氷花

15.残酷な愛惜の果てに

 抜けるような青空の下で、佇む二人の男女。互いのタバコの煙が風に漂うのを見つめながら、その向こうにある都会の景色に目を奪われる。空気は澄んでいて、海も見えるこの景色は最高なのに、二人の間に流れる空気だけが、なぜかすっきりしない。
 敷地内で一番高い位置にあるこの屋上は、二人以外の誰の姿もなかった。それもそのはず。今は六時間目の授業の真っ最中なのだから。

「昨日ね、私、誰といたと思う?」
 華奢な指にタバコを絡ませ、煙を吐きながら、女が気だるそうに呟いた。そんな彼女の姿には目もくれず、男は、吸い終わった吸殻を、携帯用の灰皿に押し込む。ゆっくりとした動作で、たいして興味のない質問に、答えた。
「さあ。新しい彼氏とか?」
「それ、イヤミ?」
 クスクスと笑う。
 彼の口からは、冗談だとしても聞きたくない台詞。上手い対応がわからなくて、笑うしかなかった。
「本気で言ってるんだけど?」
「だとしたら、あなた、根っからのイヤミ野郎だわ」
「それは光栄だ」
 見なくとも、彼が微笑んでいるのに気付いた。女の気持ちなど全くわかってはない。いや、わかっているからこそ、こういった態度を取るのだろうか。気を持たせないように、と気を遣って。だとしたら、全くもって、彼は紳士だ。
「昨日ね、あなたの恋敵と一緒にいたのよ」
「へえ。たくさんいすぎてわからないな」
「とぼけちゃって。本当はわかってるくせに」
「生憎だけど、結城先生が思ってるよりもずっと、俺の彼女はもてるんだよ。だから恋敵もたくさんだ」
「わかってるわ。そんなこと」
 誰が見ても可愛らしい。イヤミのない優しい性格と、可憐な容姿は、校内でも一際目立っている。その女の子が、薫の彼女であるということは、麻里以外誰もしらない真実だけれど。
 羨ましすぎる彼女の存在。だからと言ってはなんだが、どのような存在でこの学校にいるのか、聞かずとも麻里が一番わかっていた。
「でも、一番危ない恋敵がいるでしょ」
「さあ。誰のことかわかりかねるね」
「そんなに余裕ぶってると、寝取られるわよ」
「簡単に女を取られるほど、俺はバカじゃないさ」
「まあ、私だってそんなに心配しているわけじゃないけど」
 自分が彼女なら、絶対に他の男になど目もくれない。それくらい、櫻井薫という存在は、麻里にとって絶対的だった。
 一度は諦めたはずの恋。今も、また恋人同士に戻りたいなどとしつこく思っているわけではない。けれど、自分の気持ちに正直に向き合うと、櫻井薫という男を、今でも恋の対象として見ていることに嘘はつけなかった。
「香月ハルカ。思ったよりもずっと可愛い子だった」
「へえ。可愛いねえ。どんな意味だか」
「昨日ずぶ濡れで歩いてるところを車で拾ったの。それで家まで連れて帰って、色々話したわ」
「生徒を連れ込むなんて、危ない女教師だ」
 クスッと呆れたように笑う。笑った後、大きく伸びをするように、空を見上げた。麻里の話にたいして興味もないのだろう。香月ハルカという存在にも。顔色一つ変えず麻里の話に相槌を打つ姿は、普段のポーカーフェイスの薫と何も変わらなくて、麻里は知らず悔しい気持ちを抱いていた。
 自分の存在が、彼の気持ちを少しも揺らせない。美緒のことで、感情をあらわにする薫を見ているからこそ余計に、歯がゆくてたまらなかった。どうでもいい女だと思われている現実に、居た堪れなかった。そんな追い詰められた心が、虚しい嘘を作る。
「私、香月ハルカと寝たわ……」
 無表情に言い放つ。唇が震えていた。言ってはいけない禁句を口にしたような気がした。それでも、彼の気持ちを知りたくて、言わずにはいられなかった。遠くを見ていた薫の姿をしっかりと目で焼き付けるように見つめて、彼の反応を待つ。
 衝撃的すぎる彼女の言葉を聞いたにも関わらず、彼は麻里の方へと振り向くと、
