氷花

13.卑怯な唇

 雨音が止まない。
 彼女の近づく足音も、カレの呼吸も、何もかもを雨音が包んでいた。
 初めて会ったあの日のように――。

「こんなところで何してるの?」
 差し出された傘に、雨音は掻き消された。目の前にいる彼女の肩が、雨のシミを作っていく様をぼんやりと見つめると、幻の中に取り残されていた意識は、ゆっくりと現実へと引き戻されていく。いつの間にか、頬に流れるのは、涙だけになっていたことに気付いた。
「別に」
「別にって……そんなにずぶ濡れで歩いてるのに?」
「そういう気分だったんだよ」
 ぶっきらぼうにそう言うと、差し出されていた傘を美緒の方へと押し戻した。触れた彼女の手が温かくて、自分の体が冷え切っていることに気付く。咄嗟に手を離し、持て余した手を、ポケットの中に入れた。
 そんな彼を見て、眉をひそめ、少し戸惑いながらも、ハルカの素っ気無い態度に自分なりに納得してか、美緒はそれ以上抵抗せず、傘を自分の方へと戻す。何も言わず、ギュッと傘の柄を握った。言葉にしたい思いを、息と一緒に飲み込む。聞きたいことはあったけれど、彼の雰囲気がそれを制したのだ。ただの散歩などではなく、自暴自棄になっていることは、ハルカの様子を見ているだけで即座に理解できた。瞳に浮かぶのは、雨ではないことも。
「そう。でも、こんなところにいつまでもいると風邪引いちゃうよ?」
「引いたってどうせ……。そんなのどうってことない」
「ダメ。熱が出たら大変じゃない」
「大丈夫だよ」
「そんな姿で、大丈夫なわけないじゃない」
「なんだよ……いちいちうるせーな」
 撥ね退けるように、美緒の優しさをきつい口調で返した。理由のわからない苛立ちが、胸の中に火を灯したのだ。いつもなら口にしないはずの言葉が、自制心に負けて口から出てきてしまう。きっと傷ついたに違いない。知らず掴まれていたシャツの裾は、美緒の手の力が抜け落ちると共に、ストンと離れる。そんな美緒の表情を見られるわけもなくて、咄嗟に顔を背けた。
 心配してくれる美緒を見て、鬱陶しいと思わなかったと言ったら嘘になる。少なからず、今のハルカにとって、美緒の優しさは残酷なものだった。特に、父と色々とあったばかりの今は。
 今まで、一人で生きてきたようなハルカの人生。誰にも頼らず、優しくしてくれた母はもうこの世にはおらず、いつだって自分で自分を支えることが精一杯だった。半端な優しさは、期待を煽るだけ。それを裏切られた時、どれだけ傷つくかを思うと、安易に他人の優しさを受け入れることができなかった。
 中途半端に優しくされるくらいなら、いっそ一人の方がましだと思わずにはいられない……。自分のそんな弱さで美緒を傷つけているとわかっていても、心が自然と拒否反応を起こしてしまう。
「ごめん。でも、本当にハルカのこと心配だから……」
「別におまえに心配してもらわなくても大丈夫だから」
「そう……だよね」
「俺とおまえは関係ないんだし、余計なお節介はやめてくれ」
「わかってるよ……」
「わかってるんだったら、もう帰れよ。大体なんでおまえがここに……」
「こんなハルカの姿見つけて、平気で帰れるほど、私ハルカのことどうでもいいなんて思ってないよ?」
「どうせ偽善だろ……本当はどうでもいいくせに」
 偽善だなんて、本当は思っていないのに、つい口から出てしまう。言ったその後に、アッと息を呑み後悔した。
 そんな彼に、美緒は目を丸く見開くと、
「どうでもなんかよくない!」
 と、小さく叫んだ。感情のこもった強い言葉に、ハルカは何も言えず、美緒を凝視する。すると、少しの沈黙の後、伏目がちに彼女がゆっくりと言葉を綴った。
「ハルカのこと……大好きなんだもん」
