氷花

12.雨夜の幻

「何? その鍵」
 彼の手の中にある鍵を見て、彼女は不思議そうに覗き込んだ。
「生徒の忘れ物だよ。たぶん取りに来るだろうから、持ってるだけだ」
「へえ。そのキーホルダーの趣味からすると、忘れたのは男の子かしら?」
 手にとり、目の高さまで鍵を持ってきてまじまじと見つめる。たいして興味もなさげに、ふーんと呟きながら、彼に鍵を返した。
「ご名答。さすがだな、結城先生」
「他人行儀な呼び方はよしてよ。今さら結城先生なんて呼ばれ方、居心地が悪いわ」
「ここは学校っていうことをお忘れなく。実際はどうであれ、以前は噂の立った仲なんだしね」
「薫は変なところ律儀よね」
 座っている彼の肩に手を乗せ、つまらなそうに口を尖らせる。こういう甘え上手な仕草や声は、付き合っていた当時と何ら変わりはなかった。無意識なのか、意識的なのか、彼女の仕草にはいつも女の香がしていた。
 しかし、昔のように彼女を愛しているわけではないし、今は別に想う人がいる。普通の男ならば、彼女を意識したかもしれないが、生憎、今の薫にとっての麻里は、友達以外の何者でもなかった。
「余計な誤解されたくないんでね」
「あら。私と噂が立っちゃ迷惑?」
「君とだったら、誰もがそういう関係になりたいと思うだろうけど、間の悪いことに、俺にはもう好きな人がいるから、困るかな」
「もっと早くに再会してればってことね。自分のタイミングの悪さを恨んでおくわ」
 麻里が溜息をつく。肩に触れる彼女の手に、少し力が入るのを感じて、薫は苦笑した。
 以前のように、激しく感情をぶつけることはなくなったとは言え、心の奥底では薫のことをずっと忘れられない麻里の思いを、ひしひしと感じていた。けして、好きだとか、自分の思いを言葉にするわけではない。彼女自身、新しい恋に向かって努力もしているのだろう。けれど、甘えるような仕草や、見せる女の表情が、昔のように、今も二人が恋人同士であるかのような雰囲気を匂わせる。恋心を引きずっている『女』の部分を隠し通せてはいなかった。
 友達だから、と割り切って話ができるのは、彼だけなのかもしれない。麻里の心の中に、今どれだけの想いが潜んでいるのかは定かではないが、少なくとも彼とこうやって話をしたり、時折触れてみたりすることで、女としての自分を再確認していることは容易に想像できた。
「そういえば、さっき、香月ハルカが来たでしょ?」
「ああ。珍しくな」
「私が彼に頼んだのよ。別に彼でなくても良かったんだけどね」
 唐突に話題を変え、明るい声で話し始める彼女の声色には、何かを企んでいる響きがあった。なんとなく、その思惑には想像がついたが、薫は特に聞こうとするでもなく、この話自体流さそうとしていた。
「あなたのところに、榊原院長が来てるって聞いたから、そこに香月ハルカを行かせたらどうなるかなあと思って」
「別にどうもしないさ」
「あら。でも榊原院長と香月君は絶対に関係あるわよ?」
「だから?」
「気になるじゃない」
 麻里の言動に呆れて溜息が出た。女とはどうしてこうも何かを追求するのが好きなのか。そもそも、生徒のプライベートに関与しない主義の薫にしてみれば、彼女の考えることは常識の外へと飛び出していた。
 これ以上、この話題を続ける気はなく、彼女との会話よりも仕事を優先する。書類に目を通しながら、ペンを持った。そんな彼の様子から何かを感じとったのか、麻里が言い訳にも似た言葉を綴る。
「別に私だって、生徒の家の事情とか、詮索するつもりはないわよ。ただ、生徒の一人というよりは、香月ハルカっていう男の子が気になるのよね。真中さんとの仲も気になるし」
「そうだとしても、香月自身が踏み込まれたくない心の領域だってあるだろう?」
 彼女の言葉に全く同情できなくて、少し叱るような口調になる。『それに、君には関係のないことだ』と、言葉を続けようとしたが、薫の思いやりがそれを止めた。事実だとは言え、彼女が傷つくかもしれない言葉を、安易には口にしない。その思いやりは、ハルカに対しても同じだった。あの時、平然を装いつつも、心の中は荒れていただろう。ハルカのあの青ざめた表情を目の当たりにして、彼女にいい加減なことを言うなど、彼の良識が許さなかった。
 確かに、二人の間に何か関係があるのは紛れもなく真実だろうけれど。
「踏み込んでなんかいないわ。私はただ、香月君に書類を持っていくよう頼んだだけだもの」
