ。返事の一つもせずに、フーンて感じだったんだから」
「アハハ。なんかハルカらしいね、そういうの」
「香月は今日も可愛いねって言ったらさ、おまえよりかはな、って言うんだよ。たまに返事したと思ったらコレだからね」
「そりゃあ、ハルカだって男の子なんだから、可愛いって言われたら複雑だよ」
「そんなもんかなあ。でもまあ、そういうところも香月の魅力なのかな。クールが似合う男は特だよね」
 ――クール。
 えみから出たその言葉に、一瞬考え込む美緒。ハルカのことを、クールだなんて思ったことは一度もない。えみがハルカに対して抱く冷たい印象のようなものを、美緒は感じないからだ。初めて会ったその日から、ハルカはただ単に不器用なだけのとても優しい人という印象が、美緒の中に根付いていた。
「でも、ハルカは優しいよ?」
「それは美緒にだけだよ。私なんかいっつも無視されてんだから。あんなにしょっちゅう話しかけてんのに、ほとんど相手してくれないもん」
「むしろえみは、それが楽しくてやってるんでしょ?」
「まあねー。いつか絶対に香月を笑わせてやる! と企んでたり」
「笑うんだけどなあ、時々だけど」
「私に対して笑ったことなんか一度もないし。でもまあ、美緒と一緒にいる時の香月は、いつにも増して美人だよね」
「美人って女の子じゃないんだから……」
「そんなこと言ったら、また無視されちゃうかな。まあ、望むところだけどー」
 アハハ、とえみが不敵に笑った。
「あんまりハルカのこと虐めないでね?」
「出たよ、香月贔屓」
「何それ」
「美緒は、香月には本当に甘いからなあ。まあ、逆も然りだけどさ。嫉妬しちゃう」
 口で言う割には、えみもハルカのことを好きなんだということがよくわかった。ハルカは冷たいのではなく、不器用なだけ。それを、彼女も、そして他の友人たちもちゃんとわかっている。
「しかし、私の周りにはなんでこうも美人ばっかり揃ってんのかなあ」
「え?」
「美緒にしても、香月にしても、櫻井にしても、本当に芸能人顔負けなくらい綺麗揃いだよね。ていうか、絶対芸能人の方が負けてるから」
「私は全然だよ。先生やハルカは、確かに綺麗だけど」
「学園一の美少女だってのに、美緒ってば本当に鈍いよね……。私にその美貌があれば、利用しまくるのになあ」
「えみも可愛いよ? 私、えみのこと大好きだもん」
「んもおー! あんたって本当にいい子っ!!」
 えみが美緒にギュッと抱きついて、頬をすり寄せた。よほど嬉しかったのか、愛してるとまで言う始末だ。
 美緒はそんなえみの態度に苦笑いを零すしかできなかったけれど、親友のそういう素直な可愛らしさは、本当に魅力的だとそう思った。

「あらあ? 誰かと思ったら、4人目の美人さんじゃん」
「え?」
「やっぱ櫻井の弟だけあって、相変わらず格好いいなあ」
 校門付近に近付くと、えみが注目の的を目にして、そう呟いた。拍子抜けしたような、少し面食らったような。思ったよりも薄いえみの反応。
 美緒も視線をそちらへ向けると、えみの言葉通り、校門のそばに佇んでいる泉の姿があった。相変わらずのセンスの良さで服を着こなし、後ろにはバイクを止めている。女の子たちにグルッと囲まれて、楽しそうに笑っていた。やっぱり、教育実習を終えた今でも、泉は人気者だ。
「泉先生だったのかあ。なんか妙に納得」
「意外に反応薄くない?」
「えー。だって、泉先生が格好いいのは最初からわかってるし、どうせだったら初めて見る美形が良かったんだよ。それに私は櫻井薫派だしー」
「アハハ。なんか泉先生に失礼だよ、それ」
「だって泉先生は、美緒のものじゃん」
「だから、それ違うんだってば……」
「わかってるって。ちょっとイジワル言いたくなっただけだよ」
 でもやっぱり目の保養だなあ、と、えみが泉を遠目で見つめながらそう言った。
 女の子に囲まれて雑談を楽しんでる泉は、美緒とえみには全く気付いていない。気付くわけもないだろう。かろうじて、美緒たちから泉が確認できるかできないかの距離だったのだから。