 そう言って、俯いていたままの顔を上げる。そこに映るのは、悲しげな表情だと思っていたのに、全く違っていた。ハルカの悲しみをも背負う微笑み。弱々しく笑う美緒の笑顔を見た瞬間、思わず涙が出そうになった。
「大好き……なんだよ?」
 なぜ、そんなにも涙を誘う笑顔で話すのだろう。本当は傷ついているに違いないのに。言葉のナイフで、美緒の心を傷つけているのは自分のはずなのに。
 声は小さく、言葉は怯えて震えていた。それでも自分を守ろうと、苦しむ心を理解しようとして微笑む美緒の姿を見て、思わず縋りつきたくなる衝動。いつだって美緒は、ハルカの一番つらい時にそばで支え、言葉にならない思いを抱きしめてくれた。
 何も聞かない。何も求めない。見返りなんて何もなく、ハルカが美緒にしてあげられることなんて一つもありはしないのに、それでも向けてくれた愛情。そんな優しさは、母の愛に似ていたのかもしれない。
 傷つけても尚、そばにいて笑ってくれる君を、離しはしないと心に誓った夜のことを鮮明に思い出す。離したくはないと切実に願った。この優しい温もりを……。
「私が勝手に心配なの。ハルカのこと、気になっちゃうの。だから……」
 手に持っていたピンクの傘を、再びハルカの頭の上へと持ってくる。ずぶ濡れになっている体には、もう傘など必要ないのに、それでも美緒の傾けてくれた傘は、心の雨を遮ってくれた。
 息遣いが伝わるほど近づく。その光景は、『二人』という言葉を思わせた。一つの傘を共有している。それだけのことなのに、ハルカの心に響かずにはいられなかった。
「あの日のお返し」
 目の前に浮かぶ鮮やかな笑顔に、彼女の言葉に――思い出す。
 初めて会った日。カレが彼女に傘を貸したのが始まりだった。
『一緒に帰ろう?』
 と、彼女がカレに近づいたことで歩みだした。
 思えば、あの時からずっと、君に恋をしていたのかもしれない――。
「え……」
 段々と抑え切れなくなる想いに、ハルカの体が動いた。差し出したはずの傘が地面へと投げ出される。ポツポツと、冷たい雫が頬を濡らした。それは瞬く間に全てを覆い、涙さえもごまかしていく。
 気付くと、美緒は、ハルカの腕に捕らわれていた。まるで、雨から彼女を守るような抱きしめ方で。
「ハル……カ……?」
 なぜ抱きしめられたのか理解できず、名前を呼ぶのが精一杯だった。しかし、ハルカは何も言わず、返事をする代わりにと、抱きしめる腕に力を込める。
『ごめん』
 ハルカが小さく呟いたのは、きっと錯覚ではないだろう。その声色に、抱きしめる腕の力に、何かが伝わってきて、切なく胸が締め付けられる。ギュッと手のひらで心臓を掴まれたかのように。その痛みは、誰かを愛しく感じる時の甘い痛みにも似ていた。
「泣いてるの……?」
 体が折れてしまいそうなほど、強い力で抱きしめていた。苦しそうに聞く美緒の言葉には、それでも尚ハルカを心配する響きがあって、尚のこと離すことができなくなる。優しさを全て受け止めることができなくて、思わず涙が零れていた。
 なぜ、もっと早くにこうしていなかったのだろう。いつだって、こんなにも近くに彼女の温もりはあったはずなのに。直接触れるのが怖くて、いつも生温い優しさだけを感じていた。心の奥底に踏み込むのは、勇気がなかった。いや、きっと弱かっただけなのだろう。
 今になってやっと気付く。傷ついても尚、欲しいモノがあることに。
「美緒……」
 初めて、彼女の名を口にした。無意識に封印していた美緒の名。口にしたことで、もう止めることができなくなるほど、美緒への気持ちは溢れていた。
 耳元で名を呼ばれ、少し戸惑い気味に美緒が返事をした。
「なに……?」
「俺……俺……おまえのこと……」
