氷花

17.切ない恋心

 そこを通りかかったのは、たまたまの偶然だった。保健室で少し休んだ後、教室に戻る途中出くわしたのだ。
 階段の踊り場。二人の女の子が立ち話をしていた。
 咄嗟に、階下の壁際に身を潜め、様子を窺う。耳に届くのは、何度聞いても自分のことで、美緒は知らず暗い気持ちを隠し切れなかった。
「ていうかさ、真中さんもお嬢様ぶっといてやることはやるよね」
「どうせ仮病だったんじゃないの? 櫻井先生が通りかかるの見てワザととか」
「おとなしそうな顔してんのによくやるよね。櫻井先生も櫻井先生だよ。あんな目立つことしなくてもさ」
「櫻井先生はそういう人じゃん。ムカツクのは真中さんだって」
「確かに。ちょっと可愛いからって、皆にちやほやされてさあ。どこがいいのかわかんないよね」
「みんな上っ面に騙されてるんだよ」
「ありえるー」
 ケラケラと笑いながら美緒の悪口を言っていたのは、クラスメートの女生徒二人だった。話したことは一度もない。こちらから話し掛けようにも、最初から敬遠されている雰囲気が否めなかった。美緒にしてみれば、彼女たちを悪く思う理由は一つもなく、ただのクラスメートとして眼中に留める程度だった。無論、話したことがないのだから、当然だ。
 しかし、彼女たちから見た美緒は、全く違っていたらしい。こんな風に思われていたのかと思うと、直接言われてないにしろ、傷付かずにはいられなかった。むしろ、直接言われた方がまだ良かったかもしれない。
 スカートの裾をギュッと掴み、言葉にならない思いを噛み締める。俯き、何かを堪える様に、彼女達の言葉にじっと耐えていた。唯一の救いは、薫の悪口を言われていないことだった。きっと、彼に好意を抱いているのだろう。この悪口も、彼に対する好意が煽ったものなのかもしれない。
「最初から嫌いなんだよね。いい子ちゃんぶってるところが癪に障るっていうか」
「一回も口利いたことないもんね」
「喋りたくもないし」
「私も一緒だよ」
 苦笑いを浮かべるしかできなかった。頭を鈍器で殴られたような感じだ。グラグラと、浮遊感に似た感覚が美緒を襲う。乾いた笑いを浮かべながら、『そっか……』と、口にするしかできない。薫のことは関係なく、最初から悪意的な思いを抱かれていたのか……。ある意味、大丈夫だと言っていた薫の言葉は当たっていた。
 さすがに、好かれているとは思っていなかったが、ここまで嫌われているとも思っていなかった。いくら性格が良くても、見た目が良くても、誰とでも仲良くできるわけではない。それは充分にわかっている。けれど、嫌われる理由もわからない。自分は相手たちのことを何も知らないのだ。無論、彼女たちも美緒のことを何も知らないだろう。そんな状況下突きつけられた現実は、優しい美緒の心に、重くのしかからずにはいられない。
 彼女たちの自分に対する悪口を、遠くに聞きながら、左肩を壁にもたせかける。意識が、遠くに飛んでいた。彼女たちがいる以上、ここから動くわけにはいかない。引くにしても、薫の元へ戻るには抵抗があった。今のこんな状態の美緒を見て、何も勘付かないほど薫は鈍感ではない。むしろ、鋭すぎるあの目は、今見つめられると、逃げたくなるような衝動を起こさせるだろう。
 思えば、今まで、こんな風に誰かの悪意をまともに受けたことはなかった。重い溜息が出る……。
 すると、その瞬間、その溜息を救うように、背後から誰かの手が両耳に触れた。途端、包まれる無音の世界。抵抗するにも、あまりにその状況が心地よく、動けずにじっとしていた。冷たくて大きな手。以前にも、こうやって触れられたことがあると、心の隅で思い出す。何秒間か、そのまま耳を塞がれていたが、その手は頃合を見てか美緒から離れ、そして頭の上に乗せられた。軽く、ポンと乗せるような感じで。
 『大丈夫』と、無言の声が聞こえた気がした。背後から、近づいた影は、美緒を通り越し、風を纏い、彼女たちのいる階段へと上っていく。
「おい、ブス」
「な……!」
「返事しろよ、ブス野郎」
「誰に向かって言ってんのよアンタ!」
「ブスにブスって言って何が悪いんだよ。おまえ、性格も顔もブサイクなんだな」
