Sugarless

初恋はほろ苦い 1

 ――美緒ちゃん、大きくなったら結婚しようね。
 そんな甘い囁きに期待と夢を抱いていたのは、幼き頃の話。
 いつか、本当に一緒になれると思っていた。淡い恋心と、張り裂けそうな期待を小さな胸に抱いていた。
 だが、現実は年を重ねていく少年を逃がすことなく、残酷なまでに打ちのめすのだ。
 最愛の姉と、結婚なんて……ましてや恋なんてできるわけがないと。


 闇の海に身を沈め、ゆらゆらと気持ちのよい波に揺られていた意識に、一筋の強烈な光が差し込んだ。その光が煩わしくて、閉じているはずの瞼を更に強く閉じる。それでも段々と瞼の裏に広がっていく白い世界に、どうにかして再び闇の海に沈もうともがき、自分の背にかけられている羽根布団を頭まで被るも、そんな抵抗はあっさりと意味をなくしてしまった。
 誰かに、布団ごと奪われたのだ。ヒヤリとした空気の冷たさに身を竦め、思わず膝を抱えると、自分の寝ているベッドの脇が、誰かの重みの分だけズシリと沈み込んだ。
「ヒロー。もう朝だよ。起きなきゃ遅刻しちゃうよ」
 目覚めに聞くにしては聞き慣れない声に、ヒロと呼ばれた少年は片目だけをゆっくりと開けた。
 眩しすぎたのは、カーテンが開けられて差し込んでいる朝の光のせいじゃない。ベッドの脇に腰掛けて、腕組みをしながら彼を見下ろしている女神のせいだと、未尋(みひろ)は気付いた。その姿に思わずドキッとする。そして、ドキッとしたことに、多少の苛立ちを感じた。こんな女に心乱される自分に、戸惑ったのだ。
「なんで勝手に……、人の部屋に入ってきてんだよ」
 目覚め一発目に発した声は掠れていて、あまりにも頼りなげだ。未尋は、枕に顔をこすり付けながら、必死で眠気から抜け出そうともがいた。そんな彼を背後から見守る未尋の姉の美緒は、小さく溜め息をついた。
「ヒロが起きないからでしょ?」
「だからって入ってくんじゃねーよ」
 乱暴な口調で反論したところで、美緒はたじろいだりはしない。意地の張り合いや虚勢などというものは、兄弟には意味がないものなのかもしれない。
「ノックならしたよ? ヒローってドアの前から呼んだもん。でも気付かなかったでしょ?」
 ヒロが悪いのよ、そうとも取れる美緒の台詞に、未尋は苛々した。
「目覚ましセットしてるし、別に起こしてくれなくたっていい」
「目覚ましじゃちゃんと起きられないお子ちゃまは、一体誰だったかな?」
 美緒が、未尋の顔を覗きこむようにして、頬をツンツンとつついた。柔らかい頬の上を、細い指先が楽しそうに弾んでいる。なんだかそれが、恋人同士のする甘い行為のように思えて、未尋の眠気は一気に吹っ飛んだ。
 頬に触れている美緒の手を払いのける。パンッ! と乾いた音が部屋中に響いて、美緒は思わず手を引っ込めた。
「触んなよ!」
 発せられる限りの大声をあげると、美緒は叩かれた手のひらを胸の前で力なく握った。
「何も叩くことないじゃない。乱暴だなあ、もう」
「お、おまえが急にそんなことするからだろ?!」
「そんなことって、どんなこと?」
 首を傾げてキョトンとする美緒に、未尋は思わず押し黙る。
