華水の月

79.天つ空に

 気が付くと、白濁した世界の中で、一人ぼっちで座っていた。
 地面――と呼べるような、硬質な感触は足元に伝わってこず、ここが現実の世界ではないという憶測が脳裏を掠めた。
 ゆっくりと頭を振り、辺りを見回すと、霧が立ち込めたような真っ白な景色がどこまでも広がっていた。目印と呼べるような特別なものを見つけることができず、それは次第に方向感覚を奪っていく。夢と呼んでしまうには、体がやけに現実感を帯びている。空気はどこかしらヒヤリとしていて肌を撫で上げるし、何気に声を上げてみれば、ちゃんと空気の中で響くのだ。
 だが、水中で声を発しているように鼓膜を押さえつけて低く響く音は、どこか不思議に思えて仕方がない。

 麻里は地面に手を付いて立ち上がった。
 今いる自分の状態を確かめようと、目を下方へと向けると、裸足の上を霧がやわやわと覆い、真っ白のワンピースだけを着ているという自分の状況を理解した。右も左もわからぬまま、おそるおそる一歩を踏み出す。
 だが、地面に立っているという感覚がいまいちなく、ついついつま先に力が入ってしまう。数歩いったところで、何も景色が変わっていないことに気付く。
 この世界は距離も時間も、何もかもが無な場所なのかもしれない。
 ありえない。そうは思っても、この異質な世界は、現実にあるどの風景でもなく、ある一つの場所を思い浮かばせるのだ。
 ――死後の世界。
 テレビや映画でも、死の狭間に立った人間が訪れる場所として、こういった風景を創り出してはいなかっただろうか。
 麻里は途端に怖くなった。何が怖くなったのかは、分からない。生というものに特に執着したことなどないが、失いたくない絶対的なものがあったことを、心が覚えているのだ。それを失ったかもしれないことに、怯えている。
 胸の中にポッカリと穴が開いたようで、その穴から吹き抜ける風をせきとめようと、麻里は両手で胸を抱え込んだ。
「――――」
 遠くで何かの囁きが聞こえた気がして、ハッと顔を上げた。キョロキョロと辺りを見回すが、何の影もなく、ましてや霧がどよめく気配さえない。
 だけれど麻里は、夢中でその音のする場所を探し求めていた。大事なものがポンと抜け出ている。そしてその記憶の断片を、たった今感じた気がした。思い出さなければいけないとても大事なことが自分にはあるということが、麻里には分かるのだ。
 どうしようもない焦燥感と、混沌としている世界がやけに噛みあっていなくて、麻里は苛立ちに掻き立てられながら、辺りを走り回った。ふと何かに後ろ髪を引かれた気がして、振り返る。
「ママ――」
 その時、確かに麻里の耳には聞こえていた。
 目を凝らすと、立ちこめる白い霧の向こうに、うずくまるような小さな影を見つけ、麻里はアッと口を開いた。
「誰かいるの?」
 音叉がポーンと響くように、麻里の声が世界全てに溶け込んだ。
 小さな影がゆっくりと振り向く。麻里の姿を見つけ、一歩また一歩と歩み寄ってくる影には次第に光が差し、麻里の目にもハッキリとその姿形を映し出した。訝しげに見つめていた眼差しは、相手に敵意や警戒心がないと知ると、すぐに解けていった。
「あなた……」
 栗色で、毛先がクルクルと巻いた柔らかそうな髪。表情豊かなクリクリの愛くるしい瞳。血色の良いばら色の頬。
 遠目でははっきり分からないが、麻里の膝くらいまでの高さしかない小さな体躯。二歳に満たないかくらいの小さな女の子が、麻里の姿を見つけ、嬉しそうに微笑んでいた。その姿形に、麻里は幼い頃の自分を見ていた。どこがどう似ているかというレベルを超えて、少女は麻里にそっくりだったのだ。
 そして、少女の小さな唇は、麻里を見て『ママ』と小さく象った。
「あ……」
 パン! と頭の中で何かが弾け、霞みのかかっていた意識に風が吹き荒れクリアにしていく。
 麻里は衝動的に少女の元へと駆けた。躓きそうになる不恰好な走り方なのに、気にもせずひたすらに走った。