 えみの薄い反応に少し安心を覚えつつ、美緒は『じゃあ帰ろうか』とえみに促した。特別泉に興味があるわけでもないえみも、そうだねと相槌を打った。泉とここで話す気は毛頭ない。ましてや、噂になっている泉と美緒なのだ。その噂を決定付けるネタを提供してやるまでもないのだから。
 きっと、薫の仕事の終わりでも待っているのだろう。よく、二人で一緒に夕飯を食べているのを、美緒は知っている。でも、なぜ泉が校門で、しかもバイクでここへ訪れているのか、美緒は全く考えていなかった。


 学校から少し離れ、えみと仲良く並木道を歩いている時。ふと背後から、『美緒!』と呼び止める声に気付いた。
 その声に思わずギクリとする。美緒よりも先に、えみの方が振り向いた。
「あー、彼氏来たよ美緒」
「だから彼氏じゃないってば」
 えみは特に驚くでもなく、バイクを押しながら寄ってくる泉と美緒を交互に、ニヤニヤと見つめていた。
 とても居心地が悪い。どうしてこうもタイミング悪く出会ってしまうのか、いつも謎で仕方がない。もしかしたら、泉がわざと謀っているのではないかと思うくらいだ。
「久しぶりー藤井」
「久しぶりっ! 泉先生」
 泉が手近にバイクを止め、駆け寄ってくる。顔を合わせるなり二人は微笑んで、タッチするように手をパチンと合わせた。なんだかんだで、泉とえみも仲が良いのだ。
「珍しいねー。泉先生が学校来るなんて。彼女のお迎え?」
「そうそう、姫のお迎えに上がったとこ」
「生憎その姫は、私と下校デート中なんだけどなあ?」
「マジかあ。じゃあ連れ去るしかないな」
 冗談とも本気ともつかないえみと泉の会話に美緒が焦る。えみには、泉とは何でもないと言ってはあるが、半信半疑に違いない。泉も調子に乗ってえみに話を合わせるものだから、美緒の心は落ち着くことがなかった。
「ま、泉先生のお迎えとあっちゃ仕方ないかな。姫、譲ってあげるよ」
「楽しく下校中のところ悪いね。このアホ女が俺を無視するのが悪いから」
 そう言って、美緒に近付きデコビンタを一発。痛っ! と口走り、美緒が額を手で覆った。
 ニヤリと泉が皮肉に微笑む。
「もう! 叩かないでよ」
「うるさい。俺を無視して先に帰るおまえが悪いんだよ」
「なになにい? もしかして二人デートの約束でもしてたの?」
「そうなんだよ。藤井聞いてくれる? こいつって本当に薄情な奴でさあ……」
「勝手にそこで話進めないでよ! いつ私が泉くんとデートの約束なんてしたのよ」
「泉……くん?」
 口にしてしまってから、ハッとする。いつもの泉との雰囲気で、つい『泉くん』と言ってしまった。えみの前では、いつも泉先生と言っていたのに、思わぬ失態だった。
 美緒が視線を上げると、そこにはもう取り返しのつかないニヤついたえみの笑顔があった。
「なんだあ、美緒。今まで泉先生が一方的に美緒に絡んでるだけだと思ってたけど、やっぱり泉先生とデキてんじゃん」
「で、デキてない!」
「えー。だって今確かに泉くんって言ったよね? 普通、ただの教師と生徒だったら泉くんなんて呼ばないっしょ。優等生の美緒が言うから余計そう思うんだけど」
「だから、違うんだってば」
 必死で否定する美緒をよそに、泉は横で楽しそうに二人の会話を見ている。あえて、言い訳をする気はないらしい。
 薫にしても泉にしても、他人の目を気にしなさすぎるところがある。噂なんて、所詮泳がせておけばいいんだ、というくらいの認識でしかないのだ。
「まあまあ、そんなにやけになって否定することないじゃん。お似合いだよ? 美男美女カップル! 泉先生だったら、美緒を取られても許す」
「お、藤井の許可出ましたー」
「ちょっと、泉くんも笑ってないでちゃんと否定してよ!」
 美緒が泉の服を掴んで引っ張る。そこには、本当に必死さの伝わる色が見えた。なんでそこまで美緒が必死になるのかが、泉にはわからない。そう、泉には絶対的な思い込みがあった。親友のえみなら、美緒と薫の関係を知っているはず、という……。
