Sugarless

初恋はほろ苦い 3

「何やってんだよ、こんなとこで」
 未尋は、美緒の腕を掴むと、クラスメートの中から無理やり彼女を連れ出した。廊下に出て、人気のないところへと美緒を追いやる。途中、美緒を見たさにクラスメート達が追いかけてきたが、それら全部を未尋は睨みでつき離した。
 美緒を見世物にするだなんて、とんでもない。
 そんな未尋の気持ちなどつゆ知らず、美緒は申し訳なさそうな顔をして、未尋に謝った。
「突然来たりしてごめんね。本当は少しだけ寄って帰るつもりだったの。でもヒロがいなくて、クラスメートの子に聞いたら、あっという間に取り囲まれちゃって……ごめんね。何も言わずに来てごめんね」
 一気に捲し立てるのは、美緒が焦っている証拠だろう。未尋を怒らせまいと、瞳を見つめ機嫌を伺いながら、何度もごめんねと言う。
「別に謝んなくても……」
 美緒が謝罪の言葉を口にすると、まるで自分が悪いことをしたように思えてくる。
「ヒロが迷惑なの分かってるのに、本当にごめんね」
 思えば、美緒にいつもこんな顔をさせている自分に、罪悪感が募る。
 何も、美緒が悪いことをしたわけじゃない。だけれど、早口で言い訳をする美緒が、どんな気持ちを胸に秘めているかくらいは未尋にも分かった。美緒が皆に見られることを、未尋が迷惑だと思っていると、そう思っているのだろう。
 自分は、人に誇れるような姉じゃない。未尋は自分という姉を見られるのが恥ずかしい。だから未尋が迷惑しているのではないかと、美緒はきっとそう思っている。
 スカートをギュッと掴んでいるいじらしい姿は、彼女の控えめな性格を表していながらも、苛立ちをも掻き立てる。未尋が中学に上がり、なんとなく気恥ずかしさから美緒を避けるようになると、美緒のこういう態度に気付くようになった。不器用な未尋が美緒を邪険にすればするほど、美緒の中の自信は薄れ、いつしか美緒の方から一線を引くようになったのだ。
 こんな風に、離れたいわけじゃなかったのに。
「……そうじゃない」
 美緒を押し付けている壁に、自らも手をついて、未尋は小さく溜め息をついた。
「そうじゃないって?」
「違うんだよ……」
 困惑した瞳で未尋を見上げる美緒の綺麗な瞳。迷惑だなんて思ったことはない。誇りじゃないだなんて、思ったことはない。美緒はいつだって、未尋にとって自慢の姉だった。
 でも、未尋が大人になるよりもずっと早いスピードで、美緒はどんどん美しくなる。ついていけない自分に、とてつもなく歯がゆい想いをする。大人の女と呼べる美緒とは違い、未尋はまだ未熟な少年のままだ。いつだって誇れる姉と対等に、むしろ彼女を守れるくらいに大人になりたいのに、全く追いつかなくて苛々する。
 十三歳までは同じくらいだった背丈は、未尋が十五歳になった今ではもう十センチ以上の差があり、容易に美緒を見下ろすことができた。それでもせいぜい百七十センチに達しているくらいだ。できれば、高校生になるまでにあと十センチ欲しい。美緒を簡単に覆い隠せるくらいに。
「おまえは目立つんだから、こんなところウロチョロしてたら取って食われるぞ」
「と、取って食われる?」
 返ってきた言葉に吃驚したのか、美緒がキョトンとする。警戒心のまるでない無防備で可愛い表情。
 ――ああ、もう、そんな顔をするからいけないんだ。
 未尋は苛立ちに頭を掻いた。
「さっきからずっと注目されてんのに気付いてないのかよ」
「え……ああ、高等部の人間だから、見られてるのかなって」
「バカか。俺が連れ出さなかったら、おまえなんかあいつらの餌食になってたんだぞ」
 ヤリたい盛りの野郎ばかりだ。たとえ手出しはしなくとも、美緒ほど見目麗しければ、簡単にオカズにされる。脳内でさえ、美緒をそんな目に晒したくないというのに。
「餌食って、そんな大げさだよ」
「わかんないならもういい」
「……ごめん」
 自分がどれだけ美しい容姿をしているかなんて、全く理解できていないのが美緒の悪い癖だ。そのせいで、余計な虫が寄ってこないかヒヤヒヤしている未尋の気持ちなど、分かるわけもない。