 早く抱きしめたい。早く触れたい。早く、早く――。
 麻里は膝をつき、両手を大きく開いた。その腕の中に、同じように必死で駆ける少女が飛び込んでくる。柔らかな衝動が胸に響き、麻里は少女を掻き抱いた。
 ああ……。
 胸にこみ上げる愛おしさと安心に、麻里の心はキュウと音を立てるように締め付けられた。柔らかく小さい体をひしと抱きしめると、少女もそれに応えるように麻里の服を掴んだ。
 だけれど少女の体には重さがなく、麻里は雲を抱いているような錯覚を覚えた。
「ママ」
 そう呼ばれ、ハッとする。そして、その呼び名に違和感がないことを知り、自分が妊娠していたことを思い出した。この子を、我が子ではないと否定する理由が見つからないほど、少女は麻里に似ていた。それ以上に、血の濃さが互いを分かち合わせるのか、言葉にできない愛おしさを感じるのだ。
 だが、この子を何と呼んであげていいのか分からない。
 自分がこの少女の母親であり、この少女は我が子であることが分かるのに、まだ人として出会う前に出会ってしまった存在には、名を付けているはずもなかったのだ。
 麻里は、名を呼ぶ代わりに少女を抱き締め、柔らかい頬に自分の頬を摺り寄せた。優しい匂いが鼻を掠める。それはどこか懐かしくて、安心をもたらしてくれる。何の匂いだろう。この匂いを知っているはずなのに、何なのかわからない。麻里は、少女を抱く力を少し緩め、腕の中から解放してやった。少女は、紅葉のような小さな手のひらを麻里の頬にぴとっと付け、黒目がちの大きな瞳で麻里を見つめ、優しく微笑んだ。
「会いたかったあ……」
 触れた手には温もりがないのに、麻里を見つめるその瞳が全てを物語っていた。
 麻里だけを必要とし、愛してくれるその瞳。ただ麻里を求めて、会いたかったと言ってくれた。
 何故、今まで気付くことができなかったのだろう――。
 一度は殺そうとした我が子。だけれど、その存在だけが、麻里を無償で愛し、必要としてくれる人間なのだと、何故――。
「ごめんね……」
 震える声で、麻里はただそう言った。
 この言葉を、もう何度口にしただろう。身ごもってからというもの、人の優しさや愛情に殊更敏感になった。申し訳なくなるほど感じ、それが自然と『ごめんなさい』という言葉に変わった。
 少女を映す視界が徐々に霞んでゆく。瞳には薄い膜が張り、それは次第に大きな涙となってポロリと頬を伝った。自分がこの世界にいることの理由を、知ってしまったのだ。この子をもう現実に抱くことはできないのだと、悟っていた。
「守れなくて、ごめんね……。抱いてあげられなくて、ごめんね……。私が母親で、ごめんね……」
 紅葉の手が、麻里の涙を不器用に拭う。小さな手のひらが、ただ何度も何度も麻里の頬を往復していた。困った顔をして、麻里の涙を止めようと必死だった。
「泣かないで。泣いちゃだめ」
 舌足らずな可愛い声。無条件で愛らしくて、ただ愛らしくて仕方がなくて、麻里は衝動的に我が子を抱き締めた。ただ腹の中にいた命に過ぎなかった存在が、麻里のことを想い心配している。腹の中に命を宿した瞬間から、誰が何と言おうと、この子は麻里の分身だったのだ。絶対的な麻里の味方だったのだ。
 罪の意識で押しつぶされそうになり、唇を痛いほど噛み締めていると、麻里の耳元に小さな愛らしい声が再び響いた。
「ママは悪くないよ。最初からね、生まれないのは決まってたの……」
 思いがけない言葉に、麻里の意識は少女へと注がれる。
「でもね、ママにどうしても会いたくて、会いにきちゃった。またここに戻ってきちゃうって分かってたけど、ママに知って欲しかったの……」
 たったそれだけの台詞なのに、それをも助長する何かが麻里に伝わって、少女の意図することが心の中へと流れ込んでくる。
 ただ麻里に会いたくて、ただ麻里に愛して欲しくて、ただそれだけの想いを胸にこの子は麻里を選んだ。自分の宿命を知っていて、麻里の元へと宿ったのだ。
 ただ、麻里だけを愛して――。
