Sugarless

初恋はほろ苦い 4

 夕刻になると、清々しいほど透明の青だった空は、暗く重苦しい雲を纏い、次第に雨粒を落とし始めた。
 毎日一緒に帰っている千晶は、担任から呼び出しをくらっているということで、今日の未尋は一人での帰宅となった。自転車置き場に行き、自分の自転車の前カゴにかばんと巾着袋を入れる。弁当箱が、カランと軽い音を立てた。
 その時ふと、昼間の美緒のことが脳裏を過ぎった。泣きそうな顔をして、未尋の前から去った美緒のことを。
「格好わりい。俺……」
 そんな態度ばかりじゃ美緒さんが可哀想だ、と拓弥にも咎められた。美緒を困らせるばかりの自分は本当に格好悪い。それが分からないほど未尋は子供ではない。
 誰だって、反発ばかりされれば戸惑うに決まっている。家にいる時の美緒は、それこそ反発ばかりする未尋の扱いにも随分と慣れてはいるが、外でともなるとまた勝手が違うのだろう。未尋の体裁を気にしては、一歩引いてくれるのだ。ぶつかりあって恥を晒すような展開には絶対にならない。そういう時、結局は美緒の方がだいぶ大人なのだということを実感させられていた。
 千晶のようにもっと素直に生きられたらと思う。大事に思うものに素直に優しくできて、微笑みかけることができるように。でも……。
「あそこまで素直すぎるのも、ちょっとな……」
 千晶に自分を重ねてみて、そんな自分はもっと格好悪いかもしれないと、苦笑いを零した。露骨すぎる愛情は、ある意味安心を覚えもするが、重くもあるのだ。
 鉛のような重い気持ちに覆いつくされそうになっていたが、それを払拭するかのように首を振り、未尋は颯爽と自転車に跨った。ポツリ、ポツリと雨粒が頬を打つ。見上げた空には色がなく、未尋は家路へと急いだ。


