氷花

11.恋風

 暖かな午後の昼下がり。柔らかく日差しが差し込む保健室は、誰一人生徒もおらず、ただの応接室となっていた。若く透き通るような青年の声と、粘着質な中年の男の声。二人の男の声が、部屋中に凛と響く。
「お加減はいかがですか?」
「ええ。もうすっかり。体調を崩していたというのが嘘のようです」
「それは良かった。大事がなくて何よりですよ」
 テーブルの上におかれた湯飲みを手に取り、音を立てて茶をすすった。大声で豪快に笑う。湯飲みを掴む彼の太い指に目が行き、この指で本当にオペができるのだろうか、と薫の中で疑問が浮かんだ。
「運ばれたのが櫻井先生だと知っていたなら、こちらとしても手厚い対応をしましたのに」
「いえいえ、それには及びません。ただの疲労ですから」
「すぐに帰してしまったそうじゃないですか? その日だけでも入院されるべきだったんじゃないですか」
「私が申し出たことです。たいした病気でもない人間が、病院のベッドを占領してはいけませんからね」
 社交辞令とも取れる榊原の言葉に、薫はあえて気にもせず軽く交わした。手厚い対応をするという言葉の裏には、薫を特別扱いしているという意味も含まれているのだろう。この男にそうそう世話になっては、後の返しが怖いことを、薫は確信していた。
「たいした病気じゃないなどと、何を仰いますか。疲労と簡単に言っても、実際は怖いものですよ? 櫻井先生も医者ならおわかりのはずだ」
「もちろんわかってはいます。でも自分の体のことですからね。医師暦よりもこっちの方が長い付き合いです」
「それもそうですな」
 またも、豪快に笑う。それとは対照的に、薫はいつものポーカーフェイスを表情に、感情のない笑みを浮かべていた。榊原が湯飲みをテーブルに置くのと同時に、自分の分の湯飲みを手に取り、お茶をすすりながら眼鏡越しに相手の男の顔を窺った。
 午後になり、突然現れた榊原総合病院の院長。何を思ってここに来たのかは定かではないが、もう三十分ほどここに居座っている。これまでにも、こういった状況は何度かあった。特に何かを話すわけではない。他愛のないことをネタに持ち出しては、心地よい薫との会話を楽しんでいるという風だった。
 いつもなら、理事長室に寄った後、ここへも訪れるといったものだったが、今回はわざわざ薫を訪ねてきたらしい。一見、知り合いを見舞うという親切で優しい行為。
 だが、薫には彼の思惑がわかっているからこその警戒心があった。こうやって、談笑している間にも、榊原がいつ話を切り出そうかと図っている雰囲気を感じ取っているのだ。もう何度も持ちかけられては避けてきた内容。薫を、榊原の右腕として引き抜きたいという話を、彼はもう何度も上手く交わしていた。どうせ今日もこの話題を持ち出す気なのだろう。薫は、笑顔の裏側に、数え切れないほどの思考を巡らせ、この場をどう切り抜けようか考えていた。
「それにしても、こんなところに貴方を置いておくのはもったいないですね」
「買いかぶりですよ。私は学校の校医くらいの位置が自分に合っていると常日ごろから思ってますし」
「またまた。ご自分ではわかってらっしゃらないのかもしれないが、貴方がとっても優秀な医師だってことは有名ですよ」
「だとしたら、そんなほらを吹いた方を責めなければいけませんね。私にそんな技量はありませんよ」
 クスッと音だけの笑みを零した。榊原は、そんな薫の様子を舐めるように見ると、ニヤリとほくそえんだ。
 元々、こんな風に謙遜する人間を嫌いではない。自分の下に置く人間ならば、奥ゆかしさが大事だと思っている榊原にとってみれば、櫻井薫という男は、自分の好みの人間と言えた。裏で何を考えているかわからないようなしたたかさ。けして他人を嫌味にさせない穏やかさ。話していて飽きを感じさせない頭の良さ。薫のどれを取ってみても、気に入っていると言えた。そんな彼に医師としての最高の技量も伴っているとなれば、欲しいと思うことは自然のことだったのだ。
「榊原総合病院も私の代で終わりかもしれませんな。良い後継者がいやしませんよ」
「何を仰いますか。立派な息子さんがいらっしゃるでしょう?」
「ああ……息子ですか……」
「元気にしてらっしゃいますか? 確か、亨さんと仰られたと思うのですが」
「息子は自由奔放でしてね。私の言うことも聞かず、急に自分の道を突き進むとか駄々をこね始めまして……親として恥ずかしい限りです」
「そうでしたか……。でも、そのうちきっと、お父さんの立派な背中を見て医者になりたいと言い出すかもしれませんよ」
