Sugarless

初恋はほろ苦い 2

「はい、コーヒー」
 支度を整えて、再びキッチンに下りてきた未尋の前に置かれたコーヒーカップ。立ち上る湯気からは、苦い香りがする。口に含めば、香るよりももっと苦いのだろう。未尋は、黒い液体を目にして、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「お砂糖とミルクは?」
「いらない」
 答えを待たずして、カップにミルクを入れようとした美緒の手を、きつい口調が止める。美緒は心持ち顎を引き、未尋を不信そうに見つめた。
「ブラックでいいの?」
「うん」
 ふーんと納得いかないと言いたげに頷くと、美緒は自分の分にミルクだけをたっぷりと入れて、美味しそうに口に運んだ。ほんのりとまろやかなコーヒーだが、中身は甘くない。
 未尋は、彼女を追いかけるように、自らもブラックコーヒーを口に運んだ。舌に乗るなんとも言えない苦味に思わず顔を顰めそうになるが、グッとこらえる。それは、未尋なりの意地だった。
「昔は、お砂糖もミルクもたっぷりだったのにね」
 カップ越しに、美緒が未尋をチラリと見た。
「子供の頃の話だろ」
 見透かされたくなくて、未尋は無愛想に視線を外す。
「ヒロは今でも子供でしょ?」
「子供じゃねーよ」
 昔から、美緒はコーヒーにも紅茶にも砂糖を入れない人だった。入れても飲めるが、できれば入れない方が美味しいらしい。その反面、未尋は砂糖もミルクもたっぷり入れる派だ。だが、大人になるにつれ、そんな自分が格好悪く思えるようになり、美緒の前では特に意地を張るようになった。子供扱いされたくない。
 ――シュガーレス。彼なりのちょっとした抵抗だ。
「あ、来たみたい」
 美緒がカップを置き、玄関へと続くドアへと振り返る。インターホンが鳴り響き、その後すぐに豪快に開けられる玄関のドア。それが誰によるものなのかを分かっているこの家の主たちは、特に驚くこともなく彼女の声が響くのを待った。
「おはようございまーす! ちあきでーす!」
 少し舌足らずな甘い声が響き、美緒はふっと表情を和らげると、ゆっくりと席を立った。
 ほわほわと綿菓子のような小さくて可愛らしい容姿。けして美人というわけではないのに、彼女の持つ雰囲気は甘い。未尋と同じ中等部の制服に身を包んだ沢野千晶は、廊下の奥から現れた美緒の姿を見つけて、頬を綻ばせた。
「美緒ちゃん、おはよお」
「おはよう、千晶ちゃん。今日も元気だね」
「元気だけがとりえだもん。美緒ちゃんみたいに美人じゃないから」
「誉めたって何も出ないよ?」
 二人見つめ合って、クスリと笑いを零す。
 千晶は、未尋の隣の家に住むいわゆる幼馴染だ。心優しく美しい美緒を、千晶は子供の頃からずっと姉のように慕っており、とても仲が良い。こうして千晶が登校前に未尋の家に訪れるのは、小学校の頃から当たり前の光景になっていた。
「未尋は?」
「たぶんもうすぐくるはず。ちょっと待っててね」
「あ、待って美緒ちゃん。私が呼びたい」
 千晶は美緒の背後へと視線を向けると、少し大きな声で
「みひろー! ちあきが迎えにきたよお!」
 と、キッチンに向かって叫んだ。
 元気の良さと、未尋に向けられたあからさまな好意に、ついつい美緒にも笑いが零れる。すると、鬱陶しそうな足取りで、呼ばれた未尋がキッチンから出てきた。廊下の向こうから千晶を見つめるなり、少し不機嫌そうな表情を見せたが、千晶はそれに動じずニッコリと微笑んで見せた。
「おはよお、未尋」
「……はよ」
 甘ったるい声が耳障りで、未尋の声がぶっきらぼうになる。
「なんか今日は不機嫌?」
「別に普通」
「あ、分かったあ。私の顔見られなかったから寂しかったんでしょー」
 どこをどう取れば、そういう解釈になるのか、未尋には全く分からない。わからないが、そう不快でもない。
「ハイハイ、ちいの頭は今日も腐ってる、と」
「ひどおい。腐ってなんかないよね? 美緒ちゃん」
 千晶が美緒に助けを求める。だが、『ちい』と未尋にきつく名を呼ばれ、すぐさま視線は未尋へと戻った。条件反射なこの態度は、飼い主に忠実な犬のようだ。
「いいから、これ持て」
 未尋がかばんを千晶に渡し、靴を履く。屈んでいる未尋を、千晶は愛しそうに見つめている。準備が整うと、千晶は持っていたかばんを彼に渡した。これも、毎朝おなじみの光景だ。美緒はそんな二人を微笑ましく見守っていた。