 美しく優しい姉を持ったのが運の尽き。大人になり綺麗になるにつれ、美緒がいつしか蝶のようにヒラヒラとどこかへ行ってしまうのではないかと思うと、妙な独占欲が未尋の中で沸いてしまうのだった。弟なのだから、縛れない。でも縛りたくてたまらない。自分に向けられる優しい眼差しを、他の男にくれてやるなど考えたくない。昔は自分だけが独り占めしていたのに、いつか奪われると思うと苛々する。
 そんな葛藤が、未尋の心をひどく乱していることなど、この姉は知る由もないのだ。だから、なんとなく腹が立つ。無性に。
「で、何の用なわけ?」
「あ、うん。えーと……」
 美緒が答えるより先に、左手に持っている巾着袋が未尋の目に入った。未尋の表情が怪訝になる。
「弁当ならいらないって言っただろ」
「え? ……あ、違うよ。本当の用事はね、こっち」
 左手を後ろに隠し、右手で未尋に差し出したのは、一枚のA4用紙だった。受け取り、中身を見る。それは、期限が今日までの大事な提出物だった。
「今朝、ヒロの部屋に行った時それが目に入ったんだけど、ヒロ、持って行くの忘れてたでしょ? 期限が今日って書いてあったから、もしかしたら困ってるんじゃないかと思って……」
「あ……悪い」
「持ってきて良かったよね?」
「……うん。放課後までに絶対必要だから」
「そっか。良かった、ちゃんと渡せて。これからお昼ご飯?」
「うん」
 どれだけ冷たい態度を取っても、美緒の態度は幼い頃と全く変わらない。未尋の気持ちなど簡単に見透かされているようで、なんだか自分がとても子供のように思えてきた。美緒は、未尋が片手に持っていたビニール袋を取り上げると、中身を見て口を膨らませた。
「毎日こんなもの食べてるの? ダメだよ。体壊しちゃう」
「いいんだよ。俺が好きで食ってんだから」
「ダメ。成長期なんだからちゃんと食べなきゃ。大きくなれないよ?」
 『成長期』という言葉に、何だか子供扱いされた気がして、未尋はカチンときた。パンと牛乳の入ったビニール袋を、無理やり取り返す。引っ張られた反動で、華奢な美緒の体が傾き、すかさず未尋の手で支えられた。軽い体。片手で抱えられそうだ。
「自分だってちっこいくせに、偉そうなこと言ってんじゃねーよ」
「私はもう成長期じゃないもん!」
「俺より大分小さいじゃねーか」
「女の子はこれが普通なの!」
 確かに美緒はもう成熟した体つきをしている。華奢だから小さく見られるものの、背丈は平均だし、大きな膨らみや細さは女らしい曲線を描いていた。
「うるさい。大体用が済んだんなら、もう帰れよ」
「ま、待ってよヒロ! せっかくだからお弁当……」
「いらねえっつってんだろ」
「別に食べてくれなくてもいい。気が向いたらでいいから」
 背を向けて足早に歩き出す未尋を追いかけ、美緒は無理やり弁当を手に持たせた。押し返そうとするも、むやみに手を離してしまえば地面に弁当が落ちてしまいそうで、未尋は咄嗟に神経を傾けた。未尋が弁当を手にしたのを見届けて、美緒はすぐさま廊下を駆け出していった。去り際の美緒の表情が、少し泣きそうな顔をしていて、未尋の心はチクリと痛んだ。


「おかえり、未尋」
「ただいま」
「美緒さんは?」
「帰った」
「えー。会いたかったなあ」
 教室に戻り、自分の席へつく。途中、美緒のことをしつこく聞いてくるクラスメートに囲まれたが、未尋はそれらを適当にかわし、スルーしていた。
 机の上に、ビニール袋と弁当を乗せると、前の席に陣取っていた拓弥が顔を向ける。ひどく疲れた顔をしている未尋に、拓弥は何かを感じ取ったようで、何かあったのかと問いかけてきたが、未尋は断固として口を閉ざしていた。
「じゃあ、昼飯でも食いますか」
 一つ目のパンを頬張る拓弥とは反対に、未尋は全く昼食に手を付けようとしない。その時、机の上に置かれている巾着袋が弁当であることを察して、拓弥がそれに手をかけた。呆然と遠くを見ていた未尋は気付くはずもなく、弁当が開けられたと同時に鼻腔をくすぐる良い匂いに誘われ、目の前に広げられている弁当が目に入った。