 今胸に溢れ出す気持ちは、疑わずとも恋なのだと、確信していた。壊れてしまいそうなほど抱きしめても、まだ足りないと思うほど心が美緒を欲してやまない。彼女の体温、息遣い、香りを感じる度、その全てに自分を委ねたいと願う。誰かと、何もかもを同じように感じあいたいと思ったことは初めてだった。
 だから、今、この胸に宿る想いを、伝えようと思った。けれど……
「私ね、好きな人がいるの……」
 彼の言葉の続きを聞くことなく、美緒が小さく呟く。肩に顔が埋まっているせいで、言葉は曇っていたものの、ハッキリと耳に届いた。残酷なほどハッキリと。
「もうね、ずっとずっと好きなの。その人のこと……」
 どう言葉を返していいかなんて、思いつかなかった。切り裂くような痛みが、胸に走る。その相手が、自分でないことは、言葉の響きで理解できた。実際、美緒の恋を知っている自分にとっては、わかりすぎているくらいの言葉。伝えようと言葉になりかけた愛しい思いは、行き場をなくして、ハルカの息を詰まらせた。喘ぐような呼吸に、息苦しくなるばかりで、美緒を腕から解放すことができなくなる。
「離して……」
 責めるでもなく、美緒が優しく言う。ハルカの言葉を遮って、薫への思いを口にした理由は、美緒自身にもわかっていなかった。無意識に、防衛本能が働いた。そう言った方が、つじつまが合うかもしれない。
 ハルカの言葉の続きなど確信しているわけではないし、第一、こんなことをカレに言う必要はなかったのかもしれないが、なんとなく分かったのだ。ハルカの気持ちを。ハルカの心の中に渦巻く、想いの切なさを。それは、美緒が薫を想っていた時の気持ちに似ていたのだろう。麻里という存在がいながらも、好きだと思わずにいられなかったあの時の気持ちに。
 ハルカに、同じ思いがあるのかどうかはわからない。けれど、女の直感が、ハルカの思いを聞いてはいけないとセーブをかけた。
「お願い……離して……」
 腕も動かせぬほど、窮屈に抱きしめられていた体は、尚も強い力で奪われる。美緒の言葉を聞いてはいるのだろう。言葉にするほど強まるハルカの力に、美緒の心も切なく締め付けられた。
 すると、今まで何も喋らなかったハルカが、小さな声で呟いた。
「櫻井……先生?」
 一瞬、聞き返そうかとも思うほど、ハルカの口から出た言葉が信じられなくて耳を疑う。圧力のような、強い力で頭を押さえつけられたような衝動を感じた。
 まさか、ハルカの口から、彼の名が出るなどとは、想像もしていなかった。
「な……んで?」
「櫻井先生なんだろう……好きな人って」
「…………」
「保健室の前にいたおまえを見た時、なんとなくわかったんだ」
 切なそうに彼を見る姿を。その姿に自分も重ね合わせていた。同じように、君を見ていたから。
「そう……なんだ」
 あえて、否定するつもりはなかった。否定したところで、ハルカは納得しないだろう。言葉よりも、感じるものの方が素直なことはいくらでもある。特に恋は、それが自然と言えるかもしれない。
「でも、櫻井先生はやめとけよ」
「どうして」
「だって……おまえだって見たんだろう」
 それが、麻里と薫とのことを言っているのは明らかだった。仲良く二人でいる姿を見て、傷つかなかったといえば嘘になる。少なからず、言葉にならない痛みを感じたのは、本当だった。
「やめとけよ。どうせ、おまえの入る隙なんかないんだから」
「どうせって……何よ……」
「いくら好きでも、櫻井先生にはあの人がいるだろ」
「だから……?」
「あの二人は、誰から見たって、理想のカップルだと思わないか。そんな二人の間に入ったって……」
 美緒が唇をギュッと噛み締める。意味もなく、怒りが込み上げていた。ハルカの言葉に、今までの整理できていなかった気持ちが溢れ出す。
