氷花

10.深海に眠る鍵

 榊原総合病院に着いた時にはもう、薫の姿はなかった。
 近くにいたナースに問い合わせると、ちょうど数十分前に病院を出たところだと聞いた。病状については教えてもらえなかったが、薫が一人で病院を後にし、自宅へ戻ったということを聞いて、大事はないのだと安心して溜息が出た。
 病院まで全力で走って来たことで、額は汗ばみ、息は上がり、体力もかなり使っていたが、そんなことは意にも介さず、彼の家まで駆けてゆく。頭の中は、彼のことだけでいっぱいだった。心配だという状況下にも関わらず、思い出す薫の姿は、どれも優しそうに微笑むものばかりで、倒れたことに自分に非がないとは言え、少し良心が痛んだ。
 なぜ今日、自分は彼のそばにいなかったのだろうと、悔やむ。思うのは、自分を責めることばかりで、涙が零れそうになる。そして、彼の体のことを思うと、溜まった涙が、ポロリと零れ落ちた。

 深呼吸をして、彼のマンションのチャイムを鳴らす。二度目のチャイムの後、インターホンが反応した。機械越しに聞こえる彼の声は、いつもより弱々しく感じた。
「あの、私です。真中です」
『……どうした?』
 少しの間の後、少し戸惑うような薫の声が聞こえた。
「あの、倒れたって聞いて……。体、大丈夫なんですか?」
『なんでおまえが知って……まあいいか。すぐ開けるから待ってな』
「はい……」
 インターホンが切れ、数秒の間の後、ゆっくりとドアが開かれた。
 スウェットのパンツにTシャツ、眼鏡はかけたままの出で立ち。姿を見せた薫の面持ちには、いつもの覇気がなく、どこか戸惑うように苦笑を浮かべていた。顔色は青白く、憔悴しきっている。少しやつれただろうか。疲れが、雰囲気から感じ取れた。
「入る?」
「あ、あの、倒れたって聞いて、それで、あの……」
「まあまあ。落ち着けよ。大丈夫だから」
「だって倒れたんでしょ? 大丈夫なわけ……」
「ほら、深呼吸してみな。心配いらないって。元気だろ?」
「本当に? でも、顔色も悪いし、それに、救急車で運ばれたって……っ……」
「……バカだなあ。泣くやつがあるか」
 思いが胸に詰まりそうになって、上手く言葉にならない。心配しすぎるほど心配をしたのに、病状はどうなのかとか、今はもう大丈夫なのかとか、聞かなければならなかった肝心なことが、出てこなかった。そんな自分にもどかしくて、言葉よりも先に涙が出る。知らせを聞いてからずっと、涙は溢れるばかりだ。薫の姿を見て、安心したせいか、緊張の糸もほどけていた。
 玄関で立ち尽くしたまま泣きじゃくる彼女を、薫は眼鏡の奥に優しい苦笑を浮かべながら優しく抱きしめた。バカだな、と小さく呟きながら。髪を撫でる彼の手は、いつもと変わらぬ優しさで満ち溢れ、知らず美緒の心をも撫でるように包むように、落ち着かせた。

「あの、本当に大丈夫なんですか? 病状は?」
 当たり前のように部屋の奥に通され、ソファに座って少し落ち着くと、やっと普通らしき会話ができるようになった。隣同士に座り、薫は美緒の肩に手を回し、抱き寄せていた。
「ちょっと疲れが溜まってただけだよ。最近働きすぎだったからなあ」
「でも、検査とか、ちゃんとしないでも大丈夫なんですか?」
「大丈夫だよ。別に他に悪いところがあるわけじゃないから。その証拠に、入院もなしで、一人で家にも帰ってこられただろ?」
「でも、もっとちゃんとお医者様に見てもらった方が……お医者様じゃないと分からないことだって……」
「……おまえなあ」
 ハァ……と溜息をつくと、薫は眼鏡を外しながら呆れ顔になった。テーブルの上に置いてあるコーヒーを口に含むと、一息つく。
「俺もそのお医者様なんだけど?」
「あ……」
「一応学園の校医なんだけだなあ。おまえが一番わかってると思ったのに」