「ママに会えて嬉しい。ママに会えて良かったあ。だから泣かないで――」
 少女は、麻里に縋りつくように、ひしと抱きついた。
 胸に顔を埋め、あるはずもない温もりを伝えようとしている。泣かないでと、ただ心配して、麻里に思いを伝えようとしていた。小さい体で一生懸命に慰めようとしていた。何も言葉にならなくて、想いが麻里の胸に引っ掛かる。
『この子は、おまえを選んでここへ宿ったんだ。誰でもない、おまえが母親じゃないとダメなんだと、それを伝えるために』
 以前、薫がそう言っていた事が、麻里の脳裏を掠めた。
 麻里はゆっくりと、瞼を閉じた。
 ――そうね。その通りだった。
 何故、もっと早く気付いてやることが出来なかったのだろう。何故、自分の気持ちばかりを庇い、我が子の想いを受け止めてやらなかったのだろう。命あるものに心があることを、察してやれなかったのだろう。
 そんな後悔が、胸に渦巻き、重い痛みだけを残した。
 だけれど、腕の中にある小さな塊を抱きしめていると、麻里の想いは自然と浄化されていった。こんな形であっても、我が子に会えた事をこんなに幸せに思えることに、自分の中にある母親の愛情を見たのだ。
「ごめんね。ごめんね」
 柔らかな髪に指を差しこみ、愛しげに髪を梳く。何度もごめんねと囁く麻里の腕の中で、少女は小さく笑った。麻里の胸に頬ずりをし、うっとりと目を閉じ、母親の匂いを大きく吸い込む。吐く息に、安心が混じる。その表情は本当に幸せそうで、麻里はたまらず少女の額に頬ずりをした。
「ごめんね」
「違うよ。ごめんなさいじゃなくて、ありがとう」
「え?」
「ありがとうだよ」
 ね? と、無邪気に笑って麻里を見上げる少女の言葉に、麻里は胸を熱くする。
 『ありがとう』だなんて、この子に言ってもいいのだろうか。
 産んであげることもできなかった。それなのに――。
「ママで居てくれてありがとう。愛してくれてありがとう。抱きしめてくれて、ありがとう」
「そ、んな……」
「いっぱいいっぱい、ありがとう。ママ」
 反射的に溢れる涙を抑える術など、見つけられるはずもない。
 誰かに『ありがとう』と言われて、こんなにも胸が苦しくなることなど、これまで生きてきた中で一度もなかった。こんなに胸を熱くし、切ない想いの『ありがとう』が存在することなど、知らなかった。居てくれるだけで感謝する。そんな風に思ってくれる存在に、初めて出会った。
 離れたくない。
 離したくない――。
「私を、一緒に連れていってくれないの?」
 懇願するように絞り出した言葉は、本心なのか、それともただ寂しかっただけなのか分からない。
 だけど少女は、麻里のおでこに自分のおでこをくっつけると、小さく頭を振り、子供のように泣きじゃくる麻里を覗きこみながら、笑った。
「ママは大丈夫だよ。ママの傍には、いつも大事な人がいるんだよ。だからね、大丈夫」
 額に降る小さなキス。
 麻里の頬を小さな手が包みこみ、少し背伸びをして、額へと小さな唇が押し当てられていた。麻里の身を案じ、慰めるように包みこむ体から、その時初めて体温ではない温もりを感じた。
 そして、また鼻を掠める懐かしい匂い。それらは次第に麻里の涙を止め、彼女は少女の瞳をまっすぐに見つめると、誇らしげな母親の顔をして静かな微笑を唇に浮かべた。
「ありがとう……。私を選んでくれて、ありがとう」
 言葉にすれば、唇が震え出す。震えは涙を揺らしながら沸きあがらせてくる。
 少女は、嬉しそうに笑い、麻里の髪を優しく撫でると、そっと身を離した。ぴったりとくっついていた体と体の間に空間ができ、白い霧が漂ってくる。
「あっ……」
 手離してしまうことが恐ろしくて、思わず声を上げていた。まるで自分の半身が無理矢理引き千切られるような衝動。離れていく指先に視線が注がれ、追いかけるように、麻里の手が少女の手を掴む。
 だけれど、それはスルリと抜けるように、手のひらと手のひらが触れた瞬間、離れていった。
 