 校門から続いている歩道には、放課をむかえ帰宅している生徒の姿が多く見られた。未尋のように自転車で登校するものもいるが、この学園の生徒のほとんどが徒歩だ。美緒も例外ではなく、徒歩での通学だった。家から少し距離があるものの、歩くことはさほど苦ではないらしい。
 生徒たちの間を抜けるように自転車を走らせていると、ふと視線の先に髪の長い女生徒の姿を見つけた。高等部の制服。その華奢な背はまぎれもなく美緒のもので、傘を持っていないからか、小雨の中小走りに家路を急いでいた。
 未尋は、美緒の横へと自転車を走らせると、スーッと音を立てないようにブレーキをかけた。
「おい」
「あ。ヒロ」
 未尋の存在を見つけた美緒は、ひどく驚いた顔をしていた。
 声をかけたことが、そんなに珍しいことだろうかと、一瞬未尋の胸に疑問が巡る。
「どうしたの? 部活は?」
「今テスト休みだから」
「あ、そっか」
 未尋の下校がいつもより早いことに美緒は驚いていたようだ。
 普段なら、部活を終えて夕食時に帰宅している。未尋はバスケ部だ。
「乗れよ」
 チラッと自転車の後部に目をやり、美緒を促す。美緒はすぐさま顔の前に手をかざし横へと振った。
「大丈夫。ヒロは先に帰ってて」
「いいから乗れよ」
「でも……」
「雨に濡れて風邪ひくのはおまえだぞ。それでもいいなら、別にいいけどさ」
「でも、いいの?」
 何が? と問う前に、美緒は不安そうな面持ちで、唇に指先を当てた。昼間、あんなことがあったからか、美緒のそんな仕草一つにさえ未尋の気持ちは不安になる。また、何か傷つけてしまったのだろうかと。
「ヒロは、私と一緒にいるところ見られたくないんじゃないの?」
「え……?」
「私はいいの。でも、ヒロが私のこと遠ざけてるの、わかってるから……。だから、大丈夫」
 美緒が、ニッコリと無理をして笑った。
「そう言ってくれただけで、私は嬉しい。ありがと」
 遠慮をするということは、それだけ普段の未尋が美緒に冷たくしている証拠だ。
 それなのに、どうしてそんな風に笑えるのだろう。傷つけているのは未尋の方なのに、自分が未尋を傷つけてしまったかのように自らの気持ちを閉じ込めるのだろう。
「あ、でも家に帰ったら一緒に居てね。一人じゃ寂しいから」
 家に帰ったら、の一言でやはり美緒が外での未尋の体裁を気にかけてくれていることが分かった。姉なりに、弟の気持ちを察そうとしてくれているのかもしれない。
「バーカ」
 未尋は愛おしさに胸が押しつぶされそうになって、美緒の手を掴むと、無理やり自分の方へと引き寄せた。美緒の鞄を奪い、前カゴに乗せる。そして、後ろに乗れと美緒を促した。
「クッションなんていいもんはないから、尻痛いかもしれないけど、それくらい我慢しろよな」
 ここで話し合っていても埒があかない。美緒は、無理矢理引っ張るくらいがちょうどいい。
「ちなみに俺、結構運転荒いから。落ちないようにしっかり掴まってろよ。落ちても責任とらねえからな」
「でも、ヒロ……」
「このまま放って帰って取って食われるくらいなら、俺が無理やり連れて帰る」
「取って食われるって……」
 美緒がクスッと苦笑いを零した。
 食われたりしないよ? と未尋の目を覗きこんで可愛らしく答える。そういう仕草がいけないのだというのに、全くこの姉は全然分かっていないのだ。
「勘違いすんなよ。別に食われたって俺には関係ないんだからな。ただ、たまたま魔が差しただけだから」
「ありがと」
「別に。……別に、おまえのためじゃねーし」
 美緒は、ありがと、とまた小さく言った。
 雨の中にポツンと一人ぼっちの美緒を放ってなんておけるわけがない。未尋が美緒を置いて帰れば、すぐさま誰かが美緒に傘を傾けるだろう。そんな姿を想像するだけでもムカムカする。それに癪なことだが、天邪鬼を通して置いて帰ったところで、美緒が気になってしまってまた戻ってきそうな予感もするのだ。
 美緒は、ゆっくりと自転車の後ろに腰掛けると、両手を未尋の腰へと回した。遠慮がちに回された腕に、ちゃんと掴まれと美緒を叱咤する。はーい、と苦笑しながらギュッと抱きつく体は、小さいのにとても温かかった。
「昼間は、悪かったな」
「え……何が?」
「別に。何でもない」
「ヒロが謝るなんて、珍しいね」
「うるさい」
 顔が見えなければ、結構素直になれるものなのかもしれない。
 美緒を後ろに乗せて自転車を走らせながら、未尋はふと穏やかな気持ちに包まれていた。
「ねえ、ヒロ」
「ん?」
 美緒が、未尋の背に頬を押し当てて、心音を聞いている。伝わる熱に、心の中までも暴かれそうで、未尋の心臓はバクバクと音を立てた。
「こんなところ見られたら、ヒロのこと好きな女の子たちに誤解されちゃうかな」
「何バカなこと言ってんだよ」
「バカなことじゃないもん。だって、自転車の後ろに女の子乗せてるなんて、恋人みたいでしょ?」
「な……っ! 恋人じゃねーし」
 美緒の声はなんだかとても嬉しそうで、それが自然と未尋の荒げそうな心をも宥めすかしていた。
「私、こういうの初めてだから、すごくすごく嬉しい」
「……誤解されても知らないからな」
「私は別にいいよ? でも、そうなったらヒロが可哀想かな。女の子たちに余計な心配させちゃいそう」
「そういう心配は、どっちかっていうとおまえの方だろ?」
 こうやって自転車を走らせている間にも、男達の視線が突き刺さる。二人が姉弟だということを知らない人間からすれば、それはどう見ても恋人同士のようだ。
 未尋を知る中等部の人間に見られていれば、きっと明日には質問攻めに合うことだろう。それは、皆が美緒を知っていればこその話だ。
 だが、相変わらず自分の注目度に気付いていない美緒の言葉に、未尋は諦めの溜め息をついた。
「そうかな……。まあ、ヒロには千晶ちゃんがいるもんね」
「あいつはそんなんじゃない」
「鈍感」
「はあ? 何がどう鈍感だっていうわけ」
「今のヒロはまだ鈍感でも、気付いたらきっと、あっという間に大きくなって、千晶ちゃんのこと以外何も考えられなくなっちゃうんだから」
「意味がわかんねえ」
 千晶は幼馴染だ。それ以上でもそれ以下でもない。だが、美緒はそうではないのだと言い張った。
「いいの。そのうちわかるから」
「わかんないし」
「分かったら、どうしようもなくなっちゃうんだから」
「あっそ」
 クスクスと笑う美緒が少し憎らしい。
 なんだか自分は全て知っているかのような口ぶりで、それが何故なのかを暴きたくなった。
「おまえは、そういう気持ちになったことあるわけ?」
「うーん。秘密」
「秘密って何だよ」
「だって恥ずかしいもん」
「人のことは勝手に決め付けるくせに……」
 未だかつて感じたことのない、美緒の恋模様。
 あまりおしゃべりじゃない美緒は、自分のこともあまり話さない。つらいことがあっても、悲しいことがあっても、未尋の前ではいつも笑っていた。嬉しいことがあった時は、未尋にその幸せを分けてくれた。小さい頃から、一生懸命喋る未尋の言葉を優しく聞いているばかりだった。
 けれど、さっきの台詞から、もしかしたら好きな男がいるのかもしれないと感じ、それは小さな嫉妬心となって未尋の心に小さく火を付けた。いずれその火が大きくなるのだということも、今の未尋はまだ気付かない。
「ねえヒロ」
「今度は何?」
「どうして急に、私のことをちゃんと呼んでくれなくなったの?」
「…………」
 信号が赤で、未尋は地面に足をついた。
 どうして? と美緒が追いかけるように問い掛けてくる。未尋はただ、『なんとなく』と適当に答えを返すだけだった。
「昔は『美緒ちゃん』って呼んでくれてたのに。大きくなってから素っ気無くなって、『おい』とか『おまえ』とか、そんなのばっかり。なんかちょっとだけヒロが遠くなったみたいで、さびしいよ」
「おまえは、おまえだろ」
「ん?」
「呼び方なんて、別に……」
 それは、美緒への言い訳ではなく、自分自身への言い訳だった。
 本当はおまえだなんて呼びたくない。未尋にとっての美緒は、美緒なのだ。
 姉という位置におさめるには大きすぎて、だからと言って一人の女のように見られるわけもない。それはある意味絶対的で、秘めた姿を暴くことが叶わぬほど未知でもある存在。
 美緒ちゃんと呼ばなくなったのは、単に恥ずかしくなったからだ。今さらお姉ちゃんと呼ぶにも、なんだか時が経ち過ぎてしまった。大人になるにつれ、そんな風に名を呼ぶのが恥ずかしくて、一度だけ覚悟を決めて美緒ちゃんと呼ぶのをやめたことがある。
 けれどその時、美緒は未尋を嗜めた。姉なのだから、と。だから適当に呼ぶしかなくなってしまったのだ。
「わっ! ちょっと、ヒロ。お願いだから優しく運転してよー」
 青信号になったのを確かめて、思い切りペダルを踏み込むと、油断していた美緒が落ちそうになり咄嗟に未尋にしがみついた。よほど吃驚したようで、未尋を背後から責める。
「もう、他の女の子を乗せるときもそんなんじゃ危ないよ? 彼女が怪我しちゃったらどうするの?」
「他の女なんて……」
 美緒以外の女なんて、乗せる気など全くない。
 美緒だから乗せたのだ。美緒だから、一緒に連れて帰りたいと思ったのだ。
 それなのに、美緒の中では、自分は所詮他の女の子よりも下だという認識があって、それが未尋のそれとは大きな差異があって、未尋は無性に苛立った。
「俺の運転は荒いって最初っから言ってんだろ!」
「どうして急に怒るのよ」
「おまえこそ鈍感なんだよ。いいからしっかり掴まっとけ!」
 なんだか自分ばかりが振り回されているようで、苛立ちまぎれに未尋はペダルを踏み込む足を速めた。荒い運転をするたびにギュッと抱きつく美緒の力強さが愛おしくて、未尋は家路に着くまでの間、あえて美緒を気遣うことはなかった。


