氷花

19.カレという名の禁忌

「……っ!」
 唇に走る鋭い痛みに、顔をしかめ、咄嗟に体を引いた。触れていた温もりが離れていくのを感じた後、生暖かいものが唇に溢れ出るのを感じ、指で触れてみる。何かを指先が捉え、そっとその指を見つめると、真っ赤な鮮血が指を滲ませていた。
「ごめんなさい……」
 唇に傷を付けた張本人は、申し訳なさそうにハルカの唇を見つめ、その細い指先で唇に触れようとする。彼女の指から逃げるように顔を背けると、今現在おかれている現状を、瞬時に判断した。
「いや、おまえのせいじゃない」
「ごめんなさい。噛むつもりはなかったの……」
「悪いのは俺だ。急にこんなことして……」
 雰囲気に流されて彼女の唇を奪っていた。溢れ出る想いが、そうすることを自然と望んだのだ。その口付けに、彼女がどう反応するかなど、全く考えもしていなかった。
「好きでもない男にキスされたんじゃ、拒否するのは当然のことだよな」
「そんな……」
「でも……それでも、触れずにいられなかったんだ」
 困ったように俯く美緒が、それ以上自分を責める様子を見たくなくて、背を向けた。
「……好きだから」
 ずっと胸にしまいこんでいた言葉を、小さく告げる。一度は言わせてもらえなかった言葉。美緒に、好きな人がいることもわかっていた。告げたところで、どうなることもないことも……。
 けれど、だからなんだというのだろう。元より、美緒に恋人の立場を望んでいるわけではない。ただ、心から好きだと、そう思ったから伝えたいだけだった。そばにいて欲しいと、願っただけだった。今まで、そばで支えてくれた君を、本当に好きだと思ったんだ。それだけのこと――。
「ごめんなさい。私……」
「わかってるよ。櫻井先生のことを好きなことくらい。俺だってバカじゃないんだから……」
「ごめんね」
「ただ、おまえと、櫻井先生が付き合ってることは知らなかったけど」
「え……」
「もう……知ってるんだ。おまえたちのこと」
 あの時見た光景は、紛れもなく恋人の姿。今も、目を閉じれば、頭の中に焼きついた光景が流れる。だからと言って、もう美緒を責めるようなことは思わない。彼女は、何も悪くないのだから……。
「どうして……?」
「保健室で……見たんだ」
 ハルカの言葉に、先日の保健室での光景がピンと思いだされた。薫と抱き合っていた甘く幸せな時間。そして、その後のハルカの冷たい行動とリンクする。告げられた真実に、全ての真相が見えて、美緒は何も言葉がなかった。
「正直、ショックだった……。でも、元々おまえは俺のものじゃないもんな」
「ハルカ……」
「俺が勝手に思い上がってたんだ。そばにいて支えてくれたおまえの気持ちを、友情じゃなくて、愛情だって勝手にはき違えてた」
 抱き締めてくれる腕を、頬を包む指を、当たり前のように受け止めていた。それが、本当は誰のものなのかも気付かずに。ただ、自分を包む優しさに、縋ってしまった弱い心は、自力ではどうしようもなかったのだ。生まれてきて初めて感じる、こんなにも狂おしい恋に、ハルカは現実よりも彼女だけを追い求めすぎた。
「それでも、おまえには伝えたかったんだ。俺がおまえのことを、好きだと思ってること……」
 それは、伝えなければいけない想い。キレイ事を並べても、彼女が誰かのモノだとわかっていても、それでも止まらない想い。そんな気持ちを、胸に留めたままでは、もう彼女を見ることはできないかもしれない。
「好きなんだよ、美緒……」
 振り返り、さっきとは違う優しい力で彼女を抱き寄せた。何の抵抗もなくすんなりと腕に収まる彼女の体を、愛しい気持ちで抱き締める。
 薫のモノだとわかっている。それでも、こんなにもこんなにも、君が愛しい……。
「ごめんね、ハルカ……それでも私には……」
「わかってる。それ以上言うな」
「ごめんね……」
「わかってるから、ただ、今だけ抱き締めさせて……」
 彼女の首筋に顔をうずめ、曇るような声で囁いた。切なく耳元で響くカレの声に、美緒は胸が締め付けられて、ただじっとしていることしかできなかった。ハルカの気持ちは痛いほど、伝わっている。けれど、美緒には櫻井薫という絶対的な人がいた。それは、誰が現れようとも変わることのない、恋人。愛しくて愛しくて、いつだって抱き締められていたい愛する人。
 ハルカのことを気になってしかたない今でも、その現実は変わらなかった。それを、今こうやってカレに抱きしめられている腕の中でヒシヒシと感じている。やはり、愛する人の腕に抱かれる感触とは、違うということに……。カレの腕に抱かれながら、薫の腕を思い出すなんて、なんて皮肉なのだろうと、戸惑うしかなかった。
「この間は悪かった。あんな酷いこと言って……」
「わかってるから。ちゃんと」
「本当は、おまえのこと、守りたかったんだ。出会った頃も今も、おまえを傷つかせたくなくて……」
「うん」
「でも、一番傷つけてるのは、俺だよな……」
 小さく苦笑する。結局、自分という存在は、彼女にとって何のプラスにもならない。ただ傷つけて、邪魔をして、それでも一緒にいたいと思うようになったのはいつからだろう。
 初めて会った頃のことを思い出していた。ヒヨコのように自分の後をついてくる美緒の愛らしい笑顔を思い出していた。冷たくすれば拗ねてみたり、優しくすれば微笑んで。恋など何もなかったあの頃に戻れたら――。
「でも、もう大丈夫だから」
「大丈夫って何が?」