 ――また、会おうね。

 柔らかく愛らしい笑顔が、小さな約束だけを残して、白い世界に溶けていく。
 宙を彷徨う手は何度伸ばしても空を掠めるだけで、少女に届くことはなかった。





 雨が、降っているのかと思った。
 世界は暗く、ただシトシトと水の音が這うような空間にいるような気がした。
 時折、柔らかい感触が頬を撫でる。
 真っ暗な闇の中にいるというのに、その感触は酷く麻里の心を落ち着かせ、次の瞬間、懐かしい匂いが鼻を掠めていった。
 重い瞼を、ゆっくりと開ける。

 ――ああ。やっぱり雨が降っていたのね。

 目の前に広がる世界を見た瞬間、麻里はその優しい雨に口元を緩めた。

 ――私の空が、泣いているんだもの。

 体が激しく痛んで、すぐに言葉には出来なかったものの、心の中でそう呟いた時、やっと戻るべき場所に帰ってきたような気がした。
 目の前で、しとしとと零れ落ちる雨。麻里の瞳に映るたび、その雨はただ甘く優しく変わっていく。
 薄闇の病室の中、麻里の寝るベッドの脇に腰掛けていた祐介が、麻里の手を握り締め、泣いていた。
「麻里?」
 握り締められた手を、少しだけ力を込めて握り返す。私はここにいるよ。そう、伝えた。目元が赤く腫れて、優しげな目元が頼りなく見える。
 バカ――。
 バカだけど、バカだからこそ愛おしい。
 祐介は、薄闇の中で麻里の表情を確かめるように探り、幻を見るかのような瞳で、麻里を見つめていた。
「……うすけ」
 声が、掠れている。
「喋るな」
「……ゆう、すけ」
「喋るなって、言ってるだろう……」
「祐介……」
 言葉にすればするほど、祐介の瞳から涙が零れ落ちる。瞳に浮かんだ涙の粒が、こらえるように閉じた瞼の隙間からポロリと伝った。
 男のくせに、こんなに無邪気に泣くなんて。
 簡単に泣く男など、なんだか頼りなくて、男の風上にも置けないと麻里は思う。だけれど、麻里のために泣いているその光景が、とてつもなく愛おしかった。祐介が、麻里のおでこに自分のおでこをくっつけ、ゆっくりと頭を抱きしめる。その時、少女から感じた懐かしい匂いが、祐介からふわりと香ってきた。
 ああ、大事なものはここにもあったのだと、麻里の胸は締め付けられた。
「ずっと、傍にいてくれたの?」
「あたりまえだよ。おまえの傍を離れるなんて、俺にはできない」
「なあに、それ」
「おまえが俺をいらないって言っても、俺はおまえの傍を離れない……っ」
 意地でも離れてやるかと、抱きしめる手に力が込められる。祐介の涙が再び零れ落ちた瞬間、それが麻里の頬を滑り、麻里は小さく溜め息を零した。
「……バカ。あなたは女を見る目がないわね、本当に」
 麻里が誰を好きでも、どれだけ惨めでも、最初から最後まで見放すことなく傍にいてくれたのは祐介だけだった。見返りなど何もなく、麻里は何一つ祐介の為にしたことなどないのに、彼はただひたすらに麻里を思ってくれていた。
 自分の何がいいのか、正直麻里にはわからない。
 だけれど、祐介がどれだけいい男なのかということは、嫌と言うほど知っている。
「泣かないでよ。男が泣くなんて、みっともないわ」
「分かってるけど、どうしようもないんだよ」
「情けないわね」
「分かってる」