「そうでした……」
「まあ、しかたないか。俺って医者っぽくないもんな」
「そんなことは……」
「そんなことは、“ある”だろ?」
「少し……」
 二人、顔を見合わせて、クスクスと笑う。薫の表情には、まだ疲れや青白さが残っているけれど、いつもとさほど変わらない会話に、安心した。抱き寄せる腕に力がこもるたびに、胸が高鳴る。あんなに心配したのに、今はもう心安らいでいる。どちらが病人なのかわからないくらい、美緒は、薫の優しさに包まれている感覚を味わっていた。
 もう二度とあんな苦しい思いはしたくない。彼がいなくなってしまうのでは、という思いに、胸が引きちぎられそうなほどの苦しみを感じた。本当に、この世からいなくなってしまうのでは、と思ったのだ。友人を心配するのとは比にならない。ハルカを心配し、放っておけないと思ったあの時とは、全然違った。痛みさえ感じたのだ。思うだけで、意味もなく自然に涙が溢れるほどに……。
 やっぱり自分は、この男(ひと)に恋をしているのだと、感じずにはいられなかった。死んでしまいそうなくらい苦しい思いも、抑えきれないトキメキも、この人のためにあるのだと。
「ていうか、おまえ誰から聞いたんだ。俺のこと」
「結城先生……ですけど……」
「結城先生?」
「うん。ほら、コレ」
 バッグから携帯を取り出し、薫に差し出す。画面には、先ほど麻里から送られてきたメールが写っていた。薫は顎に手をあて、その文字に目を通すと、納得したのか、片眉をあげてみせた。
「ということは、俺の携帯は結城先生の手中ということか」
「会ってないんですか? 結城先生と」
「意識を失っているときはいたんだろうけど、覚えてる範囲では、会ってないな」
「そう……なんだ」
 てっきり、彼女は薫のそばにずっと付き添っているのだと思っていた。ここへ来た時も、彼女がいないことに少し驚いたぐらいだ。誰かがそばについていてくれるという安心感の反面、彼女にはいてほしくないという嫉妬も少し芽生えていたことは、錯覚ではない。
 明日返してもらえばいいか、と小さく呟くと、薫はそれ以上追及することなく微笑んだ。ただ無言で美緒を抱きしめる。互いに感じる温もりに、次第と眠気さえ感じさせる安らぎを感じた。
「おまえ、ここまで走って来たの?」
「え?」
「いや、ここに来た時、汗ばんでたし、息も上がってたから」
「あ……なんか夢中で……タクシーとか使えばよかったって後で気付いたんですけど、その時は何も考えられなかったから」
「……サンキュ」
 少し恥ずかしそうに話す美緒の額に、そっとキスをした。無我夢中で自分のところへ駆けて来てくれた美緒のことを思うと、愛しさが胸にこみあげる。その姿を想像するだけで、笑みも零れる。恋とは理屈ではなく、計算でもなく、時に自分の置かれている状況さえ見失ってしまうものだけれど、そんな気持ちを自分に向けられていると感じると、彼女を今まで以上に愛しく感じた。唇を耳に寄せ、触れるか触れないかほどの距離間で、囁く。
「シャワー浴びる?」
「え?」
 耳元で囁かれた言葉に、美緒は一瞬理解できなかったが、途端言われていることの意味に気付き、音を立てたかと思うほど頬が赤くなった。
「赤くなっちゃって……。何想像してんのかな」
「べ、別に……」
「ほら、そこの奥バスルームだから」
「い、いいです、いらないです!」
 耳元で色気のある声がざわめく。時折かかる息に、何かが通るように背筋がゾワ……っとした。相変わらず、この声を聞くと、何かが疼きだしてしかたがなかった。
「残念ながら、今日はおまえを抱く体力はないんだけどね。ごめんね」
 そんな美緒を見て遊んでいるのか、最後のごめんは、わざと彼女の羞恥心を煽るために言ったのだった。