「どうせだったら、俺を巻き込まずに、そういうことはやってほしいね」
「ふーん。やっぱり榊原院長と会った事で変化見えたんだ?」
「そう取ったのなら、勝手に想像すればいい。俺には関係のないことだから」
 薫のいつもと違う様子に、麻里は何を悟ったのか、薫の望む方向とは全く逆の態度へ出る。彼の態度を、質問に対する肯定だと取ったのだろう。話をはぐらかすつもりが、麻里を喜ばせる結果となってしまった。全くもって、女のカンというものは恐ろしい。
「まあいいわ。私もちょっと気になる程度なだけで、そこまで詮索するつもりはないから」
「だったら最初から関わらないことだな。香月にとってもいい迷惑かもしれない」
「あら。えらく香月君の肩を持つわね。恋敵だっていうのに」
「そう思ってるのは、君だけだよ」
 やけに楽しそうに恋敵だと言う麻里を見据えて、また呆れ顔になる。その思惑の一部には、薫と美緒の破局をも望む気持ちが含まれているのだろう。思えば、昔から彼女には振り回されていたな、と思い出した。もちろん、マイペースを崩さない薫にとっては、振り回されているとういうほどの感覚はないが、簡単にも、扱いやすい女とはいえない。自分には持ち合わせていない『女』というものをしっかりと持っている女。良くも悪くも、女らしさを充分魅力にしている麻里は、どの男から見ても魅惑的であろう。ただ、彼女を性的対象として見れない薫には、その魅力が疎ましく感じることも、少なからずあった。
 友達というだけの関係になるには、まだ時間が早すぎるのだろうか。
「まあ、私は一抜けた身だから、あなたたちのことをどうこう言う資格はないんだけどね」
「恋愛はゲームじゃないよ」
「あら。昔はあなただってゲーム感覚の恋愛ばかりしていたくせに」
「昔は昔。今は今」
「櫻井薫ともあろうものが、地味になっちゃったわね」
「せめて、一途になったって言ってくれないか?」
 麻里の言葉に押され気味になりながら、ペンで頭を掻く。どうも、彼女相手だと自分のペースを崩しかねなかった。自分のことを知り尽くされている、という部分もある。だが、彼女のことを知りすぎているが故、ポーカーフェイスだけで交わせず、うっかり本音をもらしてしまうのが正直なところだった。
 少し苦笑いを残しつつ、今日はもうお開きにしようと彼女を促そうとする。
「元々結城先生は何をしにここに来たんだっけ?」
「あなたのお見舞いに」
「そう。だったらもう用件は済ませたはずだ。可愛い生徒たちも待ってるだろうから、早く職員室に帰ったほうがいいんじゃないか?」
「つれないわね」
 薫の肩に置いた手に、再度力を込めた。できることなら、ずっとここから離れたくはない。自分が触れるのではなく、触れられたい。隠していた本音が、唇をかたどって、『スキ』と伝えそうになる。けれど、それはけして口にしてはいけない禁句だった。
「わかったわよ。あなたの元気な顔も見られたし、そろそろ戻るわ」
「生徒たちが喜ぶよ」
「どうかしら。私はあなたほどもてはしないから」
「よく言うよ。生徒だけじゃなく、教師だって君に夢中だっていうのに」
「肝心な人が私を見てくれなくちゃ……意味がないのよ」
 俯いた愛らしい顔に、栗色のウェーブの髪が影を作った。言葉の最後には、知らず寂しい風が帯びていた。肩に置いていた手が離れ、真後ろに立つ。昔、彼が彼女を抱いていたように、背後から広い背中を抱きしめようとした。
 トクン、トクン。小さな胸の膨らみが弾けそうになるほど、彼を想う気持ちだけで胸が溢れそうになる。
 一度は諦めたはずの恋。今はもう、昔ほど欲してはいないはずなのに……。心に潜む寂しさは隠しきれず、彼の心の中に自分の居場所を求めた。
「私も香月君と一緒なのかもしれないわ。寂しくて、一人じゃ立っていられない……」
 薫の首筋に、麻里の細い腕が巻き付く。彼女の口から、『スキ』という言葉が聞こえたような気がした時、二人の背後に人影を感じた。細く開いたドアの隙間から、冷たい風が吹き込んだのだ。相手もそれを感じとったのか、少し遠慮気味にこちらを窺いつつ、扉を開け放つ。戸惑うような目が、印象的だった。現れた相手を目にし、麻里の口が軽く開いたまま、それ以上言葉を紡ぐことができなくなる。
 そんな二人の姿を目の当たりにしつつ、薫は彼女の巻きつく腕を解きながら、椅子を回してカレの方へと体を向けると、平然と微笑んだ。
「やあ、香月。これ、おまえの鍵だろう?」