 薫の気持ちを手に入れたからと言って、安心していたわけじゃない。いつも不安が付きまとっていた。結城麻里という存在が、いつも安心を許さなかった。ただ好きなだけの理想の恋愛とは、比にならないほどの現実。放課後の保健室のことだってそうだった。何もやましいことがないとわかっていても、薫は自分をちゃんと愛していてくれてるとわかっていても、苛立ちと不安を感じずにはいられない。両思いになってから、自分はワガママになったのではと、自覚はしていた。だからこそ、何も言わず、納得しようとしていたのに……
「櫻井なんかより、俺を」
「何よ! 何もわからないくせに!」
 ハルカの言葉を遮って、大きな声で怒鳴った。それと同時に、思い切りハルカの胸を突き飛ばす。おとなしく抱かれるままだった彼女に油断していたのか、あっさりと体は引き離された。ハルカが美緒の方へと目を向けると、目に涙をいっぱいにためて、唇を噛み締めている姿があった。
「わかってる……わかってるよ。櫻井先生と結城先生がお似合いなことくらい。そんなこと、ハルカに言われなくたって私が一番わかってる」
「美緒……」
「理屈じゃないの。理屈で好きになったわけじゃない。自分がふさわしくないことだってわかってる。でも……でも……好きなんだもん……」
 理屈だけで恋ができるなら、きっと薫に恋などしていなかっただろう。いつの間にか心奪われていた。会うたびに奪われる心、会わない時間で募る想い。自制心がきかない思いを、今だって胸に抱えている。
「キライになれたらどれだけ楽かって……何度も思ったけど、そんなのムリだった。嫉妬したり、モヤモヤしたり、そんな自分がキライになった。でも……恋って、そんな単純じゃないでしょ」
「だけど、櫻井先生には恋人がいるんだぞ? わかってんのか……?」
 二人の脳裏に、麻里の顔が浮かんだ。
 愛らしい笑顔。スラッとした出で立ち。愛嬌のある性格。どれをとっても薫にお似合いの女性。
 わかっている。そんなことは、誰も言わなくても、美緒が一番わかっていた。
「どうせハルカにはわかんないよ……。そんなこと、ハルカには言われたくない! 私の気持ちなんて、全然わからないくせに!!」
 苛立ちが募って、抑え切れなくなった。ハルカに当たるなど、理不尽なことはわかっている。ハルカの言うことが、正しいということもわかっている。けれど、ずっと耐えてきた心の傷に触れられた気がして、我慢ができなかった。封印していた本当の気持ちを開けられてしまった。そんな自分には今、逃げ場がなかった……。
 美緒は、ハルカを睨み怒鳴りつけると、濡れる髪も落ちた傘も気にすることなく、その場から駆け出した。思わず零れ落ちた涙を手で覆いながら、目を閉じ走る。すれ違うハルカとは、一度も視線を合わせないまま、逃げるように。慈しむように美緒を見つめるハルカの視線には、気付かないフリをして……。
 遠くに聞こえる足音は、知らずその姿を消していた。

「卑怯だよ……。こんなのって……」
 さっきまで美緒がいた場所に膝をつく。額に手を当て、考えこむように俯いた。
 何も言わせなかった。
 『好き』だと、ただ一言告げたかっただけなのに。美緒の心が、ハルカの想いを拒絶していた。
 美緒に抱く想いはこんなにもこんなにも深いのに。溢れ出す想いを、どうすればいいか知らないのに。薫を好きだという自分の気持ちだけをここに残して去って行った美緒に、溜息が出る。あざ笑うかのような、歪んだ笑顔が、口元に浮かんだ。
 優しさをくれた君に、優しさを返したいと願った。好きだ、と、伝えるだけで良かった。それなのに、それさえも言わせないなんて。
 ――彼女は卑怯だ。
 美緒を包んでいた切ない風が、ピンクの傘を飛ばしていく様を見つめながら、ハルカは何度もそう呟いた。

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