華水の月

80.予防線

 麻里からメールが届いたのは、日曜の早朝だった。
 何とも思わず開いたメールの内容に、泉は訝しげに眉を顰めた。
 今麻里がいる場所は、彼女の家の近くにある総合病院だという。何故そんな場所にいるのか、その必要性があるのか、疑念を抱けば膨らむばかりで、泉は麻里の携帯へとメールではなく直接電話をかけた。
 数コールの後、プツリと電話が繋がる。麻里と話すのは久しぶりだったが、その声は元気そうで安心した。
 だが、その後すぐに聞かされた悲しい事実に、泉の目の前は真っ暗になった。



 これまで立ち入るのを避けてきた場所。
 それは美緒を思えばこそであったが、今の泉は、彼女に対する配慮こそ無用な遠慮であると自覚し、真っ直ぐに美緒とぶつかる覚悟を決めていた。
 麻里との会話の後、泉はすぐさま美緒の家へと向かった。
 インターホンを鳴らし、家の主が出てくるのを待つ。おそらく、美緒の母親辺りが迎え入れてくれるものと予想していたが、扉から顔を覗かせたのは、美緒自身だった。
 以前会った時よりも少し痩せ、大人びた瞳をしていた。泉が好きだった愛くるしいほどの笑顔は、すっかり消え去っていた。
「久しぶりだな」
 あ、と口は開くものの、声になっていない。美緒の困惑が、その表情から見て取れる。
「そう驚いた顔するなよ。ついこの間まで、毎日一緒にいた仲だろ」
「どうしたの? 突然」
 愛想笑いとも言える曖昧な美緒の表情は、言葉通り『何故』という戸惑いを隠しきれず、ドアにかけた手が僅かに震えていた。故意に外された視線に、泉の胸は酷く痛む。あれほどまでに泉に対して何もかもを素直に打ち明けてくれていた美緒が、今では自分の心を守るために必死に見えた。
「おまえに話がある。すごく大事な話なんだ」
 もはやここで拒否されたところで、美緒を逃がすつもりは泉にはない。無理矢理にでも説き伏せる覚悟でここまで来ていた。
 大事に思っているからこそ、泉は美緒を甘やかすつもりはないのだ。彼女が何かから逃げているのだとしたら、それは自分のせいなのだと、泉は気付いている。
 そして、その華奢な背を押せる人間は、自分以外に誰もいないことも――。


 家族は全員出掛けており、家には美緒一人しかいないようだった。リビングに通され、ソファに腰を下ろす泉の前に、美緒は客人用のお茶を出した。どんなに親しい人間にも礼節をわきまえている美緒なら、泉に対して茶を出すことは、関係が変わる以前であっても同じであったのかもしれない。だけれど、どこかで一線引いているような美緒の態度が、泉は悲しかった。
「薫とはもう会わないって、言ったんだってな」
 湯飲みを持ち上げようとした美緒の動きがピタリと止まる。緊張感が一瞬にして、空気中に張り巡らされた。
「本当にそれでいいと思ってるのか」
 長い睫に縁取られた大きな瞳は、戸惑いながら少し揺れ、はぐらかすかのように泉の視線には答えない。だが、一瞬見えた戸惑いは、美緒の溜め息とともに消える。
 美緒は、小さく首を振って、湯飲みをテーブルの上に置いた。
「なんかもう、疲れちゃった」
 ふいっと遠くを見つめる美緒の横顔がやけに儚く見えて、泉は手を伸ばしたい衝動に駆られた。
「いろんなことがありすぎて、結局何が悪かったのかわからないじゃない。どこまで戻ったらこんな今が来なくてすんだのかなんて、もう誰にもわからないじゃない」
 諦めと、後悔と。
「写真を見なければ良かった? 空港に迎えに行かなければ良かった? 泉くんと出会わなければ良かった? 先生を、好きにならなければ良かった? そんなこと一つも思ってもいないのに、突き詰めていけば、そうやって誰かを悪者にしてしまいそうな自分と向き合うのが、もう嫌なの」
 溢れ出しそうなほどの切望と――。
「もしその対象が、先生や泉くんになってしまったらと思うと、私はそんな選択肢は選べないの」
 だから、これ以上入ってくるなと、美緒が予防線を張る。
 どこか落ち着き払った美緒の態度に、泉は焦燥を募らせていた。瞳の動向や言葉の選び方から、美緒の心の中には複雑な感情が入り乱れていることは分かるのに、迷いながらも自分が何をどうしたいのか、きっちりと優先順位をつけているのが伝わってくる。大人びているというよりは、覚悟を決めているとも取れる美緒の態度に、どうやって美緒の心の中へと入っていけばいいのか分からなくなる。以前は分かっていたはずの、美緒の心への道筋は、もうその欠片さえ覗かせていない。
 たった少しの間離れていただけで、こんなにも距離を感じることになるだなんて、思ってもみなかった。
