氷花

18.明かされた真実

「どういうことだ! ちゃんと説明しないか!」
 相変わらず耳障りな粘着質の声。まだ昼間だというのに、仕事を放り出してハルカの家へ訪れていた。ハルカが自宅に戻っているということを知っていたかどうかは定かではないが、迷いもなく合鍵を使い部屋へと入ってくる。ハルカは、そんな父の姿を一瞥すると、座っていた机のイスを正面に戻し、彼の視線から逃れた。
「あれほど言っただろう。目立つことはするなと。それが何のためなのか、わかっていないわけはないだろう」
「目立つことなどしていません」
「では何故私とおまえが親子だっていうことが、学校中に知れ渡っているんだ。おまえが何かしたに違いないだろう」
「元々……この学校に来ること自体が間違いだったんですよ。ばれるのだって時間の問題だったんだ」
「な……んだと?」
「俺だって、それなりに人生を生きてきたんだ。あなたを知る人も、俺を知る人も、あの学校にはたくさんいるということですよ。火のないところに煙は立たない」
「おまえ……」
「あなたは俺の全てを知っていると高をくくっていたんでしょう。でも生憎、そうじゃなかったみたいですね」
 いつもはあまり反論しないハルカが、淡々と話すのを見て、余計に頭に血が上る。わなわなと手を震わせ、口をいがめると、背を向けたままの息子の服を掴んで強く引いた。食い込むようにシャツを掴む脂ぎった手が、座っていたハルカを強制的に立たせる。持ち上げられた反動で、立ったハルカは、自分よりも少し低い位置にある父親の目を冷ややかに見つめた。
「それが、親に対する態度か……」
「親? 生憎俺はあなたを親だと思ったことはない」
「なに? 今まで面倒を見てもらっていて、よくもそんなシャアシャアと言えたもんだな」
「誰も頼んでなんていませんよ。あなたが、自分の罪悪感をもみ消すために勝手にしていたことだ」
 金銭的にハルカの面倒を見ていたのは、けして愛情ではない。愛人という存在を抱え、その愛人に子供まで産ませておいて、それでも妻に知られたくないために必死に秘密を守ってきたに過ぎなかった。もしも、金銭的援助を怠れば、いつか自分のところへ来るかもしれない。そういう考えが、この男にはあったのだろう。満足な生活さえ送らせておけば、自分の存在を脅かすことはない。安易な考え方しかできない男だ。ハルカが望んだのは、金銭ではなく、愛情だったということも知らないで……。
「怖かったんでしょう? 瑠璃子さんに知られたらどうしようといつも怯えてましたものね。でもこれで全部パアだ」
「おまえ……」
「残念でしたね。今まで必死に隠してきたっていうのに」
「黙れ! たかが妾の子の分際で父親に意見するのか!!」
 胸倉を掴み、衝動的にハルカの頬を殴っていた。ガシャン! と、机の上にあるものが一斉に床へと落ちた。中年の男性の殴打とは言え、男の力は凄まじいもので、何も構えていなかったハルカの体は机へと崩れ落ちていた。少しの静寂の後、殴られた左頬を、右手で覆いながら、榊原を睨み付ける。
「好きで妾の子に生まれたわけじゃない。あんたが自分勝手に産ませたんだろう」
「ハッ……私が産ませたわけじゃない。おまえの母親が勝手に産んだんだ」
「どういう……ことだよ……」
「私はな、最初から子供なんて産ませる気じゃなかった。おまえのことだって本当は堕ろさせるつもりだったんだ。それを言うことも聞かずあいつが勝手に……」
「そんなの! そんなの母さんのせいじゃないだろう!!」
「妾の分際で一人前の幸せ手に入れようなんてバカげたこと考えてる女なんだよ! 結局最後まで、私に愛されてると思いこんでた哀れな女だったがな……」
 榊原の言っていること一つ一つに、怒りがこみ上げていた。自分の存在を否定されるならまだ良い。しかし、母親の存在を否定されるのにはガマンできなかった。今まで母親の愛した男だからとガマンしてきたのだ。母が死ぬまで愛し続けた男なのだから、きっといつかわかりあえる日が来るのだろうと。
 しかし、今こうして突き付けられている現実は、あまりにも残酷なもので、死んだ母のことを思うと、息もできないほど苦しくなる。今まで信じていたものが、全て音を立てて崩れた。自分を支えていた何かが、足元から崩れ落ちている。父親と呼ばれる人の言葉に打ちひしがれて、机の上に倒れたままの体を起こす気にもなれなかった。微かに震える腕が、机の隅に当たると、懐かしい母の形見が、ポトリと床に落ちた。
「そんなもの、まだ持ってるのか」
 ――チリン。小さな鈴の音が、床に落ちて鳴った。