「ちゃんと、一人で歩けるから……おまえに助けてもらわなくても大丈夫だから……」
 抱き締めていた体を離し、美緒の肩に両手を添えて引き剥がす。今にも泣いてしまいそうなハルカの弱い微笑みに、その言葉とは全く違う何かを見た気がして、美緒は不安を覚えずにいられなかった。大丈夫だと言っているのに、なぜこんなにも心細い表情をするのか、わからなかった。
「俺さ、医者になろうと思ってるんだ」
「医者?」
「ああ。皮肉だけど、櫻井先生みたいな医者になりたい」
「そう……なんだ……」
「大事な人を救える人間になりたい」
 今一番大事なのは君だけど。
 そう言葉にしようとしたけれど、ハルカの自制心がそれを止めた。
「じゃあ、お父様の跡を継ぐの?」
「いや、それは……」
「え……だって医者になるってことは、そういうことじゃ」
「いいんだ、その話は」
 まるで話を一方的に切るように、ハルカが懸命に笑った。それが嘘の微笑みであることを、美緒は気付かずにはいられなかった。ハルカは、愛想笑いをする男ではない。その笑顔の裏には、隠された闇があることを、瞬時に感じ取ったのだ。
「ねえ、ハルカ。お父様とは、仲良くやっているの?」
「な、んで……」
「だって前に言ってたじゃない。お父様とわかり合えるようになりたいって……」
 それはまだハルカの父が榊原と知る前のこと。ハルカの母が死んだ後、父親との関係がギクシャクしているということを聞いていた。そして、その父といつか和解したいと言っていたことも……。急にこんなことを言い出すハルカの心の真相に関連するものは、今はこれしか思いつかず、美緒は聞かずにいられなかった。その答えが、良い答えではないとわかっていても……。
「あの人は……あの人のことなら、もう考えないことにした」
「え……?」
「元々、愛されてなんてなかったんだ。生まれても、生まれる前からもずっと……」
「そんな……子供を愛してない親がいるはずない」
「普通はそうかもしれないな」
 必死で否定する美緒の頬に手を触れて、弱く微笑む。たとえどんな言葉でも、自分に愛情を持ってくれている人を愛しいと思った。望んではいけないと思うのに、目の前で心配そうに見つめる女神を、欲しいと思ってしまう。
「あの人の跡は、望んだって継げない。あの人にとっての俺は、異母兄弟の兄のスペアだから」
「……スペア?」
「失踪した兄がいるんだ。その人があの人の跡を継ぐだろう。俺は、その人が戻るまでのスペアだ」
「そんな……じゃあ、その人が戻ったらハルカはどうなるの」
「さあ……捨てられるか、もしくはそのまま影のように居続けるか。元々他人としてしかいられないんだから、どっちも一緒だな」
「そんな酷いこと……」
「でもそれが現実なんだ。もうずっと幼い頃から、その立場だけが俺に用意されてた」
「そんなの、そんなの親じゃない!」
「それでも、俺にとっては唯一の肉親なんだよ」
「そんなの……酷すぎるよ……」
 ハルカの話す言葉がどれも信じられなくて、混乱した。自分の思っている親という存在の枠を遥かに超えている。現実とは、こんなにも酷いものなのかと、心の中で何度も呟いた。
 今になってやっと知る。ハルカの本当の心の闇を。そんなにもつらい闇を、一人で背負って生きているなんて、なんて残酷なのだろう。どうやってこの人は今まで生きて来られたのだろう。誰か、支えてくれた人はいたのだろうか。そんな事ばかりが、脳内を駆け巡った。それでも、目の前で自分に微笑みかけることのできるカレの痛い気持ちが伝わってきて、胸が痛くてたまらなかった。
「でも、大丈夫だから……。俺は、今までだって一人で歩いて来られた。これからだって大丈夫だ」
「本当に……?」
「平気だって言ってるだろ。心配すんなよ」
「心配するよ……」
「元々、愛されるのには慣れてないんだ。一人の方がずっと楽だし、これからだってそうやって生きていきたい」
「……嘘つき」
 笑っているカレの目元に美緒が指を寄せた。柔らかい感触が、指を湿らせる。その感触を、指で全て拭うと、ハルカの両頬を手で包んだ。
「じゃあ何で泣くのよ……」
「泣いてなんか……」
 否定しながら、自分の目元に指を寄せる。触れて初めて気付いた。いつの間にか、知らず涙していたことに。
「愛されなくてもいい人なんていない。そんなの人間じゃないよ……」
「……美緒」
「なんでそんな風に嘘つくの……私のため?」
「違う……」
「ハルカは誰にも愛されてないわけじゃないよ。私がちゃんと……私がちゃんと見てるから……」
 愛されなくて生きていける人などいない。
 美緒のためとはいえ、そんなことを口にしたハルカの気持ちはどれほど痛かったのだろうと思うと、居た堪れなかった。零す涙にも気付かず、無理をして笑った笑顔が泣きたいくらい切なかった。こんな優しいハルカのことを放っておくなんて、自分にはできない。たとえそれが、恋でないとしても……。
「一人で頑張らないで、って前にも言ったじゃない」
「美緒、おまえ……」
「バカ……」
 今にも泣きそうな表情を浮かべて見つめる彼女の瞳に、愛しい気持ちはもうストップをかけることができなくなる。細い腕を引き寄せて、壊れるほどに抱き締めた。狂おしいほど、美緒が愛しい……。もう、この腕を離す理由など見つからなかった。
 無理をして嘘をついてきた自分の心。誰にも愛されなくて良いなんて嘘だ。いつだって、誰かの愛を望んでいた。たとえそれが、一番望んではいけない愛だとしても、もう、求めずにはいられなかった……。