「薫を信じてないのか?」
 どうすれば、その予防線を越えられる――。
 どうすれば、君の臆病な心に手が届くのだろう――。
「薫のことを信じてないから、そんなことを思うんじゃないのか」
 泉自身も一度は薫を見失ってしまった。より当事者である美緒が、薫のことを信じられずに恐れてしまうのは致し方ない。
「信じてたよ。でも、信じ続けることが難しくなった。信じていないんじゃなくて、信じ続ける難しさに、私自身が耐えられなくなったとでも言うのかな。頭で考えるより心をコントロールするのはずっと難しいね。1パーセントなんて取るに足らないものだと思ってたのに、全然違ってた。こんなに不安になるなんて思ってもみなかった」
 いつか美緒が泉に話した、薫への1パーセントの不信。
 美緒の心の中で1パーセントを占めていた薫への不安が、今では猜疑心や恐怖に変わり残りの信頼を侵食してしまった。
「ずっと大丈夫って自分に言い聞かせてたのに、大丈夫よりもどうしようとしか思えなくなってることに自分が気付いた時、ああもう無理かもしれないって思った。信じたいっていつも思ってたはずなのに、怖くて怖くて本当のこと聞けなかった。先生を真っ直ぐ見ることより、自分を守るのに必死だった。最後まで信じきれなかったのは私が弱かったから。きっと今の私は同じことを繰り返すと思う。……自信なんて、一度失ったらもう取り戻せないよ」
 頼りない美緒の声に、泉は目を伏せた。
 美緒の言葉は嘘ではないのだろうが、根本的な何かが違っていると思った。
「それは、違うだろ。自信なんて、最初からなかったじゃないか」
 自分が本当に愛されているかも分からない。それでも、薫の優しさや言葉一つ一つを大事にしてきた美緒が、今更自信なんてものに拘る理由など、ないはずだった。
「自分に自信がないくらいで薫から逃げるような女じゃないってことは俺が一番知ってる。どれだけ挫けそうになったって、気持ちに負けそうになったって、薫のためなら努力することも我慢することも惜しまないのが美緒だっただろ」
 美緒がずっと薫に追いつこうと必死だったことを、泉が一番知っていた。泣き言も言わず前だけを見る、そんな背中を見てきた。だから、そんな嘘では騙されない。
「おまえが臆病になったのは、俺に対して罪悪感があるからだろ。俺がおまえを好きだという、その気持ちに応えられないから、おまえは薫の傍にいるのが申し訳ないんじゃないのか。それは俺に対する同情なんじゃないのか」
 だからこそ、泉もずっと苦しんでいた。愛さなければ良かったなんて思えないからこそ、余計に。
「言わせてもらうけど、俺は同情されたくておまえに告白したわけでも、おまえを愛したわけでもないからな。そんな甘い覚悟でおまえと向き合ってきたわけじゃない。軽い気持ちで、一番大切な人の恋人を愛したりしない。ましてや、おまえたちを引き離したいなんて、一度も思ったことはない。俺はいつだって、おまえとは真剣に向き合ってきたつもりだ。おまえが言ったように……叶う叶わないは、問題じゃなかった」
 ハッと息を呑み唇をかみ締めて俯く美緒の前へ、泉が膝を折り、両手で美緒の腕を掴んだ。俯く美緒の視線の前には、泉の真剣な瞳。光に透ける淡いブラウンは、昔も今も翳りを見せない。
「おまえの同情なんて、俺は最初から欲しくない。そんなことされるくらいなら、嫌われた方がマシだ」
 だから、本心を曝け出して、と泉の瞳が語る。言葉は厳しくとも、美緒を見つめる泉の瞳は、以前と変わらず優しかった。
「それは違う」
 優しくて優しくて。
 いつでも美緒のことを真剣に受け止めて励ましてくれる、優しい茶色の瞳だ。
「それは違うよ、泉くん」
 美緒は、はっきりとした声で泉の言葉を否定した。
「同情と、守りたいものは違う。自分の目線を相手に合わせて下げた感情が同情なら、私にとっての泉くんへの感情は、もっと深くてもっと高い。傷つけたくなくて失いたくない。私は泉くんに同情なんてしていないし、誰かへの同情で諦められるような恋もしてない。そんな脆い気持ちなら、最初から先生を好きになんかなってない。泉くんが思ってるよりも、私はずっと先生のことが好きなんだよ」
「なら、どうして」
 好きならば、なぜこうなってしまったのか、泉には分からない。
 美緒は一呼吸置くと、ゆっくりと答えた。