「遊びもほどほどにしとかないと火傷するぞ」
 と、優しい微笑を浮かべて、そう言った。ダメな奴だな、と言われているような、そんな軽い感じで。まるで、子供を嗜めるような言い方で。
 その言葉は、麻里の言葉を冗談と受け止めて返した言葉なのかもしれない。いつも冗談めかした話ばかりする薫の自然な応対だったのかもしれない。けれど、例え冗談だとわかっている言葉でも、少しくらい心を動かしたかった。自分という女の存在が、まだ今でも、彼の中に残っているということを確かめたかった。頭の中で、香月ハルカに抱かれている自分を想像して、少しでも妬いてくれたら、と……。わずかで構わないから、心が乱れるところを見たかっただけなのに。それだけなのに……
「つまんない男」
「悪かったな、つまらない男で」
 つまらないのは自分だ。そんな、くだらない嘘で、昔の男に嫉妬させようだなんて。何も得られるものなんて、ありはしないのに……。自分のしていることの愚かさに呆れ果てて、思わず笑ってしまった。
 そんな麻里を見て、薫も苦笑いを浮かべる。
「嘘よ。香月ハルカと寝たなんて嘘。あんな子供、私が相手にするわけないじゃない」
「その子供たちは、みんな君に夢中だけどね」
「そんなの、私が教師だからよ。普通にそこらへん歩いてたら、見向きもしないわよ」
「さあ。それはどうだか」
 自分が嫌いで嫌いで。そう思うと、知らず涙が零れそうになった。薫にはけしてそんな姿を見られたくなって、零れそうになった涙を掬うように、空を見上げる。雲ひとつなく、突き抜けるほど蒼い空は、麻里の醜い心とは対照的なくらい鮮やかで、悔しくてたまらなくなる。今零している涙も、きっと濁っているに違いない。美緒の流す涙なら、この空のように美しいのだろうか、と思うと、胸が、苦しくて苦しくてたまらなくなった。

「そう言えば、薫知ってる?」
「何?」
「香月ハルカと、榊原院長の話」
 数分後、麻里がやっと落ち着いたかと思うと、出た話はまたハルカのことで、薫は溜息をついた。
 彼ら二人のことには、もう関わるつもりはなかったのだ。それをまた蒸し返されるのか、と思うと、嫌な気持ちを隠し切ることができなかった。
「その話なら、俺は関わる気がないんだけど」
「違うのよ。また何かしようってわけじゃないの。ただね、今朝から妙な噂が流れてるっていうか……」
「妙な噂?」
「そう」
 薫を見つめる麻里の目が、少し充血していることには、見て見ぬフリをする。考えていたこととは、少し話の道がずれているようで、薫はしかたなく麻里の話に耳を傾けた。どちらにしても、興味のない話だったが、聞かされる内容に、驚かざるをえなかった。
「香月ハルカと榊原院長は、親子だって言うのよ」
「それは……」
「びっくりよね。でもどうやら本当らしいわ」
 正直に言えば、そう驚いてはいなかった。なんとなく、予想の一つとして浮かんでいたのだ。
 ハルカの榊原を見る目。あれは他人を見る目ではない。無表情の中にも、氷のような憎しみが見え隠れしていた。それは、肉親だからこその、消えることのない静かな憎しみ。だからこそ、彼らの事情に立ち入ることを、恐れていたのかもしれない。他人が関わってはいけない、血の領域であるのだから。
「榊原院長が香月君をこの学校に紹介したという話は、実は結構噂になってたみたいなの。私が知ってるくらいだから、噂に敏感な生徒たちが知ってるのは当然よね。そこまでは、ただの噂に過ぎなかったんだけど」
 顎に手を当て、麻里が話を続ける。得意げに話す姿は、噂好きの女性を象徴しているようで、薫は少々複雑な気持ちを抱かずにはいられなかった。
「どうやら、香月君の幼馴染がこの学校にいるんですって。で、その子が、香月君と榊原院長が親子だってことを言ったみたい」
