氷花

9.冷色の仮面

「見たぞ、見たぞー」
「見たって、何を……?」
「まーた、とぼけちゃって。昨日自分が公園で何してたか、よく思い出してみなさいよ」
 登校してくるなり、にやけ顔のえみに問い詰められた。腕を引っ張られ、窓際まで連れてこられると、コソコソと秘密の話でもするように問われたのだ。
 昨日の公園――。
 えみの言葉に、パン! と何かが弾けるように、美緒の中で記憶が渦巻く。時間が逆戻りするように、頭の中で映像として数々の情景が流れた。――思いだす。昨日のハルカの悲しそうな顔を。放っておけなかった自分の気持ちを。抱きしめた、彼のぬくもりを……。
「あ、昨日ね。昨日は……うん」
 何と答えていいのかわからない。美緒の言葉は、曖昧なまま、返事にならなかった。
 えみは何を見たのか、他人から見れば自分たちはどう見えたのか。それよりも何よりも、自分たちでさえ、なぜ抱きしめあったのかは説明できない。確かに言えることは、ただハルカを支えようとしただけ。けれどそう答えたなら、えみは『どうして?』と聞き返すだろう。それだけはどうしても、避けなければならなかった。
「私にまで隠すなんて水臭いなあ。香月と親密な仲なら、そうだと言ってくれればいいのに」
「そんなんじゃないよ」
「うっそだー。だって、昨日あんなにラブラブに抱き合ってたじゃない」
「それは……」
「普通だったら、あんなところで人目も憚らず抱きしめあったりしないって。よっぽど好きなんでしょ? 香月のこと」
 どうやら、えみの目には、ただの恋人同士が抱き合っているように見えたらしい。小さくため息が出る。美緒は、ハルカの秘密を感付かれなかったことに、少し安心した。誤解されることに多少の居心地の悪さはあるが、そんなことはハルカのことを知られることに比べればよっぽどましだ。それくらい、カレの悩みは、安易に口にできるものではない。
 結局昨日ハルカの口から聞いたことは、カレの両親のこと、そして、医者になれと父親に期待をかけられてこの学園に来たということだった。けして、深いところまでは話してくれず、簡潔な説明だったが、その内容だけでもカレの心の痛みを想像するのには充分だった。
 美緒に話すことでハルカの気持ちは救われたのだろうか。語りつつ、歪んだ笑顔を浮かべていたハルカの表情を思い出すと、美緒の中で答えは出なかった。元より、人の心を救えるほど自分は大きな存在なのだと、そんなことを思ってはいない。
「別に恋人同士とか、そういうんじゃないんだよ」
「え? じゃあ何? 好きっていう気持ち確かめあったわけじゃないってこと?」
「ていうか、元々、好きとかそういうのとは違う気も……」
「信じらんない!」
 えみは目を丸くして、美緒をじっと見ると、わけわかんない、と言いながら首を振った。そんな彼女の姿を見て苦笑する。高校生の女の子らしいえみの反応に、余計にハルカのことを思い出した。カレの暗い目は、きっと普通の高校生らしい思いを馳せてはいないだろう、と。
「ねえ。じゃあさ、私が何とかしてあげる」
「え?」
「そうだよ。うんうん。二人とも鈍いのが良くないんだよね。よし! このえみサマに任せときなさいって!」
 美緒の手を取り、ウンウンと頷きながら一人納得した様子のえみは、ヒマワリのような笑顔を浮かべて、嬉しそうに天井を見上げた。きっとまた、くだらないことでも考えているのだろう。一人、ブツブツと楽しそうに呟いては、目を輝かせている。けれど、そんな姿こそえみらしい、と、美緒は諦めに似たような笑みを浮かべた。