「な……何言ってるんですか」
「ちょっとは期待したくせに」
「してません……!」
「俺はただ、汗かいたみたいだからシャワーすすめただけだけど、エッチな想像したんじゃないの?」
「してないもん」
 していなかったと言えば嘘になる。大体、薫といる空間自体、いつも淫靡に感じるのだ。一度しか抱かれたことはないが、その時の記憶が鮮明に頭に焼き付いていた。してほしいのかどうかはわからないにしても、そういうことが脳裏をよぎってしまう。
「本当に?」
「ほ……ほん……とに……」
 耳元で囁きながら、薫が次第に首筋に舌を這わせてゆく。美緒は、言葉では抵抗するものの、体は正直なのか、くすぐったがっているような素振りを見せつつ、言葉にならない喘ぎをあげた。息も途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
 抱く気はないとは言え、ずっとまともに会っていなかった彼女を目の前にすると、薫もついつい手が伸びてしまう。その髪に、その肌に、その唇に触れたいと思うことは、自然なことだった。
 しかし、美緒の唇に触れようとした時、二人の雰囲気を裂くかのように、玄関のチャイムがなった。
「先生……誰か来ましたよ」
 少しの沈黙の後、美緒が言った。
「……ったく。いいとこだったのに」
「早く出ないと」
「はいはい。どちら様かなー」
 さほど残念がっている様子もなく、薫は膝を叩いて勢いをつけて立ち上がると、インターホンの受話ボタンを押した。相手は知り合いだったのか、普通に友人と話すような口調だ。相手が誰かまでは聞き取れなかったが、薫は『今開けるから』と言った後、玄関と部屋を跨ぐドアを開けた。
 誰なのだろうか気にならないわけではなかったが、二人がここに一緒にいるところを見られては困ると思った美緒は、玄関から目につかないところへと移動した。ちょうど、さっき薫が開けたドアのサイドにある壁にぴったりと体をつけ、様子を伺う。ここならば、玄関からは死角になって気付かれはしないだろう。薫が、玄関のドアを開けた様子をなんとなく感じると、息さえも聞こえぬように静寂を保った。
 途端、聞こえてくる。慣れすぎた女の声が……。
「体の具合はどう?」
「おかげさまで。元々、救急車で運ばれるようなもんでもないしな」
「またそんなこと言って。あなた医者のくせに、本当にムリするんだから」
「確かに倒れたのは、やばかったかな」
 クスクスと笑い声が聞こえる。艶っぽい大人の女の声は、まぎれもなく、結城麻里のものだった。彼女がここに来ることを意外だとは思わなかったが、美緒にしてみれば、彼女を歓迎する気にもなれない。もうだいぶ前のこととはいえ、彼女と色々あってから、意識せずにはいられなかった。
「一度あなたのことを告げるために学校へ戻ったんだけど、それから病院に戻ったらもう家に帰ったって看護婦さんが言うんだもの。心配したわよ。あまりムリしないでよね」
「もう大丈夫なんだよ。ほら、普通にしてても全然支障ないし」
「あなたはそうやってすぐ強がるんだから。昔から変わってないわね」
「昔も今も成長してないってことだな」
 ズキン……。胸の奥に、沈むような痛みを覚えた。
 やはり、自分の知らない過去の話を聞くと、不安にならずにはいられない。たとえ、それが遠まわしな言い方だとしても。恋愛に関することではないにしても。
「はい、これ。あなたの携帯」
「ああ。持っててくれたんだ」
「倒れた時にそばに落ちてたの。なくしたら困るだろうから持ってたのよ」
「わざわざ届けてくれなくても良かったのに」
「あら。私が心配して見舞いにきちゃ迷惑?」
「いや? 女性に気に留めてもらえるなら大歓迎だよ」
「逃げ方が上手いわね」
