氷花

14.恋人の残り香

「ちゃんと温まってくるのよ。タオルは……その辺にあると思うわ」
 見慣れない部屋、見慣れないバスルームに通されて、どうしていいかわからず立ちすくんでいると、少し遠くから聞こえる艶のある女の声が案内した。言われた辺りを探しても見当たらず、どの辺ですか? と問うと、玄関で何かしていた手を止めて、こちらへとやってきた。ひょこっと顔だけ覗かせる。そういう仕草は、少女のようで愛らしかった。
「ほら、そこよ」
 指を指された場所の開き扉を開けると、オフホワイトのバスタオルが積み重なっているのが見えた。
「ね、あるでしょ」
 バスタオルの他にも、入浴剤や化粧品などがあったが、バスタオルだけを一枚取ると、ありがとうございます、と礼を言って小さく頭を下げた。そして、彼女がバスルームのドアをパタンと閉めると、途端一人きりの静寂が包み、ほのかに風呂独特の匂いが鼻を掠めた。
 手に持っていたバスタオルを手近なところへ置き、濡れたシャツを脱ぐ。体温で多少乾燥したとはいえ、まだ湿気の残る重いシャツは、ハルカの体にまとわりついていた。気持ちの悪い濡れた服を脱ぎ捨て、シャワーに手をかけ、温かいお湯を浴びると、途端溜息が出る。ハァ……っと息をつきながら、ついさっきまでのことを思い出していた。

 美緒があの場を立ち去った後、雨の中一人考え込むハルカの横を通り抜けるように、一台の赤い車が通った。減速し止まったかと思うと、運転手が降りてきてハルカの前に立ったのだった。相手を見ようとゆっくりと重い頭を上げると、そこに立っていたのは、結城麻里だった。
 たまたまそこを通りかかっただけの彼女だったが、ハルカのずぶ濡れの姿を見て驚き、思わず声をかけたということだった。なぜここにいるのか、なぜ濡れたままなのか、という質問に、ハルカは全く答えず、話にならないと判断した麻里は、ハルカに有無を言わさずに車に乗せ、そして自分のマンションまで連れてきたのである。
 今までまともに話したことのない英語教師だったが、改めて間近で見た彼女の姿は、歳相応とも言える美しさがあった。若い女の子にはない色香と、上品さ。喋り方や笑顔は少女のように明るいのに、時折見せる視線や仕草が、『女』を感じさせる人だった。確かに、こういう女性なら、薫ともつり合っているのかもしれない、と頭の中で妙に納得する。
 一度まともに薫と話してからというもの、ハルカは彼に対し好意を持っていた。美緒の想い人だということは関係なく、ただの一人の男として、尊敬できる男だと。ものの考え方、生き方、容姿にいたっても、隙のないかっこよさは、憧れずにはいられないと思った。

「どうせ何も食べてないんでしょー? 軽く食事用意したから、温まったら出てらっしゃい」
「あ……はい。ありがとうございます……」
 浴室のガラス戸の向こうから、ハルカを呼ぶ声が聞こえた。急いで、シャワーを止め、バスタオルに手をかける。
 浴室のドアを開けると、かすかに料理の匂いが漂っていた。