「ごめんね。今日忙しかったんじゃないの?」
「いや。別に忙しくはないけど」
「そう? ならいいんだけど……」
「ったく、藤井の奴、余計なお節介焼きやがって」
「ごめん……ね」
 土曜の昼下がり。二人連れ立って街を歩いていた。明らかに恋人同士ではないと思えるような距離感を保ちながら歩く二人の男女。男の方は無愛想な表情を浮かべながら、ぶっきらぼうに話していた。視線は、彼女の方ではなく、たいして興味もないはずの店々のショーウィンドウに向けられたまま。女の方は、そんなカレの背中を追いかけるように付いていきながら、申し訳なさそうに謝るばかりだ。
 親友が仕組んだこととは言え、カレの気持ちを考えると、少々居た堪れない気持ちになる。明らかに不機嫌だとわかるカレの言葉を残さず耳で拾いながら、どうにかしてこの場を明るくしようと考えるばかりだった。
「ほんと……ごめん」
「何でおまえが謝るんだよ。大体、今日ここへ来るように仕組んだのは藤井だろ」
「うん……」
「おまえだって騙された一人なんだから、気遣うことねーよ」
「でも……」
 騙されたとしても、どうせならもっと明るい雰囲気がいい。そう思いながら、美緒は数日前にえみが言っていたことを思い出していた。週末、課外授業があるから、クラス全員集まれ、という内容だった。いつもと同じ課外授業だったら行く気はなかったのだが、全員強制参加だ、ということを聞いて、渋々行くことを承知した。『服装は私服で』、ということに少々意外性を感じずにはいられなかったのだが、修学旅行じゃあるまいし、そんなものなのか、と思ってもいた。
 けれど、今考えてみれば、えみの思惑との関連性を疑わなければならなかったのだ。ここへ来て初めて、『二人でデート楽しんでね』というメールがえみから送られ、二人ともえみの作戦にはめられたことに気付いたのである。
 だから、ハルカの機嫌が悪いのは無理はない。カレに嫌われているとは思っていないけれど、こうやって二人でいることを歓迎されているかと考えると、素直に頷くことはできなかった。
「ねえ……ハルカ」
 歩みを止めて、小さくカレの背中に問い掛ける。
「もうやめて、帰ろうか」
「あ?」
「だって、ハルカだって、嫌なんでしょ」
 何言ってるんだコイツ、とでも言いたげに、ハルカが振り返った。
 カレのそんな表情を見られないまま、美緒は俯いて、もう帰ろうと口にする。こんな風に二人でいるのは嫌なのだ。たとえはめられたデートだとしても、せめて明るくいたかった。だってハルカは、美緒にとって大事な友達だから……。
「えみがしたことは、私の口からちゃんと謝るよ。ごめんなさい……。機嫌悪くさせちゃったことも、謝るね。だから、もう帰ろう。これ以上私に付き合わせても悪い」
「おい!」
 泣きそうになりながら話しつづける美緒の言葉を、ハルカのきつい口調が遮った。遠くに離れて立っていたと思っていたカレが、気付くと美緒のすぐ目の前にいることに気付く。
「……何?」
「誰がそんなこと言ったよ」
「え?」
「誰がおまえに付き合うの嫌だって言ったかっての」
 目の前にはいるが、ポケットに手を突っ込み、相変わらず視線は外したままのハルカ。美緒がカレの表情をふと伺うと、少し照れたように頬が染まっているのに気付いた。
「怒ってない……の?」
「怒ってるよ。でもそれは、藤井に対してってだけで、おまえに腹が立つわけないだろ」
「でも……だって私と話してるときもそんなだから……」
「悪いけど、俺はこれが普通なんだ」
 相変わらずの無表情で、マジメにそう言ったハルカを見て、キョトンとした後、美緒がクスッと笑みを零した。なんだよ、とハルカが小さく聞いてきたが、そんなカレを見て思い出したのだ。そういえば、最初からカレは無愛想な人だったのだ、と。
 初めて会った日。傘を貸してくれた時も、不機嫌だった。あんなに優しい心を持っているのに、わざと仮面を被るようにいつも無表情で。言葉はまるで、人を拒絶するような響きを持っていて。けれど、会うたびに意外な一面を発見した。弱い部分さえ、見せてくれた。それも確かにカレ自身ではあったけれど、美緒は、出会った頃のカレを忘れていたのだ。カレは、そんな表情を見せてさえ、カレなのだということを。
「ごめん。そうだったね」
「わかったんなら行くぞ」
「え? どこへ」
「どこって……別にあてなんかないけど、デートなんだから、そんなのも悪くないだろ?」
 ハルカは、ポケットから左手を出すと、美緒の手をそっと握って、また自分のポケットへと戻した。それは、人に見られたくないという、恥ずかしさだったのかもしれないが、美緒からすると、恋人同士が普通にする行為のようで、ドキッと胸が高鳴る。少し強引に引っ張られて、小走りなってしまうけれど、一生懸命後を追った。ハルカの頬が、さっきよりもまた少し赤くなっているのに気付いて、思わず笑みが零れた。