 それは、フェミニストな薫なら誰にでも口にする言葉だろう。麻里にそれを言うということは、今ではもう特別な関係など微塵もない証拠なのかもしれない。けれど、相手が麻里だからこそ、簡単にはそう受け止められなかった。自分がここにいる理由を、見失ってしまいそうになる。
「元気そうでなによりだわ。本当に心配したんだもの」
「悪いことしたな」
「いえ、いいのよ。あなたが元気ならそれで」
「病院でもわざわざ付き添わせて、学校の方大丈夫なのか?」
「元々今日はお休みだしね。私も、ちょっとした用事があったから学校にいただけだし。それにしても、私に見つけてもらったこと、感謝しなさいよ」
「ああ。礼はちゃんとするよ」
 二人の会話から、色々と当時の様子が浮かんできた。たまたまとは言え、今でも薫と麻里は面識があるということなのだろう。そこに、恋愛感情があるのかどうか。少なくとも、麻里にはまだ残っているのかもしれない。女の直感が、そう言っていた。
 その理由に、ねだるような女の声が、耳に響く。
「ねえ。あげてくれないの?」
「ん?」
「部屋によ。せっかく見舞いに来たのに、門前払い?」
「悪いけど、ここには誰もあげられないんだ」
「別にいいじゃない。襲いやしないわよ」
「わかってるよ、そんなこと」
 食い入るようにねだる麻里に、薫はたいして相手にせず笑うだけだった。
 拒む理由。そこには確固たる意思がある。
「誰もあげないって言ったって、どうせそんなの嘘でしょ?」
「まあ、正確には、女性はあげられないってことだな」
「彼女を除いて?」
「ああ。美緒だけは別」
 美緒に聞こえるように言ったのだろうか。わざと名前を口にしたかのような雰囲気だった。名前が出たことで、当然麻里には取り付く島もなくなる。おまえには入る隙はないのだと、美緒だけが特別なのだと、言葉自体がそう語っていた。
 美緒を家に入れる時には、あまりに自然だったのに、他の女性にはこうも違うなど、さっきまでは想像もしていなかった。いつも優しい薫だから、女の子にねだられたら、簡単に家にあげてしまうのではと思っていた。
 けれど、違う。自分には自分だけの場所が薫の中にある。けして、他の女性は入れない、特別な場所が。そう思うと、涙が溢れそうになった。自分が特別に大事にされていること。弱い心が傷つかないようにいつも守られていること。さりげなくも、心から愛されているということ。直接告げられるよりも、むしろこうやって客観的に聞くことで、深く感じた。胸が焦げそうなほど熱い。
「今来てるの? 彼女」
「聞いてどうする?」
「だって私、彼女にあなたのこと教えたから」
「そうなのか」
 麻里の言葉に、さほど興味もなさげに薫が答えた。その話題を広げる気は、まったく感じられない。そんな薫の態度に、麻里も何か感じ取ったようだった。
「……彼女がここにいてもいなくても、あなたは私をあげる気はない。そういうこと?」
「そういうことだな」
「わかったわ。帰るわよ。体には気をつけてね」
「ああ。ありがとう。たぶん月曜には出勤できると思う」
「せっかくだから休んじゃいなさいよ。病人でしょ?」
「生憎、俺の仕事はその病人を診る仕事なんでね」
「それもそうね」
 クスッと笑うと、その後、カツンという音が聞こえた。麻里のハイヒールの音だと、すぐに気付く。玄関のドアノブを回す音がして、扉の開く雰囲気を感じると、少しの間が空間を包んだ。
「でもやっぱり、あなた変わったわ。昔は、そんなに一人の女のためだけに生きる人じゃなかったもの」
「誉め言葉だと思っとくよ」
 じゃあね、と麻里が告げた後、バタンとドアの閉まる音が響き渡った。


「なんだ、そんなところにいたのか」
 麻里の最後の言葉に、少し考え込んでしまって、ぼーっと立ち尽くしたままだった。驚き顔で美緒を見る彼を、マジマジと見つめる。