 しかし、そこから先のえみの言葉で、その思い込みが段々と崩れていく。
「いやあ、美緒の初彼かあ。しかもこんなイイ男ゲットしちゃうなんて、やるじゃん美緒」
「だから、違うんだってば!」
「こんなに綺麗で可愛いのに、全然彼氏できないからちょっと心配してたんだよね。でも良かった。香月でもダメだったからもう無理かと思ったよ」
「……初彼?」
 泉がえみの言葉を拾いあげる。そして怪訝な表情を浮かべて、美緒をチラッと見やった。焦りを募らせる美緒は、泉の疑問を汲み取る余裕がない。
「だから違うのっ! 初彼でもないし。何回言ったらわかってくれるのよお……」
「まあ、初彼じゃないよな」
「え? 泉先生が初彼じゃないの?」
「違う違う、ってか美緒おまえ……」
 泉と美緒の視線が絡まる。
 嫌な予感がした。……が、その間もなく泉が口を滑らせた。
「おまえまだ言ってないの? 藤井にかお」
「あああ!! ダメっ!!」
 薫のこと、と言い終える前に、美緒が泉の口を両手で塞ぎ大声で叫んだ。モゴモゴと喋り続ける泉をよそに、えみの方をチラッと見て苦笑する。
 するとえみは美緒と泉を交互に見ながら明らかに不信な視線を向けてきた。
「藤井にかお? ……何、私の顔がどうかした?」
「いや、何でもない何でもない。えみは今日も可愛いなあって。ねえ? 泉くん!」
「え? ……ああ、そうねえ」
「絶対違うじゃん! てか、何よその泉先生の表情!」
 困った顔をして美緒に話を合わせる泉の言葉に説得力などない。
「私の知らないこといっぱいありそうだねえ、美緒ちゃん」
「ないない! 本当にはっきり言うけど、泉くんは私の彼氏でもないし、彼氏自体いないし、誤解だから」
「本当?」
「ホント!」
 薫とのことを、えみに言えないわけじゃない。言いたくないわけでもない。
 けれど、とても不安定な関係だから。ただの恋愛じゃない。校医と生徒の恋だから。今にも壊れてしまいそうな気がして、自分の口からは簡単には言えなかった。
 でもいずれえみも知る日が来るだろう。その時は、きちんと話すつもりだ。親友にだけは、自分の恋愛を受け入れて欲しいから。
「まあ、この姫が処女臭い時点で、彼氏いないってのはバレバレじゃん?」
「あー、まあ確かにそれは言えるかもー」
 泉の出した助け舟はあまりにも過激発言だったけれど、えみもそれで幾分か納得したようだ。察しのいい彼女のことだから、完全に信じたわけではないだろうけど。
「人のこと、勝手に言うのやめてよね」
「事実、処女臭いんだから仕方ないだろ。なあ、藤井?」
「確かに男知らなさそうな雰囲気はあるよね。でもそれが逆に男心そそりそうだよねえ。無理矢理奪いたくなるっていうか」
「うわあ、藤井おまえマニアック過ぎ」
「そういう泉先生だって、処女とか言ってるくせにー」
 二人揃って爆笑している。話は逸れたが、美緒はそんな二人について行けず項垂れるばかりだ。
 なんとなく、脱力。なんだか無性に薫に会いたくなった。
「ま、付き合ってないけど、美緒は俺の可愛い姫なわけよ。妹ってとこかな」
「妹? そりゃまた微妙な関係だね」
「そう? キスもエッチもしないけど、デートはするし仲いいし、結構楽しいよ。なあ、美緒」
「あ……うん、そうだね……」
 返事をするのが精一杯。項垂れたままの美緒の頭をポンポンと撫でて、泉がニッコリと笑った。
「ふーん。泉先生が美緒の兄貴かあ。なんか勿体無いよね。私だったらどっちの立場でも彼氏彼女にするけどなあ」
「これはこれでなかなか乙なもんよ」
「そんなもんかあ。ま、じゃあいずれ二人が恋人になるのをコッソリ期待しとこう」
「じゃあ俺も美緒の処女を奪えるよう期待しとこう」
「もう! 泉くんってば」
 ケラケラと笑うえみと泉。美緒だけが、一人憤慨しては口を尖らせていた。
 でも、上手く話を流してくれた泉には少なからず感謝している。えみもそれ以上は特に聞き入ろうとはしなかった。元々察しがよく噂好きではあるが、親友が困るとわかってることには深入りしない賢い女の子なのだ。