「そうだといいのですけどね……まあ、あてにはしてませんよ。結局身内よりも、腕の立つ優秀な医者です」
 一瞬父親の顔を見せたかと思った榊原だが、話をまた元の筋に戻すと、薫をねっとりとした視線で見つめた。
 この視線に掴まっては、やっかいなことになりかねない。そう思いながら、けして視線を合わせようとはせず、薄笑みを浮かべて、言葉だけで対応する。普段から、この男と話すことを、嫌だと思っているわけではないが、快くも思っていなかった。どことなく、嫌らしさを感じるのだ。粘着質な言葉も、榊原の人間性を表しているようにしか思えてならなかった。綺麗な言葉で包み隠してはいるが、殻をはがしたその中身は、人の妬みや憎しみ、恨みや計算高さなどが滲み出すようだった。
「ところで先生。ここでの勤務の後のことはお考えかな?」
「いいえ。考えてはいませんが」
「まさか、先生ほどの人が、校医という立場でここに骨を埋める気はないでしょう」
「それはそれで悪くないなと思ってはいますけど。なにせここは若くて可愛い女の子がたくさんいますから」
「相変わらず先生は冗談がお上手だ」
 二人して、声を立てて笑う。本心はいかほどなのか。相手の心中を探るような会話には、肌でしか感じ取れないピリピリとしたムードがあった。張り詰める緊張感。うっかり相手に話を合わせてしまっては、命取りだ。
「全く、あなたという人は、女性を口説き落とすよりも難しい」
「それは、誉め言葉だと取ってもよろしいですか?」
「ええ。さすがとしか言いようがないですな。ここの理事長を心底羨ましく思いますよ」
「社交辞令とはいえ、偉大な榊原総合病院の院長に口説かれて、私としてもとっても栄誉なことです」
「いや、冗談ではない。私は本当に貴方を心から欲しいと思ってますよ。ですから……」
 話がとうとう本題へと入っていこうとした時、保健室のドアが急に開いた。ガラガラと勢いよく開いた引き戸と共に姿を現したのは、偶然とはいえ意外すぎる人物だった。
 途端包む静寂。今まで豪快に話していた榊原も、相手の顔を窺うなり脂汗を額に滲ませ、唇を軽く噛み締めていた。何を話していいのかわからないのだろう。明らかに目が泳いでいる。薫も、この場を上手く取り繕う言葉を見つけ出すことができなかった。何も真相は知らないとはいえ、榊原と、この少年との間に、深く刻まれた何かがあることを咄嗟に感じ取ったのだった。麻里の言っていたことも、多少は影響していたのかもしれない。
 そんな中、薫と榊原の二人に見つめられ、立ち尽くしていた少年は、特に顔色を変えることなく、重い口を開いた。
「あの……英語の結城先生がこれ持っていけって言うんで持ってきたんですけど」
 手に持っていた書類を差し出す。薫は咄嗟に立ち上がり、榊原の前を横切ると、書類を受け取るためにハルカの元へと歩み寄った。
「わざわざありがとう」
「お客様がいるところ、失礼しました」
「いや、構わないよ」
「じゃあ、櫻井先生。私はこれで」
 いつの間に帰る支度を終えていたのか、榊原は背後から薫に声をかけると、そそくさと立ち上がり、保健室を後にしようとした。途中、ハルカと視線が絡まったように見えたが、特に何も会話をすることなく、横を通り過ぎていく。いつもなら、なかなか帰ると言い出さない榊原の急変した態度に、薫は怪訝な表情を浮かべながら、ただ見つめるだけだった。上着も着損ねたまま保健室を出、バタンと閉められた後、再度静寂が薫とハルカの二人を包む。
「俺、邪魔しましたか?」
「いや、気にしなくていい。むしろ助かったくらいだ」
「え……?」
 書類をデスクの上に置きながら、苦笑していた。香月ハルカがここへ現れたのは、いろんな意味で皮肉なものだと。榊原との関係性も確かにある。だが、ついこの間まで嫉妬していたハルカに、偶然とはいえ助けられた形になった。あの場をどう切り抜けようか考えていた薫にとっては、願ってもないタイミングだったのだ。
「助かったって、どういう意味ですか?」
「ん? 深い意味はないが……ちょっと苦手なんだ、あの人」
「苦手……」
「ああ。だから、香月がきてくれて、助かったというわけ」
 入り口に立ち尽くすハルカを、さっきまで榊原が座っていたソファへと促す。特に何か用があったわけではないが、少しカレと話してみたいという気が心のどこかにあったのかもしれない。
 ハルカは、特に警戒するでもなく、ソファに座ると、見上げるように薫を見た。視線が合わさるように、薫も対面側のソファに座る。正面から見たハルカは、少々顔色が青ざめているように見えた。
「俺……実はちょっと聞いてたんですけど、あの……行くんですか?」