「うわ、すっげー。手作り弁当じゃん」
 拓弥が感嘆の悲鳴をあげる。手作り自体には、すごいも何もないが、問題はその中身。ハート型の卵焼きに、タコさんウィンナー。可愛らしいおにぎりまで入っていて、それはどこからどう見ても、彼女が彼氏に作るお弁当のようだった。美緒が未尋のために頑張って作った、ある意味愛妻弁当だ。
「可愛い。おい、タコだぜタコ。ハートの卵焼きまで入ってんじゃん、すげーな」
「何勝手に開けてんだよ」
 咄嗟にふたを閉じようとするも、ふたは既に拓弥の手に渡っており隠すことは叶わない。拓弥はマジマジと弁当を眺め、そして核心をついてきた。
「これって美緒さんの手作り?」
「違う」
「嘘だあ。こんなに可愛いのに、どう見たって美緒さんの手作りっしょ」
 拓弥の声に触発され、あっという間にクラスメートに囲まれた。元々、美緒が教室に来ていた時から、未尋に向けられる興味の目は半端じゃなかったのだ。有名人の姉を持つと大変だという理由の一つは、こういうところにある。
 美緒の手作り弁当自体は嫌じゃない。でも、こんな可愛らしい弁当を広げてニコニコしていられるほど、未尋の神経は図太くなかった。
「……だから嫌だったんだよ」
「何が?」
「別に。それより返せよ、蓋」
「なんでだよ。これ食うんだろ? 食ってから蓋すりゃいいじゃん」
「食わねーから返せっつってんだよ」
 え? と素っ頓狂な声をあげる拓弥の隙をついて、未尋は蓋を奪った。そして、隠すように蓋を閉じ、袋に入れる。
「折角の美緒さんの愛情弁当なのに、なんで食べないわけ?」
「おまえには関係ないだろ」
「おまえね、美緒さんの手料理が食えるってどれだけ幸せなことか分かってないの? そんなに邪険にしてたら、ファンに刺されても知らないぞ」
「知るかよ、そんなこと」
「美緒さんの弁当、本当は嬉しいくせに」
「バカなこと言ってんなよ。誰があいつの弁当なんか……」
「じゃあ、俺にくれよ。さっきも言ったけど、手作り弁当に飢えてんの、俺」
「ダメだ」
 拓弥が弁当を奪おうとしたが、未尋がすかさず奪い返した。未尋の目が怒っている。拓弥は、そんな未尋の真剣さがある意味面白くて、余計に未尋の神経をつっついた。
「なんでダメなの? 俺、美緒さんのことずっと憧れてたんだよなあ。おまえが食わないなら、憧れの人の手作り弁当、俺にくれたっていいじゃん」
「嫌だ」
「なんなら、それ相応の金額出したっていいし。美緒さんの手作り弁当だったら、俺以外にも買いたいって奴はいそうだな」
 美緒の弁当に金を出すと言う親友の言葉に、ふと掠めた幼馴染の顔。
「……ちい」
 まさか、美緒の弁当を金を出しても食べたがる人間がこんなに近くにいるとは思わなかった。さすが千晶、としか言いようがない。
「千晶は関係ないだろ。で、美緒さんの弁当いくらで売ってくれる?」
「絶対嫌だ。売らない」
「なんでだよ」
「み、美緒は、すっごい料理が下手なんだよ。だから、たぶんこれ不味いから、だからやめといた方がいい」
 あんなに綺麗で可愛い弁当を見て、誰がそんな嘘に騙されるというのか。我ながら下手な嘘だと思いながらも、混乱している未尋にはそれ以上上手い言い訳が思いつかない。口調も少しどもっている。混乱しているのなんて丸分かりだ。
「別にいいよ? 美緒さんの弁当なら不味くても」
「ダメだ! 腹壊すぞ?!」
「大丈夫だって」
「激マズで食中毒になる!」
「自分の姉貴が作った弁当にそこまで言うか、普通……」
「とにかく、昼飯が足りないならこれやるから、だから弁当は諦めろ。な?」
 未尋は、代わりにパンの入ったビニール袋を拓弥に投げつけて、席を立った。まるで守るように弁当を小脇に抱え、教室を出て行く。そんな親友の背を見守りながら、拓弥はニヤニヤと笑った。
「素直じゃないなあ」
 美緒に作ってもらった弁当を、自分以外の誰にも食べさせたくなかったことなど、親友の目にはお見通しだった。

Copyright (C) 2008 Sara Mizuno All rights reserved.