「ごちそうさまでした……」
「お粗末様でした」
 炒飯を食べ終え、スプーンを皿の上へと置く。綺麗に食べ終えた皿を見て、麻里はニッコリと微笑んだ。
 さっきまでのきっちりとしたスーツとは対照的に、ラフな部屋着に着替え、髪を軽くアップにしている姿は、全くの別人を思わせた。女性は、容姿を少し変えるだけでこんなにも違う雰囲気をまとうのだから、不思議だ。何を話していいのかわからず、ただ黙っていると、麻里が覗き込むようにハルカを見つめた。
「で? なんで君は、あんなところで一人ずぶ濡れになってたのかな?」
 まるで、子供に問うかのような口調で聞いてくる。この質問は、必ずくるだろうと予測していたこともあって、ハルカはそう驚くことはなかった。ただ、美緒のことを答える気は全くなかった。
「別に。たまたまです」
「本当に?」
「散歩してたら急に雨に降られて……それだけで……」
「君は嘘が下手ね」
 麻里はふふっと笑って、ハルカから視線を外した。
 きっと彼女にはすべてお見通しなのだろう。美緒のことは知らなくとも、言えない理由であそこにいたことを。それ以上は特に何も追求されず、ただ穏やかな空気だけが流れていた。その空気は威圧感のあるものではなく、本当に穏やかに、心地の良いものだった。彼女の持つ魅力が、そう感じさせていたのかもしれない。
 テーブルに置いてあったホットティーのマグカップを両手で持ち、ふー、と息をかけて飲んでいる様子は、女性らしいとてもほのぼのした雰囲気を醸し出していた。
「あの、先生」
「何?」
「俺を……家に上げても良かったんですか?」
「ん? なんで?」
「いや、だって、男なのに……」
 この部屋に来た時から感じていた疑問。あっさりと部屋に通す彼女の行動に、不思議に思わずにはいられなかった。薫という彼がいる立場で、簡単に男を入れることができるだろうか。たとえ生徒と言えど、男であることに変わりはないのだ。いくら薫の度量が広く、交友関係に何も口を出さない主義なのだとしても、あまりにもあっさりとしすぎている行動に、疑問の念は消えることはなかった。
「可愛い生徒がずぶ濡れになって風邪引くかもしれないのに、ほっとけるわけないじゃない?」
「でも……彼氏とか、怒らないんですか?」
「なんだ、そんなこと気にしてたんだ」
 マグカップをテーブルの上に置き、心配そうな表情を浮かべるハルカに微笑んだ。
「大丈夫。私彼氏いないもの」
「え……?」
 じゃあ、櫻井先生は? と、咄嗟に口から出そうになった。
 しかし、彼女が嘘をついている風には見えなかった。笑顔が、とても素直だったのだ。あっけらかんと言ったその言葉に、妙に納得させられている自分がいた。
「本当に、いないんですか?」
「なあに? 何か疑わしいことでもある?」
 上目遣いで、覗き込むように見つめられ、ハルカはわざと視線を外す。
「え……だってあの……」
「なによ。何か気になることがあるなら言ってみなさいよ」
「櫻井先生……とか」
「櫻井先生? ……ああ」
 彼の名前が出た途端、麻里は不思議そうな顔を浮かべたものの、すぐに何か理解するように頷いた。放課後、彼が保健室にやってきたこともあって、彼の思惑を想像するのは簡単だったようだ。実際、確かにあの場には、男と女、という雰囲気があったのだから……。
「残念ながら、私と櫻井先生は何でもないわよ。彼にはちゃんと彼女がいるもの」
「え……でも」
「保健室でのこと気になるんでしょ?」
「あ、はい……」
「あんな場面見られちゃったら、そりゃ気にもなるわよね。でも、本当に何もないの……なんにも……」
 目を伏せ、長い睫が頬に影を作った。そんな彼女から香り立つ哀愁は、女の切ない想いを感じさせた。
「好きだったの、薫のこと」
「好き……だった?」
「そう。ちょっと前までのことよ。でも……もしかしたら今でもまだずっと好きなのかもしれないな」
 弱々しく微笑む彼女の姿は、色気さえ感じさせるほど『女』だった。今でも忘れられないという想いが、姿は見えなくともすぐ手にとれるほど近くにあるような気がした。
「彼は全然私のこと見てくれないけどね。彼女に夢中だから」
「そう……ですか」
「ていうか、どうして私と櫻井先生が付き合ってるって思ったの? 私たちの関係なら、何もないことは証明済みなのに」
「どういう……意味ですか?」
「あ、そっか。香月君がまだ転校してくる前のことだったから知らないのね」
 言われている意味が全くわからなくて、首を傾げる。一人で納得している麻里が、わけのわかっていないハルカに説明を始めた。聞かされる内容は、自分の思っていた予想を裏切って、驚かざるをえなかった。
「確かに、私たちは噂になったけど、でも実際は何もないのよ。ちょうど二ヶ月くらい前に、薫が突然学校をやめるって言い始めてね。その時に、私との噂は全部嘘だと全校生徒の前で証言しているし、その証拠に、愛している彼女がいることも話したの」
「やめるって……櫻井先生がですか?」
「最初は辞職するはずだったんだけどね、まあ彼も人望の厚い人だから、周りがなかなかそれを許さなくて。それで、説得の末、一時の休職ということにはなったんだけどね」
「じゃあ、結城先生とは本当に……」