「行くってどこへ?」
「榊原……総合病院」
「なんで?」
「だって……先生のこと欲しいってさっきの人言ってたから」
「おまえそれ、ちょっとどころかかなり聞いてただろ?」
 アハハと声をあげて笑った。嫌味のない薫の態度に、どこか好感を覚えてか、ハルカも小さな笑みを口元に浮かべる。そんなことないですけど、とはにかむように答えた。
 ハルカから、積極的に話してくることは意外だった。少なからず寡黙なイメージがあったのだ。美緒といる時のカレは別として、普段のカレは誰も寄せ付けないオーラがある。それもこれも、榊原が関係しているから聞いてくるのか、と、憶測だが考えずにはいられなかった。実際、さっきの榊原の様子といい、ハルカの顔色といい、彼ら二人の間に、深刻な何かがあるのは確かだったからだ。
「榊原先生には悪いが、俺はここを離れるつもりはないよ」
「どうしてですか? 校医なんかより、よっぽどいいんじゃないですか?」
「いいって、例えば何が?」
「設備もそうですけど……医師として成長するには」
「香月は、ここじゃ医師として成長できないと思うのか?」
「え……?」
 突然の問いかけに、ハルカは上手く言葉が返せなかった。まさか、薫にこういう質問をされるとは思っていなかったのだ。それより以前に、自分が、榊原総合病院という所を、自分の中で評価の高いところと位置付けていたことに、少々腹が立った。
「俺はそうは思わない。確かに、あそこに行けば、医者としての腕前は上がるかもしれない。数多くの患者、症例。どれも遭遇するにつれ医師としての腕をあげる機会にはなるだろう。でも、それだけじゃ、心は成長しない」
「心……?」
「人のために何かしたいと思う心がなければ、医者として続けていく意味があるとは俺には思えないんだ。ただ、切って治して薬を飲ませて。そんな治療法は、俺でなくてもできるだろう。それをするのが俺である必要性を感じない。だけど、誰かのために支えになってやりたいと思う心は、誰にも負けてないと思うよ」
「それが、ここでの校医の仕事ですか……?」
「別に校医であることに頑なにこだわってるわけじゃないよ。実際、ここでの仕事だけしているわけでもないし。ただ、今与えられた立場をきちんと遂行できないまま、他のところへ移るのは嫌なんだ」
 なぜ、ハルカに対しこんなことを話しているのかは、薫にもわからなかった。けれど、真剣なハルカの目を見て、何かが刺激されたのかもしれない。カレの中に、何か、自分と同じようなものが見えた気がしてならなかった。
「俺がここにいることで、おまえたち生徒は安心して過ごすことができるだろう? おまえたちに何かあれば、俺はすぐにかけつけることができる。病気を診るだけが医者の仕事じゃない。大事な人が元気でいられるようにサポートすることも、立派な仕事だと俺は思うけどね」
 ――大事な人。
 薫の言葉を聞いて、ハルカの頭の中に、母の笑顔がよぎった。手の施しようがなかった病気とはいえ、母のために何もしてやれなかった自分。医者である榊原の力を借りるしかなくても、それでも助けることができなかった。恥を捨てても、何を捨てても助けたかった母。その母を失った時の、喪失感と、自分への苛立ちを、今でも鮮明に覚えていた。
「先生にも大事な人って……いますか?」
「もちろん。俺は医師である前に人間だから、自分の愛する人を一番に守りたいと思うよ。その人のために強くなりたい。自分の一番大事な人を守れないような男には、医師をやる資格もないと思ってるしね」
 医師である前に、一人の人間。ハルカは薫の言葉に、何か救われたような気がした。
 ずっとずっと、医者であるということを振りかざしては傲慢だった自分の父親。櫻井薫という男は、そんな父とは正反対だった。父の存在があるゆえに、医者という立場を憎んでさえいた。けれど、本当は、ハルカ自身も医者という職業に憧れていたのだ。
 あの日。母を失ったあの日。自分に、大事な人を守れるだけの力が欲しいと切に願った。素直になれず、ずっと封印していた想い。今になって、医者という職業を押し付けられ、余計に向き合えなくなっていた。それが今、櫻井薫という男に、本心を丸裸にされている。最初に話したときから感じていた。この男は底知れないと――。
 実際、彼が生徒や教師、保護者にいたっても人気を得ている理由がわかった気がした。フランクな性格だけが理由ではない。こういった信念の強さを、無意識ながら皆感じ取っているのだろう。強さと優しさ、両方を持ち合わせている男性だった。それを、こんな場面で、こんなにも感じるなどとは、思ってもいなかった。