 見慣れたドアの前に立つ。鍵穴に鍵を差込ながら、さっきまでの光景を思い出していた。
 平然と自分を迎え入れた校医。戸惑いながら凝視した英語教師。何を話していたのかまではわからなかったが、確実に二人が親密な関係であることはわかった。女が背後から男を抱きしめるなど、普通の友達関係ならばありえない。
 ただ、あんな光景を見られたというのに、何もうろたえずいつもと変わらぬ表情で自分を受け入れた彼の表情には、違和感を覚えずにはいられなかった。焦りも何もなかったのだ。まるで、自分が来ることを最初からわかっていたとも言えるほどに。彼女の腕を解く仕草も、鍵を返す時の言葉も、何一ついつもの櫻井薫が崩れていなかった。少しおかしな光景だな、とは思うものの、いくら考えど、薫の真意を理解するのはムリだった。
 考え事を頭の中から追い出して、鍵穴に刺した鍵を、いつもどおり右側に回す。すると、いつもとは違う違和感を感じて、眉間に皺を寄せた。
「まさか……」
 考えずとも、容易に想像できるこの扉の向こうの光景に、吐き気にも似た鈍い重みが、胸の中に沈む。
 そうであって欲しくはない、という少しばかりの期待を込めながら扉を開けると、玄関に並んであった見慣れない靴に、見事に期待は裏切られた。
「遅かったじゃないか」
「別に。いつもと同じだけど」
「おまえが帰ってくるのをずっと待ってたんだぞ。全く、仕事が押しているというのに」
「だったら病院に帰ればいいじゃないか」
 玄関とキッチンとを隔てる扉を開けると、案の定そこに待ち構えていたのは、ハルカの父だった。ただ憮然と食卓用のイスに座ったまま、タバコを吸っている。ハルカの顔を見るなり、手に持っていたタバコを灰皿に押し付けると、怪訝な表情を浮かべたまま、叱咤するような響きで言葉をぶつけてくる。
 そんな父の言葉に耳を背けながら、ハルカは精一杯の父に対する愛想を振り撒いて会話を続けた。
「それより、あの後どうなった?」
「あの後……?」
「櫻井先生だよ。何か言っていなかったか?」
「別に何も……」
「感付かれなかっただろうな? 私とおまえが、その、親子だということを……」
「心配しなくても大丈夫ですよ。何も言ってはいないから」
「全く間の悪いことだ。あんな場面でおまえに出くわすだなんて」
 まるでハルカのことを害虫だとも思っているような口ぶり。いくら、愛情を抱いていない父親と言えども、心はチクリと痛みを覚えた。
 この男に必要とされたいとは思わない。けれど、いらない者扱いされる筋合いも、ありはしない。必死に、冷静を装ったあの時のハルカの態度も、この男は何一つ誉めはしなかった。うろたえたのは、ただ一人、この男だけだというのに。
「まさかおまえ……わざとあの場に来たんじゃないだろうな?」
「え?」
「櫻井先生は、これからの榊原病院にとってはなくてはならない人だ。それを知って、邪魔しに来たんじゃないかって聞いてるんだ」
「まさか……」
「あまりにもタイミングが良すぎはしないか? 大体なぜおまえが櫻井先生と親しくするんだ」
