氷花

16.君しか見えない

「その話、本当なの?」
「たぶんね。まあ、香月が榊原の紹介でこの学校に来たっていう噂は流れてたわけだから、これも本当なんじゃない?」
 朝からずっと、校内中は香月ハルカの話題で持ちきりだった。正確には、昨日からということらしい。昨日一日欠席していた美緒は、今朝登校してくるなり、その話をえみから教えられた。驚かざるをえない内容に、美緒は何度もえみに問いただしたが、何度聞いても同じことだった。
 その話の内容とは、この学園の多額寄付者である榊原総合病院の院長と、ハルカとの関係の噂だ。誰が言い出したことなのかを、美緒は知らない。その噂の中心となっているネタは、
『香月ハルカは、榊原総合病院の院長の隠し子である』
 ということだった。
 どういう根拠で、そういう噂が流れたのかはわからない。けれど、こういう話題が出る以上、根本的理由と、それを証言する者がいるということなのだろう。憶測で流れる噂にしては、現実味のある内容だった。
 誰も、ハルカと榊原が親子だなんて、想像も付かなかったことだろう。入学式や卒業式、その他行事ごとがある度、全校生の前に姿を見せる榊原院長。時折、理事長室で雑談しているのを見かけることもあったが、その人物とハルカがそんな親密な関係など、想像もできなかった。ハルカのそばにいた美緒でさえ、何も気付かなかったのだ。
「で、ハルカは?」
「ハルカ? ……ああ、香月のことか。ハルカなんて呼ぶから一瞬誰のことかわからなかったじゃん」
 アハハとえみが声をたてて笑う。美緒とハルカが親密であることをからかうように、ニヤニヤと笑みを浮かべて美緒を見ていた。しかし、一方の美緒は、そんなえみに、冗談で返せるほどの余裕もなく、質問の先にある答えを、必死に求める。
 えみが、ハルカのことをそんなに深刻に考えないのは無理もない。ただのクラスメートなら、そんな噂話をただの興味の一つとしてしか受け止めはしないのだから。ただ、美緒にとって、この噂は、そんなに軽いものではない。
「ハルカは学校には来てないの?」
「さあ。まだ登校してきてないだけじゃないの?」
「昨日は? 昨日は来てたの?」
「来てたよ。噂が流れ始めたのも、お昼前くらいからだしね」
「そう……」
「何? 香月のことそんなに心配なわけ?」
 覗き込むように、美緒の顔を見つめた。まるで恋人のように心配する美緒をからかおうと思ったのだ。しかし、その後すぐに、えみの目が真剣さを取り戻す。視線の先にあった美緒の表情は、からかう余裕などないほど、追い詰められていた。まるで、自分が噂の渦中にあるかのように。
「美緒……。大丈夫だよ。香月学校来るって。だからさ、元気だしな?」
「違うの。そうじゃない」
「え? 来てないから心配なんじゃないの?」
 むしろその逆だ。こんなひどい噂の流れる中、ハルカをその渦中に置こうなどと美緒は思っていなかった。どうせなら、来ない方が良い。中傷も、慰めも何も聞こえない場所で、居て欲しい。
 今までのハルカの苦しんでいる姿を思い出して、今やっとその理由の断片を掴んだような気がしていた。隠し子の噂と、ハルカの心の闇は、きっと連結しているに違いない。だとしたら、今ここへ来ることは、ハルカの心を余計に傷つけることになるんじゃないのか。そう思うと、美緒の心は痛いほど締め付けられた。
 自分のことではないのに。ハルカと一緒にいて支えあった心は、知らずその闇を、美緒の心にもうつしていた。
「それより美緒。あんた昨日熱出して休んでたんでしょ? もう大丈夫なの?」
「え……あ、うん」
「元々体弱いんだから気を付けなよ?」
「雨に濡れちゃって、それで熱が出ちゃっただけだよ。……もう大丈夫」
「本当に? なんかしんどそうだけど……」
「それよりも……ハルカ……」
 急な眩暈が美緒を襲った。口では、きちんと話しているつもりなのに、なぜか体に力が入らず、上手く言葉にならない。頭がぼーっとしてきて、目の前にいるえみの顔が歪んでいく。目に手を当て、どうにか自分を取り戻そうとするけれど、一度崩れそうになった体は、意思と反して全く言うことを聞かなくなった。
「ちょ、ちょっと美緒!! 大丈夫?!」