 だが、最後にポツリと美緒の心臓を突くことを言った。
「てことは、櫻井も美緒にとって仲良しのお兄ちゃんなわけ?」


「おまえってさあ、本当に嘘吐けない女だよなあ」
「だ、だってあんな風にえみが切り返してくるなんて思わなくて」
「俺と兄弟なんだから、薫が出てくるのは当たり前だろ」
 潮風が頬を撫で、髪を揺らす。バイクを背に、二人して軽くもたれかかっては、目の前の海をぼんやりと見つめていた。
 えみと別れた後、二人でバイクに乗り、郊外にある人のいない港へと訪れていた。特に、意味があったわけではない。ただ、なんとなく美緒と海を見たくなった。それだけのことだ。それだけで、彼女を攫う理由の一つには、なるだろう。
「それに、元々藤井は薫と仲が良いんだし」
「そうなんだよね……」
 あの後、泉が上手に話を流したことで、それ以上何も追求はされなかった。『藤井は、俺よりも薫贔屓だからな。これを機に彼女の座狙ってたりして』なんていう泉の言葉から、話がだいぶ逸れてくれたのだ。
「俺はてっきり、藤井には薫とのこと話してるんだと思ったよ」
「いつか、話そうとは思ってるんだけどね」
「薫に迷惑がかかるかもしれないから、なるべく誰にも知られたくない、か」
「うん」
 こんな時、麻里ならばきっと、堂々と薫を彼氏だと皆に見せつけるだろう。独占欲の表現が、美緒と麻里とでは随分違う。
 誰にも触れさせないように、自分のものだと周りに知らしめるのが麻里の独占欲。
 一方、美緒は、愛してくれる薫の心を、自分だけが知っていればいいと思う方だ。薫の愛情が欠片ほどしかなくとも、けしてそれを小さいなどとは思わない。美緒の愛し方は、本当に臆病で、それでいて美しいまでに繊細なのだと。
「ていうか、泉くん。どうして今日校門で待ってたりしたの? しかもこのバイク、先生のだよね」
「そうそう。よく借りて乗っててさ。よく知ってたなおまえ」
「前に一度乗せてもらったことあるもん」
「ふーん……て、ああっ! そうだよ、おまえ!」
「な、なに?」
 急に何かを思い出したのか、泉が声を荒げて美緒を見据える。明らかに不機嫌そうな表情を浮かべる泉を見て、美緒が苦い顔をした。
「今日はおまえを説教するために来たんだよ」
「せ、説教?」
「おまえ、この間俺を夕食に呼ぶって言ってたくせに、無視しやがったな」
「あ……ごめん」
 泉の言葉の意味を理解して、美緒が苦笑した。
「また後でな、って、別れる時にちゃんと言ったじゃん。俺、めちゃめちゃ楽しみに待ってたのに」
「ごめん、ね?」
「あの日の夕食、結局抜きだったんだからな。なんで忘れるんだよ、バカ美緒」
 薫との甘い時間に囚われたあまりに、二度目の情事の後は、全く泉のことを忘れていた。夕飯は結局、取らなかったのだ。というよりは、取れなかったと言った方が正しい。朝までずっと、薫の腕に抱かれたままだったのだから……。夢も現もわからない、優しく乱れた世界に、二人は浸かったままだった。
「何もそこまで待たなくても、何か食べたらよかったのに……」
「アホか! せっかくおまえのゴハン食べれるって言うのに、余計なもんで腹膨らませてどうすんだよ」
「まさか、そこまで待っててくれてるなんて思わなかったんだもん。だって、電話もしてこなかったじゃない?」
 確かに、昼間泉といた時に、『もしかしたら夕飯呼ぶかもしれないけど、来てくれる?』とは聞いたが、確実な約束を交わしていたわけではないのだ。泉からの催促があったなら、美緒はちゃんと夕飯を作っていただろう。
 結局、買い揃えた材料を使って豪華に料理を作ったのは、翌日の昼食になったが、泉から何の連絡もなかったため、その昼食にもわざわざ泉を呼ばなかった。
「あのなあ。おまえと薫が二人一緒にいるってわかってんのに、そうそう電話なんかかけられないだろう?」
「どうして?」
「もしもエッチしてる途中だったら、超タイミング悪いじゃん」
「な、何言ってんのよ」
「それに、そんなことしたら俺が薫に殺される」