 顔を少しだけずらして、祐介の涙にキスをすると、祐介はさらに身を寄せた。離したくないのだと、涙が語っている。
「でも、貴方に会えてよかった」
 そんな貴方に出会えて良かった。心から、そう思う。
 麻里を好きだと言ってくれる男は、この世にいくらでもいるだろう。だけれど、無条件で愛し、泣いてくれる男など、祐介以外に居はしない。
 我が子と同じような無償の愛情で包んでくれる男など、居はしないということに、今気付いた。
「バカはおまえだ。そんなこと、俺はおまえに出会った時から感じてるって言うのに」
「え?」
「俺のそばに居てくれてありがとう。ここにおまえが居てくれることが、俺は何より嬉しい。嬉しいんだよ」
 麻里の手を両手で握り締め、祐介はその細い手首に縋るように涙を零した。
 居てくれるだけでありがとう、だなんて、そんなことを言ってくれる人がここにも居るだなんて思わなかった。
 麻里は、祐介の頬にそっと手を伸ばすと、涙を指先で拭い、髪に手を差しこみ、ゆっくりと祐介の頭を胸の中へと掻き抱いた。我が子を抱いたときには感じられなかった重みと温かさがそこにある。現実に、麻里を愛してくれる人はここにいる。そんな祐介のことが、愛おしくてたまらなかった。
「私も、ありがとう」
「……うん」
「祐介にも赤ちゃんにも、いっぱいありがとうって言いたい」
「麻里……」
 不安そうな瞳が、麻里を見上げる。何かを言いかけた唇が、噛み締められた。流産の事実を告げるか告げぬべきか迷っていることなど、麻里にはすぐに読めた。その優しい瞳が何を語るかなど、すぐに分かってしまうほど、彼らの心はもうずっと近くにいた。
「可愛い女の子だったよ。ついさっきまで、私のそばにいてくれたの。泣かないでって、ありがとうって」
 困ったようだった祐介の表情は、麻里の言葉で柔らかく解けた。
「……そうか」
「私の小さい頃にそっくりだった。手なんてすごく小さくて、髪も細くて、笑顔が愛おしかった。あんなに小さいのに、私のこと心配して抱きしめてくれるのよ。だから分かった。最期に会いに来てくれたんだなって」
 『最後』ではなく『最期』であることが苦しくて、麻里の表情が少しだけ歪むと、祐介は慰めるように微笑んで見せた。
「……俺も、会いたかったな。麻里の赤ちゃんに」
「貴方ならきっと愛してくれたよね」
「あたりまえだ」
「いっぱいいっぱい、愛してくれたよね」
 その手で、その声で、どれだけの愛情を注いでくれたことだろう。
 貴方に一番に会わせたかった。抱いて欲しかった。
 でも、それももう叶わない――。
「祐介……私、もうちゃんと笑えないかもしれない」
 失ったものは、あまりにも大きくて。
「あの子が励ましてくれたのに、ずっとずっと立ち直れないかもしれない。思い出すたび、泣くかもしれない……」
 でもそれは、祐介にとっても同じだった。
「泣いていいんだよ麻里。だってそれは、君があの子をちゃんと愛していたっていう証じゃないか」
 そう言いながら祐介の心が泣いていることが、麻里にも伝わってくる。
「一緒に泣こう。涙が枯れるほど泣いて泣いて、それから笑えるようになればいい。泣くしかできなくても、それで愛してるんだって伝えればいい」
 優しさが、麻里の心をきつく抱きしめる。祐介の優しさも、その存在を教えてくれたあの子の優しさも。