「だいじょ……ぶ……」
「大丈夫じゃないじゃん! ……ほら、まだ熱あるよ?!」
 額に、えみの冷たい手が触れる。その冷たさがやけに心地良かった。熱がある、と言われたのにも関わらず、そういう意識は美緒には全くない。ただフワフワとした浮遊感が、美緒を上手く立たせることができず、体の自由を奪っていく。
「ちょっ……美緒! 美緒!!」
 美緒の体の左側に、打ち付けるような鈍痛が走った。咄嗟にえみが支えようとしたものの、間に合わず、体重をかけて倒れてしまったのだ。目を開けることはもはや困難で、周りの環境を判断するのは耳のみ。美緒は、遠ざかる意識の中、聴覚だけは逃すまいと、必死に自分で自分を奮い立たせた。ただ、えみの言葉は聞こえてくるのにも関わらず、まったく理解ができない。自分の名を呼ばれているという感覚はあるのに、返事ができなかった。
「あ! 櫻井! 櫻井こっちきて!! 美緒が!!」
 それなのに、一つの単語だけは、理解できたのだ。
 『櫻井』
 何を聞いても、自分の名前を呼ばれても全くわからないのに、ただ一言だけは、その姿を映像として脳裏に映し出した。そして、その映像を思い浮かべながら、その人を呼びつづける。
「せん……せ……?」
 もはや、何の音も耳に届かず、聞こえるのは自分の心の声だけだった。すると、フワリとした柔らかい感覚が、自分を包むのを感じた。思わず溜息が出るような、大きくて温かい腕。そして、それが何なのか咄嗟に思い出す。
 これは、紛れもなく、愛する人の手だと……。


「起きたか?」
 目をゆっくりと開けると、見慣れた殺風景な天井が目に入った。ベージュの、少し古びた天井。その脇から、白いレースのカーテンがかかっていて、そしていつもそこには、愛する人がいる。いつも、その声で目覚めるのが好きで、寝たフリをすることもあった。声のするベッドサイドに目を向けると、想像していた通り、愛する人がいて、美緒はひどく安心感を覚えた。
「おまえ、熱出して倒れたんだぞ?」
「うん……」
「うん、て。自分の体調管理はしっかりしないとダメだろう?」
「ごめんなさい……」
「でも良かった。ただの風邪で」
「はい……」
「大事があったらどうしようかと思ったよ」
 ベッドの上に置いてあった薫の手を、弱々しく握る。すると、温かく大きな手は、その弱さをも包むように、強く握り返してきた。もう何度も触れたはずの手なのに、つなぐたびに愛情を感じて、美緒は目を閉じてそれを感じていた。
「私、どうしてここに?」
「たまたまおまえの教室を通りかかったときに、藤井の悲鳴が聞こえたんだ。何かと思って見に行ったら、藤井が俺の名を呼んでて、そしたらおまえが倒れてた」
「そうですか……。えみ、びっくりさせちゃったな」
「藤井だけじゃないよ。周りの女の子全員だ」
「女の子? 男の子はびっくりしないんですか?」
 ゆっくりと目を開け、薫を見つめる。そこには、いつもの企むような笑顔を浮かべている姿があった。言われていることの意味がよくわからず、美緒は考え込むように眉間に皺を寄せる。
「おまえに気のある奴はある意味びっくりしたかもな」
「え……?」
 言っていることの意味が全然わからない。ただ聞き返すことしかできなくて、薫の目をじっと見ていると、彼は平然とした顔で、とんでもないことを口にした。
「お姫様ダッコでここまで運んだんだ。倒れたことを知っている連中はともかく、保健室までの道中で出会った女の子は、大概悲鳴あげてたな」
「な……っ!!」
 衝撃の告白に、びっくりして、何も言葉が出なかった。しかたのないこととはいえ、その時の様子を想像すると、顔から火が出そうだ。元より、美緒は、人前で目立つことが好きではない。薫に抱きかかえられているところを見られることはおろか、一緒にいるところを見られることだって罪悪感を感じるというのに……。
 あっけらかんと楽しそうに言う薫に、何もいえない。ただ、自分で自分を責めるような、そんな窮屈な思いで頭を抱え込んでしまいそうになった。なぜ倒れたのだろう、と、自分を叱咤する想いが思考を駆け巡る。
「まあ、いいじゃん。おまえもおまえで、俺の首に手巻きつけてたんだし。雰囲気ばっちりだったぞ」