 抱き締められる力強い腕の中で、美緒の気持ちが段々と蝕まれていく。カレを支えなくては、と思う一方、それとは全く別の罪悪感が、彼女を侵食していた。頭の中に浮かぶのは、愛する人の笑顔。けれど、自分の下した決断に、ある決心を固めていた。
 あの笑顔に、自分はもう相応しくないと……。
 愛されたいと強く望んだ人。今も、狂おしいほど愛している。愛され続けたいと願っている。だが、もう望むことは許されない。たとえ友達だと言っても、異性のそばにいる女を、無条件で愛せるほど、恋は簡単なものではない。いや、むしろ薫は、そういう美緒の気持ちをも理解してくれるだろう。そんな、友達を思う美緒の気持ちを、優しく受け止めてくれるだろう。けれど、愛する人に、そんな想いまでさせてはいけないと、強く思った。
 友情という名の裏切り、という禁忌を犯したことに、美緒の心は『逃げ』という二文字を浮かばせていた。


 暗闇の迫る廊下で、帰り支度を済ませた一人の校医がゆっくりと影を踏むように歩いていた。誰もいない廊下は、足音をひどく響かせた。その音を楽しみながら、玄関への道を辿る。
 すると、そのずっと先にある図書室の門に、影を見た気がして、一瞬足を止めた。ゆっくりと、そちらを見やると、見慣れた愛しい光景が浮かんでいる。ニヤリと微笑むと、あえて声をかけることなく、その方向へと足を進めた。偶然とは言え、会えた嬉しさに、少年のように胸が高鳴る。
「真中!」
 校内だということを忘れずに、名字で話しかけた。名を呼ばれた相手は驚いたように振り向き、薫の姿を認識すると、聞こえないほどの小さな声で『先生……』と呟いた。
 愛しい人を目の前に、薫の気持ちは嬉々とする。その存在に触れたくて、また一歩と近づいた。けれど、いつもの彼女とは、何かが違っていた。
「真中……?」
 戸惑うような瞳に、怯えが見えた。明らかに、薫に対してみせる怯え。薫は、そんな美緒の様子に不安を覚えると、彼女に触れようと更に近づいた。
「ごめんなさい……」
 触れようとした瞬間、反射的に逃げた体。ただ一言そう告げると、薫の方を二度見ることはなく、踵を返し駆けだした。まるで、自分という存在から逃げるかのように……。声をかける間もなかった。遠ざかっていく彼女の背に、何も言えずただ立ち尽くしていた。
 それから間もなくのこと。背後から、再び、人の気配を感じ、振り返った。
「香月……?」
 薫を見て驚く彼の姿に、薫の心も止まる。
 ただその時、不思議にも、カレの切れた唇だけが、薫の目に焼きついていた。

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