「相変わらず仲いいね、二人とも」
「え? そう見える?」
 千晶の表情がひまわりのように明るさを増した。
「うん。なんていうか、可愛い」
「やったあ。お似合いだってー未尋」
 良かったね、と千晶が未尋のぴとっとくっつくと、未尋の表情は不機嫌になる。
「誰も似合いだなんて言ってねーだろ。くっつくなよ、うぜえな」
「えー。嬉しくないのお?」
 千晶は口を膨らませた。
「むしろ迷惑」
「でも、そんな冷たい未尋も大好きだよ」
「ああもう、マジうざい」
 腕に纏わり付いてくる千晶の頭を、未尋が鬱陶しそうに押しのける。負けじと千晶も未尋に抱きつく。これもまたおなじみの光景だ。
 未尋のことが大好きだということを、惜しみ隠さず表現する千晶に、未尋はいつも素っ気無くするものの、心の底ではさほど嫌がっていないようなのでまんざらでもない。それが、幼馴染だからなのか、それとも一人の女の子として意識しているからなのかは、まだ本人は気付いてもいないけれど。
「あ、ヒロ! ちょっと待って」
 二人を見ていた美緒がふとあることに気付き、キッチンから何かを持ってきて未尋に手渡した。青いギンガムチェックの巾着袋。中には、何かズシリと重い物を感じる。
「何? これ」
「お昼のお弁当。今朝、朝食作るときに一緒に作ったの。持って行って」
 今朝、美緒が詰めていたのは、この弁当だった。
 未尋の学校のお昼ご飯は皆弁当だが、元々弁当を持参する習性のない未尋は、売店でパンなどを買ってお昼ご飯にしている。勿論今日もそのつもりでいたのだが、思わぬサプライズに未尋は思い切り眉を顰めた。
「いらない。売店で何か買うし」
「ダメだよ。いつもそんな食事ばっかりじゃ栄養偏るよ?」
 美緒が首を振り、ダメだと言い張った。
「いいんだよ、別に。おまえが心配することじゃねーだろ」
「心配するよ。だって……」
「俺には俺のペースがあんだよ。余計なことすんな。じゃ、先に行くから」
 何か言いたそうだった美緒の言葉を遮り、未尋は一方的に会話を切ると、弁当を美緒に押し付けて玄関から出て行った。自然とドアが閉まり、取り残される千晶と美緒。千晶は心配そうに美緒を気遣った。
「美緒ちゃん……」
「大丈夫。慣れてるから。反抗期なのかな……なんて。昔はもっと可愛かったのにね」
 エヘヘ、と弱く笑う美緒に、千晶は腹の底に何かこみ上げてくるのを感じて、『行ってきます』と美緒に告げると、すぐさま玄関を飛び出した。
 玄関の前では、未尋が既に自転車を出して準備を済ませていた。未尋と千晶は、美緒とは違って自転車登校なのだ。
「未尋! せっかくのお弁当、どうしてあんな風に断っちゃうの? 美緒ちゃんが可哀想じゃん」
 追いかけるように千晶も自転車に跨り、颯爽と行く未尋の横に並ぶ。
「美緒ちゃん、傷ついた顔してたよ。未尋が冷たくするからだよ?」
 未尋は涼しい顔をしていたが、どうしてと食い掛かってくる千晶をとうとう無視できず、口を開いた。
「余計なお世話なんだよ……」
「え?」
「美緒の奴、いつも母さんに言ってんだよ。栄養が偏るから、俺に弁当作ってやれって。母さんが作らないなら自分が作るからって。俺は別に売店のパンで全然構わないし、母さんもそういうのあんまり気にしない人だからさ、もしこれで俺が嬉しそうに弁当なんか持って行くようになったら、本当に美緒が毎日作らなきゃいけなくなるだろ。あいつ、自分の分は自分で作ってるけど、俺の分もとなると絶対はりきって頑張ろうとすんだよ。毎日俺より遅くまで勉強してんのに、今以上早起きさせるのもな。だから余計なお世話っつーか……」
 語尾を曖昧にぼかすのは、言い訳に自信がないからだ。千晶は未尋の本心を簡単に見透かした。
「要するに、美緒ちゃんに迷惑かけたくないわけだ?」
「違うって。だから、余計なお世話なんだって言ってんだろ」
「美緒ちゃんのこととなると、未尋は異常に気にかけるもんね。そっかあ、なるほどねえ。姉想いだね」
 どれだけ言い繕おうと、どれだけ本心を誤魔化そうと、長年の付き合いだからか、千晶の目は誤魔化せない。それが分かっているのか、未尋も千晶の前ではポロッと本音を零してしまうのだ。
 故に、千晶は分かっている。
「相変わらず、未尋は重度のシスコンだよねえ」