「嘘!!」
「嘘じゃないよ。疑うなら藤井に聞いてみろ。他の女の子に聞いたって、皆そう言うよ」
「そんな……だって私覚えてないもん……」
 抱きかかえられ、それに付け加え首に腕を巻きつけていただなんて、そんなの恰好の注目の的だ。事情を知る人でなければ、当然、『何あれ!』と、不思議に思うだろう。薫の周りに群がる女の子たちのことを思うと、これから先のことが不安で、美緒は溜息をつく。余計な疑いを持たせることを思うと、もう学校へ来たくないと思うほどだった。
「ふーん。覚えてないんだ」
「なんですか……?」
「いや? 別に?」
「何?」
「腕巻きつけてたこと、覚えてないんだなあと思って」
 困り果てている美緒とは対照的に、薫はニヤニヤと薄笑みを浮かべて美緒を見つめていた。美緒にとってあまり歓迎できないことを思っているのは、直感でなんとなくわかっていた。薫が美緒に辱めの言葉を口にするときは、大概こういった表情を浮かべるのだ。
「なんですか? 言って下さい」
「いや、覚えてないってことは、無意識なんだなあと思っただけだよ」
「え……?」
「おまえは誰にでも抱きつくほど隙のある女じゃない。でも、抱きついてきたということは、相手を俺だとわかっててやってたのかなあと思って」
「それは……」
「抱きかかえた腕が、恋人のものだって、ちゃんとわかってたんだろ?」
 確かに、誰かに抱きかかえられるような感覚を感じた時、咄嗟に浮かんだのは薫の腕だった。薫の腕に抱かれているという自分を、頭の中で想像した。それは、何度も抱きしめられた感覚を、体が覚えていたからなのだろう。
 だけど、それを面と向かって指摘されると、恥ずかしくて、否定したい気持ちを抑え切れなくなる。
「そ、そんなの知らない」
「せっかく美緒の可愛いとこ見れたのに、そんなツンケンしてるとブサイクになるぞ」
「別にいいです。先生でなくたって、きっと抵抗しなかったもん」
「じゃあ、俺じゃなくても抱きついた?」
「……たぶん」
「はいはい。美緒は天邪鬼だから、俺なりに解釈しとくよ」
「もう! からかって楽しいですか?」
「楽しいよ。だって、おまえが無意識でも俺に助けを求めたってことなんだから」
 そう言って、美緒の手を彼の頬に当てた。唇を覆うように手のひらを当て、視線だけは、じっと美緒を見据える。逃がすまいと見つめる強い視線は、色気さえ感じさせて、美緒は居たたまれず視線を外した。
 あの瞳に見つめられると逃げられなくなるのだ。いつもは氷のように冷たい眼差しなのに、美緒を見つめる瞬間だけ、その奥に氷とは違う色が見える。手の平にあたる彼の唇が少し動くの感じて、微笑んでいるのだと直感でわかった。
「もう、校内を歩けません」
「どうして?」
「どうしてって……先生とのそんな姿見られたら、皆の視線が怖くて……」
「大丈夫だよ。校医が病気の生徒を運んだとしか思われないさ」
「大丈夫じゃない。恥ずかしくてたまらないです……」
「俺は逆に優越感を感じるけど?」
 自分の気持ちとは全く逆のことを言う彼に、その真意を知りたくて、顔を彼の方へと戻した。手のひらをあてたままの色香立つ表情は相も変わらず、狡さも見える瞳が印象的だった。
「本当は、皆に言いたい。皆に見せたい。俺の彼女はおまえなんだって」
「先生……」
「おまえに触られるのは俺だけなんだって、皆に知らしめたい」
 本当は、この学校をやめたって構わない。堂々と君を愛せて、君に不安を与えずに済むのなら。
 けれど、現実がそれを許さないだろう。何より君が、それを望まない。
「ちょっとぐらい、校医としての立場を乱用することが、そんなに悪いことか?」
 君を守るのは自分だけなのだと、そう思いたいと願うことはごく自然の感情。それを堂々とできることが叶わなくとも、いつも君を守りたいと思っていることはわかっていて欲しい。本当は愛しくて愛しくて、言葉にできないほど愛しくてたまらない。皆の前で君を抱きしめて、二度と離したくはない。
 けれど、君を想うからこそ、今は耐えてみせよう。君が、不安を感じずにいられるように。誰にも言えない関係は、時に二人を盛り上げる要素を持ち合わせていても、結局は、孤独な寂しい関係。