「分かってもらえないかもしれないけど、先生を信じられなくなる前と後での愛情の変化なんて、私にはないに等しいの。どれだけ苦しくても好きだし、裏切られても好きなのは変わらない。でも愛情と情緒は必ずしも同じじゃないでしょう。好きなだけでは信用なんて保てない。どれだけ好きでも、事実に流されはじめてしまえば、見失うのはあっという間だった。それでも沢山あった大事なものが手のひらから零れ落ちていくのを見ているだけなんて、いられなかった。先生を信じられなくなっても、たとえどうにもならなくても、何か一つくらい私の守れるものを守りたかった。好きだから、先生の大事なものを守りたかった。……ねえ、泉くん。私が泉くんにどれだけ救われてきたか、知らないでしょう?」
「俺に……?」
「泉くんに出会って、泉くんと沢山話をして、泉くんが私のことを妹だって言ってくれた時から、いつの間にか私の中の泉くんは、本当のお兄ちゃんみたいに近い存在だったんだって思う。何も飾らない自然なままの私でいられた。一緒にいて、笑って泣いて、時々怒って。泉くんが居たから、どれだけ不安になっても先生を好きでいられたし、先生をもっと好きになってもいいんだって背中を押してくれたのは泉くんだった。泉くん以外に、こんなに心の中を見せられた人なんて、今まで居なかったよ。……私、親にもこんなに自分を見せたことないの。おかしいでしょ。どれだけ自分を庇って生きてるのかって呆れるでしょ。でもね、誰にも本当の自分を見せられなかった私が、泉くんに出会って少し変わったの。私が私のままで変わらずにいてもいいんだって、少しずつ思えるようになったの」
 泉がずっと手離すことができなかった薫に対しての優越感は、確かに美緒の中でも大きなものだった。そこに泉の恋情などなければ、最初から何も問題はなかったのに。
「私が泉くんを慕っていたからっていう理由だけじゃない。先生がすごく大事にしていた人だから壊したくなんてなかった。私と先生が上手くいかなくなってから、泉くんの先生を見る目が少しずつ変わっていったことを、私はどこかで気付いてた。先生と泉くんの仲が壊れることは、私にとって一番嫌なことだったの。どうしても、貴方たち二人を引き離したくなかった。でもそれは、私が居たら叶わないでしょう。私のせいで、泉くんは先生を信じられなくなったんでしょう。先生をそんな目で見ることが、泉くんにとって辛くないわけないって分かってるのに、私の存在が泉くんの心を惑わせて、泉くんの中の優しい先生を奪ってるって分かってるのに、どうしてそんなことを選べると思うの」
 こんなにも深く泉のことを考えてくれている美緒の言葉に、胸が熱くなる。
「先生にとって泉くんは、誰にも代えられない大事な人なんだよ。先生と泉くんを見てたら、二人の絆がどれだけ深いものなのかくらい私にだって分かる。そんな人を、ただの人生の通過点でしかない私が壊せるわけないじゃない」
 ここまで言われて、響かないわけがなかった。
 掴んだ腕を引き寄せて、抱きしめてしまいたくなる。潤んだ瞳に口づけて、自分だけのものにしてしまいたくなる。憎らしくて愛おしくてたまらなくなる。
 だけれど、泉は腕を掴む指にグッと力を込めると、溢れそうになる想いをかみ締めて、美緒の甘さを睨みつけた。
「随分と物分りのいいことだな。おまえは前からそうだ。外面ばかり気にして思うままに動かない。自分の作り上げた良い子の虚像を守るために必死で、本心から逃げてばかりいる。でもそんなもんはな、本気でおまえにぶつかってくる相手には通用しない。おまえがどれだけ体裁守ったところで、見抜かれるのがオチだ。いつまでも甘ったれたこと言ってんじゃねえぞ」
 これまでにないほど低く響く泉の声に、美緒の肩がビクリと竦む。それを押さえ込むように泉の手にも力が篭った。
「俺のためだって? 人のせいにして、自分を庇ってんじゃねえよ。モラル振り翳して必死で守ってるのは、俺でも薫でもなく自分じゃないか。そうやって俺を盾にして、薫からも俺からもおまえは逃げてんだよ」
「違う、私は」
「違わない!」
 浴びせかける怒声に、美緒の瞳は恐怖の色を帯びる。それでも泉の目を見ていられたのは、泉の想いが単なる怒りではなく、美緒を想うが故だということを、美緒の本能が感じていたからかもしれない。
 美緒を責め、傷つけてしまいそうな言葉を並べているのに、泉の瞳からは、今にも泣いてしまいそうなほどの慈愛と悲しみが溢れていた。