 美緒にしてみれば、弟に対する単なるスキンシップに過ぎないのだ。弟を可愛いと思うが故の行動。けれど、思春期真っ只中の未尋にとっては刺激が強くて、ましてやこの姉だからこそその意味は重くて、そんな風に自分だけが過剰反応してしまったことに、未尋はまた自己嫌悪に陥っていく。指先で触れられた頬が、やけに熱く熱を持っていた。
「ねえ。そんなことってどんなことよ。ヒロのほっぺに触ったのが、そんなに悪いことなの?」
 美緒の長いまつげが、瞬きのたびにハタハタと揺れている。
 そんなに近くで見ないで欲しい。未尋は声を詰まらせながらも必死で反論した。
「う、うるさいんだよおまえは。大体、どうしておまえが起こしにくんだよ」
「だって、今日からパパとママ、旅行で暫く家にいないじゃない。この家にいるのは私とヒロだけなんだから、私が起こさないと誰がヒロを起こしてくれるっていうの?」
 ん? と未尋を覗きこむ魅惑的な大きな瞳。長いまつげに、黒目がちの大きな瞳がキラキラと未尋を見つめていて、未尋は居たたまれずにふいっと視線を外した。
 メイクも施していない素のままの瞳でも、美緒の目は簡単に男心を翻弄する美しさと妖艶さがある。弟の未尋でさえ思わずドキッとするのに、血の繋がっていないただの男だったら、その衝撃とはどれほどのものなのか。簡単に恋に落ちてしまうのではないだろうか。恋に落ちたら、美緒はやっぱり告白を受けたり、愛を囁かれたりするのだろうか。
 ――それって結構、やばいんじゃないか。
 何がやばいのかはさておいて、弟ならではの危機感がこの時未尋の胸中に駆け巡って、目の前の姉が妙に憎らしくなった。
「もうちゃんと起きたよね。じゃあ、私も準備があるから部屋に戻るね」
 ウン、と一人で納得して、美緒はベッドから腰を上げた。ピンク色のパジャマに身を包んだ美緒は、起きてからすぐに未尋を起こしにきてくれたのだろう。柔らかそうな長い髪も少し乱れていて、それが余計に色っぽさを醸し出している。
「何? 何か言いたいことでもある?」
 去り際、美緒をじっと見つめていた未尋の視線に気付き、彼女は首を傾げた。思わず見惚れてしまったことに羞恥を感じて、未尋は『別に』と答えると布団を頭から被った。
「また寝ちゃダメなんだからね。用意が済んだら、キッチンに下りてきてね。聞いてる? ヒロ」
 返事をしないのは、反抗心なのか何なのかよくわからない。
「ヒロ。ねえ、ヒロってば」
 たかが姉ごときの存在で、こんなに心乱される自分が歯がゆい。未尋にかけられる声は優しく、本当に優しくて、それがなんだかジレンマで、未尋は布団の中から少し荒っぽく言葉を返した。
「わかった! わかったから、早く出てけって!」
 ハイハイ、と困ったような返事をして、美緒は部屋を出て行った。
 布団の中からゆるゆると手を出し、ベッドサイドに置かれている目覚まし時計を手にとる。
 ――午前六時四十五分。
 目覚ましをセットしたのは七時十五分だから、あと三十分も寝られる余裕があった。はあ……と思わず漏れる溜め息が、布団の中の空気を温かくする。いつものように母親が起こしにきたのだったら、二度寝なんてあたりまえだが、今日に限ってはそんな気分にならない。目を閉じると、美緒の優しい声と眼差しが脳裏を掠めて、未尋の意識は余計に冴えてしまうのだった。