 自分は、今のこの人しか知らないけれど、麻里は変わったと言っていた。一人の女だけを大事にする男になった、と。
「どうした?」
「い、いえ。結城先生来てたんですね」
「ああ。見舞いにきてくれたみたいだな。ついでに携帯も届けてくれたし」
「良かったですね」
「あ、もしかしておまえ、結城先生が部屋に来るんじゃないかと思って気にしてたんだろ」
「そんなことは……」
「安心しろよ。俺はおまえ以外、この部屋に女を入れたりはしない」
 ポンと頭に手を置いて、クシャクシャといじった後、通り過ぎてゆく。薫はキッチンへ向かうと、冷蔵庫からミネラルウォーターを取りだし、飲み干した。
 ――おまえ以外、この部屋に女を入れたりはしない
 特に意識して言った言葉ではなかったが、美緒にとってはどんな言葉よりも深い意味を成すということを薫は知らない。誰にも開けられない鍵。それを自分が持っているということの優越感。誰の心の中でも良いわけではない。それが、愛する人の心の鍵穴とピッタリ合わさる時、この上ない優越感を味わうだろう。美緒は、とてつもなく、薫の優しさや気遣いを感じていた。
 けれど、それは痛みを伴う想いなのだと、徐々に感じていく。罪悪感、という鈍い痛みを伴って。
 麻里が言うのだから、確かに薫は変わったのだろう。相変わらず、女性には甘く、接する態度も思わせぶりなものが多いが、しかしどれも個人的に固執しているものではない。彼は誰にでもそうなのだ。どんな女性に対しても。それは、わざわざ作った性格、というわけではなく、生まれつきと言った方が正しいのかもしれない。
 だからこそ、周りが彼に執着する。自分だけに振り向いて欲しくて、自分だけに優しさを見せて欲しくて。そんな、積もり積もった女たちの想いが形となり、噂となり、彼がプレイボーイであるかのようなイメージを作り上げる。しかし、どれも、彼自身が望んで招いたことではない。彼女がいると公言した二ヶ月前から現在にいたっても、現状は全く以前と変わらないのが何よりの証拠だろう。実際、美緒以外の女性には興味を見せない薫だが、周りの環境は何ら変わらないのだ。その影響か、今彼に本命の彼女がいることなど、周りの女たちは気にもしていない。
 そんな環境の中でも、薫は美緒を大事にするということを忘れはしなかった。いつだって不安にならないように。自分に自信を持てるように。周りの女たちとは違う特別なものが美緒の中にあるということを、言葉や態度でいつも示してくれたのだ。
 そう理解するにつれて、痛みを増す罪悪感。こんなにも美緒を大事にしてくれる薫なのに、自分はどうなのだろうと思ったら、とてもこの場にいられるとは思えなかった。自分はさっきまでハルカと一緒にいたのだ。しかも二人きり。傍から見れば、普通のデートだ。この前だってそうだった。薫の優しさを真に受け、心配なハルカの元へと駆けつけた。それらのことに関して、たいして悪びれた風も感じず、ただの友達だからと、勝手に自分で決め付けて許していた。それを見た時の、薫の気持ちなど、少しも考えずに。今思えば、あの時の美緒は、薫よりもハルカを優先していたと言えるだろう。
 これが、逆の立場だったらどうなのだろうと考えると、ゾッとするほど恐ろしくなる。麻里と話している光景を見るだけでも、マイナスの気持ちを感じてしまうのに。さっき、あの場面で薫が麻里を部屋にあげ、『友達なんだから当然のことだろう』と言ったならば、自分はどんな思いをしただろうか。とてもじゃないけれど、この場にいたいとは思えない。麻里が友達なら、じゃあ私はあなたの何? と、薫の愛情さえ疑ったかもしれないというのに……。
「ごめんなさい……」