 母の形見の鈴。今ではこれしか残っていなくて、いつも大事に机の上に飾っていたのだ。偶然にも落ちて鳴ったその鈴の音は、まるで母が泣いているような、そんな響きを持っていた。
「いい加減捨てろ。いつまで母親に縋る気だ。大体私は鈴の音が嫌いなんだ。その音を聞くとイライラする」
 少し錆びた母の形見の鈴を、脂ぎった手が拾い上げる。指で摘むように持ち上げ、目の高さまで持ってくると、顔を歪めながらその鈴を見つめた。チッと舌打ちを打ち、ハルカの目の前に投げる。また泣くように、鈴の音が響いた。
「何が面白くて、そんな音の鳴るものが好きなのか、全然わからんな」
「あんたに……見て欲しかったんだろ……」
「なに?」
「あんたに、いつも自分のことを見て欲しかったから、いつも鈴を付けてたんだよ。そんなこともわかんねえのかよ」
 以前、美緒が言っていたことを思いだしていた。鈴の音は、自分がちゃんとここにいるということを確かめさせてくれると。母もきっと、そうであったに違いない。自分はここにいるのだと、榊原にいつも見ていて欲しくて、それで鈴を持ち歩いていたのだ。そんな悲しい女心も知らず、情のない言葉を綴る父親の姿に、呆れに似た感情を抱き始めていた。
「フン。そうだとしても鬱陶しい話じゃないか」
「鬱陶しい……?」
「所詮寂しい女のすることだ。見て欲しいだなんてワガママもいいところだ」
「な……んだって……」
 榊原の言葉に、美緒の存在をも否定された気持ちになった。笑顔で、鈴の話をしてくれた美緒を、踏みにじられた気がした。母親の侮辱に重ね、自分の恋しい人をも否定された悔しさに、ハルカの思いはガマンできなくなった。今まで胸に溜めてきたドロドロとした憎しみが、溢れ出る感覚を、胸の中に感じる。
 うつ伏せていたままの顔を上げ、榊原の目をキッと睨んだ。殺意をもこめた息子の視線に、一瞬榊原がたじろいだ。
「母さんを侮辱するようなことは言うな……」
「フン……おまえは母親ばかり庇うがな、あの女は所詮私の金が目的だったんだ。そんなことわかりきったことだろう」
「母さんは金なんて望んでない! いつだってあんたがいればそれだけで良かったんだ。それを……」
「キレイごとばかり言うところは母親そっくりだな。だが、おまえも調子に乗るなよ。私の財産も地位も、手に入れられるなんて思うな」
「そんなこと思ってねーよ」
「所詮おまえは亨のスペアだ。亨さえ戻ってきたら、おまえなんて必要ない」
 以前、雨の夜、美緒に会う前に父親に言われた言葉を、再度言われた。二度目ではない。もう何度も何度も、脳内に刷り込むかのように言われてきた言葉。
 自分は、見たこともない兄のスペア。榊原と本妻の間に生まれた異母兄弟の兄の……。それ以上の立場は、けして望むなと釘を刺されているかのようだった。ハルカが傷ついていることを知ってか知らずか、榊原は何度も口にしたのだ。それが、妾の子に与えられた当たり前の立場かのように。
「医者にはさせてやる。亨がいない今、今はおまえしかいないからな。だが調子に乗るなよ。所詮おまえは他人だ。私と血が繋がっていることを名乗ることも許さない。おまえはいざという時の亨のスペアだ。それ以上を望むことは絶対に許さないからな」
 何度言えば気が済むのだろう。何度言われれば、この言葉を傷つかずに聞くことができるのだろう。機械的に言われてきた言葉とは言え、血の繋がっている父親から言われる中傷は、少年の心に深い傷を負わせていた。
 父親なんてキライだ。けれど、最初からキライだったわけじゃない。最初から、愛されなくてもいいと思っていたわけじゃない。できれば、一人の息子として愛して欲しかったのに……
「あなたは可哀想な人だな……」
 薄笑いを浮かべながら、額に手を当てた。もう、怒る気にさえなれなかった。この人には、何を言っても無駄だ。
少しでも、微かな望みを持っていた自分がバカだった。それもこれも、母が愛されていたと思っていた昨日までのことだ。
「人を愛せないなんて、可哀想な人だ……」
「何を言っている……?」
「あなたに愛されていたと思いこんでいた母さんも可哀想だけど、そんな風にしか人を見れないあなたの方がよっぽど可哀想だと言ったんです」
「子供が生意気な口を聞くんじゃない」
「子供だって、愛し方は知っていますよ……」
 もう榊原の姿を見る気にはなれなくて、そっと目を閉じる。すると、その暗闇の向こうに、愛しい人を見た気がした。
 会いたい……。寂しい心は、むしょうに美緒への恋しい気持ちを募らせた。