「偶然を装ってでも、おまえに触れたい。そう思うことくらい、許せよ」
「せんせ……」
 薫の切ない思いを、視線で感じた。好きな人だからこそ、伝わってくる。その瞳の奥にある想いを。
 言葉にしなくとも、ちゃんと守られていることを、美緒はわかっていた。薫が言うのなら、何も心配はないのだろう。いつだって、柔らかい風に覆われるように、薫の優しさで守られている。何よりも、こうして目の前にいる愛しい人の目を見て、拒む理由など見つけられなかった。
 望まれるなら、全て与えたい。もらえるのなら、あなたの全てが欲しい。愛するということは、単純にそういうことなのかもしれない。
「ねえ、先生……」
「ん?」
「私は……私は先生にとって、魅力的な女ですか?」
「どうした? 急に」
 頭の中で麻里の姿を思い浮かべていた。どこまでいっても、隙のない『女』。魅力的で、魅惑的で、魅せつけられて……。自分にはない、『魅』を持った女。最初から、敵うなんて思っていない。けれど、彼からの、確かな言葉が欲しかった。
「今、頭の中で誰かと比べてるだろ」
「え……」
「バカだな……比べる必要なんて、全然ないのに」
 何もかもを見透かされていた。苦笑するように、美緒を見つめる薫の目は、何もかもを許す優しさが滲み出ていて、美緒のワガママをも容易く包んでいた。
 恋なんてそういうものだ。いつだって、誰かと比べずにはいられない。比べるからこそ、自分をもっと魅せたいと努力する。嫉妬も、憎悪も、時には感じたりする。けれど、いつだって大事なのは、誰に対して魅せたいかということ。周りの人間には関係ない。ただ一人。その人だけに伝われば、それで良い。
「いいこと教えてやろうか」
「なんですか?」
「生憎俺は目が悪いんだ」
「え……?」
「おまえに出会ってから、めっきり悪くなったよ。医者なのに」
「どういう……意味?」
「たとえすごく美人で人気の女教師が目の前にいても、俺はその人を通り越して、一人の女しか見えない」
「それって……」
 いつものように、美緒の髪をクシャッといじる。はにかむように微笑んで、美緒の額に自分の額をくっつけた。
 麻里という存在をわざとわかるように口にしたのは、美緒のためだった。言葉にしないといけないことは、たくさんある。愛しているだとか、寂しいだとか……。美緒の心が少しでも軽くなるのなら、あえて言葉にすることも、悪くないと思った。その代わり、その相手が美緒だということは明確にしないけれど。少しばかりの、薫のイジワルだ。
「誰のこと? ……なんて、わかりきったこと聞くなよ」
「……ケチ」
「おまえに言われるとは心外だな。俺よりおまえの方が、はるかにケチなのに」
「そんなことないですよ」
「まあ、しかたないか。おまえは盲目だから」
「盲目?」
「俺よりもおまえの方が、俺のこと好きってこと」
「何それ」
「だから、言葉にするのがへたくそなんだよ」
 くっつけていた額をもっと近づけて、鼻と鼻とが触れ合う距離にまで近づく。その光景がどこかおかしくて、お互いにクスクス笑いあった。
「でも、おまえはそれでいい。俺だけ見えてれば、それで」
 言葉はいらず、ただ引き寄せられるように、唇が唇を求めた。寝ている彼女の頬に手を当て、彼女の瞳がゆっくりと閉じていくのを見つめながら、唇を近づける。触れた甘く柔らかい唇は、まるでこのまま溶けあってしまいそうな感覚を覚えながら、二人の吐息をも重ね合わせた。


「どういうことだよ……これ……」
 声が震える。目の前にある光景が信じられなくて、心の中で何度も『嘘』という言葉を呟いた。
 視覚が認識しているのは、薫の後ろ姿。ベッドにうつぶせるように、誰かの上に覆い被さっていた。
「嘘だろ……」
 遠くからしか見えてはいない。けれど、二人しかいない保健室で、彼らを見間違えるわけがない。視覚に映る薫の背の向こうに見えるのは、穏やかに目を閉じる美緒の姿だった。
 ――自分の近くにいる薫の彼女。
 麻里の言葉だけが、ハルカの頭の中でリピートしていた。

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