「だったら、おまえのしてることは最も正しくて、誰も傷つけてないだなんて思ってるのか? おまえの犠牲が誰かを幸せにするなんて思ってるのか。俺からも薫からも距離を置いて、それで全てが丸く収まるとでも思ってるのか? ふざけんな。おまえのせいで、薫はこれ以上ないほど傷ついてる。本当はおまえに傍にいて欲しいのに、気持ちをぶつけられないことがどれだけ苦しいのか、おまえには分からないのか。おまえに分かってもらえなくて、おまえに何も言えないことが、どれだけつらいことなのかどうしてわからない。どうして、一番好きな人を悲しませるような選択を、おまえは選ぶんだよ」
「それは……」
「俺のことを想うから? ……そんなことは言い訳にすぎないぞ。薫にとって一番大事なのは、俺じゃなくて美緒なんだ。おまえがどれだけ他のものを守っても、薫にとっての一番がなかったら意味がない。だからおまえは誰よりも薫だけを選ばなきゃいけないんだよ。愛してるんだろう。こんな時でさえ誰にも媚びないくらい、薫はおまえにとって絶対的な人だろう。そんな人を傷つけて、おまえは何をやってるんだよ」
 何もかもを振り切ってでも、大事なものだけを追い求めて欲しかった。
「いいんだ。……いいんだよ、もう。俺のことなんか気にするなよ。俺の幸せなんか切り捨てろよ。俺が泣こうが傷つこうが、もっと貪欲に自分のためだけに生きようとしろよ。俺のことなんかいらないって言えばいい。……俺は、おまえの心の枷にだけはなりたくない」
 手で顔を覆って唸るように言う。心は叫び声を上げていた。
 薫を苦しめて、美緒までも苦しめて。だったら一体自分は何のためにいると言うのだろう。
 なんだかもう泣いてしまいたい気分だった。
「切り捨てろなんて、勝手なことばっかり言わないで」
 美緒は泉の言葉を黙って聞き、細く息を吐くと、小さく呟いた。
「なら、どうして私の心に踏み込んだの? 優しくされればほだされる。助けてくれる手があればその手に縋る。泣ける場所があれば、そこへ帰りたいと思う。弱い心は、簡単に他人へと心の居場所を明け渡してしまう。それが人間でしょう。泉くんだってそんなこと分かってたでしょう。壊したくないから手放したのよ。大切にしたいから。変わらないでいてほしかったから。私にとって泉くんの言葉は、何よりも私を強くしてくれるものだったから。なのにそれを簡単に捨てろだなんて……そんなこと言うなら、最初から大事な人になんてならないでよ」
 縺れた情。それを絆と呼ぶのなら、泉と美緒の間にも、それがある。
 思いの深さが同じだから、譲らないし交わらない。
「泉くんはずるいよ。私の心の中にしっかり居座ってるくせに、今更そんなこと言うなんて勝手だよ。泉くんが切り捨てられるくらいの人だったら、守りたいなんて思ってない。それに……泉くんがいなくなればどうにかなった問題でもないでしょう。単純に何か一つだけを元に戻せばいいのなら、こんなことにはならなかった。何から手をつけていいのか分からないくらい、色んなことがあった。壊れないようにって必死で守ろうとした。……私は私なりに、本当に必死だった。甘えてたわけじゃない」
 そうだな、と心の中で呟いたけれど、言葉にはしなかった。ただ純粋にどうにかしようと我慢し続けた美緒を知っているだけに否定はできないし、だからと言ってそれを看過してきたことを良しともしていなかったからだ。
 単純なことではないことくらい、泉にも分かっている。人の気持ちが複雑に絡みすぎて、それは猜疑心も憎しみも生み出してしまうほど深く根付いてしまった。美緒がそう思うのは、仕方がない。
「ほら、今だって私は無意識に泉くんに責任を押し付けてるでしょう。泉くんには何の責任もないのに、泉くんがいなかったら私と先生の関係なんてとうの昔に壊れてたかもしれないのに、それを棚に上げて泉くんの優しさを詰ってる。こうなることが分かってたから、もう会いたくなかったのに……。これ以上自分を嫌いにさせないで」
 自分を責めて苦痛に顔を歪める美緒を見ていると、悲しみが泉の胸を過ぎった。
 美緒は自分に厳しすぎる。美緒にとっては、嘘偽りなく心の底から願っていることなのだろう。美緒の一番は自分ではなく薫だ。だから、薫の大事な泉を絶対に取り上げまいと必死になっている。たとえ自分が傍にいられなくとも、それでいいと覚悟すら決めている。自分のためだけにワガママに生きられない。自己犠牲愛の強い女故の、悲しい性だ。
 そんな彼女を、人は『優しい』と褒め称えるだろう。他人に甘い人間を、他人が非難はしないのだから。だけれど泉は、美緒の幸せを思えばこそ、腹の底から苛立ち、怒りさえも覚えた。
「美緒、おまえの幸せって、一体何なんだ」
 美緒が心の中で決めていることの一番は、薫と泉の絆であることはわかった。
 では、美緒の本当の気持ちは――?