「おい、これ」
「ん? 何?」
「洗っといて」
 家に着くなり、未尋は弁当箱の入った巾着袋を美緒に手渡した。今朝とは重さに違いがあることに美緒が気付く前に、急いで階段をかけ上っていった。
 美緒は、渡された巾着袋を持ってキッチンへ向かうと、ゆっくりと中身を開けた。
「あ……」
 空っぽのお弁当箱。
 ご飯粒一つ残さず綺麗に食べていて、美緒は嬉しさのあまり微笑みを零した。
 タコさんのウィンナーも、ハート型の卵焼きも、未尋が今日も元気でいられますようにと、未尋のために作ったけれど、食べてくれないならそれでも仕方ないと思っていた。
 愛情は、けして自己満足であってはならないと、美緒は心に決めている。だから、与えた愛情と同じだけ返してくれなくても仕方ないと思っているし、期待もしていない。でも、愛情を返してくれた時の嬉しさは、やはりどうしようもなく心震わせるものだった。
 どんな顔をして、この可愛いお弁当を食べたのだろうかと思うと、おかしくて嬉しくて頬が緩んでしまう。いつも素っ気無いけど、ちゃんと美緒の愛情を受け止めてくれる未尋。不器用で反抗的だけど、美緒にとっては可愛い可愛い最愛の弟だ。
 