 父とはけして思えない言葉に、何も言い返す気力もなくなってしまう。呆れ果てて、溜息が出た。溜息とともに、涙さえ零れてしまいそうな気がした。歪んだ笑顔が口元に浮かぶ。
 結局、どこまで言っても、この人にとって自分は、必要とされるものではないのだろう。
「いいか。おまえは目立たず、このまま医者を目指してればいいんだ。他のことには何も目を向けるな」
「…………」
「わかってるのか、ハルカ!」
 何も言わないまま俯く彼の態度に苛立ちを感じ、テーブルをドンと叩いて威嚇した。そんな父の態度に、ハルカは追い詰められながらも、弱々しく返事をした。
 この人には、もう、何も期待はしていない。そう、最初から期待などしていなかった。ただ、少しだけでも愛されているかもしれないという錯覚を抱いていたのだ。父と同じ職業になることを望まれたあの時に。
「ええ……わかってます」
「わかっているとは思うが期待などするな。おまえは所詮――――に、過ぎない――――から……」
 事実上は父と呼ばれる男に言われた最後の言葉は、あまりにショックすぎて、まともに聞き取ることはできなかった。途切れ途切れに耳に入ってくるのは、きっとハルカの防衛本能が咄嗟に働いたせいだろう。
 けれど心が全て受け入れてしまう。父の言う現実を、嫌でも認識してしまう。耳では聞こえなかったはずの言葉が、心で記憶していた。
 もしかすると、心の奥底で、いつも覚悟していたのかもしれない。面と向かって、いつか言われる日のことを想像して。それでも何かに縋って、誰かの心の中に自分の居場所を探していた。こんなにもひどい現実を、一人で支えるには、少年の心はまだ幼すぎたのかもしれない。
 父の言葉を遠くに聞きながら、心の中で流す涙は、知らず空をも泣かせていた。


 いつから雨の街をさまよっていたのかはわからない。
 日は落ち、街灯だけの街を、ただフラフラと歩いていた。ぼんやりと見える灯りを追いかけるように、ただ一人。通り過ぎる人も、誰も目に付かず、ぶつかる肩も、感覚が全くなかった。賑わう街の音も、何も響かず、ただ耳に残っているのは、最後に残した父の言葉だけ。ただただ、頬におちる雨が、素直に流せない涙を流させてくれていた。

 その時俺は、幻を見たんだ。
 君に初めて会った日。君の優しさを初めて感じた時。
 鮮明に覚えている、あの時に触れた君の肩の温もりを。君の心の中に、自分を求めてしまう衝動を感じた時のことを。アスファルトを雨が濡らす度、心地良い雨音が二人を優しく包んだことを。
 あまりに恋しすぎる想いに、幻さえも映し出してしまうなんて、馬鹿らしすぎて皮肉な笑顔が浮かぶ。
 なのに、その幻は、一つだけ間違っていたんだ。
 あの時とは違うピンク色の傘。
 その光景に溢れだす涙を、止める術を君は知っている?

 幻などではなく、恋しい君が、あの雨の日と同じように、目の前に立っていた――。

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