「急に何なのよ! 人のことブスブスって。香月にそんなこと言われる筋合いないんだけど」
「そうよ。急に出てきてなんなわけ?」
 目を疑う。美緒を追い抜いた影の正体は、紛れもなく香月ハルカだった。もう何度も彼を見た目が覚えている。その背中を見るだけで、カレだと認識できるほど、強く。
 何故カレがここにいるのか理解できない。ただ、呆気に取られるように、ポカンとカレ達を見つめるだけだった。
「陰でコソコソ悪口ばっかり言ってる陰険女には、そんなこと言われる筋合いねーよ」
「何が言いたいのよ、アンタ」
「おまえら、自分に自信がないんだろ。だから、陰でばっかりコソコソ言ってさ」
「そんなことないよ。大体、あたし達が何を話そうと関係ないでしょ。あんたに何がわかんのよ」
「おまえらがブスだってことくらいは分かるけど? しかたないよな、性格も顔もブスじゃ、誰も相手にしてくれないもんな」
 いつもの香月ハルカとは思えないくらいの饒舌ぶりだった。彼女たちの痛いところを確実についていく。そのたびに、女生徒は唇を噛み締め、顔を歪め、明らかに敵意をハルカに向けていた。そんな視線も気にすることなく、嘲笑うように彼女たちに言葉の攻撃を続ける。
 ――声が出なかった。
 そんな光景を見て、自分には何も言える言葉が無い。どうしたいのか、わからないのだ。ただ、目の前で繰り広げられる光景に、嫌悪感はなかった。いつもの美緒なら、きっと止めに入っただろう。誰かに言葉の攻撃をするハルカに不信感を抱いただろう。
 けれど、ちゃんと心がわかっていた。自分を守るために向ける悪意は、どんな優しい言葉よりも心に響くことを。ハルカの言葉には、美緒を思う気持ちがそこにあることを。
 口を手で覆う。言葉にならない思いが、胸から溢れそうだった。本当に嬉しかったのだ。傷ついた心を、ハルカが庇ってくれたことが……。
「フン。どうせあんたも真中さんのこと好きなんでしょ。バッカみたい。上っ面に騙されちゃって」
「たとえ騙されてたとしても、おまえらみたいなブスと付き合うよりよっぽどマシだし」
「あんたね、ブスブスっていい加減にしないと怒るよ」
「何? 自分がブスじゃないって自信があんのか?」
「あ、あたりまえじゃん……」
「じゃあ皆に聞いてみろよ。私と真中美緒とどっちが好き? って学校中の人間に聞けよ」
「…………」
「聞けないんだろ? 自分が一番わかってんじゃん」
「ウルサイ! あんたに何がわかんのよ!!」
 ヒステリックに大声で怒鳴り、ハルカに手をあげようとする。引っ叩こうとしているのだろう。右手をサッと上げ、勢いを付けてカレの頬を狙う。しかしその手は、呆気なくハルカの手で受け止められた。
 クッ……と、悔しく息を呑む声が聞こえた。嘲笑ったままのハルカの表情はそのままで、女生徒は、更に顔を歪め、今にも泣きそうな表情を浮かべる。よほど悔しいのだろう。そんなに噛み締めては切れてしまうのではないかと思うほど、唇を噛み、目には今にもこぼれそうなほど涙が浮かんでいた。
「百人中百人がこう答えるだろうな。真中美緒の方が素直で可愛いって。上っ面に騙されてるのはおまえらの方じゃないのか。あいつの中身も何も知らないで、勝手に見た目に嫉妬してるだけだろ。少なくとも、あいつは陰で人の悪口を言ったりしない。そんな、浅ましい人間じゃない」
 真っ直ぐなハルカの言葉は、二人を黙らせるのには充分だった。もう一人の女生徒が、『もう行こうよ』と小声で言いながら、彼女の手を引く。まだ何か言いたそうな雰囲気はあったが、ハルカに一瞥をくれた後、踵を返し、足早にその場を去ろうとした。
 ただ、最後に、酷い一言を残して。

「生まれも汚い隠し子のくせに――」

 凍てつく空気。美緒の心にも、ナイフが刺さるような衝撃が走った。ひゅっと、言葉が心を切り刻んだ。その瞬間悟る。ハルカの心の闇は、他人ではわかりえないほど深いことに。自分のことではないのに、こんなにも痛い心。ハルカはどうなのだろうと思うと、言葉にならない想いが胸に沈んだ。
 思わず、ハルカの様子を伺う。けれど、その言葉に、ハルカは何も言わなかった。むしろ、言えなかったのかもしれない……。
 パタパタと、靴音が遠ざかっていく。足音が完全に聞こえなくなると、途端、それまでピリピリと張り詰めていた空気が穏やかさを取り戻した……