 
「ヒロー!」
 美緒は空っぽのお弁当を持ったまま、階段を駆け上がり、未尋の部屋へと向かった。扉を開けるなり、着替えをしていた未尋に飛びつく。
「うわっ!」
 姿勢が不安定だったせいで、未尋は脱ぎかけのシャツと美緒を必死で受け止めながら、床へと倒れこんだ。
 尻餅をつき、思わず痛みに呻く。問題の張本人もきっと痛かったはずだろうに、そんなことは気にかけることなく、未尋の体に手をついて顔を覗きこんできた。
「ボケッ! いきなり人の部屋入ってきて、何してんだよ!」
「お弁当、美味しかった?」
「あ?」
「だーかーらー。お弁当、美味しかった?」
 首を傾げて問うてくる美緒の仕草は、弟である未尋さえドキリとするほど可愛らしく、驚きとも相まって鼓動が激しく打ち始めた。ニコニコととても嬉しそうに、美緒が笑う。ねえねえ、と楽しそうに未尋の返事を急かす。
 たかが弁当のことくらいで、こんなにも喜ぶだなんて思ってもいなかった。
 ――違う。
 美緒は、他の人間ならここまで嬉しさを表さなかったはずだ。未尋が食べてくれたから喜んでいるのだ。それが分かると、途端に頬が熱くなってきて、未尋はふいと素っ気無い態度を取った。
「別に、普通」
「普通? 全部残さず食べてくれたのに?」
「今日は、異常に腹が減ってたんだよ」
「嘘。朝ごはんもしっかり食べたし、パンだって三つも持ってたくせに」
「あのパンは……」
 まさか美緒の弁当を守るために、拓弥に譲っただなんて口が裂けても言えるわけない。
「ねえ。美味しかったって言ってよ。未尋が言ってくれたら、お姉ちゃん嬉しいなあ」
「言わない。絶対言わない」
「ケチ」
 でも嬉しい、と満足している美緒の横で、未尋が必死に言い繕うも、未尋の本心など見透かしている美緒の耳には全く届かない。それがまた腹立たしくて、恥ずかしくて、未尋は声を荒げ頬を染めるばかりだ。
「明日は、カニさんウィンナーにしてあげるね」
「やめろ! つーか、いらねえ」
「あ、明日はウサギさんのリンゴも入れよっか。あれ、でも家にリンゴ無かったかも。ねえヒロ。一緒に買いにいく?」
「行かない。つーか、そこで勝手に話すすめんな」
 こんなにもはしゃいでいる美緒を見るのは久しぶりで、ついつい未尋も美緒のペースに乗せられて饒舌になるばかりだった。
「ヒロ。食べてくれて、ありがと」
「なんでおまえが礼なんて言ってんだよ。作ったのはおまえだろ」
「嬉しかったの。本当に嬉しかったの! だから、ありがと」
「……バカじゃねえの」
 ――降参だ。
 この笑顔を見るだけで、何もかもを許してしまいたくなる。

 どれだけビターに接しても、結局は甘く溶かされてしまうのだ――。



 ― 初恋はほろ苦い 完 ―

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