 それから何時間か、街を歩きながらショッピングをしたり、カフェに行ってお茶をしたりと、普通のデートらしきことをした。その間、ハルカは相変わらずのぶっきらぼうであまり喋りはしなかったが、美緒はそんなカレをも楽しむように、色々なことを話した。時折見せるカレの小さな笑顔が嬉しくて、知らず饒舌になっていた。いつも聞き役の美緒にしてみれば、少し不思議な感覚。けれど、こんな二人の間柄も、しっくりくる感じがして、自然だと思えた。
 夕食の話題になり、どこで食べようかと相談するついでに、公園へと立ち寄った。二人でベンチに座り、温かい飲み物を手に、他愛もない会話をする。そんな時、美緒のカバンの中から、愛らしい音楽が鳴った。
「おい。携帯鳴ってるみたいだけど……」
「え? ああ。メールだから、気にしなくてもいいよ」
「そうなのか?」
「うん、たぶん急ぐものじゃないと思うし」
「ふーん」
 そんなものか、と思いつつ、ハルカはあえてそれ以上問わなかった。普通携帯が鳴れば、条件反射的に見てしまうものだとは思うが、何もしない美緒の様子を見て少し不思議に感じた。
 しかし、その後で、すぐに気付く。自分といるから、携帯を触ったりしないのだろう、ということに。そんなさりげない仕草も、彼女の魅力だった。
「なあ。前に携帯に付けてた鈴。今もつけてるのか?」
「うん、つけてるよ」
「見せてもらっても……いい?」
「え、うん。いいけど」
 カバンからゴソゴソと携帯を取り出す。探っている時に美緒の手が触れたのか、懐かしい鈴の音がチリンとなった。
「形は違うんだな。でも音は似てた」
「お母さんの鈴?」
「ああ。今はもう、どこに行ったかわからないんだけどさ」
「そっか。それは寂しいね」
 空を仰ぎながら、鈴の音に耳を澄ます。最近ではそう寂しいとさえ感じなくなっていた。なぜかはわかっている。鈴の音を聞くたびに、母の面影ではなく、彼女を思い出すからだった。
 すぐ手の届くところにいる。今もこうやって体温を感じれるほどそばに。そう思うと、鈴の音を聞いても、寂しいと思うよりも、愛しさにも似た温かさを感じる方が大きかった。
「あ……」
 コトッという音と共に、隣から、小さな声が聞こえた。その声に、驚きの表情が見え隠れしたことに気付き、彼女の方を見ると、さっき届いたメールを見ていたのか、美緒が携帯画面を見つめたまま、微動だにしなかった。瞬きするのをわすれるほどに。
 地面に目をやると、美緒がずっと持っていたミルクティーの缶が落ち、中身がこぼれだしていた。
「どうかした?」
「え……いや、あの……」
「何?」
 急に問い掛けられてびっくりしたのか、美緒は目を丸くしてハルカを見ると、また携帯画面に目を戻し、そして少し考えるように目を伏せた。携帯をギュッと握り締め、そして立ち上がる。彼女の急な行動にハルカは、何も言わずに彼女を見つめた。
「ごめん」
「何が?」
「私、行かなきゃ……」
「どこへ?」
「どこって……それは……」
 小さな声が震えていた。何かに怯えるような目をして。顔色は、本人かと見紛うほどに青ざめていた。
 彼女の中で何が起きたのかはわからないが、さっきのメールが原因であることはわかった。強く強く携帯を握り締めては、もう少しで泣いてしまうのではないかと思うような表情を浮かべる。彼女のことが心配で問いかけようとした。
 けれど。
「ごめんね、ハルカ……私行かなくちゃ……」
 美緒は、ベンチに置いていたバッグを掴み、走ってその場を離れた。風に揺れる彼女の髪を見ながら、ハルカはただ何も言えず佇むだけだった。


 題名:結城麻里です
 本文:櫻井先生の携帯からあなたにメールを送っているけれど、変な勘違いはしないでね。
     こうするしか手段がなかったの。
     今、榊原総合病院にいます。
     櫻井先生がさっき学校で倒れて救急車で運ばれました。
     まだはっきりとした原因はわかりません。
     大事はないと思うけど、今は何ともいえない状態です。
     時間があれば至急来てあげてちょうだい。
     悔しいけど、私ではダメなこともあるだろうから……。
            ―END―

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