「証拠はないんだろう? 憶測でものを言うものじゃないよ」
「いえ、それが、そう謎めいたものでもないのよ。現に、香月君の住むマンションは榊原院長の所有しているものらしいし。何より、香月君のお母さんが生きてらした頃から、三人が一緒にいるところを見たことがあるらしいわ」
 確かに父親でなければ、母子とともに男が一緒にいることは不自然だろう。心の中で、否定したい気持ちばかりが先立っていた薫だったが、納得せざるを得なくなっていた。できるなら、ハルカの秘密を庇ってやりたい。けれど、ここまで暴露されていてはもうムリだろう。麻里の耳に入っているということは、すでに校内中の噂になっていることは、必至だった。ハルカの気持ちを思うと、胸が締め付けられる思いだった。


「もう、耳にしてるとは思うんですけど……」
「ああ。生憎ね。本当は、聞きたくなかったんだが……」
「俺、前から思ってたんですけど」
「何?」
「先生は……知ってたんですよね。前からずっと……」
 その質問に関しては、返事ができなかった。実際、感付いていたからだ。知っていたと言えば、ハルカはもっと打ちのめされるかもしれない。けれど、知らなかったというにも、それが正しいと言えるほどの確信もなかった。
「こんなことを言えば、おまえがどう思うかはわからないが」
「なんですか?」
「どうでもいいことだと思ってる。おまえと榊原院長が親子かどうかなんて」
「え……」
 戸惑うような表情を浮かべた。思えば、カレはここへ訪れた時からずっと笑顔を見せていない。見せられるはずもない状況に置かれているのだから、当たり前なのかもしれないが……。
 麻里と話を終え、六時間目終了のチャイムが鳴ると同時に保健室へと戻った。すると、そこには、思いもかけない客人が待ち受けていた。
 ――香月ハルカ。
 まさか、自分のところへ来るだなんて予想もしていなかった。まともに話したのは、この間の一度きりだけだったし、相談するとしても、それは美緒が相応しいと思っていたのだ。不思議に思うまま、彼を応接ソファに促すと、やはり持ちかけた話は、噂の渦中にある内容だった。
「榊原先生の息子さんだからって、別に何も変わらないよ」
「え、でもやっぱり、気になりませんか?」
「何が?」
「榊原の隠し子で、しかもその父親の七光りでこの学園へ転校してきた俺を、色眼鏡で見ないなんて、そんなの逆に不自然じゃないですか」
「なんだオマエ。俺にそんな風に見て欲しいのか?」
「そうじゃなくって……。ただ、自分でもわかってるんです。榊原の隠し子だってことが、印象悪いことくらい。その証拠に、軽蔑した眼差しで見る奴も居れば、榊原の子と知って近づいてくるやつもいる」
「ふーん。そんなもんクソ喰らえじゃないの?」
「それは……」
「おまえは俺にどうして欲しいわけ? 可哀想だなって慰めて欲しい? 甘ったれんなって叱って欲しいのか?」
 責めるでなく、普通にそう言われただけなのに、返す言葉がなかった。思えば、なぜ薫の元へ相談しに来たのか、明確な理由はない。ただ、以前話した時に、自分の医者になりたいという思いを後押ししてもらったことが、心の奥で強く印象に残っていたのだろう。
 だから、今回も知らずここへ訪れていた。ここには、自分の気付いていない気持ちや、答えがあるような気がしたから。
「悪いが俺は、榊原先生の息子さんとは話す気はないんだ」
「え……?」
「おまえは、香月ハルカだろう。それ以外の何者でもない。榊原先生の分身でもない。何を気にすることがあるのかは知らないが、俺は、香月ハルカという男としか、話したいとは思わないよ。それでもまだ、おまえが榊原先生の隠し子だってことを気にするのなら、ここから出て行ってくれ」
 きつい口調で言われているはずの言葉は、印象とは全く逆で、ハルカの心を慰めていた。