 薫と少しばかり話をした後、教室に戻ったハルカだったが、下校の時間になった時、自分の家の鍵がポケットに入っていないことに気付いた。いつもなら、制服の右ポケットに入っているはずの鍵。どこを探しても見つからず、いろいろと思考を巡らせると、思い当たる最後の場所は一つしかなかった。

 保健室へと続く長い廊下をゆっくりと歩く。夕日が、廊下と壁に長い影を作って、ハルカの頬をオレンジ色に染めた。パタ……パタ……とハルカの足音が響く中、遠くに人影を見つけた。スカートの形と、長い髪の影が見えて、それが女の子だと気付く。人影のある場所の上の方を見ると、『保健室』の表札。あまりに不自然に立ちすくむ影に、ハルカは気付かれないようひっそりと近づいた。
「真中……?」
 近づくにつれ、見えてきたのは、クラスメートの面影だった。以前のデートの件があってから、何気なく疎遠になっていた彼女。自分から近づくには羞恥が勝ってしまって、今まで話し掛けられずにいたのだった。
 彼女に対し、恋、という意識を薄々と、心の中に感じている自分がいる。彼女はただ、扉の前に立ちつくし、小さな手をギュッと握り締め、じっと何かを見つめていた。
「真中? 何やってんだよ……」
「ハル……カ……」
 突然声をかけられ、美緒がハルカの方へ振り向いた。目を丸くし、驚いた様子でハルカを見つめる。体は微動だにせず、乾いた言葉は、ハルカの名を呼ぶだけで精一杯だった。
 そんな彼女の様子に、ハルカもタイミングの悪さを感じずにはいられない。悲しそうな、戸惑っているような彼女の表情を目にすると何も言えなくなった。
「体調……悪いのか?」
「え……ううん……そうじゃないの……」
「顔色悪いけど?」
「大丈夫……。じゃ、私帰るから……」
 返事は全く答えになっていなかった。まともにハルカと目を合わせることなく、フラフラとした足取りで歩き出す。さっきまでドアに捕まっていた小さな手は、何かを掴もうとするように空中を泳いでいた。俯きがちの顔は、前にかかる髪のせいで表情が読み取れない。今までに見たこともない美緒の様子に、ハルカは心配することも忘れて、ただそんな彼女を見つめるだけだった。ハルカの右側を通り過ぎていく彼女の後ろ姿に、知らず哀愁を見た気がした。
 風だけが、置き去りにされる……。彼女の瞳の中に、涙が見えたのは錯覚だろうか――。

 不自然な美緒の様子に戸惑うばかりだったが、彼女の後ろ姿が見えなくなった後、当初の目的を思い出して、保健室へと足を向けた。ドアに手をかけようとすると、ほんの少しだけ開いていた扉から、中の様子が伺えた。
「女……?」
 特に何を話していたか聞こえたわけではないが、女の声が確かに耳に届いた。中を窺うと、櫻井薫と、結城麻里が仲良く話している姿が目に飛び込んできた。デスクの椅子に座る薫の背を、麻里が覆うように立っている。抱擁やキスがあったわけではないが、そこには、どことなく、男と女の香を感じさせる雰囲気があった。薫がさっき話していた大事な人とは、結城麻里のことなのかもしれないと、咄嗟に思った。
「これを見てたのか……?」
 さっきの美緒の様子を思い出す。泣いてしまいそうな、儚げな表情。ただここに立ち尽くして彼らを見ていた。何も言わず。何も言えず……。ふと、この間のデートの時のことを思い出した。何も言わず、泣きそうになりながら立ち去った美緒のことを……。あの時も、今日と同じ風が彼女を包んでいた。
 知らず、胸がチクリと痛む。いつもなら、わからないはずのことが、美緒を思うばかりにわかってしまった。彼女の心の中に、どんな感情が渦巻いたのか……。
 切なく締め付ける心。
 少しずつだけれど、同じ思いを抱いていたからわかったんだ。

 彼女は、彼に恋をしている――。

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