「出会ったばかりの頃のおまえは、本当に幸せそうだった。いつも笑ってて、綺麗で、そんなおまえを俺は好きになったんだ。今になって分かるよ。俺が好きになったおまえは、いつだって、薫の隣にいたお前だったんだって」
 泉は、本心を偽っていた。
 確かにきっかけは薫を大事に思ってくれた美緒を良く思ったから、というのに過ぎないが、何の障害もなく出会っていても、きっと恋に落ちていた。美緒を愛したのは運命だ。だから、薫が居ようが居まいが、きっと構わず愛しただろう。だから、これから先二人に何があっても、美緒への泉の気持ちは変わらない。
 だけど、言わない。
 美緒の心の枷になるかもしれないことを、泉は口にはしなかった。
「薫と一緒にいることが、おまえの一番の幸せだろう?」
 美緒はただ俯いて、首を振ることも目を合わせることもしない。
 否定できないということは、認めているのと同じだ。
「美緒。この世には、何も傷つけずに得られる幸せなんて、ないんだぞ」
「そんなこと……」
「幸せと絶望は、いつだって対極で誰にでも同じだけある。でもそれは何故だかわかるか。絶望を知らない人間は、幸せも知らない。幸せを知らない人間には、絶望を乗り越えようとする糧はないだろう。人はいつだって、幸せを得るために、絶望という代償を払ってる」
 優しいだけでは、人は生きられない。時に、何かを捨てる覚悟も必要なのだ。
 だけど美緒は、捨てるものを間違っている。
「わからない。……泉くんの言ってること、私にはわからないよ」
「わからなくない。本当は分かってるのに、分からないふりしてるだけだろ。……おまえは、そうやって逃げてるだけだ。人を傷つけたくないんじゃない。自分が傷つくのが嫌なだけなんだよ。薫と俺を引き離したくないのはおまえにとって理由の一つでしかないだろ。それとは別に、自分が真実を知って傷つくのが怖いだけじゃないのか」
 美緒は、大きく頭を振って、泉の言葉を聞かないようにと拒否した。
「美緒。……おまえが、薫を信じられなくなるのは、仕方のないことだったんだ。ずっと一緒に生きてきた俺でさえ、薫を一瞬で見失って憎んで、どうしていいかわからなくなった。今のおまえに、これ以上頑張れなんて本当は言いたくないよ。でもな、知らずに終わるくらいなら、傷付いても知った方がいい」
「な、にを?」
 震える声が、美緒の心の中にある恐怖にスイッチを入れる。
「今朝、麻里さんからメールが来たんだ。話があるから、おまえを連れてきて欲しいって」
 一番知りたくて、でも知りたくなかった事が美緒の心に迫り来る。
「今から行くから支度しろ。外にバイクを止めてある」
 当事者ではない泉が、薫と麻里の関係の真実を直接美緒に告げるべきではないと分かっている。だから、美緒自らに真実を確かめさせようと思った。荒療治だが、美緒の為だと思ったのだ。
 予防線を越えられるとしたら――美緒の心の鉄壁を破るとしたら、これしか方法がなかった。
 何もぶつかり合わずに壊れていくくらいなら、いっそ砕けるほど当たってしまった方が良いことだってある。
「全部、終わりにしよう」
 美緒は、臆病な心に食い殺されてしまうような弱い女ではないと、泉は信じていた。

 麻里の存在が美緒の心を壊すことは、わかっている。
 傷つけるしか美緒の心に踏み込める方法がないなんて、泉自身が美緒から拒絶されてしまうかもしれないと分かっている。
 それでも。
 それでも――。



To be continued....

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