「まあ、皆が知らない部分も少しはあるけどね」
 そう言って、悪戯っぽく笑う彼女の笑顔には、秘密めいたものがあった。その奥に何があるのか知りたくてしかたがなくなる。すると、麻里は、そんなハルカの気持ちを悟ってか、話を続けた。
「私と彼は、昔恋人同士だったのよ」
「えっ?」
「びっくりした? でも、本当の話。久々にこの学校で再会して、やけぼっくいに火がついたって言うのかな。昔以上に彼のこと好きになっちゃって……なんかバカみたいだけどね」
 二人の間にあった男と女の雰囲気の理由がわかって、納得した。自然な感じがしたのは、このせいだったのだろう。昔でも今でも、一度は愛し合った男女の間に、そういう雰囲気があるのは自然なことに違いない。
「でも、彼女がいるって知って……でも私はどうしても彼のことが欲しくて。だから色々とアピールしたのよ? それが結局噂になって、彼や彼女を傷つけてしまったけど」
 その時の、彼女の気持ちはわからない。だが、恋に狂い、どうしても欲しいと願った時、周りなど見えなくなるものなのかもしれない。実際、ハルカが今胸に抱えている想いのように。
 けれど、長い月日、薫のことを見ていた麻里の気持ちを思うと、切なくて胸が締め付けられた。どれだけの苦しみや悲しみを、その小さな胸に抱いていたのだろう。今のように素敵に笑えるようになるまで、どれだけの涙を流したのだろう。そう思うと、目の前にいる女が、愛しくてたまらなくなった。思わず、抱きしめたいと思う衝動に駆られるほどに。
「先生みたいな、素敵な人を振ってでも好きな相手って、どんな人なんでしょうね」
「さあね。少なくとも、私よりはいい女なんじゃない?」
「先生より? ……あんまり思いつかないけど」
「あら。それ本心で言ってるの?」
 嬉しそうに、彼を見て笑った。
 けれど、口から出たハルカの言葉はけして嘘ではない。本当に、そう思ったのだ。それを言葉にできたのは、彼女の持つ女の余裕がカレを包んだせいもあるのかもしれないけれど。
「ねえ、香月君」
「なんですか?」
「お願いがあるんだけど……聞いてくれる?」
「お願い?」
 麻里がハルカの着ている黒のTシャツの裾を、弱く掴んだ。じりじりと、すぐに抱きしめることのできる位置まで近寄る。縮まる距離は、彼女の香りを感じられるほどだった。
 愛している女性でないとは言え、香る色香にドキリと胸が高鳴る。彼女は、俯いていた顔をあげ、まっすぐにハルカを見つめた。
「抱きしめて欲しいの」
「それは……」
「お願い。ギュッて思いっきり抱きしめて」
 断れるものなら、断るつもりだった。けれど、彼女の、泣きそうな目で懇願されたら、NOとは言えなかった。自分の中で、叶わぬ恋を抱いているという切なさを、知らず共感していたのかもしれない。
 ハルカは、何も言わず麻里を見つめ返すと、ゆっくりと壊れ物を抱くかのように、彼女を包み込んだ。
「もっと強く……」
 口元に触れる髪に、美緒とは違う香りを感じる。抱きしめた体は、同じような体格とは言え、やはり違っていた。胸に込み上げる何かが……ない。美緒を抱いたときのように、けして離したくないという衝動はなかった。その証拠に、抱きしめる力の加減がわからない。
 けれど、自分をも抱きしめているような感覚に、恋とは違う愛しさを感じて、ハルカは言われるがままに彼女を抱きしめた。
「もっと。もっと強く……」
 折れるほどにしなるカレの腕の中で、麻里がほっと溜息をつく。頭の中で妄想していた。ハルカの腕に抱かれながら、薫に抱かれている妄想を。カレが身に付けている黒いTシャツは、ずっと昔、薫が着ていたものだった。それをカレに着せて、抱きしめてもらっているなど、普通に考えれば反吐が出るほどくだらない。けれど、それに縋ってさえも、『彼』に抱かれたかった。もう望めない、彼の腕に、壊れるほど……。
 しかし、やはり何かが違う。そう感じているのは、ハルカも麻里も同じだった。
 抱きしめる腕が違う。香りが違う。体温が違う。何よりも、欲しい心が、ここには……ない。
 互いに抱きしめあい、気付く本当に欲するもの。優しさを埋めるはずだった抱擁が、結局余計に寂しくさせるだけだった。けれど、なぜかその腕を離すことができなくて、彼の背に腕を回す。二人で、寂しさを舐めあい、癒すことができたなら……。
 ハルカに抱きしめられながら、そう感じていた麻里が、言葉を綴る。
「薫の彼女ね……」
 これはイジワルなことなのかもしれない。わざと、カレに告げるだなんて。
 けれど、薫に愛されているだけの彼女を、羨ましく思っていたのは本当なのだ。羨ましいを通り越して、憎いほど……。もしも。もしも少しの望みとして、ハルカと美緒が……ということを考えずにはいられなかった。
「よく見てたらわかるわ……きっと君のすぐ近くにいるから」
 感じる体は嘘なのに、口から出た言葉は本当だなんて、なんて皮肉なのだろう。ハルカは、麻里の言葉を聞きながら、その言葉の真意を考えていた。
 すぐ近くにいる彼女。まだ見ぬその人のことを思い浮かべながら……

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