 泉のセリフにアハハと小さく苦笑を零し、それ以上は何も言えなかった。実際、泉の言うとおり情事に耽っていたわけだから。そのことを突っ込まれてまともにいられるほど、美緒は慣れているわけではない。むしろ、そういう話題は苦手だ。薫と泉は、平然とそういう話をするが、そういう時はあえて輪に入らないのがいつものことだった。
「まあ、別にもういいけどさ。おまえの顔見たら、なんか怒る気失せたっつーか、アホらしくなってきた」
「本当に、ごめんね?」
「今回は許してやる。その代わり、今度俺のリクエストで作れよな。いつもより何倍も豪華に作れよ?」
「うん。わかった」
「材料費は、薫もちで」
「うん。先生に言っとく」
 クスクスと笑いが零れる。
 バカ女、と、泉がいつもの如く美緒の額を叩いた。その手は、とても優しかった。

 どれくらい、二人でそうしていただろう。
 ただ、海風に身を任せ、揺られるように海を眺めては、他愛のない話をして。
 海はオレンジに染まり、美緒の瞳をも優しく染めていた。髪も、肌も、世界が全て夕陽に包まれて、泉はその光景に見入るばかりだ。
 刹那を感じる。もうすぐ訪れるであろう闇を、恐れるくらいに、刹那を。
 いつの間に、二人でいる世界は、こんなにも甘く優しくなったのだろうかと、ふと思った。いつから、こんなにも居心地の良い場所を、互いの中に見つけたのか、と。たとえ恋人同士ではなくても、自分だけしかいられない場所を、互いの心の中に作り上げていた。泉の心にも、美緒の心にも。
「ねえ、泉くん」
 泉くん、と呼ぶその声を聞くのは、もう数え切れないくらいだ。
「ん?」
「この間ね。泉くんとわかれて、先生のところへ行った日ね……」
「うん」
 俯いた彼女の視線の先には何があるのだろう。気になるのに、美緒から視線を外せない泉がいた。
「あの日、結城先生に会ったの」
「え?」
「夕飯の材料を揃えるために遠くのスーパーに行ったの。まさか、そんなところで会うなんて思わなかったんだけどね」
「麻里さんが……」
 オレンジの幸せな世界から、一気に現実へと引き戻された。ドクドクと、鼓動が早鐘のように打ち始める。もはや、美緒の口から聞く麻里の名は、軽い毒のようにさえ思えた。
「結城先生が、遠くから私と先生を見ててね。私が気付いた後、すぐに先生も気付いたの」
「それで?」
「先生、どうしたと思う?」
 寂しげな表情を浮かべて泉を見る美緒の表情を受けながら、少しばかり考え込む。
 だが、すぐに答えは出た。薫なら、きっとこうするに違いない。
「麻里さんを、無視した」
「……すごいね。正解」
「わかるよ。薫なら、絶対そうする」
「そっか……」
 薫は、美緒を不安に思わせるものなら、たとえ一つでも持とうとはしない男だ。そのためなら、たとえ元彼女の気持ちでもあっさりと切り捨てるだろう。確かに、美緒を傷つけない程度の相手になら、あえて何もしたりはしない。元々フェミニストな性格故、無駄に女を傷つけるようなことはしないのだ。それは、薫の優しさでもあるが、冷酷な部分でもある。
 一見、物腰が柔らかく、どんなものをも優しく受け止めてくれそうに見えるが、最後の最後、要のところでは冷徹に判断を下す男。その時の容赦のなさは、泉自身がよく知っていた。だから、薫は美緒を裏切らない、と信じていられるのかもしれない。
「泉くんがそう言うなら、きっとそれが先生の本当の姿なんだよね……」
「どうした? 何か気になるのか?」
「ううん。……ちょっと、深読みしちゃっただけ」
「深読み?」
「結城先生と何かあるから、わざと無視したんじゃないかとか。どうしてただの知り合いなら、話さなかったの? とか……」
 止まることのない猜疑心。
 薫を信じてないわけじゃない。むしろ、絶対的に美緒を愛してくれていることはわかっている。
 それでも生まれる不安は、薫を愛しすぎているからだ。きっと――。
「でも、泉くんの言葉で安心した。本当、バカだよね……私」
「信じられないのか? 薫のこと……」
「信じてるよ。でもどうしてかな……」