 欲しかったのは、慰めの言葉でもなく、偽りの優しさでもない。きつくとも、心から真剣に思ってくれる言葉。薫の言葉は、父の言葉よりも、友の中傷よりも、偽善の優しさよりも、何よりも心に響いていた。一人の人間として、認めてくれている。榊原という後ろ盾のない、一人の男としての香月ハルカを尊重して。薫の言葉に、胸の中に言葉にならない想いが溢れて、ハルカは息が詰まりそうになった。
「俺……ここに来た理由は、医者になるように言われたからなんです。榊原の人間は、皆この学園に通っていたからって」
「そうか。それで?」
「本当は嫌だった。でも、今は、そうも思ってない自分がいます」
「憶測でものを言えば、おまえ、本当は医者になりたいんじゃないのか?」
「え……?」
「同じ夢を見るもの同士だからわかるんだ。俺を見るおまえの目から、憧れとも羨望ともとれるものを感じた。なんだか昔の自分を見ているようだと思ったんだ。おまえの目は、俺の目に似ているところがあったから」
 なぜ、この人はこんなにも、優しいのだろう。俗に言われる優しさではない。相手の心を一番に理解しようとする賢さ。他人の感情に押しつぶされない強さ。全てを受け止めることのできる広さ。それら全てをひっくるめて、この人はとても優しく大きい。
 こうやって話しているだけなのに、戸惑っていただけのハルカの心は、薫の言葉で整理されていく。やはり、ここへ来たことは間違いではなかった。自分はこの男に救われていると、感じずにはいられない。
「だったら、医者になればいい。おまえならきっと、いい医者になれるよ」
「でも……それじゃ結局、今までと同じように、榊原に世話になるだけです」
「いいじゃないか。利用できるものは利用すればいい」
「でもそれって……卑怯じゃないですか?」
「卑怯? 俺はそうは思わないよ。少なくとも、おまえの心に抱えている傷は、他人じゃわかりえないほど深いものだろう。その代償として、少しばかり世話になるのも悪いことじゃない」
 ニヤリと企むような笑顔が印象的だった。正義だけをかざすのではなく、ずる賢さも持った男。上手に生きていく術を知っている。口から出てくる言葉は、意外すぎて、驚かざるをえなかった。
「今のおまえにはまだ、人生を選べるほどの地位も金もない。たかが十六や十七のガキを、簡単に受け入れてくれるほど世の中は甘くない。なら、自分が自立できるようになった後の人生を思うように作っていけばいい。おまえが今抱えている傷は、大人になった時に、絶対におまえを守ってくれる。強くしてくれる。だから今は、賢く生きるのも悪くないんじゃないか?」
 目の前に、光がパッと差し込むような感覚を覚えた。今まで考えたこともなかったことばかりだった。薫の言葉に明らかに元気付けられている自分がいる。やはり、この男は凄い。生き方、考え方全てが、憧れるものだった。憧れるだけでなく、こんな風になりたいと強く願った。
 けれど――
「何もおまえが、父親の人形でいる必要はないんだよ」
 最後に聞いた薫の一言で、やはり自分は弱いということを痛感せずにはいられなかった。
 生きたいように生きる。確かにそれは、理想でもあり、一番願うことでもある。けれど、憎いとはいえ、父のことや、母のことを思うと、素直にそう行動できる決心がつかなかった。
 父親の人形だと一番わかっているのは、ハルカ自身だ。それが嫌で、逃げ出したいと思ったことは何度もあった。けれど、自分が逃げることで、傷つく人がいることを思うと、ただ従うしかなかった。普段はけして見せない、ハルカの本当の優しさが、周りの人間を思うばかりに、カレ自身の自由を奪っていた。
 優しすぎるほど優しい。それは、時に、自らの首をも締めてゆく……。

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