「ハルカ……」
 隠れていた壁際から、そっと身を動かした。恐る恐る、カレのいる踊り場へと、階段を上る。踊り場にいる彼を見ることはなく、自分の足元を見ていた。乱暴だけれど、自分を守ってくれたカレに、なんと言葉をかけていいかわからなかった。
「あの、ありがと……」
 階段を踏みしめながら、カレへと近づく。背を向けたままの姿は、微動だにせず、何も語らなかった。
「私のために……ひどいこと言わせてごめんね……」
 手が触れるほどの距離まで近づく。振り向いて欲しくて、じっとその時を待った。けれど、カレの背には何の感情もなく、美緒は不安を覚えずにいられなかった。
 今までのカレではない。明らかに、美緒を近寄らせない雰囲気があった。その雰囲気を感じたのが、勘違いでないことには自信があった。なぜかわかるのだ。互いに一緒にいた時間は、少なくとも、空気を読めるほどになっていたらしい。
「別に、おまえのためじゃない」
「え……?」
「ムシャクシャしてただけだ。おまえのためなんかじゃない。勝手に決めつけんな」
 ――拒絶。
 無感情なほどの声色に、明らかに見えていた拒絶の二文字。見せる背中はいつものカレなのに、触れられない壁がそこにはあった。表情が読み取れないことも、不安にさせる要素の一つではあった。カレは、言葉はきつくとも、いつも目は優しかったのだ。それを見ることができない今は、カレの言葉だけが感情の全てだ。
 胸が痛い。さっきまでの痛みとは比べ物にならない。素手で心臓をえぐられるような痛みに、美緒は思わず胸元をギュッと掴んだ。
「ハルカ……」
「気安く呼ぶなよ。イライラする」
「急に……どうしたの?」
「どうもしない。おまえに親切にしたと勘違いされるのが嫌なだけだ。おまえのことなんかどうでもいい」
 いつものカレではない言葉。口数は少なくとも、愛想はなくとも、美緒を傷つける言葉は絶対言わなかったのに。今のカレの言葉には、明らかに拒絶があった。そして、それに加えて、傷ついているような哀愁も……。
「私……私ね、ハルカのこと心配してたの……。その、噂のこと聞いて……」
「だから? 俺のこと可哀想って? ……余計なお世話だ」
「そんな言い方……」
「あいつらの言ってること、全部が全部間違いってわけでもないんじゃない? 友達だからって、そんな風に心配してさ、相手に変な気持たせて、本当はなんとも思ってないんだろ」
「そんなことない。私友達としてハルカのこと心配だよ……?」
「友達だったらほっとけよ……」
 額に手をあて、小さく苦笑いを浮かべた。優しさが、残酷だった。
 友達以上の感情を持っているのはハルカだけだと、自分で理解していても、優しさを目の前にすれば望んでしまう。
「ほっとけないよ。友達だもん」
「オレは……オレは友達だなんて思ってないから」
 友達なんかじゃない。もう友の領域を超えて君が恋しいのに。
 美緒の口から、友達という言葉が出るたび、ハルカの表情が歪んでいく。胸が締め付けられて、泣きたくなった。
「この間のことだったら……ごめん」
「なんで謝んの……」
「傷つけたかな……って思って……」
「別に。理由もわからず謝んなよ。俺とおまえは、最初から何の関係もないんだから。もうどうでもいい……」
 ハルカの言葉に、美緒の中で否定の気持ちが生まれる。その言葉が本当なら、今まで自分が見てきた香月ハルカは一体なんなのだろうと。
「嘘……どうでもいいだなんて嘘よ。だって……だってハルカの手には、ちゃんと優しさがあったもん」
 声が震える。今までの香月ハルカを辿るように頭の中でさまざまな光景でのカレを思い出していた。気持ちは、伝わっていた。通り過ぎる前、カレが美緒に触れた手には、優しさがあったと。無音の世界に包まれたあの瞬間、思い出したのだ。この光景は、初めてではない。自分を守ろうとしてくれるその手は、ずっと前からそこにあったことを。
「あの時も、守ってくれたんでしょ? 私に聞こえないように、私が傷つかないように、守ってくれたんでしょ?」
 覚えている。ハルカと出会ったばかりの頃。図書室の片隅で、急に美緒を抱き締めたことがあった。あの時も、不思議な無音の世界が美緒を包んだ。