 そう。未尋にとって、美緒という存在がどれだけ大きく重いかを。
 未尋は、図星をさされて、あからさまに嫌な顔をした。
「シスコンじゃねーし」
「どうせシスコンなんだからさ、もう少し美緒ちゃんに優しくしてあげなよお。時々見てて可哀想になるよ?」
「だからシスコンじゃねーって言ってんだろ!」
「昔は仲良しだったのにい」
「昔と今は違う」
「今の方が大好きなんだね?」
「ち、ちげーよ」
「大丈夫だよ。どれだけシスコンでも、私は未尋のこと大好きだから」
 語尾にハートマークでも付きそうなほど甘い声でそう言われ、未尋は思いっきり項垂れた。
「悪趣味」
 全くもって、未尋の周りにいる女は、揃いも揃って悪趣味に違いない。
「惚れたのが運の尽きだよ。でもいいもーん。美緒ちゃん公認だしー」
「俺は認めてねえし」
 好きだという気持ちを、こんなにストレートに表現できる千晶の感覚が、未尋には理解できない。好きな人に、大好きだと言える神経が分からない。恥ずかしくて、きっと死んでしまいそうになる。
 美緒に好きだなんて、言えるわけない。でも……大好きだと言えたら、美緒はどれだけ嬉しそうな顔をするだろう――。
「でもどうせなら、私にお弁当くれたら良かったのにい」
 千晶が拗ねた口調で未尋を責める。
「は? おまえ自分の弁当あるだろうが」
「違うよお。『真中美緒特製弁当』って売りさばいたら、かなり高値で売れるかなって思ったの。今月お小遣いピンチなんだもん」
「……おまえ」
 甘い喋り方とは裏腹な、計算高い千晶の本性に、ついつい未尋は押し黙る。だけれど、そんな未尋の絶句さえ、千晶にとってはいいように捉えられてしまうのだった。
「あ、美緒ちゃんの弁当なんか売れるかって思ったんでしょー。売れるよお? バカにしちゃ駄目だよ、美緒ちゃんの人気は絶大なんだから」
「バカはおまえだ……」


 隣のクラスである千晶と教室前で分かれ、いつものように学校生活を過ごした。
 お昼休みになり、親友の斉藤拓弥と売店へ向かう。パンを三つと、牛乳を買い込み、二人連れ立って教室へ向かう廊下を歩いていた。
「しかし、毎日毎日売店で買うパンばっかりだと、手作り弁当が恋しくなるよなー。なあ、未尋もそう思わない?」
「俺は別に」
「そんなもんかなあ。第一、パンって腹に溜まらなくね? 食った気しねーんだよなあ」
 拓弥が腹をさすりながら不服を口にする。不服を言う割りには、今日もたくさんパンを買いこんでいる。
「じゃあ、弁当買えばいいじゃん」
「ダメダメ。売店の弁当不味いもん」
 ハハハと苦笑し、拓弥の意見に未尋も賛同した。
「確かに食えたもんじゃないな、あれは。なんであれを売ろうと思うのか、作ったやつの気が知れない」
 売店に並ぶ弁当は、学園の近くにある個人が経営している弁当屋から直接仕入れているものだ。いつも売れ残っているというのに、その弁当屋が立ち退く気配は全くない。どうやら弁当屋の店主が理事長の知り合いらしく、その縁で弁当を置いてもらっているのだそうだ。
「だろ? 手作りの弁当食いてー」
 手に持つ売店のビニール袋をクルクルと振り回しながら、拓弥が溜め息交じりに呟いた。
 拓弥の母は、頼み込んでも面倒くさいと言って弁当を作ってくれないらしい。そういう点では、未尋と境遇は少し違う。いらないとつっぱねる未尋と、欲しいのに得られない拓弥。世の中うまくいかないものだ。
「お。なんか教室が賑やかそうじゃん」
 教室の前にたどり着くと、なんだか教室内がザワザワとしていた。二人して、興味深げに中を覗くと、教室の後ろの方で、数人の人だかりが出来ていた。それもほとんど男だ。すると、未尋を見つけたクラスメートが、すぐさま声をかけてきた。
「あ、真中! お客さん来てんぞ」
「え……?」
「すっげー美人。マジでおまえが羨ましいわ」
 クラスメート達が、誰かをグルッと取り囲んでいるのが分かった。一人だけ、高等部の制服に身を包んでいるのが目に入ったのだ。未尋の表情が怪訝になる。見つけた人物に対してではなく、その人を取り囲んでいる奴らに嫌悪を抱いたのだ。
 顔を覗かせたのは、紛れもなく彼女。
 そう。真中美緒、その人だった――。

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