 美緒が泉の目を見つめる。透けるような彼の茶色い瞳には、戸惑いを浮かべた表情が写った。
「泉くんを100パーセント信じきれるのに、先生は99パーセントしか信じられないの」
 残りの1パーセントは、不安。
 いつか、愛想を尽かされるんじゃないか。
 いつか、嫌われる日が来るんじゃないか。
 いつか……別れる日がくるんじゃないか。
 その1パーセントの思いは、日によって形を変える。薫に抱き締められ、愛を感じれば形なんて全然見えはしないのに、時折膨らんではどうしようもなく全てを覆い尽くしてしまう。薫の愛を信じているのに、失うことに怯え、彼をまともに見れなくなるときもある。
 特に今。麻里を目にした時の美緒は、不安に全てを食い尽くされて自分を見失っていた。
「その1パーセントに嫉妬するな」
「……え?」
「羨ましいよ、その1パーセントの美緒の気持ちが」
 思いもかけない言葉。泉は美緒の頭にポンと手を乗せて、優しく微笑んでいた。
「薫にとっておまえは、最愛でいて最恋の人だってさ」
「最恋?」
 聞いたことのない言葉に戸惑う。薫の言葉だからこそ、余計に心が掴まれた。
「薫が前に、おまえのことをそう表現してた。最愛で、そして最恋の女なんだって」
「最恋……」
「失うことが怖いって。恋人っていう関係は脆いものだから、揺るがない関係が羨ましくて仕方がないんだって零してたよ」
「どういう意味?」
「おまえと同じように、薫もその1パーセントの不安を抱えてるってことだよ」
 100パーセントの信頼よりも、1パーセントの不安がどれだけ嬉しいものなのかを、きっと彼女は知らない。その不安の中に、どれだけの愛情が詰まっているのかを、美緒はわかっていないのだ。
 愛しているが故の不安。薫だけが操れる美緒の1パーセントの感情。それが、どれだけ甘く美しいか、彼女は知らない――。
「おまえにとっても薫が最恋の人だろう?」
「……うん」
「なら、その1パーセントも、薫を愛してる証拠なんだよ」
「そう……かな」
「完全じゃないから、相手のことを誰よりも欲しいとか、離れたくないって思うんだよ、きっと」
 曖昧だから、繋ぎとめておきたいと願う心。揺るがないものなら、求めたりはしないのだろう。欲しいなどとは、願わないのだろう。
 でも、そんな感情は、どんな思いよりも強いのだ。日々止まることを知らず、留まらず。1パーセントは、儚いようでいて、どんな感情にもけして消されることはない。相手を欲して欲してやまない恋心は、いつしか身を焦がすほどに。
 ――本当に、嫉妬する。
「でもな、美緒」
「なあに?」
「……いや、なんでもない」
 だからだろうか。
 ――不安に思う気持ちも、薫に伝えなければ意味がないんだよ。
 この一言が言えなかったのは……。
 彼女にそれを言えば、美緒の中にある自分の居場所を、薫に奪われるような、そんな気がした。美緒が素直に弱さを見せられるのは自分だけだという、唯一の優越感さえ失ってしまうだろう。そしてきっともう、全てが薫に敵わなくなる、と。今更、美緒のそばから離れるなんてことは、泉には耐えられなかった。たとえ、兄という立場に甘んじても……。
 そんな泉の愚かさを、美緒は知らない。知らないのだ。
「ありがとう、泉くん。いつも私に自信をくれて……」
「どういたしまして」
「泉くんがいて、良かった」
「当たり前だろ。俺を誰だと思ってんだよ」
「あはは。偉そうだね」
「少なくともおまえよりは偉いんだよ。おまえの兄ちゃんなんだから」
 互いに海を眺めながら、クスクスと笑った。
 自然と、触れた手。泉は、美緒の指を絡めとるように握り締めた。
「……泉くん、大好き」
 その言葉の中に1パーセントでも、恋心があればと願ってやまないのに。
「ありがとさん。俺も大好きですよ」
 この心は、君を妹だと思う1パーセントの嘘と、
 君に恋焦がれてたまらない99パーセントの愛しさだけなのに……。

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