 溢れる想いが、口をついて出た。心から、ごめんなさい、と、そう思う。
 謝らずして、彼の優しさを受け入れるなど、そんな卑怯なことはできない。
「ごめんなさい……」
 小さく、呟く。弱い自分の心を表すように。
 美緒の異変に気付いてか、薫はペットボトルをテーブルに置き、美緒のそばまで近寄る。どうした? と同じくらい小さな声で問いかけ、髪に手を触れた。
「わたし……わたし……さっきまで香月君と一緒にいました」
「香月と?」
「二人で、お茶したり、ショッピングしたり……デートみたいなこと、してました」
 薫は何も言わず、ただ黙って聞いていた。
 静寂が怖くて、美緒は続けて言葉を口にする。
「この間も、先生にあんな風に言われたのに、その後会いに行ったの。放っておけなかった。香月君が泣くから……抱きしめもしました」
 口にするほど募る罪悪感。自分はなんてバカだったのだろうと、知らず怒りを覚える。こんな風に彼に告げることで、何も報われはしないのに……。
「時々二人で一緒にいることもありました。先生が知ったら、とか、そんなこと全然考えてなかった。先生は、私だけ大事にしてくれるのに……私が嫌がることしないのに……」
 自分のしたことに歯がゆくて、唇を噛み締める。今頃になって気付くなんて……。
 恋愛は、愛情を貰うだけではない。貰う分返さなくてはいけないということを忘れていた。好きという言葉だけでなく、相手を思いやる優しさも。二人がいなければ、恋だって成り立ちはしない。恋人だなんて、言えるはずもない。大事にしてもらっているだけの今の状況は、ただの一方通行だ。
「香月君はただの友達だからって。友達なんだから、二人で一緒にいたって、たくさん仲良くなったっていいんだって、勝手に……思ってました。相手がえみなのと変わらないって思ってたの。でもそうじゃない……」
 どんなに友達以上の感情を持つことはないと断言できたとしても、そんなことは関係ない。一番大事な人を不安にさせることならば、してはいけないのだ。たとえ友達でも相手は一人の男。男友達がいることに悪いと思うことはなくても、そんなカレといつも二人で一緒にいて、親密になってゆけば、不安に思わない恋人がどこにいるというのだろう。
 たとえ薫の度量が海のように広くても、不安要素を一つでも与えないように努力することを考えていなかった。実際、友達の枠を少し超えつつあったと感じていたのだ。ただの男友達と呼ぶには、カレに惹かれすぎたことは否定できない。ハルカと一緒にいたときに、カレを異性だと感じた小さなときめきに嘘はつけない。
 歯がゆい。自分の愚かさに……。
「いいよ。ムリして話さなくても」
 髪を撫でていた手を後頭部に回し、胸に引き寄せた。ストンと腕の中に入ってくる少女をくるむように抱きしめると、愛しいと言わんばかりに優しく力を込める。詰られてもしかたないと覚悟していた美緒は、急に訪れた状況に、ただ戸惑うだけだった。
「おまえにとって香月が、ただの友達だってことはちゃんとわかってるよ。たとえば相手が藤井だったとしても、おまえは同じように接するだろう?」
「でも……」
「俺は、男友達がいることを悪いことだとは思わない。だから、男友達と遊ぶななんて、そんな狭量なことは言わないよ」
「でも……やっぱり嫌でしょう?」
「友達を大事にできない人間に、恋人をも大事にできるわけないだろう。友達にも愛されない人間を、俺は愛したわけじゃないよ」
「先生……」
「恋人を見る目と、ただの男友達を見る目が違うことくらい、俺にだってちゃんとわかるから……」
 どこまでも優しい薫の声に、募っていた罪悪感が涙へと変わる。
 胸が痛くてたまらなかった。
「確かに俺だって、香月とばかり仲良くするおまえに嫉妬したことはあったよ。でもそんなことはもうどうでもいい」