 鮮明に覚えているのだ。あの時も、そして今も、彼がくれた音のない世界は、優しさに包まれていた。
「ねえ、ハルカ!!」
 美緒の言葉に、ハルカは何も言わず、佇むだけだった。カレの袖口を掴み、軽く引っ張る。
 今頃気付くなんて、遅すぎるかもしれない。けれど、その過去さえも否定されるのには耐えられなかった。そうでなければ、自分の中の香月ハルカは、全て嘘になってしまう。
「離せよ」
 美緒に掴まれている袖口を、ハルカが少し乱暴に振りほどく。その反動で、少し後ずさりする美緒に目もくれず、その場を離れようと歩き出した。
 何も言う言葉は無い。美緒を見る気もありはしない。彼女の視線を背中に感じながら、階段を駆け上がる。見せるつもりはなくても、もしかしたらカレの背中には、寂しさが見えていたかもしれない。
 そして何も言わないハルカの背中は、美緒の質問を肯定した。美緒を放っておくことのできない優しさを、否定しきれなかった。言葉で否定しないことが、何よりの肯定だったのだ。


 屋上で、抜けるような蒼い空をじっと眺めていた。さっきの光景を思い出しながら、呟く。
「わけわかんねえ……」
 助ける気など全くなかった。
 薫と美緒とのあんな光景を目の当たりにして、それでもまだ彼女とまともに向き合えるほど、ハルカの心は強くはない。最初は、見て見ぬフリをするつもりだったのだ。そのつもりなのに、体が自然と彼女を守っていた。何も聞かせたくないと、心の奥底で望んでいた。
 最初に彼女を守ったときと同じ。理由などなく、ただ、彼女を傷つけたくなくて……。
 けれど、今になって、やはり助けなければ良かったかもしれないと後悔していた。嫌でも思い出してしまう。美緒と、薫のあの姿を……。
 美緒が、自分の名前を呼ぶたびに、イライラした。薫とキスをした唇で自分の名を呼ぶのかと思うと、その背後に薫を見るような気がして居たたまれなかったのだ。薫に抱かれていたあの体で、自分を慰め抱き締めたのかと思うと、とてつもない嫉妬がハルカを蝕む。
 もう、言葉では言い表せないほど、本気で、恋焦がれている――。
 目を閉じるたびに浮かぶあの光景。薫に抱かれている美緒は、自分には見せたことのない女の顔だった……。本当は、あんな風に彼女を傷つける気はなかった。けれど、傷つけずにはいられなかった。振り向けば、きっと抱き締めていた……。
 涙など出ない。現実はあまりに残酷すぎて、ただ歪んだ笑みを浮かべることしかできなかった。呆れたように、笑いを含んだ溜息が出る。
 もう、何を信用していいのかわからない。いや、もしかしたら、最初から信用してはいけなかったのかもしれない。恋など、するべきではなかったのかもしれない……。
 今になって思えば、全てつじつまが合う。麻里の言っていた言葉。ハルカの近くにいる女など、美緒以外にはいないのだ。けれど、頭の中で美緒だけは対象から外していた。それは、彼女が薫に片思いをしているという固定観念があったからだろう。
 けれど、それもおかしな話だ。薫と麻里の関係が恋愛関係ではないと知っているはずの美緒が、あんなところで何故二人を切ない目で見ていたのか。ハルカが、麻里と薫の関係には立ち入らない方がいいと言った時、あんなにも激しい気持ちをあらわにし、麻里に対して特別な感情を抱いていたのか。それもこれも、美緒が薫の恋人であり、そして、薫と麻里が昔恋人関係にあることを知っていたからこそ。自分だけ除け者にされていたとは、なんと皮肉な話だろう。元々、立ち入れない領域なのかもしれないけれど。
 何も知らないのはハルカだけ。美緒の見せる愛らしい姿に、薫の優しい言葉に、全て踊らされていたのだ。
 できるなら、見たくなどなかった。彼女が、他の男に抱かれている姿など。しかもそれが、櫻井薫となると、やりきれない思いばかりがハルカを苦しめる。
 二人とも好きだった。それは、恋も友情も関係なく、一人の人間として心から……。
 所詮、叶わぬ恋に、神は味方をしてくれないのかもしれない――。

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