 そんな一つ一つの優しさに、胸が苦しかった。
 苦しくて苦しくて、堪らなかった――。
「ねえ、祐介。……赤ちゃんはいなくなっちゃったけど、でも私、本当に大事なものに気付けたよ」
「大事なもの?」
「何も知らずに生きていくところだった。こんなに大事なものを失ってしまうだなんて、私はなんてバカだったんだろうって、今になって思うわ」
 そして再び、祐介を抱きしめる。我が子の手を掴めなかったその手の中には、麻里の幸せだけを願ってくれる大事な人がいる。
 麻里はもう、自分の幸せを見つけていたのだ。いつも、追い求めるばかりだった幸せ。
 本当はいつだって麻里のそばでは、ささやかな優しさが溢れていた。最初からあったわけではない。祐介が惜しみなく与えてくれたからこそ、そこにあった。近すぎて、見えなかった。見えていたものさえ、特別なものだと分からないくらいに溢れていた。
 それを気付かせてくれたのは、もう抱くことのない我が子だ。生まれることはないと分かっても、やっぱり出会えたことを嬉しく思う。
 君がいなければ、何も見つけられなかっただろうから――。
「どうして、もっと早くに貴方を見つけられなかったんだろう」
 愛していると気付くには、遅すぎたのだろうか。
 手放そうとさえした。それがどれだけ愚かなことだったのかを、今になって思い知る。
 愛している。ずっと愛していた。
 本当はずっと前から、貴方という人を――。
「やっと。やっと、見つけた」
 涙声で、祐介の頬を包みこみ、愛おしげにゆっくりと撫でる。薄闇の中で、麻里を一心に見つめる瞳は、曖昧に揺れていた。
 もう、離したくない。
 この香りを、この温もりを、手放して生きていく術など見つからない。
 貴方なしでは、生きていけない――。
「すごく怖かったんだ。麻里がもう帰ってこないんじゃないかと思った。こんなに怖い思いをしたのは初めてだよ」
「私を簡単に殺さないでよ」
 呆れたように笑っても、祐介の真剣さは変わらない。
「俺にとっておまえは、それぐらい失ってしまうことが怖い存在なんだよ」
「貴方を置いて、簡単に死ねないわ」
「……なら、置いていかないって約束しろ」
「置いていかない。ずっと傍にいるわ。……愛してるの、祐介」
 言葉にして初めて、その想いが形になる。本当はきっと、出会った頃から愛していた。
 だけど、静かな炎のような想いは、気付くにはささやかすぎたのかもしれない。こんなにも柔らかい愛の形を知らなかった。でも気付けば最後、燃え上がる炎に身を焦がし、もう消すことなどできない。
「バカ。それを言うのは、俺の方だろ」
 祐介は、まだ涙でにじむ瞳を優しく細めると、麻里の唇を指先でそっと撫でた。指の後を追うように、唇を近づける。
「愛してる」
 言い終えた瞬間、触れた唇。
 初めて触れ合った唇は、ひどく熱を持ち、震えていた。

 生まれない宿命だと言ったあの子の言葉は、果たして本当だったのか、それとも麻里を慰めるための嘘だったのか、どちらかなんて分からない。
 だけれど、あの子は確かに幸せを残していった。
 麻里と、傍にいる空のような人の、その心の中に。

 ありがとう――と伝えられることの、幸せを。
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