 中等部の制服に身を包んで、身嗜みも整えた未尋は、言われた通りにキッチンへと向かった。そこには既に、高等部の制服を着た美緒が居て、朝ごはんの準備を手際良くやっていた。制服の上にはエプロンを身に付け、料理の邪魔になるからか綺麗な長い髪は緩くアップにしている。美緒は、未尋を見つけると、何かを詰めていた手を止めた。
「あ、おはよう、ヒロ」
 挨拶は勿論大事だとは思うが、既に顔を合わせている人間に改めて言われると拍子抜けする。それでも、そのおはようは、美緒にとっては大事な意味を持つのかもしれない。
「さっき話しただろ」
「でも、さっきはおはようって言い忘れたんだもん。ちゃんとヒロにおはようって言いたかったの」
 悪戯っぽく笑った笑顔は、寝起きに見た美緒とは違って、少し大人びた風に見えた。同じ学園とは言え、制服の違いが年の差を感じさせる。未尋は中学三年生。美緒は高校二年生。同じ学園でも、校舎が違うので顔を合わせることはない。
 美緒はそのずば抜けた美貌もあり、学園内でも中等部高等部問わず有名だが、未尋は普通の十五歳の少年だ。普通よりは整った顔立ちをしているが、まだ幼さも残る少年。成長過程にある故背もさほど高くなく、青年と少年の中間とも言える曖昧な風貌をしており、美緒とは顔立ちが似ていないからか、二人が兄弟だということを知らない人間も多い。
「ちょっと待ってね。今、朝ごはんの準備するから」
 美緒が冷蔵庫を開け、飲み物を取り出していた。
「いい、別に」
「ダメだよ。朝はちゃんと食べなくちゃ。今朝は時間もあるから、ゆっくり食べられるよ」
 時間に急かされでもしていたなら、断る理由も見つかるというのに、こんな時に限って三十分も早く起きてしまった手前、テーブルの前に座らずをえない。元々反抗的ではあるが、ある意味美緒に対して従順な面も持っていた。ダメ、と強く言う美緒の声色に、未尋は逆らえないのだ。普段甘やかされている分、少しでも厳しさが混じれば、いっそうその言葉の意味を重くする。
 未尋は、カウンターキッチンにいる美緒をよそに、自分の席へと腰を下ろした。既に箸と茶碗が置かれている。美緒が用意したのだろう。
「無理すんなよ。おまえだって、こんなに早く起きて朝飯の準備するのなんか慣れてないだろ」
 美緒が昨晩も遅くまで勉強していたのを、未尋は知っていた。
「大丈夫。無理なんてしてないよ。確かに私一人だったら朝食の準備なんて何もしないかもしれないけど、ヒロがいるから頑張れるの」
「は?」
「ヒロが今日も一日元気でいられますように、って考えながらご飯作るのって、楽しいよ」
 テーブルの上におかずを並べながら、嬉しそうにそう言う美緒から顔を背け、未尋はボソッと呟く。
「……悪趣味」
「そうかな」
「そうだよ」
 そっか、と困ったように笑う美緒が、とても愛おしい。未尋のために頑張ってくれる美緒は、本当に可愛い。
 でも、そんなことを面と向かって言えるわけもなくて、つい憎まれ口を零してしまうのだった。そんな天邪鬼で反抗的な弟にさえ優しいのだから、美緒はやっぱり悪趣味だ。
 そもそも俗に言う姉という生き物は、弟に対して傲慢で偉そうで、可愛らしさの欠片など微塵もないものではないのか。弟を子分のように従える生き物ではないのか。姉を持つ友達の話を聞いていると、未尋の中の姉というイメージを容易に砕かれる。美緒には、そういった部分が全くと言っていいほどないからだ。時折口を尖らせて未尋に不服を言うこともあるけれど、それさえも小生意気で可愛らしく見えるのだ。姉が初恋の人だなんて、友達に言ったらきっと笑われるだろう。
 用意を済ませて、美緒が未尋の前に座る。『いただきます』とちゃんと手を合わせる美緒とは反対に、未尋は素っ気無く『いただきます』というだけで、すぐに箸を持った。一口二口と食べていると、美緒が未尋をじっと見つめていることに気付いた。
「美味しい?」
「不味くない」
 正直になんて言ってやらない。
「ヒロ。もう一回聞くよ? 美味しい?」
 さすれば、分かりきった反応が返ってきて、それが不思議と嬉しい。
「普通」
「もう! 意地悪なんだからー」
 素直じゃない未尋の返事に、美緒が頬をぷうと膨らませた。
 いつも母親が作る朝食は、手軽さからパンが主なのだが、今朝美緒が作った朝食は、ご飯に味噌汁に焼き魚に卵焼き。それから、おひたしと納豆というメニューだった。正直、和食が大好きな未尋にとっては、理想な朝食だ。元々美緒は料理を得意とするだけあって、味も絶品ときている。味噌汁一つにしても、ダシからして既に普通のそれとは違うのだ。口に運んだ瞬間、鼻腔を抜ける香りがあまりに心地よくて、こんなにも心安らぐ食事をしたのは久しぶりだと思った。
 でも言えない。素直に美味しいだなんて。
「せっかくヒロが好きなご飯とお味噌汁の朝ごはんにしたのに……」
「誰も頼んでないし」
「それはそうだけど。でも、もう少し喜んでほしかったな」
「朝からニコニコ飯なんて食えるかよ。バカじゃあるまいし」
「……そうだね」
 シュン、と落ち込んで行く美緒。茶碗と箸を持った手が止まっている。本当は、未尋と楽しく会話しながらの朝食を望んでいたのかもしれない。長年共に暮らしてきたからか、美緒の考えていることは少しは読める。
 未尋は、最後の卵焼きとご飯をかきこむと、箸を置き『ごちそうさま』と席を立った。
 そして、背を向けた後、美緒にやっと届くくらいの小さな声で、呟いた。
「……美味かったよ」
 カチン、と美緒がテーブルに箸を置く音が聞こえた。
 この、微かな間――。
 きっと背後では、美緒が嬉しそうに微笑んでいることだろう。その嬉しそうな笑顔を直視できないことが分かっているから、未尋は素直に言えないのだった。

「ああ、やっべ。超恥ずかしい」
 自分の部屋へと続く階段を上がりながら、未尋は頬を染め、無意識に頭を掻いた。

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