「でも、私、先生を傷つけることばっかりして……」
「香月とキスした? セックスした?」
「え……?」
「おまえは俺に言えないことをしたわけじゃない。そうだろ?」
「うん……」
「だからもういいんだ。だっておまえは、香月を振り切ってここまできてくれたんだろう?」
「それは……」
 何も言わなくても、薫にはすべてお見通しだった。言葉にしなくとも、美緒の心はいつも見透かされていた。そんな大人な薫を見ると、子供なだけの美緒は何も言えなくなる。
 恋愛など今までまともにしたことはない。いつだって一生懸命で、いつだって間違いを犯してしまう。それなのに、彼はいつもいつもそんな美緒を優しく受け止めて、何も責めず、何も言わず愛してくれた。愛し方を、一つ一つ教えてくれた。愛しさを通り越して、切なさに胸が締め付けられる。
 薫の背にそっと腕を回すと、離すまいと、強い力で抱きしめた。
「俺は、友達のことも自分のことのように大事にするおまえのことが好きだよ。そんな女じゃなきゃ好きになってない」
「……うん」
「だから、おまえはおまえのまま変わらなくていいよ。きっと香月もそんなおまえだから心を開いたんだろう。友達なら、力になってやるといい」
「でも……」
「俺なら大丈夫」
 ちゃんと君に愛されていることをわかっているから。
 言葉にせず、髪に口付けて呟いた。
 最初は不安にも思った。嫉妬もした。けれど、君の愛情をこんなにも感じたら、君を縛ることなんて言えるわけもない。ただ忘れないで欲しい。どれだけ、君のことを信じているかということを。
「大体、よその男に取られるほど、俺も落ちぶれちゃいないし」
 フンと鼻で笑うように、おどけて言った。
 冗談まじりの言葉は、沈んでいた美緒の心に笑みを誘った。
「おまえなあ。俺みたいないい男独り占めしてるって本当はすごいことなんだからな?」
 わかってんの? と、笑い混じりで言う。薫らしい言葉に、美緒もクスッと声を出して笑ってしまった。
「今のおまえも可愛いけど、いつか堂々と二人で歩く時のために、おまえは目一杯いい女になってくれよ?」
「なにそれ」
「誰もが振り返るくらいすっごいイイ女連れて、彼女ですって皆に言いたいじゃん」
「どうせ私にはムリです」
 今のおまえにはまだムリだけど、と言われているようで、美緒はつい憎まれ口を叩いてしまった。そんな彼女に、薫はいつもの冗談交じりの言葉で美緒を余計からかったりする。
 いつの間にか、いつもの二人の雰囲気に戻っていた。笑顔の絶えない、優しさも甘さも溢れる二人の雰囲気に。
「じゃあまずは添い寝の練習だな」
「添い寝?」
「そう。添い寝。さ、行くぞ」
「え……やだ」
「やだじゃない。病人には優しく、だろ?」
「本当に病人なんですか?」
「もちろん。医者の俺が言うんだから」
「しかたないなあ……」
 言葉は拒みつつも、表情は照れも含んだ笑顔だった。
 薫は、強引に美緒の腕を掴むとベッドルームへと連れて行く。抵抗する美緒の言葉は、聞こえているのかいないのか。笑顔のまま上機嫌で、手を強く握る。握られた手の強さに、彼の優しさを感じて、美緒も強く握り返した。

 私の全てを否定しないその強さ。その裏に秘められた優しさは、きっと誰も敵いはしないのだろう。そんな想いに守られて咲いた花は、今日もあなたのためだけに咲き誇る。
 あなたのように強くなりたい。あなたのように、どこまでも深く透き通る海のような優しさが欲しい。
 あなたを傷つけずに済むように。あなたのそばにいつまでもいられるように。あなたの涙で、枯れてしまうことのないように……。

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