 夕暮れの迫る、埃っぽい図書室の片隅で、本を眺めていた。シェイクスピアの並ぶ本棚に、借りていた本を戻すと、背表紙をなぞるように指を這わせる。ザラザラとした紙独特の感触を感じながら、美緒は困ったような笑いを浮かべた。
「結局……言えなかったな……」
 ハルカと一緒に借りたシェイクスピア。この本を読んで、同じように感じられたらと思った。ただ笑い合って、色んなことを話せたらと願った。
 けれど、こじれてしまった関係は、もう元には戻せないかもしれない。友達という枠では覆いきれない何かが、ハルカの心の中にあることを、美緒は少しずつわかっていた。友達だと思っている自分の心が、カレを傷つけている。
 ――友達?
 本当に自分はカレを友達だと思っているのだろうか。ふいに、美緒の胸の中で疑念が生まれた。友達だという枠に縛られていたのは、実は自分なのではないかと。認めてしまっては、自分の中の大切な何かが壊れてしまうことを、無意識に防御していたのかもしれない。
 恋とは言えない。けれど、確実に美緒は、香月ハルカという異性に惹かれていた。それは、初めて会った日から今も変わらず惹かれ続けている。放っておけなくて、寂しい顔をさせたくなくて、できる限りそばにいてあげたくて……。自分という存在でカレの心を癒せるのなら、いつも抱きしめていてあげたいと思った。何度傷つけられても、カレの心の痛みをも共に感じていた。
 抱かれたいと思うのは薫だけだろう。けれど、抱き締めてあげたいと思うのは……。愛しているのは櫻井薫だけのはずなのに、何故こんなにもこんなにも……。
 歪んだ笑みが浮かんだ。認めてはいけない。認めてしまったら、それは薫への裏切りだろう。薫だけを愛していると言っても、心の片隅は、いつも香月ハルカで占領されているのだ。そんなことを彼が知ったら、きっと傷つけることはわかっていた。何より自分が一番わかっている。薫の心の中に、少しでも麻里がいたならばと思うと、胸が苦しくなるのだから。
 それなのに。恋人だけを大事にすると、一度は薫の前で誓ったはずの想いが、今になって崩れようとしている。逆らいようのない波は、美緒のもうすぐそこまで押し寄せていた。
 窓に視線を向ける。空を朱に染める夕日は、もうその姿を地平線の半分まで沈ませ、もうすぐ訪れる闇を予感させていた。

 そろそろ帰ろうかと、外の景色から本棚へと視線を戻す。シェイクスピアの並んだ本棚を再び見ると、次に借りる本を適当に決めて、その一冊を手に取った。すると、それと同時に、不自然な影が、美緒の背後からゆっくりと迫った。
「誰……?」
 聞くより先に、美緒の背後から誰かの腕が現れる。彼女を取り囲むように両腕を本棚に突き、逃げられないように彼女をその場に閉じこめた。見覚えのある学生服に、腕時計。咄嗟に、それが誰なのかを悟って、振り返ろうとした。
 けれど、その前に、窮屈なほど力強い腕で、背中から抱き締められる。耳元に近づいた唇が、吐息を交えて、彼女に語りかけた。
「好きだ……」
 脳髄に響く低目の少年の声。言葉とともに、更に抱き締める腕に力が込められる。切なさを抱き締めるような、カレの腕に、美緒は気持ちが伝わってきて逃げられなくなった。
「好きだよ……」
 まるで、泣いているかのような細く弱い声に、締め付けられる心。たった一言なのに、こんなにもこんなにも心のこもった声を聞いたのは、初めてかもしれない。カレの気持ちが切なすぎて、何も言えなかった。もうずっと昔からわかっていたのかもしれない。逃げてきた思いが、いつか自分に追いつくことに。
 抱き締められていた腕の力が少し弱まり、窮屈だった体が解放される。その隙に、ゆっくりと身体をカレの方に向けると、相手の表情を確認する前に、カレの影が美緒に覆いかぶさった。
 唇に近づく声。甘い吐息と共に、彼女の全てを奪った。手に持っていた本が、床へと落ちる。
 夕日の光に重なる二つの影を、シェイクスピアだけが見ていた。

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